「はいこれ。ゼリーとスポーツドリンク」
「ありがとうございます、チーちゃん。ちょうど喉が乾いていたところなんです」
「あとすぐに食べられる食品もいくつか。うどんとか、お粥とか消化にいいものね。一応カレーとかも買ってきたけど、刺激の強いものは体調が戻ってから食べて」
「ふふ、なんだかお母さんみたいですね?」
「この歳でこんな大きい娘がいるの嫌なんだけど………」
ヒマリのセーフハウスは入り組んだ路地の先にあった。
ミレニアム近郊都市の中枢とも言えるこの場所は、人が絶え間なく行き交う繁華街の真っ只中だ。
しかしこの部屋はそれらの喧騒とは完全に切り離されたかのように静かだ。
ヒマリ曰く"キヴォトスで最も安全な場所"らしい。
高度に自動化された防御システムに加え、ヒマリ自ら制作した数々の設備は外部からの侵入に対して強固な耐性を持つという。
その絶対安全な要塞の一室。ヒマリの私室と思われる場所に私は居た。
「ヒマリ、冷蔵庫ってどれ?」
「そこの棚の横にありますよ。一見するとサーバー機器に見えるでしょう?」
「……うわ、ほんとだ。何でこんなややこしい事してるの……。まさかこれって自作品?」
「えぇ、もちろん。ふふ。ユーモアですよ、チーちゃん。普通に作っても面白みが無いでしょう? 天才ハッカーでありながら、エンジニアとしても超一流の私が自ら作り上げたのですから、家具のひとつひとつも特別でなくてはならないのです」
「私には分からない世界ね……」
サーバー機器のように見えるそれは、センサーに手をかざすと自動的に開く冷蔵庫だった。
まるで意味が分からない。この女は時折こうして突飛な事をする。
深く考えても仕方がないので、買ってきたドリンク類や要冷蔵の食料品を手当たり次第入れていく。
「けほっ、けほっ」
「……結構調子悪いみたいね」
「昨日はそこまでひどくなかったのですが……」
「熱はどれくらいあるの?」
「37℃ほどでした。朝の時点ですが」
「微熱だけど……。いや、そういえば元から体温低いんだったか」
「えぇ、その通りです。ですが心配いりませんよ。このくらいであれば、お薬を飲んで眠っていれば治りますから」
ベッドに横たわり上半身だけ起こした彼女を見る。
本人は大丈夫とは言っているものの、素人目に見ても苦しそうに見える。
顔色が悪く、頬はやや上気している。咳をする度に辛そうに身をかがめる姿は、普段の自信満々の態度からはまるで正反対。
病弱と言いつつ他人に弱みを見せない彼女だ。
ヒマリが体調を崩している所を見たのはこれが初めてではないが、今回のは症状が重そうに思えた。
「一応、朝から昼までは眠れたので、少しは体力が戻っているとは思うのですが……」
「……ごめん、私が起こしちゃったか」
「あ、いいえ、そういうつもりではなく。どのみち昼にもお薬を飲む為に一度起きる必要がありましたので。チーちゃんが気にする必要はないのですよ」
「ん、そっか」
「それに飲み物を買ってきて頂けたのはありがたいです。ありがとうございます、チーちゃん」
「……気にしないで」
もう一度ヒマリに目をやる。熱があるのだろう、少し汗ばんでいるのがわかる。
髪はしっとりとしていて、そのうちの何本かは顔や首筋に張り付いていた。
呼吸が苦しいのか、いつもより吐息混じりの呼吸がやけに室内に響き渡っている。この部屋は静かだから、余計に聞き取れてしまうのだろう。
なぜだろう。普段自信満々な彼女が弱っているせいだろうか、それとも何か底しれぬフェロモンのようなものを感じてしまったからだろうか。
(なんかちょっとエッチね……)
そう心の中で思った瞬間、私は頭を金槌で叩かれたような衝撃を受けた。
(―――ちょっと待って。いま私は何を考えた?)
「……チーちゃん?」
急に黙りこくった私に気がついたのだろう。ヒマリは首をこくりと傾げて不思議そうにこちらを見ていた。
だが私は内心それどころではなかった。
胸中の独り言とはいえ、いま私はなんて言った?
(ヒマリのことを変な目で見たの……? 私が……!?)
愕然とする。そんな訳ないだろうと思った。
だって、あのヒマリだ。口を開けば自画自賛、お調子者で悪戯好き、手のつけられない問題児。
三年になるまでずっと一緒に居た友達、いや悪友とも言えるだろう。当たり前だがそんな目で見たことは一度たりとも無かった。
さっき感じたのは何かの間違いだ。一時の気の迷い。
私は頭をぶるぶると振って、脳裏に浮かんでしまったヒマリの映像を振り払う。
「あの……チーちゃん? どうしたのですか?」
「……いや、なんでもない。ちょっと考え事してただけ」
「そうでしたか。急に深刻そうなお顔をしていましたから、どうしたのかな、と」
それにしても、とヒマリは続ける。
「ふふ。二人きりで話すのも随分久しぶりですね? 二年前はずっとこうだったのを思い出します」
「……あぁ、ヴェリタスを設立した頃の話ね」
「えぇ。二年になって皆が入部して来るまでは、ずっと二人きりでしたから。懐かしいな、と」
「そうだね。……あの頃は資金繰りに躍起になって無茶してた記憶しかないけど」
「反セミナーのお題目を掲げたせいで部活動の資金が入ってきませんでしたからね。よくサーバー設備維持の為に夜ふかししていたのを思い出します」
「夜ふかしっていうか徹夜ね……。五日連続徹夜は二度とやりたくない」
「ふふ、とはいえあのときの経験も得難いものだったでしょう? 限界を超えた先に見えてくるものがありますから。若かりし頃の思い出です」
「まだ私達も17でしょ……。まぁ一皮むけたってのはそうかもね。あれ以来、ちょっとの徹夜くらいじゃ何とも思わなくなったし」
「ワーカーホリックですね、チーちゃんは。将来は黒い企業に入ってはいけませんよ?」
「既にもうブラックじみた業務量だと思うけどね……」
小気味よい会話のテンポが懐かしい。
ヴェリタス発足当時、部員は私とヒマリの二人しか居なかった。
毎日ずっと顔を合わせるものだから、次第にヒマリの長ったらしい前口上にも慣れてしまった。
「今ではヴェリタスも賑やかになりましたからね」
「そうだね。コタマ*1やハレが入ってきて、今年になってマキが来てからはもっとね」
「はい。みんないい子ですから。良い同期や後輩に恵まれたと思っていますよ」
ふと、ヒマリが少し目線を落とした。
その面持ちはどこか寂しそうで、遠くを見ていた。
「その……ごめんなさい、チーちゃん」
「ん……なにが?」
唐突に謝られたから、一体何の話だろうと勘ぐる。
しかしぱっと思いつく理由は見当たらなかった。
「ヴェリタスの事です。事情があったとはいえ、無言で去ってしまったでしょう? 引き継ぎもせず、チーちゃんに副部長を押し付けてしまいましたから」
「……あぁ、そのことね」
ヴェリタスから明星ヒマリが脱退するという知らせ。それはまさに青天の霹靂だった。
私は一切その類の話を聞いておらず、ヒマリもそのような素振りを見せたことは無かった為、驚きを通り越して唖然とした。
この部活はヒマリ部長あってのものだ。それは私を含めたコタマ、ハレ、マキ全員に共通している認識だった。
情報が錯綜するなか、マキがぽつりと零したのを覚えている。
『ねぇ、チヒロ先輩……。部長、ヴェリタス辞めちゃうの……?』
不安そうな声を上げるマキの姿を見て、私はふつふつと怒りが湧いてきた事を覚えている。
ヴェリタスはヒマリが作った部活だ。辞めるのは百歩譲って良い。だが説明責任を放りだして、後輩たちを見捨てて何処に行くつもりなんだ、と。
そう考えた私はヒマリを探して校舎を、そしてあらゆるネットワーク上を駆け回った。
そしてそれはあっさりと見つかった。こともあろうに、セミナーの書類に証拠があったからだ。
明星ヒマリの転属届。部活動を他の所属に変更するための書類だ。
既に会長の認可が下されており、電子判まで捺印されている。
間に合わなかったか―――。落胆に暮れる。
だがその内容を見て驚きと共に認識を改め直した。
「セミナー……。それも
「えぇ、まぁ。……普段であれば断っていたでしょう。しかし今回ばかりは事が事でしたので……」
「特異現象捜査部、か」
それはミレニアムでもごく一部の人間しか知らない特殊な部活。
曰く、科学で解明不可能な現象を解明し、真理に近づくという目的があるという。
最初は私もなんでこんな部活があるんだと首を傾げた。オカルトなんて科学技術から最も離れた位置にある概念じゃないか、と。
だが調べるうちに、そしてヒマリの話を聞くうちに。
この部活はある目的のための隠れ蓑であることを知った。
「キヴォトスに起きうる危機を未然に察知し、対策を行うミレニアムの機密組織ね……。最初に聞いたときは、今度は何の映画にハマったんだって思ったけど」
「私も最初にリオ……いえ、会長から資料を渡されたときは、よく出来た創作だと思いましたよ。……しかし見れば見るほど、それは可能性として"あり得る"と他ならぬこの私自身が認めてしまったのです。現にデカグラマトンの活動が急激に活発化していましたから」
「……その、デカグラマトン? とかいう奴。今はどうなの?」
「あまり多くは語れないのですが……。まぁ、チーちゃんであれば余計な口外はしないでしょうし、構いませんよね」
そう言って、彼女は本当に機密事項であることは省いて、かいつまんで説明した。
曰く、高度なAIが存在し、周囲のAIを"感化"させ、操っていること。
既にアビドス砂漠の"大蛇"やミレニアム地下の"球体"がその影響を受けていること。
そして更に、それらのAIはヒマリのハッキング能力を遥かに凌駕するほどの危険性を秘めていること。
その為にミレニアムの部室を引き払い、このセーフハウスに拠点を移して活動していること。
特に三番目の事実には驚愕を隠せなかった。あの明星ヒマリが手も足も出ない相手が存在するという事実に。
ヒマリで対抗できない存在が、ミレニアムに攻撃を仕掛けてきた。辛くもそれは撃退したが、次にいつ攻撃を仕掛けられてくるか分からない、と。
「……なるほどね」
「ですので、できるだけ早く次の"預言者"の動向を掴んで、調査に入りたいのですが……。何分、このように体調を崩してしまっている状態です。歯がゆさを感じないといえば嘘になります」
「……ヒマリさ。私によく働きすぎとか、徹夜は辞めろって言って来るけど。……あなたも大概じゃない?」
「それは……そうかもしれません。ですが―――」
「ですがじゃないよ。それで体壊してたら何にもならないでしょ」
正論を言われたからだろうか。ヒマリはしゅんとしてしまった。
私だって風邪で弱っている相手にこんな強い言葉を使いたいわけではない。
……あぁ、もう。こんな顔をさせたくて言ったわけじゃないのに。
「ヒマリ。私はあなたのこと"友達"だと思ってるから。……私に出来る事があったら何でも言って。ヴェリタスの皆も協力してくれると思う」
「……はい、ありがとうございます、チーちゃん。もしその時が来たら、手を貸して頂くかもしれません」
そう言ってヒマリはにこりと微笑んだ。
「―――さてと、聞きたいことは聞けたし、そろそろ帰るね」
「待って下さい。大切なものを忘れていますよ」
「ん? あ、そっか」
呼び止められて大事な目的を思い出す。
ここにはヴァルキューレ用のセキュリティプログラム、その仕様書が入ったUSBメモリを受け取りにきたのだ。
ヒマリが風邪を引いたということに気を取られて、本来の目的を忘れるところだった。
「ごめん、忘れるところだった。USBはどこ?」
「そちらの棚の中に入っています。……えぇ、その横。隣の棚の引き出しです」
ベッドの中。未だ立ち上がれないであろうヒマリの代わりに、棚を探す。
開くと中にはヒマリの私物と思われるものが収納されていた。
化粧品、オイル、美容グッズなど。どうやらこの段ではないようだ。私は隣の棚を引き出す。
すると中には沢山の種類の薬の瓶があった。その横にちょこんと黒い小さなUSBが置かれている。
これがお目当てのものだ。私はそれを手に取った。
「見つかりましたか? 確かそこに入れていたと思うのですが」
「うん、あったよ。……何で薬棚に入ってたのかはさておき」
「ごめんなさい。まだこちらに引っ越してきたばかりで整理整頓が追いつかず……。そうだ、ついでと言っては何ですが、同じ場所に頭痛薬があったと思いますので、取って頂けませんか?」
「頭痛薬?」
「はい。その……少し頭が痛いのです。一応朝にも飲んだのですが、昼にも飲むべきかなと」
「えーっと……どれだろう」
瓶をいくつか手に取り確認する。どれも市販の風邪薬や整腸剤といった一般的な薬だ。
だがお目当ての頭痛薬は見当たらない。解熱剤と書かれた瓶があるが、これのことだろうか?
「解熱剤……の事じゃないよね?」
「えぇ。確か市販の黒い瓶に入っていたと思うのですが……」
「ちょっと待ってね。探してみる」
引き出しを更に引き出して中を確認する。だがお目当てのものは見つからない。
本当にここにあるのか? という疑問を感じ始めた頃、ふと棚の奥に不自然なスペースがある事に気がつく。
その部分だけ凹んでおり、横から見るとまるで存在しないかのように見える。いわゆる隠し棚というやつだろうか?
私はそこに手探りで手を伸ばす。瓶の感触だ、掴んでこちらに引き戻す。
それはラベルすら貼られていない薬瓶だった。
中には複数の白い錠剤が入っており、恐らく市販品ではないだろうということが察せられる外見をしている。
「ヒマリ、黒い瓶はあったけど、これの事?」
「ええと……いえ、それでもありませ―――っ!?」
ヒマリは私の手にあるものを見た瞬間、目を見開いていた。
どうやらこれもお目当ての頭痛薬ではないらしい。
この瓶にはラベルは貼られていないものの、瓶そのものに彫刻のようなものが刻まれているようだ。
ちらっとみた限りでは『H・S・V』という三文字。
聞いたことのない名称だ。やはり市販品ではないのだろう。
「え、えーっと……。あ! す、すみません。ありました! ……昼に起きたら飲もうと思って、枕元に置いていたのを忘れていました」
「はぁ? ……ちょっとしっかりしてよね。 ……って病人に言っても仕方ないか」
そう言って私は薬の瓶を棚の中にしまおうとする。
だが、ふと、本当に些細な疑問が浮かんだ。
他の薬は全て市販品で、すぐ側のドラッグストアで購入できるようなものばかり。
しかしこの瓶だけ市販の薬ではない。なぜだろう? そんな小さな違和感。
「これだけラベルが貼られてないけど、何の薬?」
「えっ!? え、えーっと……そ、それはその……」
明らかに歯切れが悪い。ヒマリが言い淀むところは今までほとんど見たことがなかったから、訝しさを感じる。
見てみると様子も変だ。何かもじもじと居心地悪そうにしているし、視線はあっちこっちを行き来していて忙しない。
何だ? 何かを隠そうとしている?
「……なんか怪しいな。まさか
「そ、そんなものをこの公明正大、清廉潔白が取り柄の清楚系美少女である私が持っているはずがないでしょう……!? いくらチーちゃんとはいえ怒りますよ……!?」
「……ごめん。そうだよね」
珍しくヒマリが本気で怒っていそうな雰囲気を感じ取り、私は慌てて瓶を置く。
「お医者様から頂いた強い解熱剤です。……胃が荒れてしまうため、よほど症状がひどい時以外は服用するなと言われていましたので」
「あぁ、そういう……。確かに普段は使わないか」
医者から貰った薬ならばラベルが貼られていない事もあるだろう。
私はそう納得して棚を閉じた。
「それじゃ、USBメモリも受け取ったし、今日は帰るね。なんかあったら連絡して。……お大事に」
「はい、チーちゃんも帰りはお気をつけて。午後からは雨が降るらしいですから」
「うげっ……。傘持ってきてない。早くミレニアムに戻らないと。……それじゃあね」
そう言って私はヒマリのセーフハウスを後にした。
だが私は最後のヒマリの様子になにか引っかかるものを感じていた。
私がHSVと書かれた瓶を手に取った時、彼女はあからさまに動揺していた。
本人曰く強い解熱剤だとは言っていたが、それが本当かは薬学に詳しくない私には分からない。
が、今はそれよりもやるべきことがある。ヴァルキューレのシステム更新期限は来週に迫っているのだ。
結局、その薬のことは頭の片隅に置くに留めておいた。
今はヴァルキューレの仕事に集中したほうがいい。でなければ納期に間に合わなくなるかもしれない。
曇天の空の下、私は駆け足でミレニアムへの帰路を急いだ。