とある老いた男が、死の間際にいた。
その男は、名の知られた名トレーナーであり、近代競馬の生き証人として全てを見守り続けてきた男だった。
数々の名ウマ娘を世に送り出してきた男は、ある程度の年になると後進育成を念頭に、多くのトレーナーを育て上げ、尽力し続けていた。
定年を迎えてもなお、足しげくトレセン学園へと通い、時には誰かを叱咤し、時には誰かを激励し、時には誰かを慰め、時には誰かと共に泣いた。
URAすらもその男の存在に頭が上がらず、歴代トレセン学園理事長も頼りにしていた。
粉骨砕身で男はウマ娘に尽くし続けていた。
尽くし続け、寄る年波の老体を酷使し、新人トレーナーへ熱心に指導した。
『ウマ娘に後悔させないよう、トレーナーが尽くせ』
ベテラントレーナーですら耳にタコが出来るぐらいに、男が言い続けていた言葉は、のちの後進育成にも自然と広がっていた。
「申し訳ございませんが、これ以上尽くす手はございません。我々が提案できることは、終末期に対しての緩和ケアしかございません」
「そんな…!」
医者から下された結果に男の家族が、愕然としたが、ただ一人、男の伴侶たる妻だけが冷静に、そして静かに口を開いた。
「…楽に、逝けるようにしてください。先生よろしくお願いいたします」
一見冷たいように見えるが、微かに震える手を見て、家族たちは自分たちの母親の決断にこれ以上反論する余地はなかった。
長年無理をし続けていた結果、無理がたたって、体を蝕んだ病魔は末期になっていた。
恐らく意識が覚醒していたら、強力な麻酔薬がないと、吐き気と激痛に、もがき苦しむであろうとも言われており、ある意味昏睡状態な事は男にとって幸いなことだろうとも医者は考えていた。
故に、この妻の判断に、どこか胸を撫で下ろすところもあったが、医者は表情を表に出さなかった。
終末期の緩和ケアへ移行するため、ICUへと運ばれた後、その男の下に訪れる人たちは絶えなかった。
URA関係者、トレーナー、名の知れたウマ娘や引退して故郷に帰ったウマ娘すら皆が訪れ、変わり果てた姿に涙した。
訪問者たちの対応は、家族が代わる代わる行っていたが、男の妻は必ず同伴していた。
そしてとある人物が来るのを待っていた。
「それでは…」
「今日はありがとうございました…」
整然とした姿の初老の男性を病院入り口で見送ると、男の妻と娘は頭を下げて見送った。
「…母さん、少し疲れてない?家に帰って休憩したら?」
娘は母の心労を気遣ったが、男の妻は首を横に振って微笑んでいた。
「母さんは大丈夫よ。それより貴女こそ早く帰りなさいな。孫たちがお腹空かせてるわよ」
「でも…」
入り口で押し問答が行われていたが、男の妻は頑として病院から離れようとはせず、娘は諦めて一人で帰っていった。
その頑なな姿に、娘は先日問うた。
『母さん、お父さんが心配なのは分かるけど、どうしてそばから離れないの?』
男の妻は、微笑みながら娘に答える。
『…ある人を待っているのよ』
それ以上答える事はなかった。
◇
その時代、世界は荒れていた。
欧州では横暴とも呼べる全体主義が台頭し、その中心にいた大国は周辺国へ次々に攻め込んでいた。
男のいた国も例外ではなく、隣の大陸で戦争を繰り広げながら、欧州のその大国と同盟を組み、そして大海を挟んで北東にある大国へ無謀とも呼べる宣戦布告を模索している最中であった。
そんな時代、とある名ウマ娘がレースで開花した。
名は“セントライト”
デビューしてからその年のクラシック戦線を沸かせ、初のクラシック三冠ウマ娘となり、光の如くターフを去った。
生涯成績12戦9勝、負けても掲示板から外れたことはないという輝かしい栄光は今でも語り継がれており、その名を模した“セントライト記念”はかの名ウマ娘“シンザン記念”と並んで、クラシック戦線の重要なトライアルレースとして存在している。
海外のとある国のやんごとなき血筋で、家柄も素晴らしく、レースに出たら強い。
欠点のないウマ娘として描かれているが、その苦労を知っているのは、死の間際にいる男と、その男の兄貴分である彼女のトレーナーだけである。
セントライトのトレーナーはよくセントライトのマイペースさに苦心していた。
練習の為、トレセンから外へ出れば、指定した時間まで帰ってくることはなく、探しに行けば、指定した道ではなく、のんびりと走っていたかと思えば、レースに出せば競り合いに強く、深窓の令嬢らしからぬ闘争心を見せていた。
男もサブトレーナーとしてセントライトの育成に携わり、そして苦労させられた一人であった。
「全く、お嬢はどこ行ったんすかねぇ?」
とある真夏の日。
秋の重要なレース“京都農林省賞典四歳呼馬娘”(のちの菊花賞)へと向けて夏合宿を行っていた頃であった。
その年は、いつになく暑く、30℃を超える猛暑日を記録していた。
男はシャツを汗で湿らせながら、田舎町を片っ端から走り続けていたが、それでも見つからず、事前に指定していた時間と場所で兄貴分と待ち合わせていた。
「駐在さんにも聞いたが、気分不調で診療所に運ばれたウマ娘はいないらしい。倒れていないのならそれでも良いんだが…」
兄貴分もだいぶ走ったのか、汗だらけになっており、ポケットから出した手ぬぐいも随分と汗でしみていた。
「こういう時にも怒らねぇんだから兄貴はお嬢に甘いんすよ!」
へとへとになった男は、後ろにあった店の軒先に出来ていた影でしゃがみ込むと、苛立っていない兄貴分に呆れていた。
例年以上の暑さにも関わらず、どこかへいった自分の担当へ怒りを向けるどころか、心配している様子は彼の優しさと心の広さを現している態度であるが、男にとっては毎度行われていることなので、いい加減にしてほしいという気持ちが勝っていた。
「ショウ、そう怒ってやるな。セントライトのマイペースさは今に始まったことじゃない。それに…」
兄貴分は、弟分であり、サブトレである男“ショウ”に苦笑しながらも、いつもの言葉を説こうとした。
それよりも先に声に出したのはショウであった。
「“ウマ娘に後悔させるな。トレーナーが尽くせ”でしょう?」
「そうそう!」
「耳にタコが出来る位聞きましたよ。それでも今日の蛮行は名家のご令嬢といえどもオラぁ堪忍袋の緒が切れましたよ!」
兄貴分であるトレーナーの座右の銘とも言える言葉を、ショウがうざったらしく答えると、兄貴分は笑っていた。
それでも腹の虫が収まらなかったショウは、ちょうど軒先を借りていた店が田舎町にしては珍しいパーラーだと気が付いた。
「兄貴、堪忍袋の緒が切れたので、この店で涼しみましょ」
「しかしセントライトが…」
「大丈夫ですよ!お嬢はどこかで勝手に…」
ショウは兄貴分にかき氷をせがもうと手を引っ張りながら店内へと入っていった。
兄貴分はいまだにセントライトの身を案じていたが、ショウは暑さに対して我慢の限界であった。
店内は流行りを取り入れた装飾で、ハイカラな装いをした店員が給仕をしていた。
ショウは期待に胸を膨らませながら店内に空いている席を探すため、目を凝らした時であった。
凄く盛られたかき氷を涼しい顔をして食べているセントライトの姿を発見したのだ。
「あーーーーーーーー!」
「…あら?」
ショウがセントライトに指差し、それに気が付いたセントライトもまた右手で口元を隠しながらきょとんと首を傾げていた。
ショウは兄貴分の手をひっぱりながらセントライトに近づいていく。
「お嬢!何やって…てかデカすぎだろ!そのかき氷!!」
「…」
「いや黙って食うな!」
ショウが驚くのも無理はない。
いくらウマ娘と言えど、相撲の横綱が優勝の際に飲む大杯のような皿に、盛りに盛られたかき氷、そして金時やらがふんだんに乗っており、それを三分の一まで平らげていた。
夏合宿で、次走まで期間は空いているとはいえ、あまりの暴食ぶりを指摘しようにも、セントライトは静かに、優雅に、そしてとんでもないスピードでかき氷を食べていた。
そんな中で、セントライトのトレーナーたる兄貴分は。
「いやぁセントライト良かったよ。美味しい?」
「…美味です」
「美味です…じゃないんだけど?!」
安心した表情を浮かべて、セントライトと同じ席へと座った。
セントライトは微笑みながら大盛に置かれていた白玉を食べており、ショウは頭を抱えていた。
「兄貴、これは流石に怒った方がいいですよ!!」
「ショウ、まぁかっかするな。火照った体が更に茹るぞ?」
「兄貴!!」
兄貴分は快活に笑いながらショウを宥めつつ、その場は三人でかき氷を食べて事なきを得た。
後日、ショウと兄貴分は駐在の警察官にも診療所にも頭を下げに行った。
皆が笑って「良かったね」と許してくれたが、ショウだけは納得しかねていた。
「兄貴、どうしてセントライトに対して甘いんすか?」
セントライトだけではない、担当している歴代のウマ娘達に対して献身的に尽くしている。
他のトレーナーと比べてもそれは過保護とも思えるほどであった。
「…なぁショウ」
兄貴分は水平線に沈む夕日を眺めながら佇む。
「トレーナーは走らなくても何度も同じレースに挑める。だけど彼女達ウマ娘にとってレースは人生にとって一度きりだ」
それはショウにも理解していた。
シニア戦線に上がったなら複数回挑めるが、クラシック戦線ならばそれは例外である。
クラシック戦線に挑んで、涙を飲んだウマ娘は数多くいる。
それは栄光を掴んだウマ娘の影に隠れて、無限とも思えるぐらいに存在している。
だから必死に努力し、一生懸命にレースへ挑む。
ゆえに、少しの隙が命取りになりかねないのだ。
しかしセントライトのトレーナーたる兄貴分は担当ウマ娘達に自分たちの考えを、レースに対して奴隷の如く挑むことを禁じた。
「ウマ娘だって、麗しい年頃の女の子だ。誰だって青春時代を苦労したまま過ごしたくないだろ?出来れば、楽しくレースを走ってほしいんだ。苦痛のまま出たって思い出としては辛いものになるだろ?」
「まぁ確かに…」
兄貴分の過去には何かがあったことは知っているが、それを本人から聞いたことはない。
調べれば分かることだが、ショウはそれをしなかったし、本人から聞き出そうとも思わなかった。
しかし風の噂で、初めて担当になったウマ娘を不慮の事故で失ったことをのちに知った。
そういう後悔があるからこそ、兄貴分は甘いとも思える態度を取っていたのだろう。
しかし、のちに見れば、ウマ娘にとってストレスをかけない環境作りは、その重要性から学会内で論文に上がるほど、大切なケアであった。
ある意味先見性があった兄貴分はもれなく名トレーナーであったのだ。
「だからショウ」
夕日が完全に沈んだ頃、兄貴分はショウに投げかける。
「後悔のない人生にしろよ」
この言葉はいつも教えられている事柄よりも重く思えた。
◇
夕日が沈み、病院内もほぼ電気が落とされていた。
夜勤の看護師や医者がいる以外は、入院患者と妻だけが院内に残っていた。
ある程度の時間になると、妻も用意された部屋へ戻り、横になるのだが、その日はICU近くのベンチへ座っていた。
なんとなく胸のあたりがざわついて、落ち着かず、自動販売機で買った温かいペットボトルのお茶を飲んで過ごしていた。
妻は男が倒れ、意識を失う前に聞いていた言葉がある。
『俺にもしもがあったら、絶対お嬢に死に際を見せないでほしい』
結婚し、共に人生を歩んでから、ウマ娘一筋の男が、初めてウマ娘を拒絶した。
お嬢、それは彼がサブトレーナーとしてとあるトレーナーの下で、修行していた頃に関わっていたウマ娘であり、夫が酒を飲めば、必ず出てきた自慢であった。
孫の中にもウマ娘がおり、当時のレースの様子を教えては「お前もセントライトのよう強いウマ娘になるんだぞ」としきりに話していた。
結果孫はG1を勝ち、海外G1ウマ娘となった。
夫が孫がG1を勝った時、人目を憚らず泣きに泣いた。
トレーナーとしては関わっていなかったが、夫にとって自慢の孫になったのだ。
そんな男が、セントライトに会うことを拒絶したのだ。
夫との思い出を振り返っていると、すでに閉まったはずの院内のエレベーターが突如として動いた。
徐々に同じ階へと上がってくるのを見ていると、この階に止まった。
そして出てきたのは、見目麗しいウマ娘であった。
妻はすぐにそのウマ娘が、セントライトだと気が付いた。
「あの…」
妻はベンチから立ち上がり、頭を下げる。
ウマ娘、セントライトも静かに頭を下げてくると、妻は手を出して誘導する。
「どうぞこちらに」
妻は夫の意志に反して、夫が眠る部屋へと誘導する。
セントライトは黙ってそれに追従した。
部屋は月明かりに照らされており、それ以外は医療器具の電光が輝いているのみであった。
男の顔は月明かりで照らされているが、男の口には管が入れられており、自力呼吸が困難になっていた。
セントライトは男の姿を見ても表情を変えず、穏やかな表情でベットの横に用意された椅子に座っていた。
妻はその後ろに控えて、息を殺した。
「…ショウさん」
セントライトの穏やかな声が男に掛けられるが、瞼を開けることはなかった。
しかしセントライトは気にせず、言葉を続けた。
「ショウさん、貴方が紡いだ彼の言葉は、今でも、そしてこれからも続きますよ」
それは男に対して感謝しているとも思えるような言辞であった。
セントライトは優しく男の手を取り、手の甲を静かに撫でた。
「でも」
セントライトは言葉を繋げた。
「貴方まで、先に逝ってしまわれるのね」
妻は夫が残した言葉の真意を理解した。
セントライトのトレーナーはのちに戦争にて、飛来した爆弾から他のウマ娘を守るために、巻き込まれてこの世を去っている。
その時の悲しみようを、夫は痛いほど見ていたのだ。
夫はセントライトが立ち直るまで、献身的に尽くしたと聞いている。
かの国へ戻った際は、セントライトが夫に感謝をし、その家族も献身を称えてくれた。
だからこそ、夫は自分の死に際を見せたくなかったのだ。
再び、親しい者が去ることを、悲しませたくない為に…。
しかし、妻は後悔していなかった。
今のセントライトには哀悼はあるが、悲観は見られない。
立派な女性として自立した彼女は、近々トレセン学園でとある事業の指揮を取るという。
そこには“老雄”スピードシンボリや“元祖アイドルホース”として名高いハイセイコーも携わり、後進育成に力を尽くすという。
たった一人が撒いた種は、一人の男が手塩に守り、世界へ咲き誇ろうとしていた。
その時であった。
セントライトが包んでいた手が、少しだけ動いた。
弱弱しいものであったが、セントライトには確かにその意思が伝わっていた。
「…ゆっくりお休みなさい」
男の『あとは任せた』という意志を受けたセントライトはベットへ静かに手を置くと、その場から離れた。
妻は頭を下げて礼を言うと、セントライトは少しだけ微笑み、部屋から退出した。
その翌朝、男は静かにこの世を去った。
◇
セントライト、スピードシンボリ、ハイセイコーが携わった計画は無事成功を収めた。
レースから離れたファンは、彼女たちが育成に携わったウマ娘のおかげで、再び戻っており、レース場は賑わいを見せていた。
ウマ娘達も厳しい現実に挫ける者もいる中で、必死に栄光を掴もうと食らいついている。
そんな中でも、彼女たちを献身的に支えているトレーナーが傍らにいる。
遠くで、ファンファーレが鳴り、歓声が湧く。
セントライトはレース場を眺めながら昔の自分と、トレーナー、そしてサブトレの姿を思い起こしていた。
なんとなく考えながら作ったので、ストーリーに齟齬があるかもしれないですが、許してクレメンス。
pixivにも上げますが、書いてて思ったのが、これウマ娘関係あるかな?(;´Д`)