神都の午後──
軒先の油紙が陽を透かし、神殿通りにざわめきが揺れていた。
ココロワヒメは一人、街を歩いていた。
特に用があったわけではない。ただ、久しぶりに外の空気を吸いたくなったのだ。
道端の茶屋では、神使たちがざわざわと話していた。
その声が、風に乗って彼女の耳に届く。
「聞いたか? あの“穂守布団”、また新しい神殿に入ったらしいぞ」
「おお、やはり噂は本当であったか。なんでも、あの“発明の神”が作ったらしいではないか?」
「左様、ココロワヒメ様と言ったかの? 未だ知ってる者は少ないが、少し前に新しい筆記具も開発したそうだ。」
「その力、どうやら本物らしいな」
ココロワは、思わず立ち止まっていた。
自分の名が、こんなふうに他人の口から語られるなど、初めての経験だった。
(……わたくし、知られている……? 認められて……)
鼓膜に触れたその言葉たちが、じわじわと心の奥に沁みてくる。
胸の内で、小さく何かが灯るような……温かい感覚。
「歯車ばかり回していて、何をしているのかと思っておったが、あれが鉛筆も寝具も手掛けてたとは思わなんだ……」
「やはり発明神の技術は一味違うということだろう」
ココロワはどうしようもなく喜びがこみ上げて来た。
(ふふっ……ふひっ……わたくし達の“作ったもの”が……)
だが、次の一言が、その笑みを真っ二つに裂いた。
「まあ、でも、あの姫神の方は相変わらずであろう」
「サクナヒメ様のことか? あの、親の遺産で遊んでるだけのぐうたら姫神か」
「鉛筆も布団もサクナヒメ様が一枚嚙んでいると聞いたが、どうせ例の“無茶ぶり”で、ココロワヒメ様に押し付けただけだろうさ」
「口が過ぎるぞ。誰が聞いておるかわからんのだ」
「しかし上があのような性分では、下が苦労すると言うのは事実でしょう」
──その瞬間。
ココロワの中で、何かが凍りついた。
胸の奥で、じわりと広がる冷たさ。
先ほどまでの高揚が、まるで悪い夢のように引き剥がされていく。
(……押し付け……? 無茶ぶり……?)
違う。
サクナさんは、そんなことはしていない。
あれは、“無茶”ではなかった。
彼女は確かに自分の欲を口にしたけれど、
そこにはしっかりとした知識と、具体的な筋道が立てられていた。
(……あの方は、わたくしに火を灯してくれた……)
どうして、誰も知らないのだろう。
どうして、彼女のことを知ろうともせずに、ああも簡単に“ぐうたら”と言い捨てられるのだろう。
(サクナさんは恩人で、尊敬できる。わたくしの、たったひとりの──)
拳を、握った。
袖の中で、指先が震えていた。
神々の都──
天候を司る神、作物を育てる神、季節を廻す神。
彼らはそれぞれ、確かに“今”も働いている。
戦を司る神は地上の争いを見張り、
建築神は日々、新たな社を立て、
知の神は書を編み、言葉の理を積み上げていた。
この都は静かだが、何もしていないわけではない。
皆、自分の役割を果たし、神としての“務め”を淡々と全うしている。
それが、神の都における日常だった。
神々は不老で、時の流れも人間のように急がない。
だからこそ、変化はゆるやかで、動きは静か。
それでも、都の仕組みは神々の手で確かに支えられていた。
──そんな中で、サクナヒメは特異だった。
表立った働きもせず、何かを管轄している様子もない。
神務に出ることも稀で、日がな一日、昼寝と酒にまみれている。
それでもなお、“偉大な神の娘”として高座に座している。
「タケリビとトヨハナの娘だからな」
「神威など継いでおれば充分だ。あれは“器”なのだ」
「しかし、実際あれが何をしておる? ただのぐうたらではないか」
都のあちこちで、そんな声がささやかれていた。
何もしていないのに、評価される。
努力の結果ではなく、“血筋”と“期待”で扱われる。
──それは、働く神々の一部から見れば、痛烈に不公平に映った。
逆に言えば、都にいる多くの神々が「変わらないだけの存在」ではなく、
“維持のために働き続ける神々”だったからこそ──
何もせずにのうのうとしているように見えるサクナヒメは、
悪目立ちした。
「働かない神」
「七光りの怠け者」
「神という名の寄生虫」
──そんな陰口が、どこからともなく風に乗って漂っていた。
通りを見渡すと、サクナの名を笑う声が、至るところから聞こえてくる気がした。
たとえ本人が知らずとも、
こんなにも“誤解されたまま”でいいはずがないのに──
「……わたくし……」
つぶやいたその声は、誰にも届かない。
けれど、ココロワの中でははっきりと決意の音を立てていた。
(わたくしが……証明する。
あの方が、“怠け者”などではないことを──)
風が吹き抜ける。
街の喧噪を、ほんの少しだけ遠ざけるように。
ココロワは足を向ける。
向かう先は、あの工房──
そして、“サクナヒメと共にある発明”の未来だった。
工房の灯が、静かに揺れていた。
夜更けの空気は、墨のように重たく、けれどどこか、あたたかい。
机の上には木札に描かれた試作図と、転がる歯車たち。
どれも、誰かの「こうなったらいいな」という小さな願いのかけらだ。
その隅。
丸めた布くずを抱いて、サクナは大の字で転がっていた。
「ふぁ〜〜〜あ……疲れたのう……」
気の抜けた声が、工房の天井へ溶けていく。
「サクナさん……せめて、作業台では寝ないでください……」
いつもの呆れた声。でも、ほんの少し、優しい。
「え〜? この布の切れ端が、ええ感じにふかふかしておるんじゃ〜」
片目だけ開けて笑うサクナに、ココロワはふぅと小さく息を漏らす。
「それは、枕の試作で失敗した物です……」
その声のあとの、一拍の静寂。
ココロワが、小さな息をのんで、言葉を落とした。
「……サクナさん、ひとつ、話したいことがあります」
サクナは、転がったまま首だけ起こした。
けれど、その動きはどこか慎重だった。
なぜなら、ココロワの声が──
いつもの調子ではなかったからだ。
浮かれた笑い声も、得意げな語尾もない。
ただ、胸の奥から滲み出たような、真っ直ぐな音だった。
「なにやら……改まっておるのう。悪い話か? まさか布団に不備でもあったか?」
「違います。そうじゃなくて……わたくしは……ずっと、言えなかったのです」
「……なにをじゃ?」
静寂。
工房の灯が、芯を焦がしてパチ、と小さく弾ける。
その火の音に続くように、ココロワは口を開いた。
「“ありがとう”って」
その言葉は、凪のようだった。
胸に静かに落ちて、やがて心の深い場所に、波紋を広げていく。
「鉛筆も、布団も……全部、サクナさんが火を点けてくれた。
わたくしは、それを回しただけなんです」
机の上の歯車が、コトリと傾いた。
まるでそれも、ココロワの心と共鳴しているかのように。
「……それは違うぞ、ココロワ」
サクナは、起き上がって言った。
その声は、あくまでやわらかく、けれどはっきりしていた。
「……いえ。違いません」
ココロワの視線は伏せられている。
でもその言葉は、揺るぎなかった。
「誰も、わたくしに声をかけてくれなかったとき……
“必要”って、真っ直ぐに言ってくれたのは、あなただけでした」
指先が、机の縁をぎゅっと握る。
その細い指が、震えているのがわかる。
それでもココロワは、逃げずに言葉を続けた。
「それが、どれほど嬉しかったか。どれだけ心が救われたか……
わたくし、いまだに言葉が追いつかないんです」
その胸の奥には、孤独の時代があった。
からくりの音だけが響く静寂な部屋で、ただ歯車を回し続けた日々。
誰にも必要とされず、神である意味さえ見失いかけていた過去。
そこへ現れたのが、サクナだった。
「なのに……この都では、サクナさんのことを“怠け者”だと……」
その言葉に、サクナは小さく笑った。
「ははっ。まぁ、ぐうたらには違いないがの」
冗談めいている。
でもその笑みには、少しだけ影があった。
「怠惰を求めて勤勉に行き着く」
ぽつりと漏らしたそれは、どこか哲学のようで、皮肉のようで──
けれど真実だった。
「ワシはな、怠けたいから頑張っておるんじゃよ。
でも、そっか……おぬし、それを悔しがってくれたのか」
ココロワは、小さく頷いた。
「……はい」
ふたりの間に、長い沈黙が流れた。
でもそれは、気まずさではない。
まるで、お互いの胸の奥にあるものを確かめ合っているような、静かな時間。
そして──サクナがふと、笑った。
「……ならば、なんの問題もあるまい」
「……え?」
ココロワが、目を丸くする。
「名誉とか、評判とか、どうでもええ。
でもな、おぬしがわしを認めてくれてるなら──それでいいのじゃ」
それは、飾りのない言葉だった。
だからこそ、ココロワの胸に、強く届いた。
サクナが立ち上がり、寝癖をゆらして彼女の前に立つ。
だらしない着物。指に墨。
でも、その目だけは──とてもまっすぐで、力強かった。
「わしは、おぬしとおると、なんでも作れそうな気がするんじゃ
火を点けたんじゃない。わしのほうが、動かされとるんかもしれんのう」
ココロワの目が、かすかに潤んだ。
その瞬間、ふたりの心が、音もなくつながった。
「じゃあ、これからも一緒に回そう。歯車も、心も、都も。全部」
「……はいっ」
ココロワは、初めて自分から手を差し出した。
その手は、少しだけ震えていた。けれど、あたたかかった。
サクナは少し驚いた顔で、それをしっかり握り返す。
その指先に伝わるのは──言葉よりも確かな、信頼と、絆の温度だった。
静かな工房の灯の中。
ふたりの神は、世界にひとつだけの、“ふたりだけの未来”を、そっと動かし始めた。