俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
橘圭一はマホガニーの重厚なデスクに肘をつき、組んだ指の上で静かに顎を休ませていた。彼の目の前には、一冊の分厚いファイルが置かれている。表紙には『極秘』の赤いスタンプ。そしてその下には、禍々しい響きを持つ単語が印字されていた。
『国際犯罪組織 ニーズヘッグに関する調査報告書』
数時間前、彼は父親である次長に直接呼び出され、この厄介極まりないファイルを押し付けられた。その内容を一枚また一枚と読み進めるうちに、橘の額に一筋の冷たい汗がつうっと流れ落ちた。
(おいおいマジかよ…)
ファイルに綴られていたのはもはや犯罪組織というよりは、一つの国家に匹敵する巨大な悪の実態だった。軍隊並みの最新鋭の武装。世界中に張り巡らされた情報網。各国の政府高官や軍警察組織との、黒い繋がりの噂。
そしてこれまで彼らに手を出そうとしたいくつもの国の捜査機関が、こと如く返り討ちにあってきたという血塗られた歴史。これまで特四が相手にしてきたカルト教団やテロリストなど、まるで子供のお遊戯に思えてくるほどの規格外の怪物。
(いきなりラスボス級の案件、持ってくんじゃねえよ親父が…!! 茶柱で喜んでたけど、ご利益なんてないじゃないか…!!)
一瞬彼の心に、かつてのあのどうしようもない恐怖が蘇る。全身の血が凍りつき、指先が冷たくなる感覚。そうだ、これだ。この感覚こそが、本来の橘圭一だった。この巨大な悪意の塊の前に、自分のような矮小な存在が立ち向かうなど、蟷螂の斧というものではないか。
下手をすれば、自分自身が気づかれずに消される。…いや、自分だけではない。
麗奈も。
陽菜も。
雪乃も。
いくら彼女たちが化け物じみているとはいえ、国家レベルの組織を相手に無事でいられる保証などどこにもない。脳裏に最悪の光景が浮かぶ。血塗れで倒れる、彼女たちの姿。そしてその横で白目を剥いて失禁している、自分の姿。
(逃げ出すか?)
今なら、まだ間に合うかもしれない。体調不良を理由に休職し、そのままフェードアウトするという手も…。
いや、それではあの父親が許さないだろう。ならば海外へ高飛びするか? パスポートを偽造し、別人になりすまして南の島でのんびりと…。そんな弱気な思考が彼、の脳内を高速で駆け巡る。
だが、その思考はほんの一瞬で彼の心から消え去った。彼は生まれ変わったのだ。もはやただ怯えるだけの、哀れな子羊ではない。恐怖は彼にとって乗り越えるべき壁ではなく、利用すべき燃料へと変わったのだ。
橘はファイルの最後のページを閉じると、ふうっと長い息を吐いた。そして彼の口元にゆっくりと、不敵な笑みが浮かび上がってきた。その瞳には、恐怖の色など微塵もない。そこにあるのは目の前にぶら下げられた極上の餌を前にした、飢えた獣のギラギラとした光だけだった。
(…面白い)
彼は椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。指を組み直し、その上で顎をコツコツと叩く。それは、彼が思考を巡らせる時の癖だった。
(面白いじゃねえか…!)
彼の頭脳が恐怖ではなく、野心によって高速で回転を始める。リスクがデカい。それはつまり、リターンも規格外にデカいということだ。考えてもみろ。こんな誰もが手をこまねいていた巨大マフィアを、もしこの俺が率いる特四が壊滅させたとすれば? 俺の評価はどうなる? 警視庁の中で収まるものか?
いや違う。その名は日本中どころか、世界中に轟くだろう。
『伝説の指揮官橘圭一』
『国際犯罪組織を壊滅させた英雄』
ニュース番組は俺の特集を組み雑誌の表紙を飾り、ネットでは神格化される。そうなれば、次期警視総監の椅子どころではない。その先の政界への道すら開けるかもしれない。
富。
名声。
権力。
そして、美しい女たち。
俺が望む全てのものが手に入る。頭の中に具体的な映像が浮かぶ。国会議事堂の真ん中でふんぞり返る、自分の姿。高級ホテルのスイートルームで高級シャンパンを片手に、夜景を見下ろす自分の姿。そしてその隣にはモデルか女優か、あるいはどこかの国のお姫様か。
そんな絶世の美女たちが日替わりで、俺の腕の中にいる。そんな夢のような未来。その未来への入場券が今目の前にある、この『ニーズヘッグ』という名の厄介事に他ならない。
(……やらない手はないな)
恐怖はすでに彼の中では甘美な興奮へと、変換されていた。もちろん、危険は伴う。死ぬかもしれない。だがどうせこのまま特四の隊長を続けていても、いつかは部下たちの暴走に巻き込まれて死ぬのだ。どうせ死ぬなら、デカい夢を見てから死んだ方がマシだ。
それにだ。俺には、最強の『手駒』がいるではないか。橘の脳裏に三人の部下の姿が浮かぶ。
黒澤麗奈。あの切れ長の目に、泣きボクロのあるクールビューティー。一分の隙もない、完璧な立ち振る舞い。しかしその内には、彼への狂信的な独占欲とライバルへの静かな殺意を秘めている。彼女の神業スナイプと隠密能力は敵の重要拠点を無力化するのに最適だ。何より彼女は、橘の視線一つで動く。隊長だけの、忠実な猟犬。
赤城陽菜。あの人懐っこい笑顔と、グラマラスな身体。天真爛漫なワンコ系女子を装っているが、その本質は物理法則を無視する人間台風だ。彼女の超絶パワーと突進力は、敵のアジトを正面から粉砕するのにうってつけだ。少々頭は足りないが、その分扱いやすい。褒めてやれば、どこまでも突っ走る最高の突撃兵。
白石雪乃。あの色素の薄い儚げな美女。いつも一歩引いた場所から彼を見つめているが、その瞳の奥には自己犠牲をも厭わない狂信的な献身が宿っている。彼女の悪魔的ハッキング能力は、どんな鉄壁のセキュリティも紙切れ同然にする。敵の情報網を丸裸にし、こちらの進軍ルートを確保する。まさにこの部隊の頭脳。そしていざとなれば、自分の命すら盾にする究極の切り札。
そうだ。この三枚のカード。この三人の化け物じみた能力を、最大限に利用すればあるいは。あるいは、本当に可能なのではないか? この馬鹿げた作戦が。俺は駒を動かすだけ。危険な場所に行くのは彼女たち。俺は安全な指揮車の中から指示を出す。まるで神になった気分で。橘は決意した。この巨大な波に乗ってやると。この最悪の災厄を、最高のチャンスへと変えてやると。
彼は、内線電話のボタンを押した。その指先に、迷いはなかった。
「──私だ。至急、三人を隊長室へ」
数分後。三人の美女たちが隊長室に集結した。その顔には、「何かあったのですか?」という緊張と期待が入り混じっている。橘は彼女たちが入室するのを待って、ゆっくりと椅子から立ち上がった。そしてデスクの上に置かれたあの極秘ファイルを、指でトンと叩いた。その仕草一つにも、計算された威厳が込められている。
「──集まってもらったのは他でもない」
彼の声は低く、自信に満ち溢れていた。その堂々とした佇まいは、ただの優男ではない。幾多の修羅場を潜り抜けてきた、歴戦の指揮官の風格すら漂わせていた。彼女たちの目に、自分がどう映っているか。橘には、手に取るように分かった。
(我ながら完璧な演技だ…!)
彼は三人の顔を一人ずつ、ゆっくりと見渡した。
まず麗奈。彼女は背筋を伸ばし完璧な姿勢で直立している。そのクールな瞳が熱っぽくこちらを見つめている。まるでこれから下される神託を待つ巫女のように。制服のブレザーの上からでも分かるそのしなやかな身体のライン。
(うむ。彼女を俺だけのものにしたいという、独占欲が視線から溢れ出ているな。いいぞ、もっと俺に酔いしれろ)
次に陽菜。彼女は少し前のめりになって、きらきらとした瞳でこちらを見上げている。口が半開きになっているのがまた、子供っぽくていい。ブレザーのボタンが弾け飛びそうな、豊満なマシュマロ。じっとしていられないのか、わずかに身体を揺らしている。
その動きに合わせて、短いスカートの裾がひらひらと揺れる。早く命令してくださいと全身で訴えかけてくるようだ。まるでご主人様の帰りを待っていた忠犬のようだった。
(その無垢な忠誠心は、ただ俺のために存分に振るうがいい。クククッ)
最後に雪乃。彼女は他の二人より、少し後ろに控えめに立っている。潤んだ大きな瞳で、こちらをじっと見つめている。その視線には崇拝と畏怖、そしてわずかな怯えが混じっていた。まるで神の前に立つ、か弱い信者のように。少し大きめの制服に包まれた、華奢な身体。その萌え袖から覗く、白い指先がかすかに震えている。
彼女のその儚さが男の庇護欲を掻き立てることを、橘は知っていた。だがその内側には、どんな危険な任務にも躊躇なく身を投じる狂信が眠っていることも。
その全ての視線が自分に絶対の信頼を寄せて、注がれているのを橘は確認する。快感だった。恐怖の対象だったはずの彼女たちが、今は自分の意のままに動く最強の駒に見える。この全能感。これこそが人の上に立つ者の特権か。橘は悪魔のような、しかし彼女たちには英雄のように見えるであろう笑みを浮かべながら、高らかに宣言した。
「──諸君。戦争の時間だ」
その一言に、三人の美女たちの息を飲む気配が伝わってくる。空気が張り詰める。麗奈の瞳がさらに熱を帯び、陽菜の動きがぴたりと止まり、雪乃の指の震えが収まった。彼女たちの全ての意識が、橘の次の言葉に集中する。
橘は続けた。彼の声質が、先ほどまでとは明らかに変わっていた。それはもはや、ただの上官の事務的な命令伝達の声ではない。これから始まる壮大な叙事詩を語り聞かせる、吟遊詩人のようなあるいは信徒たちを狂信へと導く教祖のような、深みと響きを持っていた。
「我々特四に新たな任務が下された。相手は、国際犯罪組織『ニーズヘッグ』」
彼は、ファイルをデスクに叩きつけるように置いた。バンッという乾いた音が、彼女たちの心臓を鷲掴みにする。計算され尽くした演出だった。この音はこれまでの日常の終わりと、これからの非日常の始まりを告げる号砲。橘はその衝撃が、三人の精神に深く刻み込まれるのを感じていた。
「連中はこの日本を食い物にしようとしている、巨大な毒龍だ。これまで誰も、その牙に触れることすらできなかった怪物だ」
彼の言葉には絶妙な間があった。聴衆の心を惹きつける、天性の詐欺師のような話術。もちろん、それも全て計算された演技だ。まず敵の脅威を最大限に誇張して語る。相手が如何に巨大で、如何に邪悪で、如何に絶望的な存在であるかを徹底的に刷り込む。そうすることでこの後に続く逆転の言葉が何倍もの輝きを放つことを、彼は知っていた。
三人の顔に緊張が走る。麗奈は眉をひそめ、陽菜はごくりと喉を鳴らし、雪乃はわずかに身を固くした。いい反応だ。橘は内心で頷いた。恐怖と絶望の種は、十分に蒔かれた。
「だが」
橘はそこで言葉を区切った。たった一言。しかしその一言は暗闇の中に灯された一本の蝋燭の光のように、彼女たちの心を強く惹きつけた。彼はゆっくりと顔を上げた。そして彼の瞳がギラリと光る。
それは絶望的な状況に、一筋の光を投げかける英雄の眼差し。少なくとも、彼女たちにはそう見えた。その瞳には微塵の恐怖も迷いもない。あるのは絶対的な自信と、揺るぎない覚悟だけだった。この御方がいれば大丈夫だ。この御方がそう言うのならどんな絶望的な状況も覆せる。彼女たちの心にそんな確信が芽生え始めていることだろう。
「我々特四が、その毒龍の首を狩る」
静かに、しかし腹の底から響くような声で彼は言った。それはもはや単なる、作戦目標の提示ではなかった。それは未来を決定づける神の宣告だった。そして彼はトドメを刺すように、両腕を広げてみせた。
「これより我々は、国際犯罪組織『ニーズヘッグ』の殲滅作戦を開始する!」
そのあまりにも頼もしく、勇ましい宣戦布告。それは三人の心に火をつけるのに十分すぎる言葉だった。恐怖など微塵も感じさせない、絶対的な自信。この御方がいればどんな敵だろうと、恐れるに足らない。彼女たちの心は一つになった。蒔かれた恐怖の種は一瞬にして、狂信の炎へと燃え上がったのだ。
「…さすがですわ隊長」
最初に口を開いたのは麗奈だった。彼女の瞳が熱狂に輝く。その白い頬が興奮でわずかに紅潮している。普段の彼女からは考えられないほどの感情の昂りだった。制服の上からでも分かる完璧なボディラインが、わずかに震えている。それは武者震いであり、そして歓喜の震えだった。
彼女の脳裏にはすでに隊長と共に勝利の美酒を味わう、自分の姿が浮かんでいた。二人だけの祝勝会。敵の血で汚れたこの身を隊長の手で、清めてもらうのだ。その美しい唇が恍惚の笑みを形作る。その笑みは聖女のようであり、また魔女のようでもあった。
「待ってました! 面白くなってきましたね!」
次に陽菜が嬉しそうに拳を握りしめる。その豊満なマシュマロが、誇らしげに揺れた。彼女にとって敵が強大であればあるほど、それは楽しいお祭りの始まりを意味する。退屈な日常はもう終わり。
大好きな隊長のために思いっきり暴れられる。
大好きな隊長の敵を思いっきり殴り飛ばせる。
その純粋な喜びが、彼女の全身から溢れ出ていた。戦闘服に着替えた時のことを想像する。汗で肌に張り付くタンクトップ。激しい動きで翻るミニスカート。その全てを隊長に見てもらえるのだ。彼女の健康的な色香がむせ返るような熱気を帯びていた。
「…全ては、隊長の御心のままに」
最後に雪乃が、恍惚とした表情で呟く。その儚げな顔に浮かぶのは、殉教者のような敬虔な祈り。この御方のためなら、この命を捧げることすら喜び。彼女は自分の身体が、敵の銃弾に貫かれる様を想像していた。隊長が進む道を切り開くための盾となる自分の姿を。
そして血の気の引いた唇で、「お役に立てて…光栄です…」と微笑むのだ。その自己犠牲の果てにある至高の悦楽を夢想し、彼女の白い肌が内側から発光しているかのように見えた。
彼女たちの士気は、最高潮に達していた。橘はその反応に、内心で満足げに頷いた。
(そうだ。それでいい。お前らはただ俺の言う通りに動いて、俺の出世のための駒になればいいんだ)
この狂信的な忠誠心こそが、俺の最大の武器。これさえあればどんな敵だろうと、乗り越えられる。恐怖を煽り希望を与え狂信へと導く。俺は完璧な支配者だ。完璧な王だ。
(ふっ、何だか今日は気分がイイ。おやつはワッフルだ。メープル味にしよう。その後は仕事を押し付けて、新聞でも読んで──)
橘の思考はすでに、数時間後の自分のささやかな楽しみに飛んでいた。この壮大な宣戦布告との、あまりのギャップ。それこそが、彼の本質だった。
地獄の幕が上がる。その先に待ち受けるのが栄光か、それとも破滅か。それを知る者はまだ、誰もいない。ただ一つ確かなことは、橘圭一という最高にクズな男がこのゲームを心の底から楽しみ始めている、ということだけだった。
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