富裕な家の子女を教える家庭教師をしていた私に、雇われ剣士の仕事が思いがけず舞い込んできた経緯は次のようなことであった。
私の家庭教師先であるご家庭の奥方であるN夫人は、北ハイラル平原西部の荒れた山地の際にある地所を所有していた。いや、ただ単に地所を持っているというより、実質的に農村を丸ごと一つ所有しているに等しいとのことなのである。
ところがその村の小作農家たちのうちで、昨今出没する鬼どもを恐れて離農する者たちが出始めていた。離農者が出続ければ、その小作料による夫人の収入も減ってしまう。夫人は手紙を介して離農しないよう村人たちを説得したが功を奏さないため、視察と交渉のために思い切って村を訪問することにした。しかしこれは馬車を使っても一泊旅行となる。その道中の安全が心配であったため丁度具合の良いことに家庭教師をしていた私に白羽の矢が立ったわけである。
私にしてみれば城下町に上って以来初めての剣士としての仕事である。私は喜び勇んで旅支度と武装を整えた。早朝夫人の邸宅の前で馬車に乗り、我々は出発した。一行は夫人と私と御者氏の三人だけである。下女も執事も帯同していない。彼女の身の回りの世話はどうするのであろうかと私はやや不思議に思った。しかし夫人は心配した様子もなく出発を告げた。
季節は初夏で馬車の旅は快適であった。城下町の東門から出るとすぐ左に折れ、堀の周囲に巡らされた壁を左手に見ながら北上していく。私は警戒のためも兼ねて幌の小窓から度々顔を出し、景色を見回した。仕事といえどもこれは楽しかった。だが夫人はもっと急げ急げと御者に指示する。御者が馬に鞭を当てて加速すると当然ながら馬車は激しく振動するが、そうすると夫人はもっと静かに走れないのかと文句を言う。そんなわけで御者氏は加速したり緩めたりで忙しくしていた。やがてハイラル北平原に出ると今度は西に折れた。整備された石畳の上を快速に走っていると昼過ぎにはゾーラ川の支流が見えてきた。私は時折小窓から顔を出したり御者の傍らに出て前方を見張ったりして警戒を続けていたが、幸い鬼も魔物も影も無かったため、ひっきりなしに話しかけてくる夫人の話し相手も務めることができた。
日没前には目的地に着いた。オルディン地方に至る山道の手前に畑地を広げた人口五十名にも満たないような寒村だ。近くにゾーラ川の支流があるものの、地形上水を引くのが困難で土地が乾いており、多種類の耕作には向かないとの話だった。御者氏は疲れ切っていたが夫人は体力があるのか元気一杯で、早速畑から帰ってきた村人たちを広場に集め談判を始めた。私自身は村の周囲の地形を調べに行きたかったが、N夫人からやれ飲み物を持ってこいだのやれ椅子が低すぎるから取り換えろと注文が忙しい。私は甲斐甲斐しくその注文に応え村人たちの家と夫人の元を行ったり来たりしていたが、やがて相談が纏まったらしく夫人は庄屋の家の隣の離れに引っ込んだ。
私は今度こそ見回りに行こうと村の外に向かいかけたが、夫人が戸口から顔を出し私も中に入るよう差し招いてきた。入ってみると、他の家が寒々しく貧相な造りなのに対してその離れだけは床に絨毯が敷かれ厚い木の壁には絵が飾られており別世界だ。どうやら彼女が自分が来訪した時のために建てさせたらしい。
私はこの女主人が私を特別扱いし良い待遇で宿泊させようとしてくれているのかと一瞬思ったが、ただ単に食事をする間給仕をしてくれる人間が欲しかったようだ。私は村人たちの手で運ばれてきた料理を配膳し甲斐甲斐しく夫人に仕え、彼女が満腹するのを見届けた。それで結局時間が時間になってしまったので、私も夕食を頂くことにした。
ところが先に夕食を終え服を着替えて寛いでいた夫人が、私に対し肩を揉めと言って聞かない。
「奥様、私は剣士であって按摩師ではありませぬ」
見回りに行こうとして早々に夕食を終えた私はそう言ったが夫人は意に介さなかった。
「お給金が足りないかしら?じゃあ上げてあげる。千ルピーくらいで十分?」
私は閉口した。給金の問題ではない。
「それにトビアスに頼んだりしたら噂が立つじゃあないの」
夫人は当然のように寝台にうつ伏せに横たわったまま言った。それは確かにそうだった。伴ってきた御者は男性だから夫人の身体に親しく触れるわけにはいかない。私は反論を諦めて夫人の身体を揉み始めた。私の按摩を受けながら夫人はやがて小作農家の悪口を言い始めた。彼らは怠惰だから農業を嫌がっているだけで、城下町に上りさえすればましな仕事があると根拠もなく夢見ている。夫人はそう断定した。このようにして城下町に人口が集中したら土地価格が上がり治安も悪くなる。夫人はそうこぼした後、今度は夫君の悪口を言い始めた。
私は按摩をしながらも、次第にある推測が心に浮かんできて内心悄然とし始めた。夫人が旅行に私を伴ったのは身辺警護のためではなく、下女がわりとしてではないか。それは確かに実利的に考えればあり得なくはない。あまり多くの人手を旅行に連れていくと家の保守とご子息ご息女の世話がおろそかになる。私さえ連れていけば下女がわりにもなり一石二鳥というわけだ。その推論が心に浮かんだとき私はほとんどこの仕事をやる気を失いかけた。一体私は何のためにここにいるのか?
「ああ、そこそこ。いいわ。あなたって強いのね」
そのように言って夫人は喜んだが、それが余計に私を苛立たせた。私は小一時間ほどもかけてその全身を揉み解した。肉付きのよい彼女の手足や肩を揉みほぐすのは剣士の修行で鍛えた私でも骨が折れた。何よりも私は精神的に疲労困憊した。当初は夜の見回りに行こうかと思っていたがそれを取りやめてしまい、早々に床に就いた。
そしてこれは剣士たる私にとって大きな失敗だった。