俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ   作:最高司祭アドミニストレータ

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俺は悪くない! 無実なんだ!

「「「隊長♡」」」

ひっ。


勘違いの渦の中心で - (橘圭一 視点)

 特四隊長室。そのマホガニーのデスクの上で、橘圭一は死んでいた。正確には死んだ魚のような目で、天井の一点を見つめていた。彼の周りには空になった、胃薬のボトルが数本無造作に転がっている。もはや気休めにすらならない、ただのゴミだ。

 

 

(なんでこうなった!?)

 

 

 橘は心の中でここ数日間で千回は繰り返したであろう、その問いを再び絶叫した。おかしい。何かが致命的におかしい。最近の庁内のこの異常なまでの雰囲気は、一体何なんだ。

 

 すれ違う職員たちが、やけに丁寧にお辞儀をしてくる。それも、ただの上司に対するものではない。まるで高名な武道の達人か生き神様にでも会ったかのような、畏敬の念のこもった深々としたお辞儀だ。

 

 食堂へ行けば遠巻きに「あれが、あの…」「本物だ…!」などという、囁き声が聞こえてくる。そして向けられる、尊敬と憧れの熱い視線。昨日などは他部署の若い生真面目そうな男に呼び止められ、こう相談されたのだ。九十度の角度で頭を下げて。

 

 

『橘隊長! 突然申し訳ありません! 俺、どうすれば隊長のように部下と固い信頼関係を築くことが出来ますか!? 是非ご指導ご鞭撻のほどお願いします!』

 

 

(知るかそんなもん!!!)

 

 

 橘はデスクに突っ伏し、頭をかきむしった。

 

 

(俺が知りたいわ! 俺はただ美女三人衆にいつ物理的にあるいは社会的に殺されるか、分からなくて毎日ビクビクしながらその場しのぎの嘘と引きつった愛想笑いを振りまいてるだけの、哀れ男なんだよ!)

 

 

 信頼関係? なんだそれは。食えるのか? 橘とあの三人の間にあるのは、そんな美しいものではない。あるのは捕食者と被食者の間に存在する、緊張感と恐怖だけだ。

 

 全ての元凶は、あの祝勝会。橘は地獄の夜を思い出す。あの「特別な訓練」発言。あれはただあの酔っ払った高官から、一刻も早く逃げ出すための方便だった。それ以外の意味など、何もない。なのに、どうだ? 

 

 翌日麗奈からは「隊長。例の『特別な訓練』ですがいつどこで行いましょうか? 私の私室でも構いませんことよ?」と耳元で囁かれた。

 

 陽菜からは「隊長! 特別な体力トレーニング楽しみです! 私いつでも準備万端ですよ! 今夜からでも!」と満面の笑みで言われた。

 

 雪乃からは「…あの隊長…。『特別な訓練』の予習をしてきました…。いつでも始められます…」と潤んだ瞳で見上げられた。

 

 三人が三人とも、自分と二人きりの夜の何かあらぬ訓練を行うものだと、完全に勘違いしている。あの地獄を、どうやって乗り切ったのか。橘はもうよく覚えていない。ただ、胃が口から飛び出すかと思ったことだけは確かだ。

 

 そしてあの最後の裁判。『誰が一番か』という悪魔の質問。あの時、橘はどうしたか。橘は必死で記憶を辿る。脳の奥底にしまい込んでいた、忌まわしい記憶の蓋を無理やりこじ開けるように。

 

 そうだ。彼は完全に思考が停止し、失神寸前になった。三方向から放たれる、圧倒的なプレッシャー。それは物理的な質量を伴って彼の精神を圧迫し、正常な思考能力を奪っていった。麗奈の期待。陽菜の期待。雪乃の期待。三つの純粋で歪んだ期待が、彼の脳を灼き切ろうとしていた。

 

 絶体絶命の窮地。彼の本能が生存のための、最後の手段を探し求めた。そして引きずり出してきたのは、過去の成功体験という名の最悪の記憶。

 

 それは、学生時代のことだった。大した努力もせず親の七光りと外面の良さだけで生きてきた橘は、女性に不自由しない青春を送っていた。つまり、モテまくりだったのだ。

 

 そして、一度だけあったのだ。

 

 クラスの違う三人の女子生徒から同時に、体育館裏に呼び出され告白されるという少女漫画のようなシチュエーションが。あの時、橘はどうしたか。誰か一人を選ぶことのリスクを、瞬時に計算した。一人を選べば、残りの二人から何をされるか分からない。

 

 面倒な修羅場は、絶対に避けたかった。だから彼は使ったのだ。どこかの安っぽい恋愛マニュアルに載っていたような、その場しのぎの最低のセリフを。橘の口はあの時と全く同じ言葉を、無意識に紡ぎ出してしまったのだ。

 

 

『君たちはそれぞれが、世界でただ一つの美しい花だ。薔薇の美しさと向日葵の美しさと百合の美しさを、比べることなど誰にも出来はしないよ。だから、僕からの答えはこうだ。──全員が一番だ』

 

 

 口にした瞬間、橘は全てが終わったと思った。学生時代の女子生徒とは、訳が違う。彼女たちは、理性のタガが外れた三体の悪魔。あんなキザで中身のない誰にでも言っているようなセリフで、彼女たちが納得するはずがない。

 

 むしろその不誠実さに見せかけの平等さに激昂し、火に油を注ぐだけだ。橘は目を固く閉じ、これから自分の身に降りかかるであろう物理的な暴力と精神的な陵辱を、覚悟した。

 

 だが、予想された衝撃はいつまで経ってもも、やってこなかった。代わりに聞こえてきたのは、うっとりとした溜め息。恐る恐る目を開けると、そこには信じられない光景が広がっていたのだ。

 

 麗奈はそれを三人の特性を完璧に把握した上での、王の采配と受け取り。

 陽菜はそれを全員に優しいフリをしつつも、本当は自分を選んでいるという照れ隠しと受け取り。

 雪乃はそれを三人の危険なバランスを保つための、神の如き深謀遠慮と受け取った。

 

 全員の目は「♡」だった。やったね! 

 

 

(俺のバカーーっ!!!)

 

 

 橘は再び、頭をデスクにゴンゴンと打ち付けた。あんなキザで中身のない誰にでも言ってるようなセリフで、あいつらが納得するはずがない! むしろ火に油を注ぐだけだ! ……そう思っていたのに。なのに。なぜかあの三人はあの言葉を聞いて、うっとりとした恍惚の表情を浮かべていやがった。

 

 

『さすが隊長ですわ♡』

『もー隊長ってばズルい! でも大好き! きゃ♡』

『全てをお見通しなのですね♡』

 

 

 などとそれぞれがまた、最高に都合のいい解釈をしやがって。結果として橘は、「三人の美女を完璧に手懐ける器の大きい理想の上司」ということになってしまったらしい。

 

 

(違う! 俺はただ死にたくなかっただけだ!)

 

 

 高官から部下を庇ったように見えたのも、ただあいつらの機嫌を損ねて祝勝会が文字通り血の海になるのを防ぎたかっただけだ。橘の全ての行動は恐怖と保身と、ほんの少しの下心だけで形成されている。そこに聖人君子的な要素など、一ミクロンたりとも存在しない。

 

 なのにだ。なのになぜ、庁内のカリスマに祭り上げられてしまっているんだ。

 

 

(もう辞められない…!!)

 

 

 その絶望的な事実に、橘は打ちのめされる。こんな状況で「仕事が辛いので辞めます」なんて言ってみろ。間違いなくこうなる。

 

 

『あの聖人君子が辞職!? 一体なぜ!? 何かこの警視庁という組織に、よほどの裏切りや腐敗でもあったのではないか!?』

 

 

 余計なあらぬ疑いをかけられ、一大スキャンダルに発展するに決まっている。そうなれば父の顔にも泥を塗ることになる。勘当からの無一文コース待ったなしだ。逃げ道は完全に塞がれた。物理的にも社会的にも。

 

 橘はふらふらと立ち上がった。そしてデスクの上の胃薬の空のボトルを、ゴミ箱へと投げ捨てた。もうこんな生ぬるいものでは、ダメだ。彼はデスクの一番奥の鍵のかかった、引き出しを開けた。中には医者に無理を言って処方してもらった、強力な精神安定剤が入っている。

 

 彼はその小さな錠剤を数錠取り出すと、水もなしにガリガリと噛み砕いた。苦い化学物質の味が、口の中に広がる。

 

 そして、橘は決意した。鏡に映る自分の顔を見つめる。そこには疲れ果て隈の出来た、哀れな男が映っていた。

 

 

(…ダメだ。こんな顔じゃ)

 

 

 彼は鏡に向かって、ゆっくりと口角を上げた。いつもの穏やかで全てを包み込むような、慈愛に満ちた微笑み。『聖人・橘圭一』の完璧な仮面。

 

 

(こうなったらもう、演じきってやる…!!)

 

 

 彼の瞳に諦観と、狂気にも似た覚悟の光が宿る。

 

 

(完璧な『理想の上司』を)

(完璧な『聖人君子』を)

(全ては!! このクソったれな地獄で、一日でも一時間でも一秒でも長く生き延びるために!!!)

 

 

 その顔には悲壮な覚悟と絶望に満ちた、誰がどう見ても完璧な聖者の笑みが浮かんでいた。橘圭一の新たなる戦いが、今幕を開けた。それは世界を救う戦いではない。ましてや、正義のための戦いでもない。

 

 ただひたすらに自分自身の平穏な(しかしもう二度と手に入らないであろう)、日常を取り戻すための孤独で滑稽で、あまりにも悲しい戦いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 

【オマケ:悪夢 - 迷宮】

 

 

 

 その夜、橘圭一は気づけば自宅ではない場所にいた。どうやら此処は、警視庁の廊下らしい。しかし、どこかおかしかった。どこまで歩いても、同じ景色が続くのだ。白い壁、無機質なドア、そして等間隔に並ぶ蛍光灯。

 

 まるで無限に続くループ。橘は焦っていた。何からかは分からない。だが何か恐ろしいものから逃げなければならないという、本能的な恐怖が彼を突き動かしていた。

 

 

(ここから出なければ…!)

 

 

 彼は無我夢中で走り出す。革靴の音が、やけに大きく廊下に響き渡る。だがいくら走っても、景色は変わらない。絶望が彼の心を支配し始めた、その時。背後から声が聞こえた。

 

 

「お待ちください、隊長」

 

 

 鈴が鳴るような美しい、しかし氷のように冷たい声。麗奈だ。橘は振り返らずに、更に速度を上げる。だが声は、すぐ背後から聞こえてくる。物理的な距離を無視して。

 

 

「どこへ行かれるのですか? あなたの進むべき道は、私が示して差し上げますのに」

 

 

 ふと橘は自分の足元に、赤い線が引かれていることに気づいた。それはまるでレーザーサイトの光。その線は彼の歩む一歩先を、常に照らし続けている。どこへ逃げようとしても赤い光は寸分の狂いもなく、彼の進路を予測し導くように伸びていく。

 

 それは導きではない。それは宣告。お前は私の掌の上だという、絶対的な支配の宣言。橘は恐怖に駆られて、角を曲がる。その瞬間、目の前に麗奈が立っていた。彼女は黒いドレス姿で、愛用の狙撃銃を静かに構えている。そのスコープが、橘の眉間を正確に捉えていた。

 

 

「見つけましたわ、隊長。さあ、こちらへ。二人だけの『特別な訓練』を始めましょう」

 

 

 スコープの奥で彼女の瞳が妖しく輝く。橘は絶叫し、反対方向へと走り出した。

 

 

(助けてくれ!!!)

 

 

 彼は無我夢中でドアノブに手をかけ、一番近くの部屋へと飛び込んだ。そこは、なぜか職員食堂だった。だが、やはり様子がおかしい。テーブルの上にはありえないほど、山盛りの唐揚げが延々と並んでいる。その唐揚げの山の頂上に、陽菜が座っていた。

 

 彼女はオレンジ色のドレス姿で、屈託のない笑顔を浮かべている。その手には、巨大な骨つき肉。

 

 

「あっ、隊長! こんな所にいたんですね!」

 

 

 彼女は唐揚げの山から、軽やかに飛び降りる。ドシンという地響きと共に床が揺れた。

 

 

「もう! 心配したんですよ! さあ隊長! お待ちかねの『特別な訓練』です! まずは腹ごしらえから!」

 

 

 彼女はそう言うと、自分の食べていた骨つき肉を橘の口元へと差し出した。それは橘の頭ほどもある、巨大な肉塊だった。

 

 

(食えるかこんなもん!)

 

 

 橘は後ずさる。だが陽菜は、笑顔のまま距離を詰めてくる。

 

 

「遠慮しないでくださいよー! これを全部食べないと夜の体力トレーニングは始められませんからね! 私との特別な訓練のために……きゃ♡」

 

 

 その瞳は、純粋な善意と好意に満ちている。だからこそ、恐ろしかった。彼女の純粋さは時にどんな悪意よりも、暴力的になることを橘は知っている。橘は食堂の扉へと走り、脱出しようとする。しかし扉は開かない。ガシャンという音と共に、扉は内側から分厚い鉄板で塞がれてしまった。陽菜が投げつけたお盆が、扉にめり込んでいる。

 

 

「だめですよ〜? デザートまでちゃんと、食べていってくださいね♡」

 

 

 彼女はそう言うと近くにあった、テーブルを軽々と持ち上げた。それはもはや、懇願ではない。それは、選択の余地のない命令。橘は恐怖に顔を引きつらせながら、食堂の窓へと向かう。ここから飛び降りればあるいは。だが窓の外は、暗闇ではなかった。そこは無数のコードとディスプレイが明滅する!電子の海だった。

 

 

(なんだここは!?)

 

 

 彼が困惑していると、窓ガラスの向こう側からすうっと一つの影が現れた。雪乃だ。彼女は水色のドレス姿で宙に浮き、その虚な瞳で橘を見つめている。彼女の周りには無数のウィンドウが展開され、その全てに橘の顔映し出されていた。

 

 笑った顔、困った顔、眠っている顔。そして今、恐怖に引きつっている顔。彼のプライベートの全てが、そこには記録されていた。

 

 

「…見つけました、隊長」

 

 

 雪乃の声がガラス越しに、しかし直接脳内に響くように聞こえる。彼女はそっとガラスに指先で触れた。すると橘が閉じ込められている食堂の壁、床、天井の全てがディスプレイに変わった。そして、そこに映し出されたのは複雑な文字列と無数のフォルダアイコン。それは橘圭一という人間の、精神構造そのものをデータ化したものだった。

 

 

「これから、隊長との『特別な訓練』を始めます」

「あなたの心の、一番奥深くにあるフォルダ。そこにアクセスして、私の名前を上書き保存します」

 

 

 雪乃の指が、キーボードを叩く幻影を描く。その度に橘の脳内に直接、膨大な情報が流れ込んでくる。忘れていた子供の頃の記憶。隠していたはずの、下世話な欲望。彼の全てが暴かれ解析され、そして再構築されていく。

 

 

「やめろ…俺の中に入ってくるなァァァァ!!!」

 

 

 橘は頭を抱えて絶叫する。麗奈の赤い線が床を走り、陽菜の持ち上げたテーブルが影を落とし、雪乃の無機質な声が脳を侵食する。三つの地獄が、一つに融合していく。

 

 

(もうダメだ…! 逃げられない…!)

 

 

 その瞬間。足元が、ぐにゃりと歪んだ。が抜け、彼は奈落の底へと、真っ逆さまに落ちていった。落ちて、落ちて、落ちて……。どこまでも続く、暗闇の中を。

 

 そして──

 

 

 

 

 

「ハッ!?」

 

 

 橘は、自室のベッドの上で飛び起きた。全身は、脂汗でぐっしょりと濡れている。心臓が、警鐘のように激しく鼓動を打っていた。窓の外は、まだ薄暗い。見慣れた、自室の天井。壁には、趣味の悪い抽象画。手元には、握りしめていたらしいシーツ。

 

 

「ゆ、夢だったのか…」

 

 

 ぜえぜえっと荒い呼吸を繰り返しながら、橘は震える手で顔を覆った。夢だ。ただの、悪夢。だが、その感触はあまりにも生々しく、リアルだった。スコープの冷たさ。肉塊の匂い。脳をかき混ぜられるような、不快感。それら全てがまだ、彼の五感にこびりついている。

 

 橘はベッドから這い出すようにして降りると、よろける足で冷蔵庫へと向かった。ミネラルウォーターを、喉に流し込む。冷たい液体が乾ききった食道を潤し、少しだけ正気を取り戻させてくれた。

 

 彼は窓の外を見た。東の空が少しずつ、白み始めている。やがて、朝が来る。そしてまた、あの地獄のような職場へ行かなければならない。夢で見た、美女の姿をした三人の悪魔たちが待つ、あの場所へ。

 

 

「……」

 

 

 橘はミネラルウォーターのボトルを握りしめたまま、その場に立ち尽くした。ふと、彼の脳裏に一つの恐ろしい考えがよぎった。

 

 

(本当に…あれは、夢だったのだろうか?)

 

 

 その問いに答える者は、誰もいない。ただ彼の部屋の天井の隅に、彼自身も気づいていない米粒よりも小さな黒い点が、静かに赤い光を点滅させているだけだった。




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