雇い主であるN夫人に事実上暇を出され失職したという事実を心の中で処理するのは私にとって時間を要した。
なんとなれば、私は彼女の所領である村を守るため命を賭けて戦ったのである。その中で命の危機を紙一重で乗り越える経験もした。そしてまさにそれが原因で私は失職したわけだ。
この出来事は城下町に出てきてから最大の私の心の危機となった。私は持て余した時間を目いっぱい使って剣を振った。だがそうしながらも、こういった努力の全ては無駄なのではないかと感じる瞬間があった。もう剣士として生きる志など諦め、どこかの金持ちが自分を見初めたらその手にこの身を任せ、家庭に納まってぬくぬくと生きようかなどと夢想してしまうことさえあった。
そんな折であった。私が自宅の庭でいつものように甲冑を着て真剣の素振りをしていると、小間使いの少年がやってきて私に紙片を渡して去っていた。差出人はラフレル翁で、紹介したき人物が居るのでテルマ嬢の店にこれこれの時間来られたし、という内容であった。私は家を出て店に向かった。
店に到着すると、看板には「休業中」との札が貼られている。私は不思議に思ったが、扉を開いて中を覗いてみた。がらんとした店の奥にある客席に二人の男が腰かけて談笑している。片方はラフレル翁だったがもう片方は見知らぬ若い男だ。
「おお、アッシュ嬢。よく来てくださった。こちらに来て掛けられよ」
ラフレル翁が立ち上がると私を差し招いた。私は勧められた席に腰かけると見知らぬ男に自分の名を名乗った。ラフレル翁は私に対し彼のことをシャッド・デ・ル・ヒンス博士と紹介した。
「お目にかかれて光栄だね。君の噂は聞いたよ。百試合無敗なんだってね」
若い男は開口一番そう言った。それを聞いた私はやや鼻白んだ。噂というのは常に人の口を介する過程で尾ひれがついてしまうものだと改めて思い知らされた。
「百試合は誇張かと。精々五十試合程しかして居りませぬ」
私は答え、話題を変えた。
「博士のご専門は?大学まで進まれるとは相当な学を積まれたとお見受け致しますが」
「博士なんてやめて欲しいな」
シャッド氏は手を振って打ち消した。
「シャッドで構わないよ。僕は格式ばった会話が苦手でね。君のこともアッシュって呼んでいいかい?」
私は首肯した。だが実際には私は人を敬称なしで呼ぶ習慣が無かったため結局私は彼をシャッド殿と呼び、彼は私をアッシュと呼ぶことにあいなった。シャッド氏は考古学が専門で古文書と歴史と神話について深い学識を有していることがわかった。私が父の蔵書を漁っている時に読んだ歴史上の出来事を持ち出すと、その背景について驚くほど詳細な解説をいちいち加えてくれるのである。これには私も感嘆した。
だが私は会話をしながらも、ラフレル翁が私を彼に引き合わせた理由を訝しく思った。もしかすると仕事を失った私に憐れを感じたラフレル翁が見合いをお膳立てしようとしているのかとも考えた。大学に進むくらいであれば彼の家は財産の面では申し分ないだろう。だが結局のところ私は剣士の道を諦める気には到底なれなかった。
いずれにせよラフレル翁はテルマ嬢の不在中店を自由に使う許可を得ているらしかった。三人で雑談しているところに、開店中なのかと誤認して入ってきた者があったが彼はそれを当然のように追い返し、また話を始めた。
「おおそうだ、アッシュ嬢。貴女は今仕事はしておられないのですな?」
小一時間ほど話し込んで座がお開きになる前に翁は私に確認するように言った。私は思わず苦笑してしまった。ラフレル翁という人物はまるで城下町の中で起きる出来事を悉く覚知する特別な能力があるかのようだったからだ。
「さよう。恥ずかしながら暇を出されてしまいましてな」私は答えた。
「では、アッシュ嬢。少し頼みづらいことなのだが...」ラフレル翁はそう言って少し言葉を濁すと、また口を開いた。
「実は貴女にいずれ引き受けていただきたい仕事がありましてな。今はまだ詳細は言えませぬが、もしお仕事を探されるなら、できれば長期のものは避けていただけないかと」
私は怪訝な顔で翁を見た。仕事は紹介するが、今ではないというのも、歯切れの悪い話だ。しかもその時に備えていつでも身を空けられるようにせよというのである。こちらにも生活があるのに返す返すも勝手な話だと、私は軽く不快の念すら感じてしまった。このラフレル翁ですら、若く未熟な私を善いように利用し振り回そうとしているのか。そんな思考さえ脳裏をよぎった。私はN夫人のことがあって以来、他人を疑ってかかる性癖が身についてしまったのかも知れぬ。結局私は、出来る限りそう努める、とのみ答え、その場を後にした。
だが、その後私は知ることになった。このラフレル翁が後に私に紹介した「仕事」こそが、私が人生において最も従事したかった類の仕事であった。
これが、文字通り剣士たる私の人生にとっての一世一代の大舞台となったのだ。