「おまたせしました、エイミ」
ヒマリの私室に入って、部長の姿を視界に捉える。
その瞬間、身体の真ん中のあたりからぶわっと熱がのぼってくるのが分かった。
バクバクと心臓が早鐘のように鳴り、鼓動が早くなっていく。
暑い。それに顔が熱い。
彼女の言葉に返答しなければならないのに、私の喉は一向に言葉を紡いでくれない。
(顔あっつい……。 私、今まで部長とどう話してたんだっけ……?)
部長の姿を視界に捉えただけでこれだった。今の今までずっと見てきたのに、まるで違うように見える。
声を聞いただけで胸の奥がキュンキュンと音を立てて苦しくなる。
顔を見ると頬が熱くなっていくのが分かって、思わず顔を背けてしまう。
恋は盲目って先程の記事には書いてあったけど、本当にそうなんだなと納得してしまった。
「えぇと、エイミ……?」
「―――あ、ごめん。なに? 部長」
「その、大丈夫ですか? なにやら上の空だったようですが……」
「ううん、なんでもないよ」
部長に問われて、慌てて答える。
(……平常心、平常心。部長に変に思われないようにしなきゃ)
あなたのことを好きになってしまった、と真正面から言うわけにはいかない。
いずれ何らかの形で伝えることにはなるかもしれないが、明らかに今はそのタイミングではないはずだ。
ちらりと室内を見る。先程一緒に部屋に入っていったはずのリオ会長の姿が見当たらなかった。
「リオ会長は?」
「用事が終わった瞬間、すぐに帰っていきましたよ。……今更あの女と世間話をしたいわけでもありませんが、それでもエイミに別れの挨拶くらいあっても良かったと思うのですけれどね」
「私は別に気にしないけど。前から会長はそんな感じだったし」
会長といわゆる世間話をした経験は皆無といっていい。
出会ってから今の今まで、彼女との会話は全て業務的な連絡のみ。
それが別に悪いことだとは思わない。むしろ端的かつ簡潔なやり取りで効率の良いやり方だと思う。
私がそれほど社交的な性格をしていないのも相まって、雑談をさほど好まないのもあるかもしれない。
会長とはこれまで良好な関係でいられた。その理由の一つがそれだったのだろう。
「まぁ、あの女のことはさておき……。エイミ、重要なお話があります」
「ん……」
その言葉を認識した瞬間、なんだか嫌な予感がした。
部長が仰々しく大切な話をすると切り出した時、今までのパターンから推測するとあまり良い話ではない可能性が高い。
前の部室を引き払って、このセーフハウスに拠点を移設した時もそうだった。
あの時も部長は申し訳無さそうな顔を浮かべて、私と共にこのセーフハウスに移動してほしいとお願いしてきた。
私は別に全く嫌でもなんでも無かったのだが、寮生活から引き離され、やや不便とも言えるこの場所に移り住むことを部長は申し訳なく思っていたようだ。
つまり、今回もそれに相応する"よくない話"が待ち構えているかもしれない。
私は内心で身構える。
「その……。一時的に入院することになりました。リオと相談して」
「―――えっ?」
入院。そのワードを聞いた瞬間、ぞくりと背中のほうに悪寒が走る。
決して前向きなニュアンスの言葉ではない。むしろネガティブな想像をさせてしまう単語だ。
私は内心の動揺と不安を隠しつつ、直近であった出来事を思い出す。
「もしかして、最近の風邪が?」
「えぇ、まぁ。関係しているでしょうね」
「そっか……」
ここ数日の部長はどう見ても具合が悪そうだった。
昨日は貧血、今日は熱を出し、時折だけれど咳もしていた。
ただの風邪ではないかもしれないな、とは薄々感じていたけれど、それほど良くないのだろうか?
「最近の部長、忙しかったから。身体がついていかなかったのかも」
「そうですね……。エイミには心配を掛けてしまいましたし、申し訳なく思っています」
「私は……。ううん、なんでもない。それで、いつから入院するの?」
「明日からです。午前中のうちに迎えを呼びますので、それに乗って行こうかと」
「そっか。じゃあ入院に必要になりそうなもの準備しておくね」
「ありがとうございます。エイミ」
ぺこりと頭を下げる部長。
先ほどまではすごい剣幕で会長のことを罵っていたが、今は正反対。しおらしく佇んでいる。
やはり相当弱っていたのだろう。体調の悪化が隠しきれていない。
「まぁ、入院になっちゃったのは残念だけど。これを機に少し休めるといいね」
「……そう、ですね」
歯切れの悪い語尾で、部長がそう言った。
その煮えきらない口調に違和感を覚える。
「……もしかして、あんまり良くない感じなの?」
「いえ、そういうわけではないのですよ。ただ、気乗りしないのは確かです」
「……?」
なんだろう、なんだか部長の様子がおかしい。
確かに入院というのは良くないイベントだ。彼女の病弱な身体に何らかの不都合があって、それを治療する為に入院するのだから。
だが部長の言葉に何か引っかかるものを感じる。
なぜだろう? 治療するために行くのだ。具合が悪い状態から抜け出せるのであれば、彼女にとってはむしろ良いことのはず。
「ひとまず、特異現象捜査部の活動、デカグラマトンの預言者の追跡は一時的に中止にします。エイミは自宅待機……というより、自由時間になりますね」
「了解。部長が戻ってくるまでになにかしておくべきことはある?」
いくら自由時間だとしても、最低限やるべきことくらいはあるだろうと思っての質問だった。
それこそ、入院中のセーフハウスの管理だとか、資料の整理だとかは私一人でも出来ることだから。
私はその程度のニュアンスで問いかけたことだったが、部長の困ったような顔を見て困惑する。
「えぇと……いつ戻ってこれるかが不明なので、特にエイミにお願いしたいことはないかもしれません」
「―――――え、待って。いつ帰ってこれるか分からないってどういうこと?」
スルーしがたい言葉が彼女の口から発せられたのを聞いて、思わず聞き返す。
「その、向こうで色々と検査をすることになっているんです。検査日程は向こうに着かないと分かりませんので、どれくらいで帰宅できるかも現時点だと不明なのです」
「……ねぇ、部長。誤魔化さないでほしいんだけど……。そんなに"悪い"の?」
複数の検査が必要になる。つまり簡単な風邪ではない可能性が高いということ。
それに気づいた瞬間、私は眼の前にいる大切な先輩が、私が思っている以上に良くない状態に置かれているのではないかとう疑念を抱いた。
元から病弱、加えて最近は活動が忙しく満足に休めない日々が続いた。
それで身体を壊し、検査が必要になるほどの重い病気を抱えてしまったのではないかという、悪い想像を。
「……ごめんなさい。エイミに心配掛けるつもりは無かったんです」
彼女がそう俯いた瞬間、私はぐらりと足元から崩れそうになる。
それは肯定しているのと同義だった。何か"良くない"病気である可能性。それを彼女は暗に肯定している。
どうして言ってくれなかったの、と思わず口から出掛かった。慌ててそれを飲み込む。
ここで部長を問い詰めても仕方がない。ただでさえ弱っている彼女に、余計に負担を与えることになる。
せめて、私だけは彼女の身体を案じてやらなければならない。それが私に課せられた義務。
そして、"好き"になってしまった人への最大限の心遣いだから。
「―――わかった。今は何も聞かない。……必要なものがあったら言って。すぐ買ってくる。後からなにか欲しくなったらモモトークに連絡して。お見舞いの時に持っていくよ」
「……ありがとうございます、エイミ」
そう言って部長は車椅子からベッドに腰掛け直した。
彼女と目が合う。水晶の如く透き通った瞳が、私の眼と交差する。
「エイミ」
彼女の声。いつもよりもか細いそれが、私の鼓膜から脳へと伝達されていく。
「本当にありがとう。あなたに会えて良かった」
(なんで、そんな今生の別れみたいなこと)
それがどういう意味だったのかは、分からない。
でもきっとそれが重要な意味を持っていたことは、なんとなく分かった。
結局その日はそれを最後に、彼女との会話は終わった。
明日に備えて早めに眠ると、部長がそう言ったから。
だが私は。この日この時に部長がどんな気持ちでこの言葉を言ったのかを。
想像しうる最悪の形で、知ってしまうことになるのだった―――。