仮面ライダー Rebirth   作:ななな

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一話 遭遇

 

新学期が始まった。

――とはいえ、もう大学二年生ともなれば、それが特別な出来事だとは感じなくなっていた。

 

桜は咲いている。新入生たちはどこか浮き足立ち、構内は少しだけ賑やかだ。

けれど、ルリ子にとってこの春は、真新しい季節というより、同じ色を少し濃く塗り直しただけの風景のようだった。

 

講義の時間割、研究室の顔ぶれ、キャンパスの空気。

どれも「いつものこと」として身体に染みついていて、特に心が動くこともない。

 

――ただ一つ。

 

今年もまた、彼が同じ場所にいる。

それが、唯一、心の波紋を生む。

 

悩みの種は――本郷猛。幼馴染みだ。

 

小さなころから、何度も笑い合って、時には喧嘩して、それでも傍にいた。

気づけば、どんな日常にも彼がいた。

 

けれど今は、彼はもう、彼女の世界から少しだけ遠いところに立っている。

 

名前を呼べば、振り返ってはくれる。

けれど、その目は昔のように見つめ返してはこない。

 

笑ってくれる。

でも、その笑顔は、まるで「壁」みたいだった。

 

「……今年こそは、ちゃんと話せるといいな」

 

誰に言うでもなく、小さく呟いた言葉が、春の風にさらわれていく。

 

ルリ子は、手にした新しいノートを開いた。

新しいページ、新しい季節。

けれど、書き出される物語の最初にあるのは、やはり彼の名前だった。

 

 

朝の空気はまだ少し冷たく、シャツの袖口に春の風が忍び込んでくる。

並木道の桜は満開を過ぎ、ところどころ葉が混じり始めていた。

その下を歩きながら、ルリ子はふと足元の花びらに視線を落とした。

 

大学に入って、もう一年が過ぎた。

見慣れた道、見慣れた風景。変わったのは、自分の中身だけだ。

 

(たけしくん……)

 

気づけば、また彼のことを考えていた。

 

本郷猛。

昔から感情の起伏が激しいタイプではなかった。

冷静で、どこか達観したようなところがあって、でも、優しかった。

 

でも――ここ数年の彼は、違う。

 

何かを強く押し殺しているような、沈黙の重さ。

誰かと会話しているところを見ることも少なくなった。

笑わなくなったわけじゃないけれど、その笑顔がどこか遠い。

 

(思い返せば、あのときからだった)

 

高校に進学する少し前。

彼が“親代わり”と呼んでいた人が亡くなったと聞いた。

詳しいことは、彼は何も話さなかった。ただ、「事故だった」とだけ。

 

彼の家には、両親の姿がなかった。

だから彼にとって、その人はきっと唯一の拠り所だったはずだ。

 

それを失ってから、彼は変わった。

 

喪失は人を変える。

それは理解できる。

でも、たけしくんは……全部、一人で抱え込んでしまった。

 

誰にも言えず、誰にも頼らず。

そして、少しずつ少しずつ、周りとの距離を取るようになった。

 

(私にだけは、言ってほしかった)

 

そんな思いが心の奥で渦を巻くたび、自分の無力さに胸が苦しくなる。

近くにいたはずなのに、何も気づけなかった。

気づいていたとしても、彼は何も言わなかった。

 

そして今、彼はさらに遠くにいる。

 

春の光が差し込む坂の途中で、ルリ子は立ち止まった。

 

遠くで電車の音がする。

いつもの朝。変わらない通学路。

でも、心のどこかにずっと引っかかっているその背中が、今日もまた見えなくなるのが怖かった。

 

「……やっぱり、もう一度、ちゃんと話してみようかな」

 

桜の花びらが、そっと風に舞った。

 

彼に届くかはわからない。

でも、届くと信じて、もう一度だけ。

 

ルリ子は歩き出した。

 

 

 

同じ大学に通っているとはいえ、学科が違えば顔を合わせる機会はそう多くない。

彼は機械工学科、ルリ子は医学部。講義棟も棟が違えば、生活リズムもまるで違う。

 

それでも――本郷猛は、城南大学の同じキャンパスにいる。

会おうと思えば、いつでも会える距離。

連絡先だって、昔から持っている。

 

けれど。

 

(会えるのに、会えない……)

 

スマホの画面には、彼の名前が並ぶ。

「本郷猛」――幼馴染みのままの登録名。

数日前、思い切ってかけてみた。久しぶりに声が聞きたくて。

 

でも、会話は続かなかった。

 

『ああ、元気だよ。……ルリ子ちゃんは?』

『うん。私も。……じゃあ、また』

 

たったそれだけ。

挨拶だけで終わった数十秒の沈黙が、やけに長く感じられた。

 

(やっぱり、電話じゃダメだ)

 

距離は画面一枚分。けれど心は、何重もの壁の向こうにあるようで。

言葉では届かない。

なら、もう会うしかない――直接、この目で見て、この声で伝えるしか。

 

決意を胸に、ルリ子は席を立った。

 

講義終わり、研究棟の中庭にいる――そう聞いたのは、たまたま別の学部生からだった。

「工学の子、よくあそこで読書してるよ。革のリュック背負った子で……あれ?もしかして知り合い?」

 

名前までは出なかったけれど、たけしの姿がすぐに思い浮かんだ。

 

(いるなら……話せる)

 

キャンパス内を小走りに抜ける。

白衣を脱ぎきれなかったルリ子の袖が、春風に揺れた。

 

曲がり角を抜けて、中庭のベンチが見えた。

まばらな木陰の向こう、リュックを傍らに置き、うつむいて本を読む一人の男。

 

それは、どこからどう見ても――本郷猛だった。

 

ルリ子の足が、自然と止まった。

 

(ああ、いた……)

 

でも同時に、胸の奥がざわつく。

何を言えばいい? 何から話せば?

あの声のトーンを、彼の目の奥を、思い出すほどに不安になる。

 

それでも、今度は立ち止まらない。

話すことが見つからなくても、沈黙になっても、それでも。

 

(今度こそ、ちゃんと話すから)

 

ルリ子は深く息を吸い、歩き出した。

 

 

「たけしくん」

 

ようやく声が出た。風に紛れて消えそうな、小さな声だった。

 

彼は、ページをめくる手を止めた。

そして、ゆっくり顔を上げる。

春の光に照らされたその瞳は、どこか眠たげで、でもちゃんとこちらを見ていた。

 

「……ルリ子ちゃん」

 

相変わらず、少しだけ驚いたように名前を呼ぶ声。

それだけで、胸がじんわり熱くなるのは、ずるい。

 

「……あの、ちょっとだけいいかな?」

 

「うん」

 

本を閉じる彼の手元に視線を落としつつ、ルリ子はベンチの端にそっと腰を下ろした。

春の風が二人の間をそっと吹き抜ける。

 

言葉が出ない。

会おうと思って来たのに、何を話せばいいのかまるでわからなかった。

 

焦りが喉に詰まる。

けれど、なにか言わなくちゃ――と思ったルリ子の口から出た言葉は、自分でも意外なものだった。

 

「……ねえ、たけしくんって、友達……できた?」

 

聞いた瞬間、自分で「あっ」と思った。

一年も同じ大学に通ってて、今さら何を――

問いかけてから気づく自分の不器用さが、情けなかった。

 

でも、彼は特に嫌な顔もせず、少しだけ肩をすくめた。

 

「まぁ……まぁまぁ、いるよ」

 

「……もしかして、あの一文字って人じゃないよね?」

 

思い出したように、思わず口に出た名前。

キャンパス内でもちょっと目立つ存在――革ジャンで、バイク通学で、喧嘩っ早いという噂の工学部生。

 

たけしの周りで見かけるとしたら、唯一思い当たるのはその人だった。

 

彼は一瞬だけ目を見開いたあと、ふっと笑った。

 

「……ははっ。不良……か……」

 

それは、ルリ子が久しぶりに見た“たけしくんの笑顔”だった。

 

作り笑いでも、気を遣ったものでもない。

どこか呆れたようで、照れたようで、それでも自然に零れた笑い。

 

その笑顔を見た瞬間、ルリ子はほんの少しだけ、肩の力が抜けた気がした。

 

よかった――

ほんの一歩でも、彼の壁に触れられた気がして。

 

(……ちゃんと、笑えるんだ)

 

その事実が、何より嬉しかった。

 

 

「ははっ。不良……か……」

 

たけしが肩をすくめて笑った。

その声が、春の空気の中にふっと溶けていく。

 

その笑顔が見られただけで、ルリ子の心は少しだけ救われた気がした。

けれど、その直後――彼は、少しだけ表情を引き締めてこう言った。

 

「隼人は……うん、一文字はそんなのじゃないよ」

 

一瞬だけ、声のトーンが変わった。

笑顔のまま、でもその笑みの奥に――わずかに“線”が引かれた気がした。

 

「バイト仲間だよ。夜の配送の手伝いしててさ。まあ、バイクの扱いはめちゃくちゃだけど、腕はあるんだ」

 

軽く言っているつもりなんだろう。

でも、その口ぶりはどこか親しげで、気を許しているように思えた。

 

(……ああ、私の知らないたけしくんがいる)

 

頭では納得している。

彼にだって、大学での生活があって、新しい人間関係がある。

一文字――隼人という人は、たぶんその一部なんだろう。

 

それでも。

 

胸のどこかが、チクリとした。

 

たけしのことを、ちゃんと理解していたつもりだった。

でも今は、自分だけが置き去りにされている気がして。

 

(なんだろう……この感じ)

 

嫉妬――と呼ぶには、あまりにもささやかで、あまりにも未熟な感情。

けれど、確かにそれは胸の奥で形を持ち始めていた。

 

「……そっか。バイト、してたんだ。言ってくれればよかったのに」

 

精一杯、笑顔を作って言ってみる。

強がりのように、自分でも思った。

 

「ごめんね。忙しくてさ。……あんまり人には言ってないんだ」

 

その答えも、嘘ではないのだろう。

でも、どこか「距離」を置くための言葉のようにも聞こえてしまった。

 

(私には……やっぱり、届かないのかな)

 

春の光が差し込む中庭で、ルリ子は手を膝の上に置いたまま、視線を彼から逸らした。

 

そのわずかな間。

たけしは、何か言いたげにこちらを見ていたような気がしたけれど――

 

何も言わなかった。

そして、その沈黙が少しだけ悲しかった。

 

 

 

 

「ご飯行こうよ! 私が出すし!」

 

自分でも、少し勢いが過ぎたと思った。

けれど、今言わなければ、また何も言えなくなってしまう気がして。

 

たけしは、一瞬だけ視線を揺らした。

それから、申し訳なさそうに小さく笑った。

 

「……最近忙しいし、無理かな。ごめん」

 

わかっていた。

いつものように、断られることも。

その優しい口調の裏に、決して越えさせない“線”があることも。

 

それでも、胸のどこかで期待していた。

「たまには、いいよ」って言ってくれる奇跡が起きるんじゃないかと。

 

けれど、奇跡は起きなかった。

 

「……ううん。気にしないで」

 

そう答えるしかなかった。

無理に踏み込めば、彼はきっともう一歩、遠くへ行ってしまう。

それが怖くて、足を止めた。

 

気づけば、彼はもう中庭から姿を消していた。

まるで、風に溶けるように。

 

ルリ子は取り残されたベンチで、しばらく空を見上げていた。

 

 

夜――

 

研究室の照明は、白く静かに実験台を照らしていた。

ルリ子は白衣の袖をまくり、洗い終えたビーカーを丁寧に並べていく。

 

(もう、いい。考えすぎても、仕方ない)

 

この場所は、今の彼女にとって唯一“自分で立てる場所”だった。

 

本来なら、医学部の研究室に出入りできるのは三年生以上。

だが、彼女は特待生として例外的に参加を許されていた。

 

とはいえ――最年少である以上、任されるのはほとんどが雑用だった。

実験動物のケージの掃除、器具の滅菌、記録データの整理……。

 

それでも、ここにいれば「何かをやれている」気がした。

思い悩む時間を、意味のある手の動きに変えていられた。

 

他の研究生たちはもう帰っていた。

研究棟には、キュウキュウと機材の動作音だけが残っている。

 

「よし……終わり」

 

最後のガラス器具を棚に戻し、エタノールで手を拭いた。

時計を見ると、もうすぐ午後十時。

 

通用口から出ると、外は肌寒いほどの夜風が吹いていた。

ふと見上げた空には、薄い雲の隙間から月が覗いていた。

 

(……ほんとは、私だって聞きたいことが、山ほどあるんだよ)

 

でも、今は言えない。

彼が心を閉ざしている限り、こちらから無理に扉を叩くことはできない。

 

だから――今はただ、前を向いて歩くしかなかった。

 

バッグを肩にかけ、ルリ子は夜のキャンパスを歩き出した。

 

その先で、運命がすでに静かに蠢いているとも知らずに。

 

 

すっかり日が落ちていた。

研究棟を出た頃には、キャンパスの灯りもまばらになっていて、人影はもうどこにもなかった。

 

大学の裏手――関係者しか通らない近道。

いつもの帰り道。街灯は少なく、足元には春の落ち葉が静かに積もっていた。

 

そのときだった。

 

「……ぐきょ、きょ……」

 

耳を疑うような音が、闇の中から響いた。

 

人の声ではない。

言葉でもない。

けれど、明らかに“何か”がそこにいた。

 

ルリ子の足が、止まった。

 

一歩も、動けなくなっていた。

 

「……え……?」

 

緊張で耳が冴えていく。

その音が、次第に近づいてくるのが分かる。

 

「がさっ……がさ……」

 

草木を踏む音。

何かが這うような、歪んだ足音。

息をひそめる暇もなく、恐怖が喉元まで這い上がってくる。

 

(逃げなきゃ……逃げなきゃ……!)

 

そう思うのに、足は一歩も動かない。

筋肉が冷えたように硬直していた。

 

(おばけ……?)

 

そう思った。

何か“視えてはいけないもの”と出会ってしまったんじゃないかと。

 

けれど、振り返ったその瞬間、彼女は悟った。

 

おばけだったら――

どれほど、良かったか。

 

闇の中に、確かに存在していた“それ”は、

人間の形を、辛うじて保っていた。

 

だが、違った。

 

肩からは無数の節足が突き出し、

胴体には複眼のような突起が脈打っていた。

肢は鋭く、甲殻に覆われていて、

なにより、赤い目が――真っ赤な目が、こちらを見ていた。

 

“それ”は、まるで昆虫と人間を無理やり掛け合わせたような、異形の怪物だった。

 

ルリ子は、息を呑んだ。

声が出ない。

叫ぶことも、逃げることもできなかった。

 

赤い目が、じっとこちらを見つめる。

その視線には、言葉も理性もなかった。

 

ただ――捕食者の目だった。

 

 

「……ッ!」

 

異形の怪物が、歯を――いや、それはもはや“牙”と呼ぶべきかもしれない――キチキチと鳴らしながら、首をかしげた。

まるで、“いただきます”の挨拶のように、ゆっくりとその肢を広げる。

 

次の瞬間、ルリ子の目の前で“それ”が跳んだ。

刃のような前脚を広げ、目の赤が燃えるようにぎらつく。

 

(――来る)

 

咄嗟に身をすくめたその瞬間だった。

 

ブォン! ブォン! ブォン――!!

 

耳をつんざくようなエンジンの咆哮が、闇を裂いた。

空気が振動し、草木が激しく揺れる。

 

怪物の雄叫びが、かき消された。

 

眩しいライトが、夜道を真っ白に染め上げる。

それは突如として現れた一台のバイク――

光の中に現れた“影”が、確かにそこにいた。

 

目を覆いたくなるほど強い逆光の中、彼はいた。

シルエットだけが、そこに立っていた。

 

黒いボディスーツのような戦闘服。

風を切るマフラーの赤が、淡く揺れている。

 

頭部には昆虫を思わせるような複眼の意匠――だが、あまりにも静謐で、凶悪な“それ”とは対極にあった。

 

怪物がわずかに怯んだように動きを止めた。

その一瞬の空白の中で、彼はバイクから降り、ゆっくりとルリ子の前へと歩み出た。

 

顔は見えなかった。

仮面に隠されていた。

けれど、その佇まいには、明確な「意志」があった。

 

誰なのか。

何なのか。

彼女には何一つ分からなかった。

 

けれど本能だけが、確かに告げていた。

 

(この人は……“それ”と同じじゃない)

 

怪物が、鋭い声を上げて跳びかかろうとした。

それに応じるように、彼はわずかに前傾し――拳を握った。

 

名前も知らない。

顔も見えない。

でも――

闇に飲まれそうな夜の中で、ただ一つ確かな“光”だった。

 

 

 

「ぐきょぉ…ッ!!」

 

怪物が声にならない絶叫を上げた。

その血走った複眼が、ルリ子ではなく――突如現れた“彼”を捉える。

 

興味を移したのか、獲物を上書きしたのか。

刃のような脚を鳴らしながら、怪物は一気に地を蹴った。

 

跳ぶ。

襲う。

殺す。

 

だが――

 

その一撃は、当たらなかった。

 

“彼”は、まるで風のように滑るように身をかわし――

次の瞬間、鋭く拳を突き出した。

 

ゴンッ!

 

鈍い音が闇に響く。

怪物の頭部が歪むほどに、拳がめり込んだ。

 

そこからは流れるような連撃。

 

「ッ!」

 

顔面への拳打ち。

横蹴り。

肘打ち。

そこから一拍の間すら与えず、逆の拳が胸部を貫くように叩き込まれる。

 

それはもう戦いではなかった。

制裁だった。

 

まるで、肉体だけで組み立てられた戦術兵器。

無駄のない動きが、怪物を確実に削っていく。

 

「ぎょぉ、ぎょぎょぎょ……っ!」

 

怪物は悲鳴のようなゲロを撒き散らしながら、地を転がる。

その体液が草木を焼く音すら届かぬうちに、“彼”は一歩踏み込んだ。

 

体をひねり、背を屈め、力を溜める。

そして――跳んだ。

 

高く、高く、夜空を裂くように。

 

月を背に、右脚を突き出す。

踵に収束する殺意と技。

疾風のような蹴りが、一直線に怪物へ――!

 

「ライダーッ……キィィィィック!!!」

 

――ドンッ!!!

 

突き刺さるように命中した一撃は、怪物の胴体を貫き、爆ぜた。

肉と甲殻が砕け、赤い目が散り、黒煙が辺りを包む。

 

空間ごと弾け飛ぶような衝撃の中、怪物は叫びも残せずに、四散した。

 

爆炎の奥。

舞い上がる塵と炎の中に、“彼”のシルエットだけが静かに立っていた。

 

無言のまま、煙の中に佇むその姿。

 

名前も、素顔も、何も分からない。

 

けれど、ルリ子はただ――目を離せなかった。

 

 

 

爆煙が、まだ夜の空気に漂っていた。

 

焼け焦げた草の匂い、湿った風の匂い、血にも似た何かの残り香。

そのすべてが非現実的すぎて、まるで夢の中にいるようだった。

 

ルリ子はその場に座り込んでいた。

膝が笑っていたのではない。恐怖と衝撃で、立つ力が残っていなかったのだ。

 

そんな彼女の前に――“彼”が、静かに歩み寄った。

 

黒い装束。

紅いマフラーが夜風に揺れ、仮面の奥の視線が、こちらを見ていた。

無言のまま、彼はすっと片手を差し出す。

 

ルリ子は、その手を見上げた。

機械のように整った形、だが人の温度を帯びた、優しい手。

 

少し躊躇って――彼女はそっと、その手を取った。

 

軽々と引き起こされる。

支えられるのは一瞬だけで、彼はすぐに手を離した。

 

ルリ子は、なんとか声を絞り出す。

 

「……あの、あなたは……?」

 

問いかける声が、夜の静けさに吸い込まれていく。

 

彼は、ほんの一拍の間を置いて、低く短く、静かに答えた。

 

「――仮面ライダー」

 

名乗った。

 

それだけだった。

 

何者なのかも、なぜこんな場所に現れたのかも、語らない。

 

ただその一言だけを残し、彼は夜の道を背にして、歩き出す。

 

「君も、早く帰るべきだ」

 

足を止めずに、そう言った。

振り向かないまま、走り出す。

黒いマフラーが夜風を切り、音もなく彼の姿は闇に溶けていった。

 

まるで――最初からそこにいなかったかのように。

 

ルリ子はその背中を、呆然と見送るしかなかった。

 

「……仮面……ライダー……?」

 

その名だけが、耳に、胸に、深く残った。

 

まるで、夢のように。

 

いや、夢にしてしまいたいほど、あまりに現実離れしていた。

 

だけど確かに彼はいた。

そして――自分を、守ってくれた。

 

その名前だけが、まだ胸の奥で静かに震えていた。

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