私の雇い主のN夫人の所領であるハイラル北平原の端にある村の上を覆った黒雲が晴れたのは結局二週間も後のことであった。
私はその間ずっと庄屋の家から三人分の食事を件の寡婦とその姑の家に運んでは分け合って食べた。女は重ねて私に礼を言ったが、これはお互い様である。そしてある朝、窓から陽光が差し込んでいるのを見て私は外に出てみた。黒雲が晴れている。私は急いでそれを女とその姑に知らせた。
村人たちも三々五々屋外に出てきていた。跪いて感謝の祈りを捧げている者もいる。だがこうなると今度は私も職務に戻らなければならない。案の定、夫人が外に飛び出してきて、早速御者を呼びつけ出発の支度をさせていた。
「まったくもうこんなに家を空けちゃって心配だわ。子供たちは勉強なんかしてないだろうし、下女たちもきっと怠けてるに決まってるわ」
私が荷物を纏め広場に停まった馬車に向かうと、私を泊めてくれた寡婦とその姑が見送りに来て、頭を下げて挨拶をしてくれた。私は彼女たちを見て不思議に思った。なぜこのような信心深くて善良な者たちが食うにも事欠き、N夫人のような者が栄えるのだろう?神は貧しい者たちを顧みられないのだろうか?だが神学の方面の知識が乏しい私はそれ以上考えるのを止め、むしろ貧しくとも善良さを失わないこの者たちが褒め称えられるべきと結論した。
私は持ってきたルピーを取り出して全てその女に渡した。女は非常に驚いて固辞しようとしたが、私はルピーを持たせた手を上から固く握って手放させないようにした。なんとなれば私の心の中には自分を恥ずかしく思う気持ちが生じてきたのである。毎日食べる物にも困らず、鬼に襲撃される心配もない町で暮らしているのに、仕事で着るドレスが動きにくいとか、雇い主に小間使い代わりにされるのが気に食わないとか、そんなことで心を悩ませていた自分は一体何者なのか。
私は呆然としている女の前を辞して馬車に飛び乗った。出発するや否や夫人は急げと御者に命じた。ところが、村からだいぶ東に進み、石畳の整備された道に入ると、御者がやにわに馬車を停めた。私が彼の傍らに寄って前方を見ると、道のはるか向こうに何か怪しげな人影が見える。
目を凝らすと、石畳の道に続いてゾーラ川の上を通る石造りの橋の上に、あの時の蜥蜴男と同じような奴が一匹立っていた。
「御者殿、全速を出せ!緩めるな!」
私は剣を抜いて叫んだ。御者は怖気づいた顔をして私を見たが、背に腹は代えられないと悟ったらしい。手綱を鳴らして馬を走らせ始めた。夫人は寄りかかっていた幌の骨組みにしがみつき、何が起こるのかと怯えた顔をしている。馬車は加速していった。私は左手で御者の椅子を掴むと身を乗り出した。加速し切った馬車が橋に突っ込んでいく。蜥蜴男は橋の真ん中に陣取って身構えた。往来を妨害するために配置されていたのは明らかだった。私は、恐怖で目を見開いた御者に強いて何度も馬に鞭を当てさせた。蜥蜴男は一旦横に退避したかと思うと、跳躍して馬車の幌の横に取り付いた。幸いなことに夫人がいる場所の反対側だ。私はすかさず幌越しに剣で突きをくれた。三度ほど突いてやると相手はしがみついた場所から転げ落ちた。幌の後部から顔を出して確認すると、道路に倒れたまま弱弱しくうごめいている。私は剣を血払いしその刃を拭うと鞘に納めた。だが夫人はまたしても信じがたいといった顔をして、私が穴を開けた幌の箇所と私の顔を交互に見つめている。
「奥様、幌に穴を開けたことをお詫びいたします」
私は申し開きをするのも面倒になっていたので、そう短く言うと幌に背を預けて座り込んだ。だが災難はそれだけでは済まなかった。また御者が馬車を停めたので何事かと前方を見ると、はるか遠くの街道の真ん中に今度は緑鬼がいる。
「トビアス、迂回して頂戴。もう血生臭いことはたくさんだわ」
夫人は吐き捨てるように言った。しかしこの判断はある意味妥当ではあった。整地されていない草地の上で遅々とした速度ではあったが、その後馬車は鬼に出会うたび半円を描くように迂回し難を逃れた。しかし最後に来て再び問題が起こった。もはや日没近く、城下町東門が見える場所まで来たとき、緑鬼が跳ね橋のたもとに陣取っているのが見えたのである。しかも松明を手にし、弓矢を肩に背負っている。行きかう馬車の幌に火をかけるつもりだとひと目でわかった。
「ここで待たれよ」
私は御者殿に言い、馬車から飛び降りた。そして身を低くして鬼に近づいていった。矢が届く距離まで来ると私は四つん這いになって草むらに隠れながら相手に接近していった。そして五間ほどに近づくと、草むらからいきなり身を起こし、相手に突進した。気づいた鬼が慌てて弓を構え矢をつがえる。そいつが矢を放った瞬間に私は飛び込み前転した。頭上を矢がかすめる。立ち上がり一気に距離を詰めると、剣を抜いて相手を袈裟斬りにし、突き倒して胸に止めを刺した。
私は馬車のほうに向かって、もう危険はない旨合図した。馬車は再び動き始めた。だが私を乗せるため私の前で停まってくれるのかと思いきや、馬車はそのまま通り過ぎて跳ね橋に入っていってしまった。私は溜め息をついた。鬼の返り血を浴びた剣士と同席したくないのは分かるが、自分は雇い主にここまで嫌われているのかと思うとやるせなかった。
私は徒歩で城下町に入り自宅に戻った。疲れ切っていた私は身の汚れを落としすぐに寝床に就いた。
* * * * * * *
翌日は日曜日だったので私は礼拝所に出た。スノーピーク時代には殆ど縁のない習慣だったが、城下町に来てからは積極的に出るようにしていたのだ。(祈りを捧げる以外にも、今後の剣士活動のため人脈を作るという不純な動機もあった。)礼拝所に集まった会衆の中にN夫人もいた。私が話しかけると彼女はごく普通に応対してくれた。私は思った。もしかすると夫人が私に対して立腹したのは一時限りのことだったのではないか、と。私は、夫人が私を庄屋の離れの部屋から追い出して以来、もしや自分の普段の職も危ういのではという懸念が胸にあったのだが、その反面、彼女のように地位ある人間が曲がりなりにも職務を果たした者をおろそかに扱うわけがない、と考える自分もいたのである。
結局、その次の日私はいつものようにドレスに着替え化粧をして踵の高い歩きづらい靴を履いて夫人の邸宅を訪ねた。ところが下女が出てきて私にこう言った。
「お帰りくだせえ。もう奥様はあんたを家に上げるなとおっしゃっとります」
私は耳を疑った。と、気が付くと私の後ろに、眼鏡をかけた小柄な中年のご婦人が本を小脇に抱えて立っている。彼女が道を開けよとばかりに咳払いするので私は思わず脇に退いた。彼女は当然のように戸口に向かうと下女に迎えられ中に入っていった。そして扉が締められ私は外に残された。
事情を呑み込んだ私は家に帰った。そしてドレスを脱ぎ捨てこれを細かく引き裂き、暖炉の火にくべた。踵の高い靴も化粧道具も全て同じようにした。
以来私は甲冑を着て長剣を下げた姿以外の恰好ではもう二度と人前には出まいと心に誓ったのである。