30.『あなたの体温を教えて』(1)
あのとき、私は夢を見ておりました。
どこか遠く、世界と切り離された静かな場所で、私はただ、ゆらゆらと――まるで揺りかごにでも包まれているような、そんな浮遊感に身を委ねていたのです。
温かくて、柔らかくて、何もかもがぼんやりとしていました。
境界が曖昧で、自分が自分であることすら、どこか他人事のように感じられて。
……そうですね、まるで水の中に沈みながら、眠っているような感覚、とでも申しましょうか。
音も、光も、遠く遠くに滲んでいて……。
不安なのか、安心しているのか、それすら判別のつかないまま、ただ私は、静かに流されていたのだと思います。
目覚めることすら惜しいと思えるほど、穏やかで、どこか懐かしい場所でした。
やがて、その静けさの中に、誰かの声が落ちて来ます。
それはまるで、水面にそっと差し込む陽の光のように柔らかく、どこか切ない響きを伴って――
『部長』
「……エイミ?」
やがて、その姿が朧げに輪郭を持ち始めました。
淡い桃色の髪。微笑のような、祈りのような表情。その人は“エイミ”と名乗ったように思います――いえ、もしかしたら、ずっと前からそう呼んでいたのかもしれませんね。
彼女は、そっと私の頬に触れ、囁くように続けました。
『まだ眠いの?』
「―――。」
それはまるで、眠りの底に落ちかけた意識を、そっと手繰り寄せるための言葉のように感じられました。
私は答えようとしましたが、声は喉の奥に沈んだままで――ただ、心の奥に、彼女の問いかけだけが残り続けておりました。
『まだ寝ててもいいよ。……色々あって、疲れちゃったんだよね? 部長は』
エイミは、私の心の声を聞いたように、そっと微笑みながらそう仰いました。
はい。できることなら、あともう少しだけ、この揺らぎの中に身を委ねていたいのです。
この優しい波に身をまかせ、すべてを忘れてしまえるのなら、それもきっと、幸せなことのように思えてしまって――
「―――でも、私には"責任"があります。……あの子達を守らないと。だから……」
『そっか。部長は偉いね』
その声は、決して急かすことも責めることもありませんでした。
ただ、私の内側に寄り添って、静かに、深く、見つめているだけで―――。
けれど、どうでしょう。
確かに私は、まだ眠っていたいと思っていたはずなのに。
エイミの言葉が、まるで心の奥の水面に石を投げ込んだかのように、小さな波紋を広げていくのがわかりました。
(いえ、本当は分かっているのです)
この場所が永遠でないこと。
いつか、まぶしい現実の光が、私をこの夢の中から引き戻してしまうこと。
『ヒマリ。もう、いいのよ。後は私に任せなさい』
「リオ………?」
その声は、静かで、凛としていて。
冷たさすら感じるほどに、整然と、どこまでも揺らがない声音でした。
蒼白い光に包まれた彼女は、何も恐れていないかのように。
私には持ち得ない"強さ"を抱いて、ただそこに立っていました。
まるで、自分の成すべきことだけを確かに見据えた者のように。
『アリスの件はあなたの手に余るわ。彼女を手に掛ける勇気が無いのでしょう?』
「……それは」
『あなたの手を汚すまでもない。これは私が抱えるべき"責任"。あなたが抱えるべき問題ではないのよ』
「……ですが、しかし」
私は問いかけました。けれどそれは声になることはなく。
胸の内に渦巻く重たい熱の塊が声帯を塞いでしまっていました。
逃げたいわけではない筈です。しかしこの身体は鉛のように重く。
全てを投げ出して、放りだしてしまいたくなる欲求に駆られます。
でも、任せてしまったら、本当にもう、何もできない気がして――
その"責任"すら放り出すような気がして――
『あなたが背負ってきたものも、痛みも、記憶も、すべて理解しているわ。
でも、それを握りしめたままでは、前にも、後にも進めないでしょう?』
「私、は…………」
どうするべきなのでしょう、という言葉は出てきません。
『ねえ部長。……部長は、どんな物語が好き?』
「……エイミ……?」
『私はね、恋愛モノが好き。……意外だった? 最近見始めたんだ、結構面白いんだよ?』
「そう、なのですか……?」
『うん。だから部長が好きな物語も教えて?』
「私が好きな……物語」
『そう。部長が決めるの。部長は、部長が"好きなもの"を選んでもいいんだよ」
私が好きなもの。私が求めてやまないもの。それは――――。
「……部長? 目が覚めた?」
「……あら、エイミ……? ここは……?」
気がつけば、私の身体は誰かの背に預けられておりました。
揺れる景色。風の音。どこか遠くに感じる足音のリズム。
……ああ、これは誰かに運ばれているのでしょう。そう、背負われて。
ぼんやりとした意識の中で、私は少しずつ現実へと引き戻されていきました。
熱い空気が頬をかすめ、遠くで私の名前を呼ぶ声があったようにも思えます。
その声は、優しく、そして強く――私の胸に深く残るものでした。
ふと、身体が上下に軽く揺れるたび、背中から伝わる体温に気づいたのです。
それはとても温かく、頼もしいものでした。
思い出すまでもありません。エイミ、ですね。
彼女の大きな背に、私はこうして守られていたのでしょう。
「部長、大丈夫? どこか痛くない?」
「今のところは大丈夫みたいです。……ところで、どうして私はエイミに背負われているのでしょう……?」
「部長、覚えてないの? ……あの爆発で吹き飛ばされて」
「……あぁ、そうでした。中々の危機でしたね」
ほんの少しだけ、視界が開けました。見上げる空はまだ淡く、陽が沈む直前の色をしておりました。
……そうです。私は怪我をして、倒れていたのです。
あの時、ほんの少し無理をしすぎたのかもしれません。
でも、こうして再び目を覚まし、彼女の背で揺られている今、私は思うのです。
「助けられたのだ」と。
彼女の息遣いが近く、足取りは確かで、私を運ぶその腕に迷いはありません。
まるで――世界で一番、私のことを気遣ってくれる人のように。
……ふふっ、少し大げさでしょうか。
けれど、今この瞬間だけは甘えてしまってもよいのでしょう。
まぶたが重く、再び意識が沈みそうになりながらも、私は小さく呟いたのでした。
「……ありがとうございます、エイミ。エイミが側に居てくれて良かった」
「……っ」
返事はありませんでしたが、背に感じるその歩みは……心なしか少しだけぐらりと揺さぶられたように思いました。
それは、夢か、現か――その境目で交わされた、静かなやり取りだったのでしょう。
「……部長、もうすぐセーフハウスだから。ちょっと姿勢辛いかもだけど我慢してね」
「はい。よろしくおねがいします、エイミ」
ようやく辿り着いたセーフハウスは、ほんのりと懐かしい香りがしました。
サーバールーム特有の、機械が排熱するときの匂い。
なぜでしょうね? ここに来ると、どうしてか仮初めの"拠点"であるにも関わらず、"我が家"に帰ってきたと思ってしまうのです。
エイミは無言のまま、私のことをそっとベッドの上に横たえてくれました。
まるで壊れ物を扱うかのように、慎重で、丁寧な手つきでした。
「……部長、
……ええ、私はもう目を覚ましておりましたが、彼女の静かな優しさを壊したくなくて、しばらく目を閉じたままでいたのです。
「ごめんなさい、起きていますよ」
「ん……。部長、ちょっと待っててね」
エイミは棚を開くと、中から箱を取り出し、こちらへと運んできました。
そっと私の袖をめくり、小さな応急処置セットを取り出します。
「……とりあえず、大きな怪我は無いみたいだけど。……かすり傷だけ消毒するから」
「えぇ、分かりました」
ぱちりと小さなライトのスイッチが入り、薄暗い部屋に白い光が差し込みました。
その光の中で、彼女は静かに、そして器用に私のかすり傷を洗い流し、消毒していきました。
「いたた……」
少しだけ、ひりりと痛みが走りましたが……不思議と、怖くはありませんでした。
その手つきがあまりに落ち着いていて、まるで――何度もこうして私を助けてくれていたような、そんな安心感があったのです。
包帯が丁寧に巻かれ、軽く結ばれた瞬間、私は目を開けて言いました。
「……まるで、お医者様みたいですね、エイミ」
軽口のつもりでした。いえ、実際のところかすり傷だけで身体は無事だったのです。
何のつもりはない、いつも通りのやり取りをしようと思って。
「…………」
「……エイミ?」
けれど、目に映った彼女の表情に、私は思わずまばたきを忘れたのです。
エイミの顔には、強く感情を堪えているかのように。
唇をかみ、眉を寄せ、声も出さずに……まるで自分を責めるような眼差しで、私の腕を見つめていたのです。
消毒液を手にしたその指先が、小刻みに震えておりました。
そして――ぽたり。ひとしずく、静かに彼女の頬を伝い、私の手元に落ちたのです。
涙でした。
「ごめん、部長……」
そう、絞り出すように言った彼女の声は、私が知る中で最も弱々しく、壊れそうなものでした。
「私がもっと早く気づいていれば……ちゃんと守れていれば、こんな傷……」
……ああ。エイミは、私のこの小さな傷を、自分の責任だと思っているのですね。
それが本当に、痛々しくて、愛おしくて――けれど、困ってしまうものでした。
「……エイミ。泣かれるほどの傷じゃ、ありませんよ」
私はそっと、彼女の手に触れました。
「これは私の判断ミスでもありますし、誰のせいでもありません。ただ少し、つまずいたようなものです。ほら、こんなに元気でしょう?」
「でもっ!!」
セーフハウス中に響き渡るような、大きな声。
今までこんなに感情を露わにしたエイミの姿は見たことがありませんでした。
「ごめんなさい、部長……。私、私がしっかりしてれば、こんなことにはならなかった」
エイミは、そこからまるで罪を告白するかのように、感情を吐露します。
「もっとちゃんと周囲を警戒しなきゃいけなかった。部長の指示に従って、アリスの動きを監視してないといけなかった。戦闘が始まった時、すぐに部長を守れる位置に居るべきだった。アリスの様子が急変した時、躊躇なく攻撃するべきだった。……全部、全部。何もかも私のミス」
「エイミ………」
「今日、失敗続きで。思いたくもない事を思って。しょうもないミスで倒れて。それで、部長に迷惑掛けて。……挙句の果てに、部長の側に居たのに、部長を守れなくて。
……私、エージェント失格だ」
エイミの心中の吐露。彼女は溢れんばかりの涙を落として、語り続けます。
「わた、私……。部長を守る為にここに居るのに。部長の役に立つ為に居るのに。何にも役に立ててない。リオ会長に頼まれたことも果たせてない。―――ごめん、部長。こんなこと言いたいんじゃないのに」
「……いいえ、良いのですよ。……ここには私とエイミしか居ませんから。誰も聞き耳を立てる者は居ません。エイミの気持ちが楽になるのでしたら、話してみて下さい。思っていること、全部」
そこからは、洪水のように、言葉が流れてきました。
ぐすぐすと、嗚咽の混じった泣き声と共に。
「私、部長に嫌われたくなくて。役に立つとこ見せたくて。役に立ってればずっと側に居れるって。居ても許されるって、思って」
「そうすればいつか部長が私を必要としてくれるって思って、仕事以外でも繋がりを持てるって。好きな人と居る時間を引き伸ばせるって、思って。そんなエージェントの風上にも置けないような……不純な動機で戦ってて!」
「前はこんなんじゃ無かったのに。いつからこうなっちゃったんだろう。部長が他の人と話してるの見る度に、部長から離れてって、最低なこと考え始めるようになって」
「それで苦しくなって、息が苦しくて、辛くて」
「なのに私は部長を傷つけるようなことしか出来なくて。こんなの、エージェントに相応しくないって思ったら、言い出すのも怖くて」
「こんな……、こんな! 面倒くさい女だって知られたら、きっと嫌われるって思って」
「女の子のこと好きになっちゃったんだって思ったら、部長に知られたら駄目だって。隠してないと駄目だって。じゃないと部長の側に居られないって、そう思っちゃったから」
「ごめん、ごめんね、部長。……気持ち悪いよね。私がこんなだって知って幻滅したよね」
「エイミ…………」
それは、私が知っているエイミとは全く違う、彼女の内面でした。
いつもポーカーフェイスで、何を考えているか分かりにくい表情の裏では、こんなことを考えていたなんて。
……私は、先輩失格ですね。彼女がこんなにも苦しんでいて、悩んでいたというのに。
それに一切気づけず、ただ彼女の力だけ借りて、今日まで過ごしてきたのですから。
「……ありがとうございます。エイミ。……ずっと言えなかったのですね。辛かったでしょう?」
「…………部長、ごめん。……私、部長のエージェントとして相応しくない」
「そんなことはありませんよ。さっきだって、エイミは私のことを助けてくれたではありませんか」
「……私は、私が許せなくて。部長の綺麗な肌に傷を付けてしまったってことが、すごく嫌で。
後悔してて」
「それは……。エイミだって戦闘で傷つくことだって、あったでしょう?」
「……私の傷と、部長の傷じゃ、傷の重みが違うよ……。私の傷なんて、放っておけば勝手に治るし。そもそも頑丈な体だから……」
「……いえ、私だってエイミが傷つくのは嫌ですよ?」
「うん、分かってるよ。……でも、私……部長のこと、綺麗な人だなって思ってて。
ガラス細工みたいに、大事に扱わなきゃいけないものなんだって、思ってて。
……だから、傷一つ付けたくなかった。私の体以上に大切なものだって思えたから。
…………ごめん、部長。なんか、気持ち悪いことしか言えないね。今のは、忘れて………」
「……いいえ。とても嬉しいですよ、エイミ。……エイミがそんなにも私のことを大切に想っていてくれたなんて。……先輩冥利に尽きますね」
いくらエイミが訓練を積んだ人間で、頼りになる後輩で、怖いものなど何もない、凄腕のエージェントだとしても。
そこに居たのは、自分を隠すのが上手くて、取り繕う術を持っていて、それでいて一人で抱え込んでしまう。ただの一人の、私の守るべき"可愛い後輩"でした。
ぐすぐすと泣き続けるエイミをあやすように、彼女の頭を撫でます。
とても暖かな感触。この体温を感じる度に、私はどれだけこの後輩に救われ、助けられ、そして心の中の拠り所になっていたかを思い知るのです。
(きっと、私も同じなのでしょうね)
私がエイミの内面を知らなかったように、きっとエイミも私の内面を知らないのでしょう。
彼女が自らの心の内側を曝け出すのを恐れていたように、私もまた、エイミに自らの内面を見せることに恐怖を感じているのです。
知られたら側に居られない。離れていってしまう。嫌われてしまう。
……ですがそれは、あくまで自らの中にのみ存在する"予想"でしかありませんでした。
いざ、こうしてエイミの心中。きっと他人には絶対に聞かせられないであろう、心の奥底の内側まで聞かされて。
私は―――――――――。
「―――――私が、選ぶのは」
『責任を負う者について、話したことがありましたね』と。
彼女はそう
あの時の私には理解できなかったが、今なら理解出来る、とも。
子供である"私達"が"大人"になる過程で培っていく、"責任"という名の重り。
務めを果たすという"義務"。その延長線上にあった、私の"選択"。
それが意味する心延も。
これは私が選んだ『
他ならぬ、私自身がそう言ったのですから。
ですから、進みましょう。私。
信じていますよ、私。
あなたの才能は、知性は、美貌は、叡智は、想いは。
「エイミ。私は……あなたに話さなくてはならないことがあります」
「…………部長?」
「聞いて頂けますか? ……今なら、まだ引き返せます。先程までのエイミの気持ちも胸にしまって、またいつも通りの日々を過ごせます。エイミをそれを望むのでしたら、この問いかけも、エイミの想いも、何もかも忘れて。また明日、一緒に朝ご飯を食べたり、登校したり、共に任務をこなしたり。……エイミがそれを望むなら、私も同じことを望みます」
「……部長、それって……?」
「エイミ。……エイミが、決めてください。私の……。
そう言って私は目を瞑ります。
もし、この手に彼女の暖かな体温が触れてしまえば。
もはや後戻りは出来ません。
それまでの関係も、築き上げた信頼も、あなたを大切に想う心すらも。そのすべてを失ってしまうかもしれません。
恐ろしいです。これほどの恐怖は感じたことがありません。
触れないで欲しい。そうすればきっとこれからも共に過ごせるから。
触れて欲しい。
無限とも思えるような、長い、長い
心臓の鼓動がやけに大きく聞こえ、頬から汗が流れ落ちる音すらも聞こえてきそうになって。
―――――そして。
「……っ!」
ぴとり、と。
(あぁ、エイミ。……それが、あなたの"選択"なのですね)
ぱちり、と目を開きます。
目の前には、怯えと、恐怖と、不安と、僅かばかりの期待。
多くの感情が入り混じった、涙の混じった瞳を携えたエイミが、私を見つめていました。
―――もはや、止めることはできません。
私は、
ですから、私は。……今だけは。
"全知"という名の鎧を脱ぎ去り、全てを手放す覚悟を決めました。
「エイミ。エイミは私のことが好きですか?」
「―――っ。……うん、好き、だと思う」
「では……実は、私もエイミのことが好きだと言ったら…………どうしますか?」
「~~~っ! 部長、あの、待って。それって、どういう意味で?」
「恋愛的な意味で、です。……先程のエイミの話もそういう
「―――そ、そうだけど。でも、だって。部長、女の子同士なんだよ……?」
「キヴォトスでは同性愛はそう珍しいものではないと思いますけれど……。まぁ、
「………つまり、部長も、私と"同じ"……ってこと?」
「はい。……想いはきっと同じだと思います。……ただ」
(ついに、これを言わなくてはならない瞬間が来たのですね)
私の抱える"罪"の告白。これをしてしまえば、二度と
いつかこの
ですが、それを、よりによって、私の最も大切で、大事にしていて、誰よりも信頼している
胸の奥に焼け付くような、ヒリヒリとした痛みが立ち込めます。
あまりにも緊張しすぎているのか、口の中は既にカラカラで、唾液を飲むことすら出来ません。
勇気を振り絞らなければ意識を失ってしまうのではないか、そう錯覚する程に。
(―――エイミ。あなたのことが大好きなんです。ずっと側に居て欲しい。誰よりも私のことを知っていて欲しい。これからの未来を共に歩んで欲しい。
……もし、この"願い"が届くのであれば)
きらり、と。夕空に溶け込むように、流れ星が落ちた。
(名前も知らない星々よ。どうか私に"勇気"を授けて下さいませんか?)
「――――エイミ。私は"女性"ではなく"男性"なのです。それでもエイミは、私のことを好きになってくれますか?」