ミレニアムサイエンススクール。ヴェリタスの部室。
カタカタと小気味よいタイピング音が室内に響き渡る。
各務チヒロは多忙を極めていた。
ミレニアムのホワイトハッカー集団「ヴェリタス」の副部長を務める彼女は、ミレニアムの内外を問わず多くのセキュリティシステムの運用に携わっている。
それどころかヴァルキューレなどを含むキヴォトスの組織・企業へのセキュリティアドバイザーも務めており、インドア系が多く占めるハッカー集団という印象に対して、彼女だけは外回りなどの仕事が多くの割合を占めている。
今日も朝からヴァルキューレ各施設の定期点検、および来期システム更新に伴うヴァルキューレとの会議があったばかりだ。
頭の硬い、言ってしまえばセキュリティ意識の低いヴァルキューレの高官たちにシステム更新の重要性を説くのには骨が折れた。
どうやら一から懇切丁寧に説明してやらないと理解が及ばないらしい。くそったれ。
「それでも去年と比べたら、大分マシになったけど……」
ふと、去年の事を思い出す。ヴァルキューレとの業務提携。セキュリティの施工管理を請け負った当時の話だ。
お役所仕事と書類仕事ばかりのヴァルキューレ警察学校は技術的刷新を好まない。当然それに投入する予算も渋る傾向にある。
これには頭を抱えた。サイバー犯罪に対する意識の低さを感じざるを得ない。
張り込みや足を使った捜査が主流。知能犯には人海戦術で対応。とにかく前時代的な組織だったのだ。
銃を伴う暴力犯罪が多いとはいえ、ミレニアム外の自治区でも既にIT化の波は留まらない。
キヴォトスの治安を守る
足に頼った捜査しか出来ないから、IT関連の企業犯罪やネットを介した犯罪に対してあまりに無力だ。
これではヴァルキューレ警察学校、そして連邦生徒会の権威が弱まるのも無理はない。
その状況に変化が見られたのは、去年からの事だ。
当時のヴェリタスの部長である"明星ヒマリ"はとある公安局員に依頼され、ヴァルキューレ警察学校のセキュリティシステム及び監視システムを大きく刷新した。
これはミレニアムで使われているセキュリティシステムの流用ではあったのだが、セキュリティシステムへの理解度が低いヴァルキューレの為に、ヒマリ自身が制作したシステムを導入。
『HSS』*1と名付けられたそれは、高度な知識と操作を必要とせず外部からの侵入を防ぐ防壁とメンテナンス性を兼ね備えた最新のセキュリティモデルとして、ヴァルキューレ以外にも納品されている。
強固な防御性能を誇るそれは、ヴァルキューレのセキュリティレベルを二世代、いや三世代は引き上げたとすら言われている。
これまではザルとすら言われていたヴァルキューレの電子系システムは、ミレニアムにも匹敵するものへと変貌を遂げた。
結果、ヴァルキューレのサイバー犯罪に対する検挙率も一気に向上。
今では何の準備もなしにヴァルキューレに電子戦を仕掛ける者は、まず存在しないと言ってもいい。
これは偏にただ一人の天才が組織を、ひいてはキヴォトスという"国家の在り方"すら変えてしまえるということを示していた。
そう、明星ヒマリは"天才"だ。私とは比べ物にならないほどの実力を持っている。
私もそれなりにハッキングの技術とセキュリティの知識はあるほうだと自負している。
そうでもなければ最先端の技術を扱うミレニアムにおいて
コタマもハレもマキも、一般的なハッカーより遥かに優秀な能力を持っている。
彼女たち一人でもいれば、並の企業のサーバーであれば数秒でこじ開けられるだろう。
私含めて、ヴェリタスのメンバーは全員が上澄み中の上澄み。ミレニアムの電子戦のエキスパートである事は間違いない。
しかし、それでも明星ヒマリには敵わない。私達全員が束になっても、だ。
あまりに隔絶した実力差。故に私は自己評価を"そこそこ優秀なハッカー"に止めざるをえない。
明星ヒマリ。彼女に初めて出会ったのは一年の頃だ。
当時からあの長ったらしいあいさつは健在で、何だか鼻につく女だなと訝しく感じたのを覚えている。
あの頃の私は言ってしまえば天狗になっていた。
一年生の時点で既にハッカーとしての能力は群を抜いていたからだ。
ミレニアムの最先端のセキュリティを突破することなど、私にとって自分の家の庭を歩くのと変わらない。
セミナーを含むすべてのサーバーは入りたい放題、覗きたい放題だった。
それを悪用したりはしなかったが、張り合いの無さを感じずにはいられない。
だがある時、不自然に"硬い"サーバーを発見した。
これまでのミレニアムのセキュリティシステムのどれとも違う。明らかに別の誰かが作り上げたシステム。
特に防御性能は尋常ではなく、一つの論理構成を突破するだけで数日は掛かるという異常な防御力。
並の防御システムであればそれこそ一秒も掛からない。このシステムは一体誰が、どんな目的で作り上げたのか。
興味をそそられた私はそのサーバーに幾度となくハッキングを仕掛けたが、その多くは尽く防がれてしまう。
その頃には私は半ばヤケになっていて、何日も徹夜しては気絶するように眠り、起きてはまた気絶するまで作業するという不健康極まりない生活を送っていた。
最終的に一カ月掛けて、その防御網を突破した。ついにシステムの最深部へと侵入できたのだ。
「―――! や、やった……!」
初めて突破した時、私は達成感を感じていた。
さながら難しいテストで満点を取った時のように、疲労感とともに充実感を感じていたのである。
そして私は得られた「回答」を見る。
それはたった数行の文字列でしかなく、はたから見れば何の役にも立たない、ただのサーバーアドレスだった。
だが私はこれが相手から送られてきた「メッセージ」だと悟った。
それはミレニアムのとある部活のサーバーだった。
既に使用されなくなって久しい、廃部同然の部室にあるサーバー。
私は興味を持った。これまでどんなセキュリティも突破していた私が手こずる相手という存在に。
そして何を隠すでもなく、ただ「ここに来い」と告げるかのようなセンスに。
会ってみたい。そう思った私の行動は迅速だった。
その日のうちにサーバールームのある場所へと向かった。
「あら……。ここに来るという事は……あなたがそうなのですね?」
そこは薄暗く、まだ配線がそこらに露出したままの、ひどく不格好な作りかけのサーバールーム。
カーテンは閉め切られ、電気もついていない。ただ一つのモニターだけが静かに光を放っていた。
青白い液晶の明かりが、周囲の空気をぼんやりと浮かび上がらせる。
車椅子に座りたたずむ彼女は、まさにこの場所の"支配者"だった。
その白い肌は青白い光に照らされて、儚く、脆い、神秘的な印象を抱かせた。
「ふふ、素敵でしょう? こんなにも未完成な場所だというのに。この私がいるだけで、ここはまるで神殿のように静謐な佇まいになるのですから」
「……何言ってるの?」
「あら? お分かりになりませんか?」
彼女はくるりと車椅子を回転させ、こちらに向き直った。
「きっと私に"挑戦"してくださる方がいると思いまして。ここでずっと待っていたのですよ。
"各務チヒロ"さん」
「―――。まぁ、そうだね」
名前を言われたことに驚きはない。これほどのセキュリティシステムを構築できるのだ。
ハッキングを駆使して私の名前をミレニアムの名簿から探し出すことなど造作もないだろう。
「自己紹介をしましょうか。私こそミレニアムに咲く一輪の花。"天才"にして"至高"。"叡智の代名詞"にして"万年雪の結晶"。超天才清楚系病弱美少女ハッカー"明星ヒマリ"です♪」
「は……? いや、前置きが長過ぎ。なんて?」
「ですから、澄み切った純正のミネラルウォーターの如く透き通る、『清楚』『病弱』『美少女』――三拍子揃ったミレニアムが誇る天才。それが私、明星ヒマリです♪」
「いや、長い長い。それにさっきと言ってること違うじゃない」
「ふむ、お気に召しませんか? では次は……」
「いや、分かった。分かったから。明星ヒマリね」
これ以上問答を続けると頭がおかしくなりそうだったので、無理やり打ち切る。
思っていた人物像とは違った。堅実なシステム構築から生真面目なタイプを想像していたのだが、どうにもお喋りが好きな奔放な性格をしているように思える。
「それで、いかがでしたか? この"超天才清楚系病弱美少女ハッカー"の組み上げた数々の防壁はお楽しみいただけたでしょうか?」
「まぁ、うん。そうだね。一ヶ月掛かっちゃったけど」
間違いなく今までで最高峰のセキュリティだったと断言できる。
これが突破できる人間は恐らく居ないだろう。
居たとしても私のように多大な労力と時間を掛けなければ不可能に思えた。
そして、同時にこうも考える。
「ただ勉強になったのも確か。攻性防壁を囮にして時間を稼ぐやり方とか、発想がすごいね」
「ふふ、肉を切らせて骨を断つ、という言葉がありますから。ターゲットを分散させてしまえば、投入できるリソースが有限である以上いずれ限界が来る、という理論です」
「それって貴女……。ヒマリが考えたコード?」
「えぇ、もちろん。仮組みの状態でしたが上手く動作してくれたようです。あまり時間が無かったもので、
「……デバッグなしであの完成度なのね」
私は驚愕した。あのセキュリティプログラムに脆弱性らしい脆弱性が見当たらなかったからだ。
当たり前だがシステムという物には多かれ少なかれ穴がある。
それを脆弱性と呼び、多くのハッカーはそのシステム的な穴を狙って攻撃することが多い。
だがあのプログラムにそれはない。完全な防御性と自己修復機能を持つ、強固な防壁。
真っ当な手段で突破できる代物ではなかった。あれを馬鹿正直に一つ一つ突破するくらいなら、サーバーを物理的に破壊するほうが遥かに楽なほどに。
結局、私の取った手段はそれに近しいものだったと言えるだろう。
全てのハッキング用のデータリソースを一点集中。対象の処理能力の限界を超えて攻撃することで侵入する作戦で突破した。
例えるならドリルで無理やり扉をこじ開けるようなものだ。決してスマートなやり方とは言えない。
「実は私も驚いているのです。この天才である私が作り上げた防壁をまさか一ヶ月足らずで突破する者が現れるなんて。……ふふ、褒めているのですよ?」
「そう。……ありがとね」
「ですが、私も負けっぱなしは癪ですから。……ちょっとだけ、面白いものを見せてあげましょうか?」
「……? 一体、何を―――。」
その瞬間、彼女の車椅子から複数のホログラム・ウィンドウが立ち上がる。
慣れた手つきでそれを操作すると、この部屋に唯一存在する大きなモニターが起動した。
「これは先程突破された防壁のプロトタイプです。あなたが突破したプログラムの原点と言えるものですね」
「ん……。確かに。このコードは見覚えがあるね」
私が突破したものより遥かに劣る、原始的なコードを持つ防壁だ。
ミレニアムのセキュリティシステムに近いそれは、知識のある者であれば何なく突破できてしまうだろう。
「えぇ。ではそこの端末にアクセスして見て下さい。ウイルスなどは仕込んでありませんから、ご安心を」
「ん、それじゃあ……。はい、これでいい?」
「これでチヒロさんは防壁に対して侵入する立場になりましたね。私はこのプロトタイプのシステムを用いて対象のファイルを守らなければなりません」
彼女の言いたいことを理解した。いわばこれは模擬戦だ。
電子戦における、リアルタイムでのハッキング勝負。私はもう卒業したが、匿名掲示板サイトなどでは時々行われているらしい。
つまり彼女は防壁を突破された事への意趣返しとして、私に勝負を仕掛けてきたということだ。
―――面白い、受けて立とう。
「もう始めてもいいの? ……言っちゃ悪いけど、この程度の防壁じゃ1秒も持たないと思うけど」
「えぇ、そうでしょうね。では……例えばここを……こうしてみたら?」
「対象を迂回させる。標的を絞らせないセオリー通りのやり方だね」
「はい。このままでは容易に特定されてしまいます。ですが……こうして、こうすれば」
彼女のタイピングごとに複数のプログラムが作成されていく。
一つひとつはまだ対処できるレベルのものだ。だがそれらが相乗効果を成して着々と、かつ着実にセキュリティのレベルが上がっていく。
「ふふ、見ているだけで良いのですか?」
「……なら、こっちからも手を出させてもらうよ」
私も端末にコードを入力していき、相手側の防壁を突破するための攻撃を開始する。
これは時間との勝負だ。もたついたら負ける。
「ふふ、流石に対処が早いですね。慣れている方の手つきです」
「そっちもね……!」
だんだんと攻撃が通りにくくなる感覚。数秒ごとに倍に膨れ上がっていく防壁。このヒマリという女が作るプログラムはとにかく"硬い"。
異常な防御性能だ。ただ一つのシステムを破壊するのに、こちらは二手、三手と手数を使わなければならない。
そうこうしているうちに向こう側は更に新たな防御プログラムを構築し、どんどん差がつけられていく。
このままでは負ける。そう思った私はつい先日も利用した"必殺技"を使った。
「二番煎じで申し訳ないけど、これで行かせてもらうよ」
「全リソースを集中投入。防壁を一つ焼き払ってそのまま素早く目的のファイルを奪い去る。一撃離脱戦法ですね。先日、私の防壁はこの方法で破られてしまいました。……ですが」
そして彼女はくすりと笑って。
その瞬間―――。私の眼の前で"奇跡"が起こった。
「―――はぁっ!?」
まるで見たことのないようなコードが超高速で描かれていく。
一つのプログラムを順番に生成しているのではない。まるで積み木を"上から組み立てる"かの如き所業。全く違う視点から防壁が構築されていく。
そして恐ろしいことに、これらはリアルタイムで"進化"していた。
予め作られていたプログラムではない。私の攻撃の一つ一つに反応して"今作られた"プログラムであることが分かった。
もはや人間業ではない。いや、神業と呼ぶ事すら生ぬるい。
こちらを"
一人の人間が4つのタスクを並列処理している。それもコンピューター以上の速さと精確さで。
眼の前で魔法が起きている。そう表現するほかにありえない。
私の渾身の一撃は防がれ、逆に叩きのめされる。更に防壁は回復され、より強固なものへと変貌した。
―――完敗だった。いや、勝負にすらなっていない。
はじめからこの処理能力を使われていたら、万に一つも私に勝ち目はなかっただろう。
絶望的な差。大人と子供以上の歴然とした実力差が、そこにはあった。
これが"天才"の力か。
「―――完敗。私の負けだね」
「えぇ、私の勝ちです」
「……すごいね。その、正直結構ショック受けてる。まさかここまで差があるなんて」
「ふふ、気にしなくて良いのですよ? なにせ私はいずれはミレニアムにおける"全知"の称号を得るであろう、百年に一度……いえ、千年に一度の才女ですから。ことハッキングにおいて、私に勝てる者はこの世に存在しないのです」
「確かに、あれだけの事ができるなら、比喩でなく何でも出来るだろうね」
彼女の力量であれば、ミレニアムはおろか、キヴォトス全てのサーバーに侵入できるだろう。
ありとあらゆる資料や個人情報にアクセス出来るだろうし、その気になれば銀行のシステムに侵入し金を巻き上げるようなことすら容易に出来てしまいそうだ。
「はい。ですが私はそういった事は望んでいません。"人は自由であるべきですが、自由と無秩序を混同してはならない"。ハッカーはそういう心構えを持つべきだと。私はそう思うのです」
「…………!!」
その言葉に、私は強い感銘を受けた。
それは自分本位になりがちなハッカー達が、常に心がけていなければならない"信条"であり、私が常に漠然と抱いていた気持ちを完璧に言語化したものだったからだ。
「チヒロさん。あなたもこの信条に納得していただけるのではないかと、私はそう思うのですよ」
「それは……どうしてそう思うの?」
「だって貴女はこの部屋に来てくれましたから。あの時、サーバーを乗っ取ってこちらの情報を探ることもできたでしょう? それどころか、逆探知を掛けて、私を攻撃する事も出来ました。……ですが、それをしなかった。ハッカーとして高い倫理感を有している証拠です」
それに、とヒマリは付け加える。
「私の作ったプログラムを突破できたのは、世界でたった二人しかいないのですよ? ふふ、誇らしいと思いませんか?」
「……本当に自画自賛がすごいわね、あなた」
「褒め言葉と受け取っておきますね♪ ですが、私も未だ発展途上なのです。そして、勿論あなたも。……まだまだ成長できるのですよ。それって素晴らしい事だと思いませんか?」
「………そう、かもね」
確かにそうかもしれない。
私は天狗になっていたんだ。もっと上を目指せるのに、現状に満足していた節は否めない。
目の前の"天才"は思い出させてくれた。私の"ハッカーとしての矜持"を。
「チヒロさん。私はあなたからの挑戦であれば何度でも受けます。その度に勝ち続け、私が天才である証明をし続けてあげましょう」
「ふふ、言ってくれるね。私が勝ったらどうするつもり?」
「そうですね……それなら」
ヒマリはふと上を向き、指を口に当てて考える。
「チヒロさん……。いえ、"チーちゃん"が勝ったら、私の"秘密"を一つだけ教えて差し上げましょう♪」
「…………ぷっ。あはは……! なにそれ。報酬になってないんだけど?」
「むっ。私の秘密を知れる人なんて、この世に一人か二人くらいしか居ないのですよ? とても貴重な情報だとは思いませんか?」
「はいはい。じゃあ勝った時の楽しみにしとく」
そう言って私達はお互いに笑みを浮かべた。
一ヶ月の攻防を経て、私達の間には奇妙な友情が芽生えていた。
そしてこの日に訪れた出会いこそ。
後に
「ん……もうこんな時間?」
ちらりと時計に目をやると、あれから数時間も経っていた。
ヴァルキューレへの提出期限が迫っているとはいえ、ちょっと根を詰めすぎたか。
流石に体に気だるさを感じる。少し休んだほうがいいかもしれない。
椅子から立ち上がる。ぐるぐると首をまわしてストレッチ。
多少は目の疲れがマシになった気がした。
「なんか軽食でも買ってこようかな……」
ミレニアムの購買や食堂はそこまで混み合うことがない。
各々が勝手に必修科目の授業を受けたり、または研究室に籠もっていることが多いこの学園では、特定の時間帯に購買部へ生徒が殺到することがほとんどないからだ。
コタマから聞いた話だとゲヘナでは昼食時になると食堂に数百人単位で殺到するらしい。
あちらもキヴォトス屈指のマンモス校とはいえ、よくそれだけの人数を捌けるものだと感心する。
きっと給食部も百人単位で存在するに違いない。
同じ巨大な規模を誇る学園でも随分と違うんだなと思った。
ヴェリタスの部室から出て、何を買おうかと携帯端末で今日のメニューを見ていたとき。
突如として端末が震えだした。モモトークの着信とは異なり、断続的な振動。
「通話? 珍しい……誰だろう?」
私の個人用携帯に電話を掛けてくる人間はかなり限られる。
そもそも、私自身そこまで友人が多い方じゃない。その友人達とのやり取りも携帯を利用せず、専らヴェリタス部室にてPCメールでやり取りすることの方が多いからだ。
それこそヴェリタスの部員くらいしか、私の携帯番号を知っている人は居ないはず。
故にその着信相手の名前を見て驚いた。通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
「もしもし。どうしたの、ヒマリ?」
『…! チーちゃん! 良かった……! ミレニアムに居るのですね!?』
一言目の時点でヒマリの様子がおかしいことに気づいた。
ヒマリは通話先であろうと何だろうと、ほぼ間違いなくあの長ったらしい自画自賛の前口上を欠かさない。
自身が風邪でダウンしているときですら忘れないのだ。それがないということは、ヒマリが今どれだけ憔悴しているかが分かる。
「部室の前だけど……。どうしたの、ヒマリ。緊急事態?」
『チーちゃん……エイミが、エイミが……!』
「落ち着いて、ヒマリ。声が近くてノイズ入ってる」
電話口にあまりにも近すぎると、ブレスノイズなどが発生する。
最近の携帯は優秀なので、自動でノイズキャンセラーなどが搭載されているはず。
よほど電話口に接近したりしない限り、大丈夫なはずなのだが……。
『……ッ! ごめんなさい、少々落ち着きます』
通話先から深呼吸をする音が聞こえてくる。
ここまで狼狽しているヒマリは見たことがなかった。
常に余裕を保ち、ユーモアを欠かさない彼女には全く似つかわしくない、あまりにも鬼気迫った様子。
私はそれがどういう意味を持つのかを察し、緊急事態に備えるべく身構える。
「それで、どうしたの?」
『エイミが……。エイミが血だらけになって、倒れて……!』
エイミ、というのは確か特異現象捜査部の部員の名前だ。
ヒマリがヴェリタスから異動してからは、彼女の実質的な部下として働いていると聞く。
実は直接会ったことはないのだが、しばしばヒマリとのメッセージのやり取りの中で出てきた名前だったので覚えていた。
「―――分かった。まず何が起きたのか、ヒマリが知ってることを教えて」
努めて冷静に声を掛ける。今のヒマリは恐らく正常な状態ではない。
軽い錯乱状態に陥っている。であれば私が彼女の代わりにしっかりして状況の把握に務めなければならない。
『その、エイミと通話をしていたんです。途中から映像通話に切り替えたら、エイミが血まみれになっていて、それで……倒れて』
「……通話中に様子がおかしいところはあった?」
『それが、何も……。普段通りだったんです。声色にも何も変化がなく』
「血まみれってとこが気になったけど……出血が激しくて倒れたってこと?」
激しく出血している人間が、普段通りに通話できるだろうか?
いや、仮に出血していることを隠していて、違和感を覚えさせることなくそれを出来たとしても……映像通話にすれば出血していることがバレてしまうのだから、全く意味がない。
『今も映像通話が繋がっているんです。でも応答がなくて……!』
「ヒマリ、映像をヴェリタスのほうに回せる?」
『分かりました。すぐに……!』
踵を返し、ヴェリタスの部室に戻る。
ドカリと勢いよく椅子に座り込み、PCを立ち上げる。
「ちなみにだけど、その端末の位置情報とか分かったりは……しないか」
『お察しの通りです。あまり他に聞かれてはならない話をしていたので、エイミには通信傍受対策をお願いしたんです。なので私にも場所が分からず……並行してハッキングを試みているのですが』
ヒマリは一度そこで言葉を切り上げ、言いづらそうに告げる。
『その、お恥ずかしいことなのですが……私自身が用意した"
「……それは最悪だね。まともにやったら一ヶ月はかかる。セキュリティ意識の高さが仇になるなんて」
明星ヒマリが作り上げる防壁の性能は誰よりも知っている。
常人であれば突破することは不可能。強力なスーパーコンピューターなどの演算リソースを借りて挑まないと、蹴破るどころかこちらにもダメージが及びかねない、強固な防壁。
「ちなみに管理者コードとかは……塞いでるに決まってるか。セキュリティホールだもんね」
『ごめんなさい、エイミにも最も対策しなければならない部分として教えてありますので……』
恐らくヒマリの部下ならば、ヴェリタスほどではないにせよある程度の電子戦の心得はあるはず。
ならば通信傍受への対策の為、位置情報の偽装や盗聴対策まで施していてもおかしくはない。
ヒマリが手を加えた防壁に、彼女の部下が施した数々の対策。
これだけの難問をすぐに解決するのは不可能に近い。
『ただ、ミレニアムサイエンススクールの何処かには居るはずなんです。エイミがそう言っていたので』
「なるほどね。……とりあえず、この映像の場所を特定しなきゃいけないんだけど……。この映像だと分かんないな」
恐らく地面に落ちたスマートフォンからの映像だ。天井だけが映されていて場所の特定に繋がりそうな情報はあまりにも少ない。
とはいえこの少ない情報の中からも見て取れることはある。
「どこかの部室っぽいけど……。私は見たことない」
『おそらく人の往来が少ない場所だと思います。誰も居ない場所に移動するとモモトークにて連絡を受けましたから』
「なるほどね」
とはいえそれだけでは位置を絞り込むには範囲が広すぎる。
いくら在校生の多いミレニアムとはいえ、人気の無い場所なんてごまんとある。
部室や研究室は数百を超え、倉庫なども含めればもっとだ。
虱潰しに探すには多すぎる。故に別の手段を考える必要があった。
「この子の端末の位置を割り出すのは難しい……。ちょっと待ってて。今ミレニアム学内の監視カメラにアクセスするから」
作戦を変更する。端末の位置を特定するのではなく、エイミという子がその場所に移動するまでの軌跡を探す。
監視カメラには多数の死角があり、もちろんカメラのない部屋も多数ある。
それでも今すぐにヒマリの作り上げた防壁を突破し、座標を割り出すよりも数百倍可能性があるはず。
「ヒマリ、そのエイミって子が最初にメッセージしてきたのってどこかわかる?」
『恐らくゲーム開発部だと思います。モモトークによると、ですが』
「分かった。探してみる」
学園内の監視システムにアクセスし、ログをたどる。
恐らくそれほど前の話ではないはず。私は複数のモニターにゲーム開発部前の廊下の画像を表示し、目を皿にして痕跡を探す。
意外というべきか、それはあっさりと見つかった。
「20分前にゲーム開発部の扉から出ていってる。そこからは早足で移動。……あぁ、確かに血がすごいことになってる。制服にべったりと」
『……! まさか、ゲーム開発部の中で"何か"があったのでは……!?』
「ごめん、そこまではまだ」
確かに、ヒマリが慌てるのも無理はないかもしれない。あまり血を見慣れていない人間が見たら、気分を悪くする可能性すらある。
ぱっと見た限りでは外傷は見られない。しかし監視カメラの画質は当然あまり良いものではない。実際に見てみないと、どれほどの負傷をしているのか判断がつかなかった。
もう一度、カメラの映像を確認する。
上半身、特に胸のあたりは血の跡だらけ。白いスカート部分にまで血の跡が染み付いていて、かなりスプラッタな光景だ。
カメラ越しに分かるのだから、実際に見たらもっと強烈な見た目のはず。
事実、監視カメラの映像を確認すると、すれ違う生徒たちが何事かとぎょっとしているのが分かる。
「とにかく、この子が部室を出てからの動きを追うね」
複数のカメラが姿を捉えている。死角を通っていないあたり、監視カメラのことはそこまで気にしていないのかもしれない。
すたすたと速歩きで移動し続けて……とある部室の扉の前で立ち止まり、中へと入っていった。
「……! 見つけた。3F。部室棟。部室管理番号は……[301-2C]。所属は……カバディ部? そんな部活あったっけ……?」
しかし今はそんなことを気にしている場合ではない。
場所を特定した。ここから移動していないということは、この部室から通話をかけたのだろう。
「ヒマリ、いまからこの部室に向かうから、ヒマリは救急に連絡してくれる? 一応、抗出血剤とかが必要になるかもしれない」
『わかりました。すぐに連絡します。……チーちゃん、エイミをお願いします。私も急いでミレニアムに向かいますので、どうか……』
「了解。任せて」
通話を切る。PCの電源を落とすこともしないまま、部室の外へと駆け出した。
廊下に靴音を響かせながら、ひたすらに走る。
何度か他の生徒たちにぶつかりそうになる度に、"ごめん"とすれ違いざまに謝りながら走り続けた。
階段を上がる。この学園はとにかく広い。
普段から外回りである程度鍛えられているとはいえ、性根がインドア派である私には少々きつい運動量だ。
荒くなる呼吸と格闘しながら、なんとか目的の部室の前へとたどり着いた。
「はぁ、はぁ……。ここね」
扉を開けようとするが、開かない。中から鍵が掛けられている。
内部を確認しようとするが、扉にはカーテンが掛けられていて、様子を窺うこともできない。
「……ふぅ、緊急事態だからしょうがない」
肩に掛けていた
鍵の掛かっているであろう場所に向けて射撃した。
―――ダン! ダン!
あっさりとロックが解除される。
ミレニアムのセキュリティが心配になってくるが、今はそれどころじゃない。
勢いよくドアを開き、内へと踏み入った。
「この子がエイミね」
部屋の隅。壁によりかかるような形で倒れている。
ぐったりとして俯いている為、表情などは分からない。
「私の声、聞こえる?」
ぺしぺしと頬を軽く叩き、覚醒を促す。
うぅ、と軽いうめき声が聞こえてきた。
良かった。反応が返ってくるならば、とりあえず最悪の状況は避けられたということ。
「……うわ、すごい熱……!? 熱いなんてレベルじゃない……!」
額に触れると、触れた手がやけどするのではないかと思うほど熱かった。
人体の温度とはとても思えない。少なくとも50℃は超えているように思える。
良くない状態だ。ここまでの異常発熱を続けていたら、人体は生命を維持することが出来ない。
「とにかく熱を冷まさないと……!」
この室内の状態も悪い。クーラーがなく、窓も締め切られて、熱気が籠もった室内は何もしなくても汗が吹き出るほどに暑い。
だというのに、彼女の体からは汗が出ていない。
その時点で私はある可能性を考えた。
「もしかして熱中症? ……ここまで体から熱が出ることがあるなんて聞いたことないけど」
だがここで診察を行っている場合ではない。すぐに体温を冷やさなくては、命に関わる。
ちらりと地面を見ると、ヒマリが言っていたであろう、映像通話中のスマートフォンが目に入った。
私はそれを取り上げ、画面をこちらに向ける。
「ヒマリ! 見つけた。すぐに救急にここに来るように伝えて。担架が必要になる。用意させて」
『っ! はい、すぐに伝えます。…………2分以内にそちらに到着するようです!』
やがて、救急の生徒たちが到着した。
エイミは担架に乗せられ、保健室へと運ばれていった。