俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
「一週間とか二週間ならまだ分かるけど、一日くらいで? ちょっと大袈裟じゃない?」
あっ、確かに!?
白石雪乃は、人が多い場所が苦手だった。ざわめき、視線、熱気。あらゆる情報がノイズとなって、彼女の繊細な知覚ネットワークに過負荷をかける。だから『祝勝会』と聞いた時、彼女の心は憂鬱に曇った。しかしその憂鬱は、すぐに別の感情に塗り替えられた。
──隊長も、いらっしゃる。
そのたった一つの事実が、どんな喧騒もどんな人混みも耐えられるものへと変えてくれる。むしろ、これは好機かもしれない。
『祝勝会には各自、隊員にふさわしい華やかな服装で参加するように』
その通達を、雪乃は自室のパソコンの前で静かに読んでいた。麗奈のように自信に満ちたドレスで、他の人を圧倒することなど出来ない。陽菜のように明るい笑顔で、積極的にアピールすることも苦手だ。自分に出来るのは、自分らしいやり方だけ。
彼女は銀座や渋谷のきらびやかな喧騒を想像し、小さく身震いした。実店舗で店員と会話をしながらドレスを選ぶなど、彼女にとっては拷問に近い。だから彼女が向かったのは街ではなく、インターネットの海だった。無数のドレスが並ぶ高級通販サイト。彼女は、その膨大なデータの中から自分の目的を達成するための最適解を、冷静に、そして的確に探し始めた。
(麗奈さんはきっと黒か赤の、体のラインが出る攻撃的なドレスを選ぶ)
(陽菜さんは暖色系の、元気なイメージの短いドレス)
(ならば、私は…)
彼女の指が、一枚のドレスの画像の上でぴたりと止まった。それは淡い、空が白み始める夜明けのような、水色のドレスだった。肩を優しく露出させる、オフショルダーのデザイン。胸元からスカートの裾まで幾重にも重なった、柔らかなシフォンのフリル。それはまるで、一輪の儚い百合の花のようだった。
(…これなら、あまり目立たない)
(でも…)
(隊長だけはきっと、この人混みの中から私を見つけてくれるはず…)
彼女は迷いなくそのドレスを注文した。これは、ただのドレスではない。これは獲物たる隊長をおびき寄せるための、甘い香りを放つ美しい『罠』なのだ。
そして、祝勝会の夜。雪乃はその水色のドレスを纏い、鏡の前に立っていた。オフショルダーのデザインが彼女の透き通るような白い肌と華奢な鎖骨を際立たせる。ふわりとしたスカートは彼女のミステリアスな雰囲気を、更に引き立てていた。
その姿はまるで迷い込んだ妖精のよう。しかし、その清純で儚げな美しさこそが彼女の最強の武器だった。派手に自己主張する攻撃的な美しさではない。相手に「見つけさせて」「守らせて」「独占させる」ための、受動的でありながら最も狡猾な美しさ。
案の定、会場に着くと彼女はその喧騒に少しだけ眩暈を覚えた。麗奈と陽菜が早速、隊長の周りで火花を散らしているのが見える。
(…どうぞ、お二人でおやりなさい)
雪乃は心の中で静かに呟いた。彼女たちが派手に争ってくれればくれるほど、己の『罠』はより効果的に機能するのだから。
雪乃は人混みを避けるように、すっと会場の隅にあるテラスへと続くガラスのドアの方へと移動した。そして夜景を眺めるふりをしながら、一人寂しげに佇んだ。そのか弱く孤独な美女の姿は、パーティーの華やかな雰囲気の中で逆に異様なほど人の目を引いた。特に正義感が強く、そしてお人好しな──あの人の目を。
「どうしたんだい? 雪乃。一人で、こんな所にいて」
──来た。
雪乃は心の中で勝利を確信した。振り返ると案の定、心配そうな顔をした橘隊長が立っていた。
「…隊長…」
雪乃は驚いたような、そして嬉しそうな表情を作って彼を見上げた。
「…いえ、あの…人ごみが、少し苦手で…」
その声は、わざとか細く震わせた。
「そうか。確かに、すごい人だからな…気分でも、悪いのか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます…」
彼女はそこでふわりと微笑んだ。そして、最後の一撃を彼の心にそっと打ち込む。
「…でも隊長が、こうして隣にいてくだされば、とても安心です」
上目遣いで、そう囁く。その儚げな笑顔と絶対の信頼を込めた瞳のコンボ攻撃。橘は一瞬言葉を失い、そして彼の庇護欲が完全にオンになったのが雪乃には手に取るように分かった。
(…かかった)
麗奈のように物理的に隣をキープするのではない。陽菜のように強引に気を引くのでもない。「私が、あなたを必要としています」と相手に思わせることで、自ら隣に来させる。これこそが雪乃の戦い方。彼女は、まんまと罠にかかった獲物を二人だけの空間へとゆっくりと引きずり込んでいく。
だが、その甘い時間は長くは続かなかった。あの酔っ払った無神経な高官の一言。
「銀座へ繰り出さんかね?」
その言葉は、雪乃が丹精込めて作り上げた静かで美しい世界を土足で踏み荒らす冒涜だった。雪乃の儚げな微笑みが、ぴしりと固まった。彼女の瞳の奥で何かが静かに、そして確かに砕ける音がした。
(…この男は今、何を…?)
(隊長を、私の光を…連れて行こうと…?)
一瞬本気でこの男のグラスの中に、懐に忍ばせていた即効性の神経毒を混入させようかと考えた。
その思考は怒りや憎しみといった、熱い感情ではなかった。それはもっと冷たく、もっと純粋なもの。完璧に構築されたシステムに侵入したバグを駆除するような、極めて合理的な判断だった。
雪乃の世界は橘隊長を中心に回る、完璧な閉鎖系ネットワーク。そのネットワークを外部から汚染しようとする存在は、例外なく排除対象となる。この男は今、そのトリガーを引いた。雪乃の儚げな微笑みは音もなく消え失せ、その顔は感情の抜け落ちた白磁の人形のようになる。瞳の奥、静かな光だけが男の存在を「エラー」として認識していた。
彼女の意識はドレスの奥、太腿に巻かれたガーターベルトに隠された、一本の万年筆へと向かう。それは見た目こそ高級筆記具だが、その実態は雪乃が独自に開発した極小の注射器。キャップを外せば、僅か0.5ミリの針が現れる。
内部には中枢神経を数秒で麻痺させる、無色透明の液体が充填されていた。いつでも隊長を守れるように、いつでも
雪乃の頭脳が、瞬時に最適な暗殺シークエンスを構築する。まず、わざとよろめき男に接近。謝罪の言葉と共に彼の注意を引く。その隙に万年筆を取り出し、針を彼のグラスの縁に沿って滑らせる。液体が一滴、シャンパンの泡に紛れて溶けていく。
任務完了まで、おそらく2秒とかからない。男は十数秒後に心臓発作のような、症状を起こして倒れるだろう。パーティーの喧騒の中、誰も毒殺だとは気づかない。
完璧な計画。
完璧な排除。
彼女の指先がドレスの生地の上から、そっと冷たい万年筆の感触を確かめる。あとは、実行するだけ。神を冒涜した愚かな男を、この世界から静かに消去するだけ。その白く細い指が決意を固め、行動に移ろうとしたその瞬間。それを止めたのは、愛する隊長の声だった。
「特別な訓練が控えておりますので!」
(……とくべつな、くんれん…?)
雪乃は小さな鳥のように、こてんと首を傾げた。高官が去った後、彼女の頭の中はその言葉でいっぱいになった。麗奈と二人きりの狙撃の訓練? 陽菜と二人きりの体力トレーニング?
(……それとも)
その可能性に思い至った瞬間、雪乃の白い頬がぽっと桜色に染まった。彼女の頭脳がいつものように、あらゆる可能性を高速でシミュレートし始める。
(麗奈さんは狙撃訓練。陽菜さんは体力トレーニング。それは彼女たちの特性を考えれば妥当な線…)
(では私との『特別な訓練』とは、一体…?)
最初は純粋なものだった。
(もしかして…私と二人きりのハッキングの自主練…?)
(この後隊長室で二人きりになって朝までパソコンと向き合って…?)
(きゃ♡)
それは雪乃にとって、考えただけで心臓がどうにかなってしまいそうなほどの、幸せな妄想だった。誰もいない、静かな隊長室。カチャカチャという、二人のキーボードの音だけが響く。難しい暗号に雪乃が頭を悩ませていると隊長が後ろからそっと手元を覗き込む。
『雪乃、ここはこうじゃないか?』
そう言って、雪乃の肩越しに手を伸ばしキーボードを叩く。彼のタキシードの袖が頬を優しくかすめる。耳元で彼の低い落ち着いた声がする。彼の温かい呼吸を感じる…。それだけでも集中できない。きっと己の
(でも…本当にそれだけ…?)
雪乃の思考は、更に深く深く潜っていく。隊長はあえて、「訓練」という曖昧な言葉を使った。それはきっと、言葉の裏にもっと深い意味を隠しているからに他ならない。
「夜」に「二人きり」で雪乃と「特別な訓練」。ハッキング 情報処理 セキュリティ突破…。雪乃の得意分野。
雪乃の何を「ハッキング」するというのだろうか。雪乃のどんな「情報」を「処理」するというのだろうか。雪乃の心の「セキュリティ」を「突破」するというのだろうか。
(…あっ)
その時雪乃の思考回路に一つのとんでもないしかしあまりにも魅力的な仮説が閃光のように走った。
(まさか…)
(私という人間の、ハッキング…?)
(白石雪乃という女を、ハッキングする…!?)
その考えに至った瞬間、雪乃の体温が急激に上昇した。普段は氷のように冷静な彼女の思考が、沸騰したようにぐらぐらと揺れる。
(う、嬉しい…!)
なんてことだ。なんて詩的で官能的なお誘いなのだろうか。麗奈のように肉体を直接的に求めるのでもなく、陽菜のように感情をぶつけ合うのでもない。
雪乃にだけ分かるように。雪乃の最も得意とするフィールドで。雪乃という存在そのものを解き明かし、支配するという宣言。
(きゃ♡)
隊長はやはり、雪乃という女の全てを理解している。彼女はそう確信した。
この誰にも必要とされなかった、空っぽの身体。この誰にも触れられることのなかった、複雑で難解な心。その全てを彼のその巧みな『手』で解き明かしてくれるというのだ。
それはルート権限の奪取に似ている。雪乃の心のファイアウォールを彼の強引な、しかし優しいアプローチで突破して。幾重にも張り巡らされたトラップを無効化し未知の脆弱性を突くようにして。誰もたどり着けなかった領域へと、侵入してくる。その侵入の熱に、雪乃の回路は灼かれ思考は甘く痺れていく。
雪乃の複雑に絡み合った、過去の暗号化された
ネグレクトという名の圧縮ファイルを解凍し。
孤独という名の破損データを修復し。
自己否定という名のマルウェアを駆除していく。
その過程で彼女の最も見られたくない、無様な部分が全て彼の目に晒される。その羞恥すらも、彼にとってはきっと愛おしいものなのだろう。
そして雪乃の一番奥深くにある、聖域。秘密のフォルダにアクセスするのだ。そこには雪乃という存在を定義する、たった一つのプログラムが眠っている。生きる意味を見出せず、何度も自らを消去しようとした欠陥品。その存在意義そのものである、ソースコード。それを彼の名前で、上書き保存してくれるというのか。
嗚呼、なんてこと。なんて甘美で背徳的なハッキングなのだろうか。己の全てが隊長の色に染められていく。己の全ての思考が、隊長によってコントロールされていく。それは最高の服従であり最高の喜び。
(もうっ! 隊長ったら、本当に意地悪な御方…)
(そんな回りくどいことをしなくても、私の
でも、っと雪乃は思う。そうやって一つ一つ手順を踏んで、雪乃という女を攻略していく過程。それを隊長は、楽しみたいのだろう。己の抵抗(という名の媚態)を、試したいのだろう。
(いいでしょう、隊長。その知的なゲーム…今夜はとことんまで、お付き合いいたします♡)
「…あの、隊長…」
爆発しそうな期待と羞恥心を、か細い声に乗せて。雪乃の指先は、ほんの僅かに震えていた。彼女は橘のタキシードの袖をちょんと小さな指でつまんだ。
「その『特別な訓練』というのは…私も参加させて頂けるのでしょうか…?」
さあ、肯定してください隊長。私をあなただけの、秘密のレッスンに誘ってください。雪乃はその水色のドレスの奥で、来るべき至福の(とてつもない勘違いの)夜を想い期待に胸を震わせていた。
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(参加? …ハッ、こっちから願い下げだわ…!!!)
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