ほむらちゃん、ごめんね私モテモテになる。さあ叶えてよインキュベーター 作:じゃあな・アズナブル
放課後、校門を出た道は、何度もまどかと一緒に歩いた帰り道――だけど今日は、さやかひとりだった。
「これからマミさんと、ちょっと用事があって……さやかちゃんも、一緒に来る?」
そう誘ってくれたまどかに、さやかは笑って首を横に振った。
「ううん、大丈夫。今日はひとりで帰るよ」
なんでもないふうを装った。気まぐれだって、自分に言い聞かせた。でも本当は――断った瞬間から、胸の奥が少し痛かった。
(……なんで断っちゃったんだろ)
自分でもわからない。まどかとマミさんが一緒に過ごす時間が、ただ羨ましかっただけなのか。それとも、そこに自分が入っていくのが怖かったのか。
(あたし、ほんと意味わかんない……)
思考が沈む中で、浮かんできたのは――恭介のことだった。
(恭介……)
入院している幼なじみ。この前お見舞いに行ったとき、彼の腕は前よりも細くなっていて、どこか別の誰かのものみたいだった。
リハビリの話もしてたけど、それが演奏家としての未来に繋がるかどうかは――正直、厳しいのかもしれない。
だけど、あいつは笑ってた。悔しさも、焦りも、怖さもきっと全部抱えたまま、無理して笑ってたのがわかった。
(あたしは、ずっと――恭介のヴァイオリンが、また聴きたいって思ってた)
それはたぶん、彼のことが好きだったから。うん、そうだと思う。……思うけど。
(……それだけ、だったのかな)
ふいに浮かんだのは、まどかの顔だった。やわらかく笑うその瞳。肩を並べて歩くときの、安心する感じ。声を聞くだけで、胸の奥があったかくなる。
でも、マミさんと仲良くしてるのを見たとき――どうして、あんなに胸が苦しくなったんだろう。
(マミさん……ね)
別に、いいんだ。マミさんは頼れる先輩だし、この前だってマミさんがいなかったら、私たちはどうなっていたかわからない。
でも――
校門の影から、遠ざかっていくふたりの背中が見えたとき。あたしは、知らないうちに拳を握りしめていた。
(……なんで、こんなにモヤモヤするんだろ)
まどかが楽しそうに笑ってるのに、私は素直にそれを見ていられなかった。ただ一緒にいたいだけなのに。昔から、一番の親友だったのに。なのに、どうしてマミさんといるときのまどかは、あんなに嬉しそうなんだろう。
「……ずるいよ」
ぽつりとこぼれた言葉に、自分でも驚いた。まどかのことを、誰かに取られるなんて、思ってもいなかった。いや、そもそも“取られる”なんて、おかしな話じゃん。
(でも……)
心の奥で、確かに何かがざわめいている。
(もし、あたしが……魔法少女になれば――)
まどかの隣に、もっと自然にいられる気がした。彼女を守れる気がした。そして、あの笑顔を、自分のためだけに見せてくれる気がした。
(……あたしが、まどかを守る)
そう決めた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。それは、このとき――とても魅力的で、まっすぐな“答え”のように思えた。
(このままじゃ、だめだ)
曖昧にしてたら、きっと後悔する。自分の気持ちから目を背けちゃいけない。大切な人たちの想いも、ちゃんと受け止めなきゃ――逃げちゃだめだ。
もう一度だけ。ちゃんと、向き合うために。さやかは歩き出した。夕焼けの中を、背筋を伸ばして。
***
夕暮れの光が、病室の白いカーテンをほんのりと橙色に染めていた。さやかは、扉にそっと手をかけて、深く小さな呼吸をひとつ。心の準備なんて、何度しても足りない気がした。覚悟を胸に、扉を開けようとした――そのときだった。
「うるさいって言ってんだろ! もう放っといてくれよ!」
怒鳴り声。続いて紙が散る音。ビクッとして思わず手を引っ込めた。わずかに開いたドアの隙間から、恭介の母親が出てくる。泣きそうな顔をしていた。目が合いかけたけれど、彼女は何も言わず、頭を下げて通り過ぎて行った。
静かに扉を押して中へ入る。ベッドの上、恭介が髪をぐしゃぐしゃにかき回しながら、視線を彷徨わせていた。足元には、破り捨てられた譜面がいくつも散乱している。まるで、夢ごと捨ててしまったかのように。
「……さやか、か……」
気づいた彼が、少しだけ驚いた顔をして、すぐに目をそらした。その一瞬の表情だけで、胸がチクリと痛んだ。見たくなかった。こんな顔、見たくなかった。
「……先生に言われたんだ。もう、無理だってさ。指も、筋も、感覚も……全部、戻らないかもしれないって」
絞り出すように言うその声は乾いていた。無理に笑おうとしていたけど――あれはあたしの知ってる笑顔じゃない。音楽に触れていたときの、あの真っ直ぐで澄んだ顔じゃない。
ただ、何かを失ってしまった人間の、空っぽな目をしていた。
(音楽がすべてだった人が、それを奪われて……)
こんなふうに壊れていくのを、ただ黙って見てるなんて――無理だ。できっこない。でも、何も言えなかった。
「……あたし、やっぱり……」
言葉が、途中で喉に詰まる。“恭介の演奏を、もう一度聴きたい”――ずっと、そう思ってた。
あたしが恭介に惹かれたのは、音楽だった。声でも、容姿でもなく、ただ、あの楽しそうに演奏する横顔だった。
でも、今。その“憧れ”の上にあった想いが、心の奥で崩れていく感覚があった。
(……あたしが今、本当に助けたいって思ってるのって、それだけ?)
頭に浮かんできたのは――まどかだった。笑ってる顔、困ってる顔、ちょっと不安そうな顔。
どれも、胸がぎゅっと締めつけられるような愛おしさがあった。マミさんと一緒にいるときのまどかは、なんだか少しだけ遠く感じた。笑っているのに、その笑顔を自分に向けていないようで、落ち着かなかった。
(……違う。あたし、まどかを守りたいんだ)
恭介への気持ちは、きっと“恋”だった。でも、それは――もう終わったんだと思う。大切だったけど、今のあたしの中では、別の誰かへの想いのほうが、ずっと強くなっていた。
まどかの笑顔。その笑顔を、誰よりも近くで見ていたい。悲しませたくない。苦しませたくない。――あの笑顔を、守りたい。
それが、今のあたしにとって、何よりも強い“願い”だと、はっきりわかった。
「……大丈夫。あたしが、なんとかするから」
その言葉は、恭介に向けてというより、自分自身に向けた宣言だった。過去に区切りをつけて、未来に踏み出すための一歩。
もう、迷わない。あたしは、この手で、“大切なもの”を守るって――そう決めたんだ。
***
夕方の公園。人影まばらなベンチに、まどかが静かに座っていた。隣には仁美。風が木々を揺らすたびに、空気が妙に重たく感じられる。いつもの公園なのに――何かが、違う。
ふとまどかが視線を向けたとき、仁美のうなじにちらりと“模様”が見えた。幾何学的で不気味なその印。それが、魔女による“印”だと、まどかはなぜか直感的に理解した。
仁美の顔は、いつものように微笑んでいた。でもその目の奥に、かすかな“何か”がある。優しさじゃない、もっと冷たい……でも熱を帯びたもの。
「……まどかさんって、本当に素敵な方ですわ」
突然、静かな声で仁美が呟いた。
「え……?」
「わたし、ずっと見てましたの。まどかさんは、いつも優しくて、でもその優しさは私だけじゃなく誰にでも……でも、本当は、誰にも渡したくないくらい、大切で……特別で……」
「仁美ちゃん……?」
声の温度に違和感を覚えて、まどかは少し身を引いた。そのとき――仁美の手が、まどかの手を強く握る。冷たい。まるで血の通っていないような手だった。
「でも……どうして、まどかさんは他の方ばかり……!」
言葉の熱が高まり、空気が歪んだ。地面が揺れ、景色が崩れ落ちていく――視界がモザイクのように砕け、色彩が反転する。
「仁美ちゃん……どうして……!」
まどかが立ち上がろうとした瞬間、仁美が腕を強く引き寄せた。
「わたしは……さやかさんにも、他の誰にも……まどかさんを渡したくないの!」
仁美の手がまどかの頬に触れる。まどかは金縛りにあったように動けない。胸が早鐘を打ち、呼吸がうまくできない。そして、仁美の顔が――ゆっくりと近づいてくる。
「まどかさん……ほんの、少しだけでいいんです。わたしに、くださいな……」
(だれか――)
その瞬間。光が爆ぜた。
「まどかから――離れなさぁあああいッ!!」
怒声が、世界を割った。青い閃光が仁美をはじき飛ばし、その間に一人の少女が立っていた。
「さやかちゃん……!」
青の衣装。剣を構え、今にも飛びかかりそうな勢いで、仁美を睨みつけている。魔法少女・美樹さやか。その瞳に宿るのは、怒りと――迷いを振り切った決意だった。
「……魔女のせいなんだろうけど、それでも言わせてもらうよ、仁美」
冷たく、真っ直ぐな声が結界の空気を切り裂いた。
「まどかは、あたしが……っ」
その言葉を言い切る前に――仁美が顔を上げた。
「……さやかさんは、ずるいですわ」
「……え?」
「上条さんも、まどかさんも……わたしが欲しかったものを、全部、あなたは持っている。どうして……どうしてあなたばかり……!」
その声には、悲しみ、嫉妬、愛情、そして狂気が混ざっていた。
「仁美……あんた、恭介のこと……っ、バカ……!」
息を呑みながら、剣を振りかざす。水の魔力が周囲に満ち、仁美の身体を淡く包み込む。
「――私はなにも、持ってないよ。恭介も、まどかも……でも、それでも――」
さやかの瞳が、まどかを真っ直ぐに見つめる。
「まどかは、あたしが守る!」
まどかが息を呑む。
「……まどかを守りたい。それがあたしの、気持ち」
結界が崩れ、淡く色づいた空間が静かに溶けていく。仁美の身体が力を失い、その場に崩れ落ちた。
「仁美ちゃん、大丈夫……?」
まどかが駆け寄って、倒れ込んだ彼女の身体をそっと抱きとめる。薄く目を開けた仁美が、ぼんやりとまどかの顔を見つめ――そして、ふっと瞼を閉じた。
「……まどか、さん……?」
弱々しく名前を呼んだその声は、すぐに微かな寝息に変わった。
さやかは、それを少し離れた場所から見つめていた。背を向け、うつむいたまま、顔を赤くして。火照った頬が冷めない。胸の奥が、まだドクドクとうるさい。
「……今の、聞いてたよね……?」
小さく、震える声で尋ねる。あんなことまどかに言ってしまうなんて――穴があったら入りたい。
「うん」
まどかは、にこっと笑った。その笑顔が、さやかの胸をさらに締めつける。
「わ、忘れて! 今の! 全部なかったことにして! お願いだから!」
必死で叫ぶ。耳まで熱くなってるのがわかる。けど、まどかは――やっぱり笑っていた。
「……でも、助けてくれてありがとう。かっこよかったよ、さやかちゃん」
「う……もぉおお……なんなのその笑顔……」
たまらず頭を抱え、ぐしゃぐしゃと髪をかきむしる。情けなさと嬉しさと恥ずかしさで、心の中がぐちゃぐちゃだった。
(――あたし、まどかに……)
(あたしの願いは、きっと……最初から、決まってたんだ)
恭介のことも、本気だった。ちゃんと想ってた。でも――今、この気持ちには、もう嘘はつけない。
そのときだった。静まり返った路地裏に、乾いた足音が響いた。
「へえ。ずいぶん派手にやったみたいじゃん?」
その声に、反射的に顔を上げる。見ると、暗がりの向こうにひとりの少女が立っていた。赤いポニーテール。片手にはかじりかけのリンゴ。まるで気怠そうに地面を蹴っている。
「なんだい、見せもんはもう終わりかよ?」
軽口。だけど、どこか底知れない雰囲気。彼女の視線が、さやかを通り越して――まどかを捉えた。
「青い方がマミの新しい仲間、ってわけか。へぇ……ところでそっちの娘は名前はなんてんだい?」
その目には、獲物を見定めるような色が宿っていた。さやかの中で、何かがぴり、と緊張する。まどかが、息を呑んだ。
「鹿目まどかです……あなたは一体……」
まどかの声は戸惑いを含んで震えていた。けれど――その問いに、赤い少女は答えなかった。ただ、気まぐれな笑みを浮かべながら、手に持ったリンゴを一口かじる。
しゃくり、と乾いた音があたりに響く。なんでもないその音さえ、どこか不穏な余韻を残す。
「あたしは佐倉杏子」
彼女はまどかをまっすぐに見据えて、呟くように言った。
「なんか見てたら、なんか……妙に、気になっちまったんだよ。アンタのことがさ」
(……なにそれ)
さやかの胸に、ざわりとした違和感が走った。挑発でも、敵意でもない。けど、まどかにだけまっすぐ向けられるその目線が――あまりにも、引っかかる。
まどかが小さく身じろぎするのが、横からでも伝わった。緊張……じゃない。あれは、動揺――それも、ちょっとドキドキしてる系のやつだ。わかる。わかっちゃう。そういうの、なんかすっごいムカつく。
「ま、続きはそのうち。じゃあな、鹿目まどか」
呼ばれた。名前を、あっさりと。それがまどかの胸に、何かを刻んだみたいに見えた。――そして、あたしは爆発した。
「ちょっと! 私は無視なのー!? さやかちゃんもここにいるんですけどー!」
いつもなら冗談交じりのこのノリも、今は半分本気だった。というか、ほとんど本気だった。あんなふうに、まどかだけ見られたら……面白くないに決まってる。杏子は肩をすくめて、面倒くさそうに振り返る。
「へっ、お前の戦い見たけどよ、そんなんじゃすぐ死んじまうぞ」
――ぐさっ。
思わず心のど真ん中に突き刺さった。図星だったから。悔しいけど、あの言葉に反論できるだけの自信なんて、まだない。悔しい、けど。
赤いポニーテールの少女――佐倉杏子は、それ以上なにも言わず、くるりと背を向けた。リンゴをもう一口。しゃく、とまた音がする。
(……なんなの、あの子)
そのときだった。
「――あら、久しぶりね。佐倉さん」
低く、落ち着いた声。その声に、さやかは反射的に振り返る。
金色の髪が揺れた。巴マミが、まるでタイミングを見計らったかのように現れた。微笑を浮かべてはいたけど――その目は、杏子に向いている。まるで、懐かしさと緊張が交じったような、複雑なまなざし。杏子の足が止まる。
「……なんだよ、巴マミ。あんたもいたのか」
「この街であなたに会うなんて、ずいぶん久しぶり。何か、理由でもあるの?」
マミの声は穏やかで、どこか距離を測るようなものだった。まどかの隣で、さやかは知らず息を呑んでいた。
ふたりの間に漂う空気が、まるで以前から決着のついていない何かを――引きずっているように感じられた。
「さあね。ただ……ちょっと、気になる噂を聞いてさ」
杏子は肩越しにマミを見て、唇の端をわずかに上げる。その目は、ほんの少しだけ挑むようで――けれど、どこか複雑な感情を感じた。
「気になる噂?」
「アンタが、仲間を作るって聞いてね。……アンタが、ね」
マミの口元がわずかに動く。けれど、その先の言葉は出てこなかった。
「ま、また会うさ。……気になる“モン”も、できちまったしな」
その言葉と共に杏子は背を向けた。けれど――視線はほんの一瞬だけ、その視線はまどかの姿をとらえていた。静かに、何かを確かめるように。
「……あんたたちも、せいぜい気をつけな」
赤い背中が、夜の闇へと溶けていく。さやかは無意識のうちに拳を握っていた。あの子の視線が、まどかだけを捉えていたのが――なんとなく、引っかかった。沈黙が落ちる。風が吹き、木々がわずかに揺れる。
「ふたりとも、無事でよかったわ。……それにしても、美樹さん」
マミの声が、さやかの内心をそっと呼び戻す。視線を向けられて、さやかは肩をすくめた。
「その姿……あなた、契約したのね?」
「あ、うん。まあ……願いは、ちょっと、幼馴染の怪我を治しまして~」
照れ隠しで指をくるくると回してみせる。調子に乗ってるように見せたのは、今さら真面目な顔するのが気恥ずかしかったから。
「ってことで、正義の魔法少女さやかちゃんが! これからはまどかを守ちゃうからねっ!」
「さやかちゃん……」
まどかが目を丸くして呟いた。その顔を見ているだけで、胸があったかくなる。ああ、そうだ――あたしの“願い”は、きっと最初からこれだったんだ。
マミはそんなふたりの様子を見守っていた。微笑んではいたけど、その奥に一瞬だけ、何かがよぎったように見えた。たぶん、気のせいじゃない。
「そう。……立派な願いね。ようこそ、魔法少女の世界へ、美樹さん」
マミの微笑は、今度こそ優しかった。さやかはほんの少しだけ、胸を張った。そのときだった。まどかがふと、後ろを振り返る。
「……仁美ちゃん……」
あ、と思い出す。地面にぐったりと倒れている仁美。完全に忘れてた。
「はは……そうだった、仁美、置いてけぼりだったね」
さやかは頭をかきながら苦笑した。
「今日はとりあえず、仁美を家まで送るよ。話は……また、今度」
「ええ、落ち着いたらまた話しましょう。いつでも歓迎するわ」
マミが静かに頷く。まどかとさやかは、仁美を支えるようにして歩き出した。その背中を、マミは黙って見送っていた。夜風が吹く。髪が揺れる。
***
翌朝。三人そろって登校する道すがら、仁美がふと足を止め、ぽつりとつぶやいた。
「……なんででしょう。わたくし、昨日の記憶がないのです」
「えっ?」とまどかが驚いて立ち止まる。仁美は少し首をかしげて、遠くを見るように目を細めた。
「何か大切なことを……忘れているような、そんな気がして……」
その声はどこか寂しげで、目には薄く涙の光が浮かんでいた。まどかの方へと視線を向けると、仁美はそっと彼女の手を取った。
「でもなんだか……こうしていると、思い出しそうな気がしますわ」
そして――顔を、まどかへとゆっくり近づけていく。
「ひ、仁美ちゃん……?」
至近距離。まどかの頬が赤く染まり、目が泳ぐ。
「ちょっとまったーーー!!」
割って入ったのは、さやかだった。まどかと仁美の間に割り込むように立ちふさがり、両手を大きく広げて叫ぶ。
「まどかは、私の嫁になる予定なんだからっ!! それに仁美は……恭介が好きなんでしょ!」
言った瞬間、自分でもドキリとする。勢いで叫んだけど、これは完全に本音だ。ぴたりと動きを止めた仁美が、ぽかんとした顔でさやかを見る。
「……さやかさん、なんでそれを……?」
(あ……しまった)
さやかは一瞬だけ視線をそらして、そして――強引に、いつもの調子で笑った。
「そうだ! 今日って空いてる? 三人でさ、あいつ――恭介のお見舞いに行こうよ!」
無理やり話題を変えるように、明るく声を張る。仁美は目を瞬かせ、まどかは小さく笑った。
「……うん、いいね。行こう、さやかちゃん、仁美ちゃん」
そう言って歩き出すまどかの背中を、さやかは小さく見つめた。
すぐ後ろで、仁美の視線がまたまどかに向けられていた。それに気づいた瞬間、胸の奥がちくりと痛む。
彼女たちの関係は、少しずつ、けれど確実に変わっていく。心の奥で芽吹いた想いが、言葉にならないまま、静かに形を持ちはじめていた。
***
三人で並んで歩く病室への道は、どこか澄んでいて心地よかった。
「こっち、こっち。この個室だって」
案内板を頼りに進むと、ちょうど病室の扉が開いていた。ベッドに腰かけた恭介が、三人に気づいて手を振る。
「来てくれたのか。さやか、鹿目さん、志筑さん」
さやかの視線が、無意識に恭介の右手へと向いた。添え木も、包帯も、ぎこちなさも――もう、何ひとつなかった。
「すっごい……ほんとに、治ってるじゃん!」
声が自然と弾む。心の底から、嬉しいと思った。
「お医者さんもびっくりしてたよ。昨日までのカルテを何度も見直してたくらいだ」
恭介は少し照れくさそうに笑っていた。
「夢じゃなかったんだなって……朝起きて、この手を動かしたとき、思ったよ」
その顔を見て、さやかも微笑む。
(ああ、よかった。本当に……これで、いいんだ)
心の奥で、静かに確信する。もう“好き”とか“特別”とか、そういうのじゃない。ただ、恭介がヴァイオリンを弾けるようになった。それが嬉しい。それだけで、十分だった。
「恭介、また弾いてよね。また私たちに聴かせて」
まっすぐにそう言えた。
「まどかも、仁美も、楽しみにしてるから!」
「うん……! ありがとう、さやか」
恭介の声が、どこかくすぐったそうに響く。隣のまどかが微笑んだ。その笑顔に、さやかの胸がじんと熱くなる。
(私は、こっちだ)
(まどかが困ったとき、泣きそうなとき、笑ってるとき――その隣にいられる人間でいたい)
(――まどかを、守りたい)
その想いを胸に、さやかはもう一度、笑った。
***
日が傾き始めた頃、四人は病院の屋上にいた。普段は閉ざされている扉を、今日は看護師さんが「特別にね」と開けてくれたのだ。
「本当に……ここでいいの?」
恭介が不安そうに尋ねる。さやかは胸を張って笑った。
「いいのいいの! 誰もいないし、空が広い場所が一番似合うって思ってたんだから」
まどかも、仁美も頷いた。恭介は小さく息を吐き、持参したヴァイオリンケースをそっと開ける。そして、肩に構えたその瞬間――音が、空に溶けていった。
柔らかく、それでいて力強い旋律。かつての演奏とは少し違うかもしれない。でも、それは間違いなく――恭介の音だった。
まどかはそっと目を閉じて、仁美は胸に手を添えて、そしてさやかは――目を逸らさずに、その姿を見つめていた。
(……よかった。本当に)
今、この瞬間の恭介を見て、心からそう思えた。
(あたしの気持ちは、もう……ちゃんと、終われた)
まどかが隣で、幸せそうに笑っている。その笑顔を守れるなら、もう何も後悔なんてない。演奏が終わると、しばしの静寂のあと、拍手が起こった。
「すごく綺麗だったよ、恭介!」
「ええ……本当に、素敵でしたわ」
「ああ、ありがとう」
恭介は照れくさそうに笑いながら、ヴァイオリンをケースに収める。その後ろ姿を見ながら、さやかはふと、仁美の方へ目をやった。そして小さく声をかける。
「ねぇ仁美、恭介と話さなくていいの? 今ならチャンスだよ?」
仁美は一瞬、はっとしたように顔を上げた。その瞳が、恭介へと向かいかけ――次の瞬間、まどかの方へと移った。
「……いいんです」
小さく、笑った。でもその笑顔は、どこか寂しそうでもあった。
「それに、私は……」
その先の言葉は、続かなかった。まどかの横顔を見つめたまま、仁美はそっと目を伏せた。さやかの胸が、きゅっと締めつけられる。どうしてかは、うまく言葉にできなかった。でも、分かる気がした。
見上げた空には、雲の間から夕陽が差し込んでいた。それはまるで、今日の結末を静かに祝福するような、優しい光だった。
書いているうちに、「モテモテになりたい」という願いが、思った以上に“感情の書き換え”や“洗脳”のような重みを持ってしまっているんじゃということに気づいて、罪悪感を覚えながら書いていました。
でも――まどかは悪くないんです。
まどかは、そんなつもりじゃなかったんです。
無垢で優しくて、ただほんの少し憧れただけなんです。
だから、まどかは悪くないんです。
悪いのはキュゥべえです。すべてキュゥべえが悪いんです。
どうか……まどかのことは、許してあげてください。
これからもこんな感じで続いていくと思いますが、そんな感情の渦もひっくるめて、最終的には上手くハッピーエンドに辿り着けたらと思っています。