俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
──でも隊長が、私に生きる意味をくださいました…。
雪乃の閉ざされた心のスクリーンに、あの日の光景が映し出される。それは色褪せたフィルムのようにざらついていて、そしてひどく静かな映像だった。
特四への異動。それは彼女にとって最後の場所だった。もはや彼女の心は完全に死んでいた。生きる意味も目的もない。ただ与えられた命令を機械のように、こなすだけ。それは呼吸をするのと同じだった。
生命維持のための、単なる作業。そこにら喜びも悲しみも存在しない。その無機質な日々の中で、いつか静かに朽ち果てて消えていければいい。そう思っていた。誰にも気づかれず、誰にも惜しまれず。まるで、最初から存在しなかったかのように。
彼女のその異常なまでの情報処理能力とハッキングの才能はもはや彼女をこの世につなぎとめる鎖でしかなかった。
この才能があるから、彼女はまだ「使える道具」としてここに存在している。この才能があるから、彼女はまだ死ぬことを許されない。この才能がなければ自分はとっくの昔に誰にも知られず、ゴミのように処分されて消えることができたのに。
才能は彼女にとって、祝福ではなかった。それは、呪いそのものだった。
配属初日。案内された隊長室。彼女は部屋の隅の壁に、もたれかかるようにしてただ俯いていた。
そこが彼女の定位置だった。世界の隅。誰の視界にも入らない場所。誰とも目を合わせたくなかった。目は口ほどに物を言う。他人の目にはいつも厄介なものを見る色や、気味の悪いものを見る色が浮かんでいる。それを見る度に彼女の心は、すり減っていく。もうこれ以上すり減る心など、残ってはいなかったが…誰とも言葉を交わしたくなかった。
彼女が発する言葉は、いつも正しく相手に伝わらない。彼女の沈黙は不気味だと解釈され、彼女の言葉は意図を誤解される。だからもう、何も話したくなかった。自分の存在を、認識されたくなかった。私はここにいない。私はただの壁の染み。そう心の中で、何度も何度も唱え続けた。それは彼女が長年かけて身につけた、自己防衛のための呪文だった。自分はモノだと自分に言い聞かせることで、かろうじて人の形を保っていた。
麗奈の氷のような美貌。陽菜の太陽のような笑顔。その二つのあまりにも眩しい光の中で、自分はただ消えていく影。それでよかった。光が強ければ強いほど、影は濃くなる。その濃い影の中に隠れていれば、誰も自分に気づかないだろう。彼女たちはきっと、この部隊の中心になる。自分はその片隅で、ただ息をしていればいい。
新しい上司だという男が、何かを話していた。その声は耳には届いていたが、言葉として認識することはできなかった。
それはただの、意味のない音の羅列。まるで遠くで鳴っている、ラジオのノイズのようだった。彼女の心は、厚い氷の壁で覆われている。どんな言葉も、その壁を突き抜けることは出来ない。彼の言葉に、どんな意味があるというのか。どうせ当たり障りのない、綺麗事の羅列だろう。
「力を合わせて頑張ろう」とか、「君たちの活躍に期待している」とか。そのどれもが、雪乃の心には響かない。それは彼女に向けられた、言葉ではないからだ。それはこの場にいる、誰かに向けられた言葉。自分はその他大勢。いや、その他大勢ですらない。そこにいないのと同じ。
どうせ、この男も同じだ。私を厄介者として、腫れ物として扱うか。あるいは私の能力だけを便利な道具として、利用するか。その二択しかない。今まで出会ってきた大人たちは、皆そうだった。
彼女の過去の経歴書を見てその暗い部分に怯え、腫れ物に触るように接してくる者たち。彼らは雪乃に、必要最低限のことしか話さない。その目には常に憐れみと、恐怖の色が浮かんでいる。その視線が雪乃を苛む。私は可哀想な存在じゃない。ただここにいるだけだ。
あるいは彼女のその異常なまでの才能に気づき、それを道具として利用しようとする者たち。彼らは雪乃を褒める。「君は天才だ」「君の力が必要だ」っと。だがその言葉は、冷たく乾いている。彼らが見ているのは、雪乃という人間ではない。彼女が持つハッキング能力という「機能」だ。
彼らにとって雪乃は、便利なパソコンと同じ。用が済めば、電源を切られるだけの存在。どちらにしても、私という人間そのものを見てくれることなど、ありはしない。私のこの空っぽの心。私のこの消えたいという願い。私のこの生きていることへの絶望。そのどれもを、誰も見ようとはしない。
今までもそうだった。これからもそうだろう。人は皆自分が見たいものしか見ない。麗奈のような完璧な美しさ。陽菜のような圧倒的な強さ。そういう分かりやすい記号に人は惹かれる。だが雪乃には何もない。空っぽだ。
だから誰も彼女を見ない。それでいい。それがいい。見られなければ傷つくこともない。期待されなければ裏切られることもない。私の内側にある空っぽの闇など誰も見ようとはしない。その闇の中で私は静かに息を潜めているだけでいい。いつかこの命が尽きるその日まで。もう期待など何もしていなかった。
どれくらい、そうしていただろうか。時間の感覚すら、曖昧になっていた。ただただ虚無。永遠に続くかのような静寂。その中で雪乃はゆっくりと、自分という存在の輪郭を失っていく。
それでよかった。それが彼女の望みだった。自分という意識が薄れ、世界と自分との境界線が溶けていく感覚。それは彼女にとって、唯一の安らぎだった。思考を止める。感情を殺す。ただのモノになる。そうすれば、もう傷つくこともない。悲しむこともない。絶望することもない。
彼女は壁に寄りかかり俯いたまま、静かにそのプロセスに身を委ねていた。もうすぐだ。もうすぐ自分はらただの壁の染みになれる。そうなれば楽になれる。
ふと目の前に、一人の人間の気配が立った。それはほんの、些細な空気の揺らぎだった。だが彼女の研ぎ澄まされた感覚は、その微かな変化を捉えていた。誰かが自分の前に立っている。
雪乃は顔を上げなかった。まただ。また誰かが自分という存在を、認識しようとしている。やめてくれ。私を一人にしてくれ。私をモノとして扱ってくれ。どうせまた、形式的な挨拶だろう。あるいは何か、雑用を言いつけに来たのかもしれない。どちらにしても、彼女にとっては同じこと。
無意味な音の羅列を聞き流し、機械のように頷くだけ。早く終わってほしい。早くこの場から消えてら一人になりたい。一人の暗闇の中だけが、彼女の唯一の安息の場所だったから。そこでは誰にも邪魔されず誰にも認識されず静かに消えていくことができる。
「──白石雪乃 隊員だね」
その声は思ったよりも、ずっと近くで聞こえた。そしてその声には他の人間たちの声にはない、不思議な響きがあった。それは威圧的でもなければ憐れむような色もない。ただただフラットで、どこか穏やかな響き。その声は彼女を覆っていた厚い氷の壁に、ほんの僅かな波紋を広げた。ほんの小さな小石が水面に落ちたような、ささやかな波紋。それは何年も何十年も凪いでいた彼女の心の水面に生じた、初めての変化だった。
雪乃は無意識に、ほんの少しだけ顔を上げた。ほんの数ミリ。誰にも気づかれないほどの、僅かな動き。視界の端に彼の仕立ての良いズボンと、磨かれた革靴が映る。彼はわざわざ部屋の隅にいる、自分の目の前まで歩いてきてくれていたのだ。他の人間たちは皆、部屋の中央で話をしていた。隅にいる自分など、まるで存在しないかのように。
なのにこの男はわざわざ自分のためだけに、ここまで来たというのか。なぜ? 理解できなかった。自分に関わることなど何のメリットもないはずなのに。自分は厄介者だ。自分は問題児だ。自分は存在するだけで周囲を不快にさせる毒なのだ。
だから皆、自分を避ける。それが当たり前だった。なのにこの男は、自ら毒に近づいてきた。馬鹿なのか。それとも、何か裏があるのか。彼女の思考が、わずかに動き出す。それは何年も動かしていなかった錆びついた、機械が軋むような音を立てて動き出すような感覚だった。
そして、彼は言った。その言葉が、雪乃の死んでいた心臓を鷲掴みにした。それはあまりにも静かで、しかしあまりにも力強い言葉だった。彼の視線は、彼女の経歴書に注がれている。その紙切れには、彼女の全てが書かれているはずだ。彼女の忌まわしい過去も、異常な才能もその全てが。普通ならその情報を見て眉をひそめるか、あるいは興味本位で探りを入れてくるか。
だが、彼は違った。彼の声には、純粋な感嘆の色が滲んでいた。まるで美しい芸術品でも、眺めているかのように。あるいは、未知の美しい鉱石を発見したかのように。その声色は彼女が今まで一度も、向けられたことのない種類のものだった。恐怖でも憐れみでも、利用価値を計るようなものでもない。ただ、純粋な賞賛。その事実が、彼女の心を混乱させる。
「──君のその情報処理能力は、この部隊に不可欠だ」
──ふかけつ。不可欠。なくてはならないもの。その言葉が呪文のように、彼女の耳の奥で反響した。何百年も閉ざされていた石の扉が、軋むような音を立てて開く。その隙間から、一条の光が差し込んでくる。
(…私が?)
(この価値のない私が…?)
(不可欠…?)
信じられない。信じたくても、信じられない。きっと、何かの間違いだ。この男は自分の経歴書を、正しく読んでいないのではないか。あるいは社交辞令。そうに違いない。そう思おうとした。だが、彼の声には嘘の色がなかった。お世辞を言う時の、特有の軽薄さもなかった。ただただ純粋な事実として、彼は告げている。君は不可欠だと。
そして、彼は続けた。その一言が、彼女の魂を根こそぎ揺さぶった。
「──君が必要だ。よろしく頼む」
──君が必要だ。
その瞬間。雪乃の灰色だった世界が音を立てて、砕け散った。パリンという、乾いた音。長年彼女を閉じ込めていた、分厚い氷の壁が粉々に砕け散った。砕け散った世界の向こう側から、今まで見たこともないような圧倒的な光が溢れ出して、彼女の全身を貫いた。
それは生まれて初めて浴びる光だった。
温かく。
優しく。
そして、あまりにも慈愛に満ちた光。
その光は彼女の凍てついた心を優しく溶かし、雪乃の空っぽだった体に温かい血を巡らせていく。感覚が戻ってくる。生きているという実感が。忘れていた感情が奔流となって彼女の内に流れ込んでくる。
喜び。
驚き。
感謝。
そして何よりも──愛。
(ああ…)
雪乃は、ゆっくりと顔を上げた。そして初めて、彼の顔を真っ直ぐに見た。橘圭一。彼は少し困ったように、でも優しく微笑んでいた。その笑顔は雪乃には、後光が差しているように見えた。それはもはや、人間の笑みではなかった。迷える子羊に救いの手を差し伸べる神の微笑み。その微笑みを見た瞬間、雪乃の心は完全に決まった。
(…この御方こそが…)
雪乃は確信した。
(私に生きる意味を与えてくださった、神様…)
親からも誰からも必要とされなかった、この私を。ゴミ同然だった、この私を。『必要だ』と言ってくださった。ならばもう、迷うことは何もない。私の人生の目的は、今この瞬間に定まった。それは彼に仕えること。彼に全てを捧げること。それ以外の全ては無価値だ。
私のこの命は、もはや私のものではない。あの日あの瞬間から、この神に捧げられた供物。この命をどう使おうと、それは神の自由。彼が死ねと命じれば、私は喜んで死のう。彼のために死ねるのなら、それは最高の幸福だ。彼が生きて俺のために働けと命じれば、私は永遠に彼のために働き続けよう。この身が朽ち果てる、その時まで。
いいや。たとえ朽ち果てても魂だけになって、彼のそばにあり続けよう。
私のこの能力もこの体もこの心も、全てこの御方のために使う。このハッキング能力は、彼のためにこそある。
彼が望むなら、どんな罪も犯そう。世界中のあらゆる機密情報を盗み出し、彼の足元に差し出す。国家の最高機密も大企業の内部情報も、彼が望むなら一晩で全てを彼のものにする。彼を邪魔する人間がいるなら、その人間の社会的な生命を完全に抹消する。預金口座をゼロにし全ての個人情報をネットに晒し、無実の罪を着せて社会から完全に孤立させる。その人間の存在そのものを、この世界から消し去るのだ。
彼が望むなら、どんな非道なことも行おう。
彼が退屈しているなら、この身を使って慰める。
彼が望むなら、どんな格好でもする。
彼が望むなら、どんな言葉でも囁く。
彼が望むなら、どんなプレイにも応じる。
私の体は、彼のためにあるのだから。彼が眠れない夜には、子守唄を歌い続ける。彼が安らかに眠れるまで、何時間でも何日でも。そしていつかこの命が彼の役に立つというのなら、喜んで差し出そう。
彼を守るための盾として。
彼の進む道を切り開くための犠牲として。
この命を捧げること。それが私に存在価値を与えてくださった、彼への唯一にして最高の恩返しなのだから。
それこそが私の存在意義。
それこそが私の生きる喜び。
彼に出会うまでの私の人生は、無意味だった。だがこれからの私の人生は、彼のために輝く。彼という太陽に照らされて私は初めて、自分の存在を肯定できる。
「ふふ」
回想が終わる。目の前にはあの時と同じように優しい、少し困ったような笑顔を浮かべる橘隊長がいた。その微笑みはやはり、後光が差しているように見える。雪乃は恍惚とした涙に濡れた瞳で、彼を見上げた。
その瞳には、もはや絶望の色など微塵もなかった。そこにあるのは絶対的な狂信と、己の全てを捧げる喜びだけ。彼に出会えた奇跡。彼に必要とされた幸福。その感情が、彼女の全身を満たし尽くしていた。
橘はそんな彼女の視線を受けて、何かを察したようにゆっくりと口を開いた。彼の声はどこまでも優しく、そして慈愛に満ちていた。
「…雪乃。君も、辛かったんだな」
その一言。そのたった一言が、雪乃の最後の涙腺を破壊した。嗚呼、やはりこの御方は全てお見通しなのだ。私が何も言わなくても私の心の奥底にある、悲しみも苦しみも全て理解してくださっている。その事実が彼女の心を、更に彼へと傾倒させていく。
「──ですから隊長…」
彼女の声はか細いがその一言一言には、揺るぎない覚悟がこもっていた。それはもはや、ただの忠誠心ではない。それは信仰そのものだ。
「私のこの命はあなたのものです…」
どうぞ、お好きなようにお使いください。あなたの駒として、あなたの道具として、あなたの盾として。どんな役割でも受け入れましょう。それが私の喜びなのですから。
「どうぞ、お好きなようにお使いください。あなたのためならば、私はどんなことでも出来ますから…」
彼女はそう言うと、彼のデスクの前にそっと跪いた。まるで巡礼者が聖地で祈りを捧げるように。その動きには、一切のためらいもなかった。そしてその床に額をこすりつけるようにして、深々と頭を垂れた。プラチナブロンドの髪が、冷たい床に広がる。その白いニーハイソックスに包まれた、華奢な脚がか弱く震えている。
それは恐怖からくる震えではない。それは神の御前に立つことへの畏れと、歓喜からくる震えだった。その儚げな美女の姿は、敬虔な祈りを捧げる信徒そのものだった。彼女の世界は今この瞬間、完全に閉じられた。そこには神である橘圭一と彼に仕える、白石雪乃しか存在しない。他の全ては無価値で、無意味な背景に過ぎない。
彼女が崇める神がただの保身と下心で出来ている、最高に俗っぽいクズであることなど、彼女は知る由もなかった。
■
(ネグレクト? 自殺未遂? 価値がない? 生まれてきて、ごめんなさい? そして、…俺が神? ふっ…一番、めんどくせえのが、来たあああああああああ!!!!!!)
(お前のその暗い性格とか、そうなった原因の親どもなんぞどうでもいい! 知ったことか!! 俺が必要なのは、お前のその便利な能力だけだ! だから大人しく、道具として働いてくれ! そしたら給料は、払ってやるから! よろしくな!)
「いいかい? 君はもう、一人じゃない」
「あ、あ…っ、嗚呼…かみ、さまァァァァ!!!」
「ヨ〜シヨシ」
(だから頼むから! 二度と死のうなんて、考えるなよ! お前が死んだら、俺の社会的生命が終わるんだ! 分かったな!!? これは隊長命令だ!! 絶対だぞ!!! フリじゃないからな!!?)
体調悪くて一週間も投稿できなかった…とてもじゃないが家族関係でメンタルヤバいです。投稿やめるつもりは微塵もないですが…2日or3日ごと投稿になるかもしれませんね。毎日ではなく申し訳ないです。メンタルヤバイ理由って、「余命だから?」かもしれませんが、手術すれば治るんだから大袈裟なんですよね〜。姉なんて泣いて抱きしめて来た程ですよ。
それでは、次回もお会いしましょう。次回は第八章最後のパートです。橘視点。包う、ご期待!