私が幼い頃からたびたび訪れていたスノーピークの麓の村は廃村となっていた。
私は村の入り口でしばし呆然と佇んでいたが、気を取り直して村の中に入った。足元に真冬のごとく雪が積もる中、家を一軒づつ確かめて回り、あるいは打ち捨てられた家畜小屋を覗き込んだ。村人たちの姿はない。8月となるのにこの異常に寒い気候が原因で村を捨てたのだろうか。
以前燃えてしまった礼拝所は建て直された状態で打ち捨てられていた。その細い尖塔がいっそううら寒い印象を与える。あの母親と幼子はどうなっただろうか。心配だったが確かめる術もない。
私はスノーピークに至る斜面のほうに目を移した。上方にはかつて父と暮らした山小屋がある。立ち寄ろうかとも考えたが、この雪の中では登るだけで体力を消耗するのが明らかだ。私が思案していると、やがて雪の塊のような物が斜面のはるか上から転がるように下ってくるのが見えた。雪崩か。警戒した私は家の陰に身を寄せつつそれを観察した。
しかし、よく見るとそれは雪崩とは違うようだった。一つの白い丸い塊が動いている。目を凝らすとどうやら動物だ。その大きさはちょっとした小屋ほどもある。ゾーラ兵たちの証言が脳裏に蘇ってきた私は、覚えず剣の柄に手をかけていた。その白い塊は凄まじい勢いで斜面を下ってくると、村の入り口の手前で左に曲がった。やはり獣だ。体中を真っ白な毛で覆われている。だが顔は黒っぽく、頭には茶色い帽子のようなものを被っていた。目で追っていると、それは湖畔沿いを疾走してゾーラの里に通じる洞窟のある崖に向かっていった。
ゾーラ達が危ない。反射的に私は物陰から飛び出して走り出した。必死でその獣を追う。だがそやつの脚は極めて早く、私が後を追って湖畔から崖まで到達したときには既に洞窟の中に姿を消していた。私は息を整えると思案をまとめた。今までゾーラ達のうち危害を加えられた者はいないとは聞いたが、今後もそうとは限らない。剣士としてこの潜在的危険を看過するわけにはいかない。私は意を決すると崖の山道を登り始めた。崖上に到達すると、洞窟に入り剣を抜いて小走りに前進した。
やがて洞窟を抜けると、騒がしい声が聞こえた。ゾーラ達だ。
「小隊集まれ!」
「女子供は避難させろ!」
号令が聞こえる。私は辺りを見回した。
「アッシュお嬢様!」
エヴァン伍長の声が聞こえた。川の向こう岸だ。彼は部下たちとともに槍を構え、顔だけこちらに向けて必死で叫んでいる。
「こやつ刃物が通用しません!お逃げ下さい!」
見ると、親子岩の向こうにあの白い獣が立っている。手には大きな魚を持っていた。その周囲を数名のゾーラ兵が包囲している。だが獣は全く意に介さない様子であった。獣は跳躍するとざんぶと音を立てて水に飛び込み、こちらに向かって泳いできた。私は剣を構えて待ち受けた。
やがて獣は私の目の前の岸に手をかけ水面から上がってきた。私はその大きさに驚き呆れた。ゾーラたちの証言通り人間の三倍はある。白い豊かな毛で覆われた腕や脚は筋肉で盛り上がっている。その顔を見ると、ギョロリとした両目と鼻は意外にも人間を思わせるような造作であったが、口からは巨大な牙が突き出ている。
私は用心深く中段に剣を上げた。だがこの手の野獣は、剣で斬り掛かっても毛皮のせいで傷を負わせるのが難しいということは知っていた。急所を一撃で刺し貫かねば倒せないのだ。野獣は手に魚を持ったまま私を見つめている。睨み合いがしばしの間続いた。だが彼はふと私から目を逸らすと、その巨体をねじ込むようにして洞窟の中に入っていった。
私は安堵の溜め息をついて剣を納めた。だがこうしてはいられない。気を取り直すと自分も洞窟に入り獣の後を追った。今後このような騒動が度々起こっていてはゾーラ達も安心して暮らせない。獣の正体を突き止め、必要なら対策を取らねばならない。
私は出来る限り早く走ったが、獣のほうが早かった。私が洞窟を抜けて崖の縁に立った時には、野獣は既にスノーピークに至る斜面のはるか上方に登っていた。その登る速度も極めて早く、獣はすぐに私の視界から消えてしまった。私は息を整えると懐から紙と鉛筆を取り出し、目に焼き付いた獣の姿を書き留めた。
スケッチを書きながら頭の中で考えをまとめようとしたがうまく行かない。奇妙なことが多すぎた。黒い鬼どもがゾーラの里を襲い女王を殺害した。魔法使いらしき敵が泉を凍結させた。だが何者かが火山から噴石を運んでそれを溶かした。それ以来魔物の姿は見られていないが、今度は奇妙な巨獣がたびたび里に現れ騒ぎを起こしている。
私は再び溜め息をつくとスケッチを懐に仕舞った。とにかく城下町に戻って報告しなければならない。状況の分析についてはシャッド博士とラフレル翁が知恵を貸してくれるだろう。洞窟の中に戻った私は、しかし、前方から聞こえてくる足音を聞いて立ち止まった。
麓村は廃村となってしまったのに、こんな場所を訪れるのは一体誰だろう?訝しんだ私は洞窟から出て、その入り口の横にあった岩の陰に身を寄せて待ち受けた。
息を潜めていると、その足音の主が洞窟から出てきた。なんとそれはリンク氏であった。私が見ていると彼は私に気づかないまま崖の方まで進み出て前方を眺めている。寒さに備えた支度をして来なかったらしく、頻りに自分の両手に息を吹きかけて擦り合わせていた。
彼が怪我もなくゲルド砂漠から帰還したことに私は安堵した。それと同時に悪戯心を起こした私は足音を忍ばせて彼の背後から近寄った。だが数歩進んだところでやおらリンク氏は振り返り、剣の柄に手を掛けて誰何した。
「誰だ」
私は自分が面甲を被っていたことに気づいた。これでは怪しまれるのも無理はない。私は面甲を脱ぎ改めてリンク氏に挨拶した。
「アッシュか。驚かせないでくれよ」
リンク氏は剣の柄から手を離し溜め息をついた。
「気配だけで振り向くとは悪くない」
私はそう言ったあと付け加えた。
「だがもし私が弓矢を持っていたら貴殿は死んでいただろう」
私が冗談めかして言うとリンク氏は苦笑いした。
「ずいぶん物騒だなあ。君だって僕を暗殺するためにこんなところに潜んでいたわけじゃあないだろう?」
「もちろん違う。だが貴殿こそなぜここに?」
私が尋ねるとリンク氏は頭を掻いた。
「ラフレルから聞いたんだ。君がここで何かを調べているって。何か異変を見つけたんじゃないかと思ってね」
「異変、と申されるか。確かにその通りだ。だがこの地方はずいぶん前から異変続きだった。泉が凍結された事件はお聞き及びであろう」
「まあね」
リンク氏はまた自分の両手に息を吹き掛けて擦り合わせながら相槌を打った。
「さらに今この辺りは異様なまでの冷気に包まれている。真冬も同然のな」
私は面甲を持ち直すと続けた。
「じゃあやっぱりこの寒さは普段通りじゃないんだね。おかしいと思ったよ」
リンク氏はそう尋ねたあと少し自分の両肩をさすった。
「私は元々この地方の出身だ」
私は言うとはるか前方に横たわる山の斜面を指さした。
「毎年夏にはこの山の斜面にも緑の草と慎ましき花の群れが現れる。それが今年は真冬に逆戻りだ。明らかに異常だ」
「知らなかったよ。僕はゾーラの里の氷漬け事件のことしか聞いていなかったから」
リンク氏は言う。
「酷い事件だったらしいね。女王まで殺されてしまったって」
「さよう」
私は答えた。
「私はゾーラたちとも付き合いがある。彼らの失意ぶりは正視に堪えないものだった。王子の生存が確認されてようやく彼らも落ち着きを取り戻したのだ」
そこまで言うと私はリンク氏の顔を見た。
「その点については貴殿の働きを認めねばなるまい。剣士見習いとの肩書はそろそろ刷新されてはいかがか?」
私はそう勧めた。ゾーラたちの話を聞いた私は、いまや彼の肩書はその実力に比して不釣り合いだという印象を持つに至っていたのである。
「まあ、モイがどう思うか聞いてみるよ」
彼は照れ笑いしたあと、話を戻した。
「で、近頃も何か異変があったのかい?」
「最近山の奥に住む獣が頻繁に彼らの里に姿を現している。ついさっき私も見た」
「獣?どんな奴だい?」
私はさきほど描いたスケッチをリンク氏に渡し説明した。
「見上げるような巨体の怪物だ。身の丈は人の三倍はある。なにより恐るべきはその脚力だ。この深い雪の中苦も無く斜面を駆け上っていった」
「誰か襲われた人がいないか心配だね」
リンク氏は呟いた。
「それは今のところない。ただ里に下りてきては魚を盗んでいるらしい。だが奴の正体を突き止めようにもこの吹雪では足跡もすぐ消えてしまう」
「ちなみに山の奥には何があるんだい?」
リンク氏が尋ねてきた。私はそれを聞くと少し目を細めて尋ね返した。
「何がある、と?それはいかなる意味だリンク殿?」
「いや...その..」
リンク氏はやや言葉に詰まったあと私にこう言った。
「誰も探検したことのないダンジョンがあるなら行ってみたいんだ。何しろ僕は君のような由緒正しい家に生まれた人と違ってただの田舎剣士だ。もっと場数を積んで強くならないと世間から認めてもらえないからさ」
「ふむ」
私は少し考えた後言った。
「私も多くは知らない。だが父から聞いた話では山頂近くにかつての王家の別荘があると聞く。百年以上前から打ち捨てられているそうだから今頃は種々の魔物たちが巣食っていよう」
だがそう話しながら、私は心の中にリンク氏と出会った直後に胸に湧いてきた懸念が蘇るのを感じた。自らの功を誇らない謙虚なリンク氏といえど、やはり剣士として身を立てるには大きな手柄を立て知名度を得なければならないと考えているのだ。
「それだ。それだよ」
リンク氏は頷いた。
「僕はそういう場所を探していたんだ。そういう場所を探検して....」
「リンク殿。私から申す。おやめになるがよかろう」
私は言った。その語気の強さにリンク氏は少し面食らってしまったようだ。
「やめとけって...なぜだい?僕が未熟者だから?」
「リンク殿。くれぐれもお気を悪くなされぬよう」
私は丁重に前置きしたあと話し始めた。
「貴殿には資質がある。それはモイ殿に説明されなくとも私にもわかる。だがそのうえで言っているのだ」
リンク氏は当惑している。私は尋ねてみた。
「リンク殿。雪山に潜む魔物と戦った経験はおありか?」
「いや..ないよ」
予想した通りの答えだった。才能に恵まれたリンク氏と言えども、かかる魔物がひしめくダンジョンを単独で探索し生き残れるだろうか。私は胸の中の懸念が強くなるのを感じた。そして続けた。
「きゃつらの打撃を受けると身体が凍り付いたように動かなくなる。それも数秒間の間だ」
私は右手を出すと指を鳴らした。
「その間に止めを刺されたら一巻の終わりだ。どれほど熟練の剣士でもそれは変わらぬ。きゃつらの危険性は実際に戦った者でなくてはわからない」
「もしかして君は...」
「さよう。言ったとおり私はこの地方の出だ。父とともにきゃつらと戦って命を落としかけたこともある」
「そうだったのか...」
リンク氏は驚いたようで少し口をつぐんだ。
「これが私からの忠告だ。先輩風を吹かしているように聞こえたら許されよ、リンク殿」
「そんな、とんでもない。感謝して受け取るよ」
リンク氏は両手を振った。
「僕は剣士見習いになって一年くらいしか経ってない。君みたいな先輩から助言してもらえるのは有難いよ」
「ご謙遜を申される」
私は思わず微笑んだ。私が男に直言すると大抵の場合女だてらに生意気な口を利くと思われてしまい相手は機嫌を損ねる。だがこのリンク氏は対照的に、極めて素直で謙虚な人物だということが感じられ、それと同時に彼には無駄死にしてほしくないという私の気持ちも強くなってしまった。
ならば彼の腕をこの手で確かめたい。私は決心し、こう言った。
「リンク殿。私は常々興味を持っていたのだ。二度にわたって大鬼を討ち取ったという貴殿の腕前がどれほどのものか、ということをな」
「僕の腕?」
彼は肩をすくめた。
「さあ、とにかく二回とも無我夢中だったからね。剣術は六歳のころからモイに習ってたから十年くらいかな。でも本業は農業と牧畜だし....」
私はリンク氏の話を途中で遮ると、面甲を横に放り捨て剣を抜いた。
「リンク殿。よろしければお手合わせを願おう」