剣技教官アッシュの随想   作:nocomimi

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「黒雲」

おお神よ。私はまだ生きている。三匹の新たな刺客を倒した私は口に出して感謝の祈りを唱えた。そうしてようやく息を整えると、周囲を見回した。たった今戦った蜥蜴男どもに加え、緑鬼たちの死骸が累々と散らばっている。だがそのいくつかは死骸と見えてもまだ動いていた。私は片端から止めを刺していった。

 

あらかたそれが済んだところで再び周囲に目を走らせると、一匹の鬼が、私たちが宿泊していた庄屋の離れの戸口の横に座り込んでいるのが見えた。私は肝を冷やした。深手を負って息も絶え絶えだったのが這ってそこまで行ったらしい。夫人に危害が及ばないよう、私は素早く走り寄って剣を振り上げた。相手は本能的に腕を上げて身を庇ったが、私は袈裟斬りを浴びせ横斬りで首を刎ねた。

 

その瞬間戸口から悲鳴が上がった。間の悪いことに、N夫人が扉を開けて出てきていたのだ。首を失った鬼の死骸から勢いよく噴き出る血が夫人のスカートの裾にかかった。

 

「なんてことをするのあなたは」

 

夫人はやっと悲鳴を上げるのをやめると、驚愕の表情を浮かべて私を見た。

 

「命乞いをしてたじゃないの。どうして殺す必要があったの?」

 

私は困惑した。まさか魔物を退治したことを叱責されるなど思ってもみなかったからだ。そしてこう弁解した。

 

「お言葉ながら奥様、きゃつらは魔族です。憐みを掛けたところで再び同じことを繰り返すだけかと」

 

「あなた私に口答えするわけ?」

 

夫人は大いに気を悪くしたようであった。

 

「いいことアッシュ、この村の持ち主はこの私なのよ。ここでは私が領主なの。あなたそれを分かってるの?」彼女は自分の胸を指さして言った。

 

「存じております、奥様」

 

私は答え、頭を下げた。

 

「ですからこのアッシュ、剣士として奥様の村をお守り申し上げました。しかし奥様のドレスを汚してしまったことについてはお詫びいたします」

 

「私が言ってるのはそんなことじゃあないのよ」

 

彼女は鼻息を荒げた。

 

「いいこと?私だったらこんな惨たらしい解決策はとらないわ」

 

夫人は辺りを見回し、魔物どもの死骸が散らばっているのを見て顔をしかめた。

 

「彼らに望む物を与えて懐柔すればいいじゃあないの。そんな知恵も働かないなんて呆れるわ。あなたたち剣士は何かあると剣を振り回してばかり。本当に能がないわね」

 

私はあまりのことに言葉を失った。魔物を懐柔するなど考えたこともないし、考えてみたところで到底現実的とは思えない。

 

「奥様、しかしながら....」

 

「お黙りなさい。口答えは無しと言ったでしょう」

 

私がやっとのことで口を開くと彼女はぴしゃりと言い放った。

 

「可哀そうに。彼らだって神の造られた被造物なのよ。こんなやり方はあんまりだわ」

 

そう言って再び周囲を見回すと夫人は首を振った。

 

「きっと何かの理由で悪いことをするようになっただけなのよ。もしかしたら私たち人間の偏見が原因かも知れないわ。この連鎖はどうにかして断ち切らないといけないんだわ」

 

私はもう返す言葉も無かった。私には神学の方面の知識が乏しかったから果たして夫人の主張が正しいのかどうかは分かりかねた。立腹した夫人がドレスを着替えに屋内に戻った後も私はしばし茫然としていた。

 

どうやらこの瞬間に私はこの女主人の寵愛を失ったらしかった。彼女は村人たちに命じて魔物どもの死骸を片付けさせると、私の荷物を自分の寝室から運び出させ、それ以来私とは食事も一緒にしようとはしなかった。仕方なく私は、鬼どもに辱められそうになっていたところを助けてやった女の家に身を寄せた。

 

その女は私を快く迎えてくれた。だが女の家はどうやら村で最も貧しい部類に属する世帯のようだ。話を聞くと、遠く異郷からこの村に嫁入りしたものの若くして寡婦となり、姑と二人で暮らしているとのことだった。鬼どもが村に押し入ってきたとき、彼女は姑が殺されないようありったけの衣類と布を被せて隠した。そこで彼女は魔物どもに見つかってしまったのである。

 

彼女は私に粗末なものではあったが食事を振る舞ってくれた。そして村人たちがなぜ私と口を利こうとしなかったのかその理由を教えてくれたのである。夫人は村人たちとの交渉でこんな条件を出したそうだ。耕作を続けるなら小作料は二割減免する。ただし鬼のことを言い立てる者がいたらその者の小作料は二倍にする、と。私は夫人の付き人と思われていたので、鬼のことを話して告げ口されてはたまらないと皆口を閉ざしたというわけである。しかし、なぜ彼女がそのような懸念なく私にこのことを話してくれたのか、私は不思議に思った。

 

「剣士さま、私どもは落穂拾いで暮らしておりますから小作料を払っていないのでございます」

 

それを聞いた私は仰天した。もはや小作農どころではない極貧世帯である。私は出された食事を申し訳なく思ったが女は続けた。

 

「剣士さま、ご遠慮なさらないでくださいまし。貴女がおられなかったら今頃私の命はないでしょう。よしんば助かったとしても、鬼との間の子を宿した女には村にいる場所がありませんゆえ」

 

私は女に感謝すると同時に、この女の境遇を思って胸が締め付けられるような思いがした。確かに女の言う通りであった。鬼に凌辱され身籠った女は村から追い出される。生まれる子は殺されるべきという掟だが、その女も二度と村で受け入れられることはないのである。保護してくれる夫もなくどれほど心細い暮らしだっただろう。

 

結局私はその女の家に泊まった。雨は降り続いており黒雲は退く気配を見せるどころかますます濃く深くなっている。実際にはその黒雲は普通の雨雲ではなく、もっと奇怪なものであったことを私はずっと後になって知ることになったのである。

 

* * * * * * * * * * *

 

また、濃い黒雲が村の上空を覆うに伴って異変が起こった。家畜たちの様子がおかしいのである。山羊も羊も驢馬も、そして我々の馬車を引いてきた馬さえも、異常な空に怯えてしまい家畜小屋から出てくるのを嫌がった。無理に引き出そうとすると狂乱状態になって暴れてしまう。これにはN夫人が困り果ててしまった。小作農たちとの談判も済んだので彼女は城下町に帰りたがったが、なにしろ馬が言うことを聞かない。

 

翌日私が外に出てみると、雨は止んでいたのであるが、濃い黒雲とそこから僅かに透けて見える陽光のせいで周囲は夕方のようであった。庄屋の家畜小屋の前から押し問答をする声が聞こえたので行ってみるとN夫人が御者と言い合いをしていた。夫人は早く馬車を出せと迫るが、御者は馬が暴れるのでお手上げだと答える。私は近づくと夫人に対してこう言った。

 

「奥様、歩いて城下町に戻られるなら私がお供いたしますが」

 

夫人は、冗談じゃないわよ、とさも忌々しそうに呟くと自分の部屋に戻って行った。同時に私は後悔した。夫人が二日も三日もかけて歩いて帰るわけがないのである。私の提案は親切を装ってはいたが、その実どう見ても夫人へのあてつけだった。私は今までどれだけ自分が彼女に対し鬱憤を抱いていたのかということに今更ながら気づかされてしまった。

 

やがて夫人は庄屋の離れに閉じこもってしまった。私は自分の携えてきた非常食を件の寡婦とその姑と分け合って食べた。それが尽きてしまうと、その女は家じゅう食べ物を探し回り始めた。私は申し訳なく思ったが背に腹は代えられなかった。

 

私は時折外に出て村の内外を見回った。だがこの周辺を縄張りにしていた鬼どもはあれが全部だったようだ。一方で、黒雲が低く立ち込め、それを透過する太陽の光が橙色に周囲を染め、時刻を問わず常に夕方のようだったのが閉口した。それは不思議なことに夜の間もそうだったのである。私たちは時間の感覚を失っていった。

 

翌朝私を泊めてくれていた女がこう言った。

 

「剣士さま、お許しください。もう私たちにはパンを焼く粉も油もありません。どうぞ他の家においでくださいまし」

 

私は承諾した。また自分の存在が彼らをしてそのなけなしの蓄えをすっかり費消せしめてしまったことを実に申し訳なく感じ、またこの女たち自身はこれからどうするのであろうかと疑問に思った。だが女の言うには、彼らが食いつなぐための落穂拾いは村の者たちが畑に出ている間でないとしてはいけない決まりになっているのだという。だがこの黒雲に恐れをなして家畜が言うことを聞かないことに加え、村人たち自身もそれを天からの呪いと思い込んで家に閉じこもってしまっているというのだ。

 

それを聞いて私は今までに感じたことのない、怒りとも悲しみともつかない感情に満たされた。私は立つと小屋から出て庄屋の離れに向かった。そして中に入りN夫人の部屋の扉を叩いた。

 

「奥様、アッシュでございます」

 

私は不躾とは思ったが返事を聞く前に中に入った。彼女は書見をしているところであった。

 

「奥様。お願いがございます。私は一昨日から食事を頂いておりません」

 

それを聞いた夫人は片手を上げて私を追い払う仕草をしながら言った。

 

「なら庄屋に言いなさい。彼がなんとかしてくれるわよ」

 

私は重ねて言った。

 

「奥様、私は剣士ですから人より多く食べなければ身がもちませぬ。一度に三人分の食事を頂くことをお許し頂きたく」

 

夫人は顔をしかめ面倒くさそうな表情をした。

 

「三人分?」

 

「さようでございます」

 

「なんでも好きになさい。私は今忙しいの」

 

彼女は本に目を戻した。言質を取った私は急いで庄屋の家に行き夫人の言葉を伝えた。そうして私は毎回三人分の食料を確保したのである。

 

一方黒雲は三日、四日、そして一週間経っても晴れなかった。

 

ただの天候不順ではないこの黒雲の正体を知ったのは実のところそれからだいぶ後のことだ。私はその頃ハイラル城を襲っていた未曾有の危機のことを何も聞き及んでいなかったからである。

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