俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ   作:最高司祭アドミニストレータ

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「「「流石は橘隊長だ!」」」

ふざけるナァー!!!! 俺がどれだけ、苦しい思いをしていると思ってる? 最近では「ハゲ予防薬」を飲んでる程なんだぞ!!!!


#7 聖人君子伝説の始まり
伝説の目撃者 - (モブ職員たち 視点)


 噂は水面に投げ込まれた小石が作る波紋のように静かにしかし確実に警視庁という巨大な組織の隅々まで広がっていった。

 

 その中心にいるのは、一人の男。『特四』を率いる、若き隊長橘圭一。祝勝会の翌日から庁内の空気は、明らかに彼を中心に変わり始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

【喫煙所にて - 捜査一課・田所の証言】

 

 

「…マジで痺れたぜ」

 

 

 昼下がりの紫煙が立ち込める喫煙所。そこは警視庁という巨大組織の血管を流れる情報という血液が、一時的に澱み交わる淀んだ溜まり場だった。

 

 捜査一課の刑事•田所は、深く煙を吸い込みそれをため息と共に吐き出した。その煙は彼の鬱屈した感情そのもののように天井へと昇りそして消えた。彼の周りには同じように休憩時間を過ごす、数人の同僚たちが集まっている。彼らの顔には連日の捜査で蓄積した疲労と、変わらない日常への諦観が浮かんでいた。

 

 

「何がです? 田所さん」

 

 

 若い刑事が訝しげに尋ねる。その問いに田所はすぐには答えなかったが、やがて口を開いた。

 

 

「決まってんだろ。昨日の祝勝会での橘隊長だよ」

 

 

 彼はまるで伝説を語り継ぐ吟遊詩人のように、ゆっくりと間を溜める。語るべき物語の価値を、自覚している者のそれだった。

 

 田所はあの日、祝勝会の会場の隅で同じようにグラスを傾けていた。彼の手には安物のビール。目の前には手付かずのエナジードリンク。

 

 その視線の先には常に、一人の男がいた。橘圭一。その存在は田所にとって、不愉快さの象徴だった。自分たちが汗と泥にまみれてホシを追い詰めている間に、涼しい顔でキャリアの階段を駆け上がっていくエリート。

 

 父親の権力を傘に着た、七光りのボンボン。その認識は祝勝会が始まってからも、変わらなかった。それどころか彼の周りを固める三人の美女たちの存在が、その感情を更に強固なものとしていた。

 

 まるで自分だけが、世界の王であるかのように振る舞うその姿。田所は苦々しい思いで、それを見つめていた。

 

 だが、その認識が根底から覆される瞬間が訪れた。権力とアルコールの化身である、木下局長が橘に絡んでいった時だ。田所はその光景を高みの見物を決め込んでいた。どうせ断れずに付き合わされるのだろう、と。七光りの脆さを嘲笑ってやろうとすら、思っていた。

 

 しかし、橘は違った。彼は一瞬たりとも、顔色を変えなかった。その背筋は驚くほど真っ直ぐに伸びていた。そしてあの権力の象徴の前で、きっぱりと言い放ったのだ。

 

 

「だがな? 違ったんだよ。あの酔っ払った木下局長が、橘隊長に絡んでいった時だ。『銀座へ繰り出さんかね?』とか下品なことを言ってな。…正直俺は、『若い隊長は断れずに付き合わされるんだろうな』って高みの見物を決め込んでた」

 

 

 田所は灰皿に長く伸びた灰を落とした。

 

 

「そしたらどうだ? 橘隊長は一瞬たりとも顔色を変えなかった。それどころかあの権力の化身みたいな局長の前で、きっぱりと言い放ったんだ。『この子たちには明日、特別な訓練が控えておりますので』ってな」

「へえ…!」

 

 

 若い刑事が感嘆の声を上げる。

 

 

「ああ。しかもその言い方が、また完璧だったんだよ。局長の顔を立てつつも断固として部下を守るという、強い意志を感じさせた。あの若さであの胆力、並じゃねえ。俺たちが普段、どれだけ上から理不尽な誘いを断れずにいるのか考えたら、分かるだろ…彼は本物だよ。部下を何よりも大切にする真のリーダーだ」

「おお〜!!!」

 

 

 その声に、田所は満足げに頷いた。そうだ驚くがいい。だが本当に驚くべきはその言葉の内容だけではない。その言い方、その態度、その場の空気の支配力。その全てが完璧だったのだ。田所の脳裏にあの時の光景が鮮明に蘇る。

 

 橘の声は、決して大きくはなかった。しかしその場にいた誰もが聞き取れるほど、明瞭でそして揺るぎない響きを持っていた。それは局長の顔を立てている。

 

「明日」という逃げ道を用意し、彼の誘いを「今日は都合が悪い」という形で処理している。だが同時に、その言葉は断固とした拒絶だった。「特別な訓練」という言葉。それは部外者には窺い知ることの出来ない、特四だけの聖域を示唆していた。それはつまり「我々の領域に土足で踏み入ることは許さない」という、暗黙の牽制。

 

 局長の権力ですら及ばない絶対的な壁の存在を、その場にいる全員に知らしめたのだ。

 

 そして何より田所を震わせたのは、その時の橘の瞳だった。その瞳は局長を見ていなかった。

 

 いや、見てはいたのだろう。だがその焦点はもっと別のものに向けられていた。彼の部下たち。三人の美女たちだ。その視線は驚くほど優しく、そして慈愛に満ちていた。それはまるで、傷つきやすい猛獣を庇う飼育員。あるいは嵐から雛鳥を守る、親鳥のようだった。

 

 彼は部下たちを、ただの「駒」として見ていない。守るべき「家族」として見ている。その事実が言葉以上に、雄弁に彼のリーダーとしての資質を物語っていた。

 

 田所は自分自身を省みる。自分はどうか。上からの、理不尽な命令に逆らえたことがあるか。面倒な誘いを断りきれず、部下を巻き込んでしまったことはないか。答えは否だ。組織の中で生きるということは、そういうことだと自分に言い聞かせてきた。

 

 だが橘は違った。彼は巨大な組織の論理に屈しない。自らの信念と部下への愛情を貫く。その若さで。あの立場で。

 

 田所の言葉には昨日の嫉妬にまみれていた響きは、微塵もなかった。そこにあるのは純粋な、尊敬の念だけだった。彼はもう一度、短くなった煙草を深く吸い込んだ。その煙はもう、ただの煙ではなかった。

 

 それは一人の男への畏敬の念であり、自らへの不甲斐なさを洗い流す、浄化の煙でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

【給湯室にて - 女性事務官たちの会話】

 

 

 

「ねえ、聞いた? 橘隊長のこと」

 

 

 昼休みの給湯室は女性職員たちの聖域であり、情報交換所と化していた。コーヒーの香りと微かな噂話の甘い匂いが、混じり合うその空間。一人の噂好きの女性事務官•佐藤が、興奮気味に声を潜めて切り出した。彼女の目は普段の退屈な事務作業では決して見せることのない、好奇心とロマンスへの渇望で輝いていた。その輝きは周囲にいた同僚たちにも、瞬く間に伝染する。

 

 

「昨日の祝勝会、すごかったんですって! あの特四のモデルさんみたいな、三人の美女いるでしょ? あの子たちパーティーの間中、ずーっと橘隊長の側を離れなかったらしいのよ!」

 

 

 昨日の祝勝会。それは一部の幹部と現場の人間だけが参加を許された、特別な宴。参加できなかった多くの事務官たちにとって、その内情はベールに包まれた未知の世界だった。だからこそ佐藤がもたらした「内部情報」は、乾いたスポンジが水を吸うように彼女たちの心を潤していく。

 

 

「えー! マジで!?」

「マジマジ! 料理を『あーん』してあげたり、飲み物を甲斐甲斐しく運んだり、まるでお姫様を守る騎士みたいに、周りを固めてたんだって!」

「お姫様が橘隊長、騎士が彼女たち…ありだわ♡」

 

 

 佐藤の脳裏には完璧な光景が広がっていた。きらびやかなシャンデリアの下タキシード姿の美しい、王子様の橘圭一。そしてその王子を守るように寄り添う、三人の女神たち。

 

 黒いドレスの女神は彼の影となり、その知性で彼を支える。オレンジのドレスの女神は彼の光となり、その笑顔で彼を癒す。水色のドレスの女神は彼の心そのものとなり、その儚さで彼に寄り添う。なんと美しい主従関係。なんと完璧なハーレム。

 

 だがそれは、下品なそれとは違う。もっと神聖で尊い絆で結ばれた、運命共同体。

 

 給湯室にきゃあという、黄色い悲鳴が上がる。それは嫉妬ではない。純粋な憧れの発露。彼女たちの日々は単調だ。数字と書類と、無機質なパソコンの画面。そこにロマンスなど入り込む余地はない。だからこそ彼女たちは、物語に飢えている。自分たちの退屈な日常を忘れさせてくれるような、ドラマチックな物語に。

 

 そして今橘圭一という男が、その最高の主人公として現れたのだ。

 

 

「なんなの、そのハーレム! 橘隊長、一体、どんな魔法を使ってるのかしら!?」

「それがね」

 

 

 佐藤は更に声を潜めた。ここからが物語の核心。ただのイケメンエリートと、美女たちのハーレム物語ではない。この物語にはもっと深い、感動の要素が必要だ。

 

 

「噂によるとあの子たち、皆心に深い傷を負ってるらしいの。警察学校でも他の部署でも、誰も手に負えなかった問題児だったって」

 

 

 佐藤はどこかで聞きかじった、特四の設立経緯に関する噂を思い出す。新設された謎の部隊。そこに集められたのは、いずれも腕は立つが精神的に問題を抱えた「訳あり」の人間たち。その断片的な情報が佐藤の想像力という名の触媒によって、化学反応を起こし美しい物語へと昇華される。

 

 そうだ。あの子たちはただ美しいだけではない。傷ついているのだ。誰にも理解されない孤独を抱え、その強すぎる力を疎まれてきた可哀想な子羊たちなのだ。その設定は物語に、深みと陰影を与える。

 

 

「ええっ!? あんなに綺麗で可愛いのに?」

 

 

 同僚の驚きの声が佐藤の想像をさらに加速させる。そうだ。そのギャップこそが、素晴らしい。完璧に見える人間が抱える、闇。その闇を照らす、唯一の光。それが、橘圭一。

 

 

「そう。でも橘隊長だけが彼女たちの、その心の闇を理解して、優しく受け止めてあげてるんですって。まるで海よりも深い愛情で傷ついた小鳥を、そっと包み込むように…」

 

 

 彼女の語る物語はもはや事実とはかけ離れた、美しいメロドラマへと昇華されていた。橘は、ただの上司ではない。彼はカウンセラーでありセラピストであり、救世主なのだ。彼はきっと一人一人の目を見て、彼女たちの過去の傷に耳を傾けたに違いない。

 

 

 麗奈の凍てついた心をその温もりで溶かし。

 陽菜の有り余る力を正しい道へと導き。

 雪乃の消えかけた命の灯火をその優しさで再び灯した。

 

 

 彼は力ずくで、彼女たちを支配しているのではない。海よりも深い愛情と底なしの包容力で、彼女たちの魂そのものを救済したのだ。

 

 

「だから、あの子たちも、橘隊長にだけは、心を開いて、絶対の信頼を寄せてるのよ。素敵よ…! 素敵すぎる…!」

「分かる…! 私も、そんな上司の下で働いてみたい…! 傷ついた心を優しく、癒してもらいたい…!」

 

 

 彼女たちの瞳は、完全に夢見る乙女のそれだった。自分たちもまた傷ついた存在。この巨大で無機質な組織の中で誰にも理解されずに、心をすり減らしている。そんな自分たちの姿を、特四の美女たちに重ね合わせる。そしていつか白馬に乗った王子様•橘圭一、が自分たちをも救いに来てくれるのではないかと夢想する。

 

 橘圭一という存在は彼女たちの中で、「理想の王子様」として完璧に偶像化されていた。この給湯室で生まれた小さな物語は昼休みが終わると共に庁内の隅々へと広がっていく。

 

 

 コピー用紙に乗って。

 内線電話に乗って。

 メールに乗って。

 

 

 噂は人の口から口へと伝わるうちに、更に美化され神格化されていく。橘圭一は、もはやただの人間ではなかった。

 

 

 彼は伝説。

 彼は希望。

 

 

 彼はこの乾いた職場に舞い降りた、一人の聖人なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

【庁内廊下にて - あるベテラン警部の独白】

 

 

 

 警視庁の長い廊下。

 

 ベテランの斎藤警部は腕を組み、壁に寄りかかりながら向こうから歩いてくる、一人の若者の姿をじっと見つめていた。

 

 橘圭一。斎藤もまた昨日の祝勝会に出席していた。そして彼は他の者たちが見ていないある、「決定的な瞬間」を目撃していたのだ。それは祝勝会の終盤。三人の美女たちが橘隊長を取り囲み、何かを詰め寄っていたあの場面。

 

 遠目からでは、何を話しているかまでは分からなかった。だがその場の異様なまでの緊張感は、肌で感じ取れた。三人の美女たちがそれぞれ一歩も引かないという、強い意志を瞳に宿していたこと。そしてその一触即発の状況の中心で、橘隊長が追い詰められているように見えたこと。

 

 

(普通の若造ならあの場でパニックになるか、あるいは誰か一人を選んでその場を収めようとするだろう)

 

 

 斎藤はそう分析していた。

 

 

(だが、彼は違った)

 

 

 橘は最終的にどうしたのか。斎藤は見ていない。彼が何かを言う前に祝勝会はお開きの時間を迎えたからだ。重要なのは、そこではない。重要なのはあれだけの修羅場(に斎藤には見えた)の中心にいながら彼が最後まで冷静さを失わなかったこと。そしてその場にいた誰一人として傷つけなかったことだ。

 

 それは驚くべきバランス感覚と器の大きさだった。

 

 

(あの若さで、あの三頭の猛獣を手懐けている。しかも力でねじ伏せるのではなく、それぞれのプライドも立場も尊重しながらだ。並の人間業ではない)

 

 

 やがて橘が、斎藤の前を通り過ぎようとした。その時、斎藤は無意識に背筋を伸ばし完璧な敬礼を送っていた。橘は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに穏やかな聖人のような微笑みを浮かべ、軽く会釈を返して通り過ぎていった。

 

 

 その物腰の柔らかさ。

 その涼やかな佇まい。

 

 

 斎藤は確信した。あの男は本物だ。我々が失いかけている、古き良き武士のような魂を持っている。彼の下ならば安心して、命を預けられるだろう。斎藤は橘の頼りがいのある(ように見える)後ろ姿を、深い尊敬の念を込めて見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 こうして、伝説は生まれた。本人の内心の絶叫など、誰も知る由もなく。橘圭一は彼の意思とは全く無関係な場所でゆっくりと、しかし確実に『聖人』へと祭り上げられていくのだった。




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