俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
麗奈パート : 鳥籠の中の告白 - (黒澤麗奈 視点)
その日、特四の隊長室の空気は、いつもより少しだけ澄んでいるように、黒澤麗奈には感じられた。庁内に広まり始めた『橘圭一伝説』。そのあまりにも正当な評価は彼女の心を静かな満足感で満たしていた。
だが同時に、彼女は微かな焦りのようなものも感じていた。
(隊長は聖人。その評価は正しい。しかしそれだけでは足りない)
彼女は思う。隊長はただ、優しいだけの方ではない。彼は全てを、見抜いている。隊員たちの強さも弱さも、そしてその奥底に隠された心の闇さえも。だからこそ彼は、あの祝勝会の夜一人ひとりの心を完璧に救ってみせたのだ。
ならば今度は、麗奈の番だ。中途半端な忠誠や表面的な美しさだけを、彼に捧げるのではない。麗奈の全てを。この黒澤麗奈という人間の醜い部分も汚れた過去も、その全てを彼に差し出すべき時が来たのだ。彼ならばきっと、受け止めてくださる。その海よりも深い慈愛の心で。
麗奈は意を決して、隊長室の重厚なドアをノックした。
「どうぞ」
中から聞こえてきた穏やかな声に、彼女はそっとドアを開ける。橘隊長はデスクで、書類に目を通していた。その知的な横顔はいつ見ても麗奈の心をときめかせた。
「隊長…今少しだけ、お時間をいただけますでしょうか」
「ん? ああ麗奈か。どうしたんだい? 改まって」
橘は書類から顔を上げ、いつもの優しい微笑みを彼女に向けた。その微笑みを見た瞬間、麗奈の最後のためらいが消えた。彼女は静かにドアを閉めると、彼のデスクの前まで歩み寄った。そして何の前触れもなく、その場にすっと膝を折った。
まるで王に忠誠を誓う、騎士のように。
「れ、麗奈!? どうしたんだ急に! 立ちなさい!」
橘が慌てたように、声を上げる。だが麗奈は、静かに首を横に振った。
「いえ隊長。このままお聞きください。これから私は私の最も醜い部分を、貴方にお見せします。同じ目線でお話しする資格など、私にはございません」
彼女は俯き床の一点を見つめながら、ぽつりぽつりと語り始めた。その声はいつもよりも少しだけ、か細く震えていた。
「私の生まれた黒澤家は、誰もが羨む旧華族の名門でした」
政財界に太いパイプを持つ一族。
「そして私には二歳年上の、完璧な兄がおりました。文武両道、容姿端麗。そして何より、待望の跡継ぎ。兄は一族の光であり、希望そのものでした」
その光の影で妹である彼女の役目は、自ずと決まった。兄──黒澤家の次期当主となる完璧な存在──のための、『飾り人形』としての役目が。
「幼い頃から私は、あらゆる英才教育を施されました。茶道、華道、書道、ピアノバレエ…。全ては将来完璧な当主となる兄の完璧な妹として、社交界で兄の名に傷をつけないため。私の意思などそこには一切ありませんでした」
彼女の毎日は分刻みのスケジュールで、埋め尽くされていた。笑いなさいと言われれば、完璧な淑女の笑みを浮かべた。黙りなさいと言われれば、口を閉ざし美しい置物になった。感情を殺すこと。それが彼女が最初に覚えた、生きる術だった。
「私の家は大きな鳥籠のようなものでした。金で飾られた美しい鳥籠。食事も衣服も何一つ不自由はありませんでした。ただ一つだけなかったものがあります。……それは『自由』でした」
麗奈はぎゅっと、スカートの裾を握りしめた。あの頃の息が詰まるような、閉塞感が蘇る。
「そんな色のない毎日の中で…私にはたった一つだけ心の支えがありました」
それは彼女が八歳の誕生日に祖父から贈られた、一羽の小さなカナリアだった。黄色い美しい鳥。彼女はその鳥に、「ソレイユ(太陽)」と名付けた。
「ソレイユだけが、私の友達でした。学校へ行くことも許されなかった私にとって、唯一心を許せる存在でした。鳥籠の中の更に小さな鳥籠。私とソレイユは、同じでした。私は毎日、ソレイユに話しかけました。いつか二人でこの鳥籠から抜け出して、広い空を自由に飛びたいねと…」
その時のことを思い出したのか、麗奈のクールな瞳がわずかに潤んだ。それは彼女の灰色の日々における、唯一の彩り。細やかな、かけがえのない宝物だった。
「ですが…その幸せも、長くは続きませんでした」
彼女の声が更に低く冷たくなった。
「私が十歳の時です。あの完璧だったはずの兄が…私のソレイユを殺したのです」
「……え?」
橘が息をのむ音が聞こえた。
「理由は本当に、些細なことでした。兄が私の部屋に無断で入り、ソレイユの鳥籠を面白半分に弄んでいた。私がそれを咎めると…彼は癇癪を起こしたのです。『妹のくせに、この僕に指図するのか』っと。そして彼は笑いながら…鳥籠の扉を開けソレイユを掴み出すと…私の目の前で…」
麗奈はそこから先の言葉を続けることが、出来なかった。脳裏に、あの日の光景が焼き付いている。小さな黄色い体が無残に握りつぶされ、動かなくなったあの瞬間。兄の残酷な笑い声。そしてそれを見て見ぬふりをする、両親の冷たい目。
「その時私の中で何かがぷつんと切れました」
彼女は顔を上げた。その瞳には、もはや涙はなかった。そこにあるのは底なしの、暗く冷たい憎悪の炎だけだった。
「気づいた時には私は、そばにあったブロンズ製の女神像を手に取っていました。そして兄の頭に何度も…何度も、それを振り下ろしていました」
「!!?」
「兄の悲鳴と、両親の絶叫が聞こえました。でも私には、何も感じませんでした。ただ目の前の私の宝物を奪った、醜い存在を壊すことしか考えられませんでした」
兄は一命を取り留めた。だが頭には一生消えない傷が残った。そして黒澤麗奈はその日より、一族から完全に『存在しない者』として扱われることになった。彼女は家を飛び出した…いや、追放されたのだ。
それ以来彼女は、一人で生きてきた。誰にも頼らず、誰にも心を開かずに。その憎しみだけを、心の燃料にして。
「……私はずっと暗い鳥籠の中にいたのです」
麗奈は語り終え、再び深く頭を垂れた。
「そして今も、その鳥籠の中にいるのかもしれません。兄への憎しみという、見えない格子に囚われたまま…」
これが麗奈の全て。これが麗奈の醜い正体。さあどうしますか、隊長? 軽蔑しますか? 気味悪がりますか? あるいは危険人物として、ここから排除しますか? どんな裁きでも受ける覚悟は、麗奈は出来ていた。それでも彼女は、彼に伝えたかった。自分の全てを、知ってほしかった。そして、心のどこかで期待していた。彼ならばと。この聖人のような彼ならば、きっとと。
「でも隊長」
麗奈は涙に濡れた瞳で、真っ直ぐに橘を見上げた。
「貴方に出会って私は──」
誰からも腫れ物のように扱われ孤独だった自分に、彼だけが向けてくれたあの言葉を。その言葉が彼女にとって、どれほどの救いだったか。彼女はその想いの全てを、彼に伝えようと唇を開いた。
「──変わることが出来たのです」
麗奈の脳裏に、あの日の光景がまるで昨日のことのように鮮やかに蘇る。あれは特四への配属が決定した、初日のことだった。家を飛び出し警察学校に入ってからも、麗奈は常に孤独だった。
彼女のそのずば抜けた身体能力と常軌を逸した射撃の才能は、周囲から賞賛されると同時に、畏怖と嫉妬の対象となった。教官たちは彼女の能力を高く評価しながらも、その氷のように冷たく誰にも心を開こうとしない態度に、手を焼いた。
同僚たちは彼女を遠巻きにした。「黒澤は何を考えているか分からない」「彼女の目は笑っていない」「まるで機械人形のようだ」──そんな囁き声が常に彼女の背後から聞こえてきていた。
分かっている。自分が異常なのだ。自分が普通ではないのだ。兄を半殺しにしたあの日から、麗奈の心はどこか壊れてしまった。愛という感情も喜びという感情も全て、あの血の匂いと共にどこかへ消え失せてしまった。
心を満たすのは、ただ一つ。兄と自分から全てを奪った黒澤家へのどす黒い憎悪だけ。その憎しみを燃料にしなければ、一日たりとも生きてはいけなかった。その憎しみを弾丸に込めなければ、銃の引き金を引くことすら出来なかった。
そんなある日、特四への異動が命じられた。それは事実上の「左遷」であり、「厄介払い」であることも麗奈は理解していた。新設された謎の部隊。そこに自分のような持て余された、「問題児」を集めて隔離する。それが上層部の狙いなのだろう。
(……どこへ行っても同じこと)
彼女はそう諦めていた。どうせここでも、自分は一人だ。どうせここでも、理解されることなどない。自分を動かすのは、憎しみだけ。それでいい。それしかないのだから。
配属初日。案内された隊長室。そこで彼女は初めて、その男に会った。橘圭一。それがこれから自分の上司になる、男の名前だった。第一印象は「頼りない優男」。少しタレ気味の優しい目。線の細い華奢な体つき。そして顔に貼り付けたような、当たり障りのない柔らかな微笑み。
(……この男が隊長?)
麗奈は、失望すらしなかった。ただ、無関心だった。どうせこの男も、他の連中と同じだ。自分の過去の経歴書を見て腫れ物に触るように、当たり障りのないことしか言ってこないだろう。あるいは黒澤家の名前を知って、媚びへつらってくるか。どちらにしても、興味はなかった。
「君が黒澤 麗奈 隊員だね。私が特四の隊長を務める、橘圭一だ」
男はそう言って、手を差し出してきた。麗奈はその手を一瞥しただけで、握手には応じなかった。その無礼な態度にも男は気分を害した様子もなく、ただ困ったように微笑んでいるだけだった。
(やはり、中身のない男か…)
麗奈がそう結論づけた、その時。男は彼女の経歴書に目を落としながら、言ったのだ。
「…すごいな」
その呟きは感嘆と、そして純粋な驚きに満ちていた。
「警察学校での射撃の記録…全て拝見させてもらったよ。全ての記録において満点。しかも移動的悪天候下といった、特殊な条件下ですら寸分の狂いもない。これは…もはや才能という言葉だけでは、片付けられない領域だ」
橘は経歴書から顔を上げた。そして真っ直ぐに、麗奈の瞳を見つめて言ったのだ。その瞳には恐怖も憐れみも、媚びもなかった。そこにあったのはただ、純粋な彼女の「力」そのものへの賞賛と敬意だけだった。
「君のその正確無比な射撃の腕は、必ず我々の力になる」
──ドクン。
麗奈の凍てついていた心臓がほんの少しだけ音を立てた。
(……この男は見ている)
(私の家柄でも過去でもなく)
(ただ純粋に私の『力』を見ている…)
そして、彼は続けた。その言葉が、麗奈の世界を変えた。
「特四へようこそ。ここでは君は、君のままでいいんだ」
──その瞬間。麗奈の灰色だった世界に、一筋の眩いほどの光が差し込んだ。鳥籠の硬い鉄の格子が音を立てて、砕け散る幻を見た。
『君のままでいい』
そのありふれた一言。しかしそれは生まれてからずっと、「飾り人形でいろ」と言われ続け自分を殺し続けてきた彼女にとって、初めて与えられた『存在の肯定』だった。自分のこの憎しみに満ちた歪んだ、壊れた心のままでここにいていいのだと。この男は、そう言ってくれたのだ。
(ああ…っ)
麗奈は目の前の頼りなげな優男の姿に、生まれて初めて自分以外の誰かの姿を重ねていた。それは幼い頃に絵本で読んだ、囚われの姫を救い出す王子の姿だった。彼は麗奈の王子様。麗奈をこの暗く冷たい鳥籠から解放してくれる、たった一人の。
その日から、麗奈の生きる理由は変わった。憎しみは消えてはいない。それはもはや、彼女を動かす第一の燃料ではなくなった。彼女の新しい生きる意味。それは、橘圭一に仕えること。彼のために戦うこと。彼の道を阻む、全ての障害を排除すること。そしていつか、彼の唯一無二の存在になること。
回想が終わる。目の前にはあの時と同じように、優しい困ったような微笑みを浮かべる橘隊長がいた。麗奈は涙に濡れた。しかし、確かな熱を帯びた瞳で彼を見つめた。そして、心の底からの想いを告げた。
「──ですから、隊長」
彼女の声は、もはや震えてはいなかった。そこにあるのは、絶対の忠誠と狂信的なまでの愛。
「私のこの力もこの体もこの心も。その全てはあの日、貴方に救われたその瞬間からあなたのものです。私の全てを、貴方に捧げます。ですからどうぞ、お使いください。この黒澤麗奈を、あなたの最も鋭い剣として」
麗奈はそう言うと彼の手甲に、そっとキスをした。ちゅっと。王に跪く、騎士のように。あるいは神に身を捧げる、巫女のように。彼女はもはや、鳥籠の中の小鳥ではなかった。自らの意思で主を選び、その主のためだけに牙を剥く気高く、そして危険な一羽の鷹だった。
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(ふっ、いよいよキスされてしまったか。手甲にだけど、ちょっと嬉しいかも……いやこいつ美女の姿をした化け物だったな!? もしも口にされていたらと思うと嗚呼…っ、恐ろしい!!! お前のキスなんて『ぺっ』だよ『ぺっ』!! 悪い菌あるだろうから、あとで消毒しよっと)
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