俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ   作:最高司祭アドミニストレータ

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20代の女性は老年の医師に、こう宣告された——おめでとう! 寝て起きたら全部完治してるようで何より! マイクラ牛乳を飲んだからかな?——っと。


聖人君子の仮面の下 - (橘視点)

 ドアが閉まった瞬間。橘は糸が切れた人形のように、椅子に崩れ落ちた。彼の顔に貼り付けられていた完璧な聖人の仮面は、すでに剥がれ落ちている。そこにいるのは、ただ疲れ果てた一人の男。否、もはや男の抜け殻だった。

 

 

「…お…わっ…た…」

 

 

 絞り出すような声が、彼の喉から漏れた。

 

 

「地獄か? ここは」

 

 

 彼の脳内では、嵐が吹き荒れていた。言葉にならない感情の濁流が、彼を飲み込もうとしていた。

 

 

(重い! 話がいちいち重すぎるんだよ!)

(なんで俺が! この俺が! お前らのそんなクソ重い身の上話を聞かされなきゃならんのだ!)

 

 

 橘はわなわなと震える手で、デスクの上に置いてあった胃薬のボトルを掴んだ。キャップを開けるのももどかしく、手のひらに白い錠剤を数えきれないほどぶちまける。そしてそれを、ミネラルウォーターで一気に流し込んだ。気休めにしかならないことは分かっている。しかし、そうせずにはいられなかった。この地獄のような精神的負荷を、何かで中和しなければ正気を保てそうになかった。

 

 彼は彼女たちの涙の告白と、それに対する自分のその場しのぎの対応を一つ一つ思い出す。

 

 麗奈。鳥籠の中の姫君。兄への憎悪。彼女のあの冷たい瞳の奥に燃えるドス黒い炎。あれは本物だ。いつか必ず兄を殺しに行く。そしてその時、俺を共犯者に引きずり込む気だ。絶対にそうだ。

 

 

『私の全ては貴方のもの』

 

 

 あの言葉はそういう意味だ。橘はその罪を、共に背負う覚悟を試されているのだ。冗談じゃない。自分はただ、平穏に生きたいだけなのに。

 

 陽菜。孤独な怪物。有り余る力。彼女のあの太陽のような笑顔の裏にある、破壊衝動。あれも本物だ。彼女は自分の力を制御できない。いや制御する気がない。彼女にとって力とは、橘への忠誠を示すための道具。橘を悲しませるものは全てが敵。

 

 そして敵は全て粉砕する。その理屈で行けば、いつか彼自身が彼女の粉砕対象になる可能性だってある。彼が彼女の期待を裏切ったその瞬間に。その笑顔で、橘の首をへし折りかねない。

 

 そして雪乃。価値なき女。死への渇望。彼女のあの虚ろな瞳の奥に広がる、底なしの闇。あれはもはや、狂気の領域を超えている。彼女は自分の命を、何とも思っていない。彼女にとって命とは、橘ぬ捧げるための供物。隊長のためなら、いつでもどこでも死ねる。その事実が、橘を最も恐怖させた。自分のせいで人が死ぬ。その責任と罪悪感。そして何より、自分の経歴に一生消えない傷がつく。それだけは絶対に嫌だ。

 

 

「結局…ッ」

 

  

 橘は頭を抱えた。指が髪をぐしゃぐしゃと、かき乱す。今この瞬間だけは聖人の仮面もクズな本性も全てが剥がれ落ち、ただただ混乱する一人の男がそこにいた。

 

 

(結局、全部俺のせいじゃねえか…!)

 

 

 そうだ。全ての元凶は俺なのだ。麗奈に言った『君のままでいい』。あの時の自分は、何を考えていた? 

 

 そうだ。思い出した。彼女の経歴書に書かれた、『兄への傷害事件』。その一文を見て、俺は完全にビビっていた。こいつはヤバいと。刺激すれば、何をしでかすか分からないと。だから当たり障りのない言葉で、その場をやり過ごそうとした。

 

 

『君のままでいい』

 

 

 その言葉の裏にあった本音はこうだ。

 

 

『頼むから俺の前では問題を起こさないでくれ。お前のそのヤバい本性は見せないでくれ。そのままでいてくれ』

 

 

 そう。それは懇願だった。恐怖から来る、必死の懇願だった。だが彼女はそれを、『存在の肯定』だと受け取った。

 

 陽菜に言った『期待しているよ』。あの時、自分は何を考えていた? 

 

 

 体育館の壁に空いた人間型の穴。

 白目を剥いて気絶している教官。

 

 

 その光景を見て、橘は戦慄した。こいつもヤバいと。この人間サイズの重機を野放しにすれば、警視庁が半壊すると。だからせめて、その力のベクトルだけでも「まともな方向」へ向けさせようとした。

 

 

『君のその力はきっと、たくさんの人を守るために使えるはずだ』

 

 

 その言葉の裏にあった本音はこうだ。

 

 

『頼むからその有り余るパワーを人や物を壊すんじゃなくて、せめて人を守るっていう建前の方に使ってくれよ! そうすれば俺の始末書が減るんだから!』

 

 

 そう。それは利己的な願望だった。後処理の面倒を減らしたいだけの、自己中心的な願望だった。だが彼女はそれを、『自分の力を初めて認めてくれた主君の言葉』だと受け取った。

 

 雪乃に言った『君が必要だ』。あれはもう最悪だ。完全に無意識だった。彼女のあの、死んだような目。部屋の隅で気配を消している姿。正直、どう接していいか全く分からなかった。だからマニュアルに書いてあるような当たり障りのない定型文を、そのまま口にしただけだ。

 

 

 新入社員にかける言葉。

 学生アルバイトやパートにかける言葉。

 

 

 その程度の、軽い軽い言葉だった。本心など、一欠片もなかった。だが彼女はそれを、『存在価値を与えてくれた神の言葉』だと受け取った。

 

 

(俺の適当なその場しのぎの保身のためだけのクソみたいな一言が、あいつらをここまで拗らせちまったんじゃねえか…!)

 

 

 空っぽの言葉。

 中身のない言葉。

 その場しのぎの嘘。

 

 

 それが彼女たちの空っぽだった心に流れ込み、満たしてしまった。乾ききった砂漠に注がれた一滴の水のように。その水が毒水であることなど、彼女たちは知る由もなかった。そしてその毒は彼女たちの心の中で増殖し、歪な形で咲き誇ってしまったのだ。

 

 橘隊長への狂信という名の、美しい毒の花として。

 

 自業自得。まさにその言葉が今の橘の状況を、完璧に表していた。一瞬、ほんの一瞬だけ、罪悪感が彼の心をよぎる。俺がもう少し真摯に対応していれば。俺がもう少し誠実な人間であれば。彼女たちをここまで狂わせることはなかったのかもしれない。そう思った。

 

 その罪悪感は次の瞬間には圧倒的な自己保身の本能によって、跡形もなくかき消された。それはまるで小さな火種が巨大な津波に、飲み込まれるかのようだった。

 

 

(いや違う!! 断じて違う!!)

 

 

 橘は立ち上がり拳をデスクに、ドンッと叩きつけた。ガタガタと音を立てて、ペン立てが倒れる。彼の目に、先ほどまでの後悔の色は微塵もなかった。そこにあるのは自分を正当化するための、燃え盛る炎だけだった。

 

 

(俺は悪くない!!)

 

 

 そうだ。断じて悪くない。俺は何もしていない。ただそこにいただけだ。ただ息をしていただけだ。それなのに勝手に、あいつらが寄ってきたのだ。

 

 

(悪いのは勝手に俺を王子様だの主君だの神だのと勘違いした、あいつらの方だ!!)

 

 

 そうだ。全ての元凶は、あいつらのそのイカれた脳みそだ。俺の当たり障りのない一言を勝手に拡大解釈し、自分たちの都合のいい物語を作り上げた。俺はその物語の主人公に、勝手にキャスティングされただけだ。俺に拒否権はなかった。

 

 

(そうだ!! 俺はむしろ被害者だ!! そうだ…そうだそうだそうだ!!!)

 

 

 橘の脳内で、クズな思考が高速で回転を始める。それはまるで裁判で自らの無罪を主張する敏腕弁護士のように、理路整然と(彼の中では)自己正当化のロジックを組み立てていく。俺はただ、平和に生きたかっただけだ。面倒なことに巻き込まれず定時で帰って美味い飯を食って、可愛い女の子とデートして親の七光りで楽に出世する。それが俺のささやかな望みだった。そのために俺は努力してきたじゃないか。

 

 

 波風を立てないように。

 誰からも嫌われないように。

 

 

 常に完璧な愛想笑いを浮かべ、当たり障りのない会話を心がけてきた。その涙ぐましい努力を誰が分かってくれるというのか。なのにどうだ? あいつらは勝手に、俺の人生に土足で踏み込んできた。俺が長年かけて築き上げてきた平穏という名の聖域を、いとも簡単に破壊していった。勝手に俺に理想を押し付け、勝手に俺に救いを求め、勝手に俺に心酔してきた異常者ども。

 

 ストーカーまがいの監視。プライベートなど存在しない。俺がどんな下着を好むかすら把握されている。

 

 問答無用の物理的破壊。俺が楽しみにしていた唐揚げ定食のために、食堂にクレーターが出来た。その修繕費はなぜか俺の部署の経費で落ちていた。

 

 隙あらば自決しようとする自己犠牲。俺が少し転んでかすり傷を作っただけで拳銃自殺を図ろうとする部下がいる。

 

 そのトラウマで俺はもう、転ぶことすら出来ない。そんなものを望んだ覚えは一度もない! 俺はあいつらのヤバさに怯え、ただただ生き延びるために必死で愛想笑いを浮かべていただけだ。

 

 

 それが処世術というものだろう?

 社会人として当然のスキルだろう?

 

 

 それの何が悪い!!? 俺は被害者だ!! この地獄のような職場の最大の被害者なのだ!!!

 

 そうだ。俺は何も悪くない。俺はただ、運が悪かっただけだ。たまたまヤバい奴らを引き寄せる、フェロモンでも出ていたのだろう。そうに違いない。悪いのは、全てあいつらと俺をここに配属したクソ親父だ。

 

 

 俺は可哀想な被害者。

 守られるべき存在。

 

 

 そうだ。これからはもっと、自分を労ってやろう。もっと自分を甘やかしてやろう。こんな地獄で健気に耐えている俺は、もっと評価されるべきだ。彼はそう結論づけた。罪悪感などという無駄な感情は彼の思考回路から完全に削除された。そして空になった胃薬のボトルを、ゴミ箱に叩きつける。カランという乾いた音が、やけに大きく響いた。それはまるで、古い自分との決別の合図のようだった。

 

 

(もうどうにでもなれ…! こうなったら、徹底的に利用してやる…!)

(お前らのそのクソ重い過去も! クソどうでもいい過去も!)

(狂信的な忠誠心も! 異常な戦闘能力も!)

(全部全部俺がこの地獄を生き抜き出世するための最高の『踏み台』にしてやるわ…!)

 

 

 そうだ。今までは、ただ怯えているだけだった。ただこの地獄から逃げ出すことばかり考えていた。だがもう、逃げられないことは分かっている。ならば発想を転換するしかない。この地獄を逆手に取るのだ。この最悪の状況を最高の武器に変えるのだ。そうだこれはチャンスなのだ。神(とあいつらは言っている)が俺に与えたもうた試練であり、そして最大のチャンスなのだ。

 

 彼の顔には、もはや聖人の笑みはなかった。恐怖に怯える小心者の顔でもなかった。そこにあるのは全てを諦め、全てを利用し尽くすことを決意した真の『クズ』の歪んだ、しかしどこか吹っ切れたような笑みだった。

 

 

 麗奈の完璧な情報収集能力と狙撃の腕。

 陽菜の人間離れした破壊力と突進力。

 雪乃の神がかり的なハッキング能力と後方支援。

 

 

 これらは使い方を間違えなければ、どんな難事件でも解決できる最強の駒だ。過剰評価だが、小国くらいなら容易に陥落出来よう。そんな最強の駒が今、自分の手の中にある。しかも彼女たちは絶対の忠誠を誓っている。こんなに都合のいい話があるか? 

 

 今まではその駒に怯え、駒の機嫌を損ねないようにビクビクしていた。だが、これからは違う。

 

 

 俺がこの駒を動かすのだ。

 俺がこの最強のカードを使って、勝利を掴むのだ。

 

 

 手柄は全て俺のもの。リスクは全てあいつらに押し付ける。作戦の成功は全て俺の卓越した指揮能力のおかげ。作戦の失敗は全て現場の判断ミス。これぞ理想の上司。これぞ完璧なマネジメント。

 

 

「ククク…クハハハハ!!!」

 

 

 橘圭一は今この瞬間、生まれ変わった。ただの小心者のクズから野心を持った、能動的なクズへと。彼の新たな伝説が今まさに始まろうとしていた。

 

 その先にさらなる地獄が待っていることなど…彼はまだ、何も知らない。




寝て起きたら、元気いっぱいになって手術なしになった件。
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