俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ   作:最高司祭アドミニストレータ

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どうも、天ぷら大好き作者です。作者は大好きなので、お店ではいつも食べ放題です。そんな私は先日、後輩と食べてきました。彼女に「あ〜ん」されました。その際、今度は作者から「あ〜ん」をしてみたのです。後輩は口パクパク沢山して顔真っ赤になり、こ両親に話したら「やれやれ〜、うちの娘は」…異常現象でしたねェ。

以上、作者(女性)でした。ちなみに、前回と同様「実際に起きた出来事」です。


地獄のクルージング - (橘圭一 視点)

(……もう帰りたい)

 

 

 橘圭一の心は、既に限界だった。豪華客船。煌びやかなパーティー。美女との潜入捜査。それは、スパイ映画の世界。男なら誰もが一度は憧れる、シチュエーションのはずだ。

 

 だが現実は、ただの地獄だった。グラスの中で黄金色に輝くシャンパンは、胃薬の味しかしなかった。視界の端で踊る男女の姿は、地獄の釜で煮られる亡者の蠢きに見え。優雅なクラシック音楽は、断末魔の合唱に聞こえる。

 

 完全に精神が参っていた。額に浮かぶ汗は、会場の熱気のせいだけではない。九割九分が冷や汗だった。

 

 隣に立つ黒澤麗奈は完璧すぎるパートナーだった。いやパートナーという名の最強の監視役だ。彼女は優雅な笑みを浮かべながら常に、橘の一挙手一投足に神経を尖らせている。そしてその意識の半分は、彼に近づく全ての人間への殺意で構成されていた。

 

 先程のマルコとかいう、マフィア幹部とのやり取り。あれは、本当に心臓が止まるかと思った。男が麗奈の腰に手を回そうとした瞬間、彼女の瞳から全ての光が消えたのを橘は見逃らなかった。あれは獲物を前にした捕食者の目だ。そして彼の耳元で囁かれたあの言葉。

 

 

『魚の餌にしておくのが最も効率的かと』

 

 

(なんで! なんで、すぐに殺そうとすんだよ!)

 

 

 それを思い出した橘は、内心で絶叫した。

 

 

(穏便に済ませろよ! 後処理するのは俺なんだぞ! 魚の餌ってなんだよ! ていうか、効率的とかいうな! 命を効率で語るな!)

 

 

 自分はただ目立たず騒がず、適当に時間を潰し、この場から無事に生還したいだけなのだ。なのにこの完璧すぎる部下は次々とトラブルの種を蒔き、そしてそれを冷徹に刈り取ろうとする。そのせいで、胃は常にキリキリと悲鳴を上げていた。

 

 もう胃薬のストックも尽きそうだ。タキシードの内ポケットに入れた最後のピルケースの存在だけが、彼の精神をかろうじて繋ぎ止めている唯一の生命線だった。

 

 麗奈の背中は本当に美しかった。大胆に開いた黒いドレスから覗く滑らかな肌の曲線は、もはや国宝級の芸術品だ。

 

 

 歩くたびにしなやかに動く、背中の筋肉のライン。

 シャンデリアの光を受けて艶めかしく光る、白い肌。

 

 

 一瞬その美しさに我を忘れそうになる。だがその背中からは同時に「隊長に近づく者は殺す」という、禍々しいオーラが立ち上っているように見えた。あの白い肌に触れようものなら、指先が凍傷になりそうだ。彼女がふと髪をかき上げた時に香るクールなフローラルの香りですら、どこか死の匂いが混じっているような気がしてくる。

 

 まさに毒の花。美しいが見惚れたが最後、命はない。

 

 

「隊長? ネクタイが少し、曲がっておりますわ」

 

 

 その麗奈がすっと、橘の胸元に手を伸ばしてきた。その声は鈴を転がすように可憐だったが、彼にとっては死刑執行を告げる鐘の音に聞こえた。

 

 

(来るな! 触るな! お前が俺に触れるたびに俺の寿命が縮むんだよ!)

 

 

 だがここで彼女の親切(という名のマーキング行為)を拒絶すれば、どうなるか。

 

 

『まあ隊長。わたくしの手がそんなにお嫌いですの?』

 

 

 そう言って、絶対零度の瞳で問い詰められるのがオチだ。橘に選択肢はなかった。彼は引きつった笑顔を顔面に貼り付け、まな板の上の鯉のようにその時を待つしかない。

 

 麗奈がふわりと一歩近づく。彼女のクールなフローラルの香りが、橘の鼻腔を支配した。その白い指先が彼の喉元に触れる。ひやりとした感触に、橘の心臓が鷲掴みにされたかのように跳ねた。

 

 

(冷たっ! 殺される!? いや違う、これは警告か? 『余計なことを考えれば、いつでもこの喉を掻き切れますわよ』っていう無言のメッセージか!!?)

 

 

 彼女は完璧な手つきでネクタイを直し、そして満足げに微笑む。その仕草は貞淑な妻のようでありながら、その瞳の奥には獲物の首筋に牙を立てる寸前の獣の光が宿っていた。その瞳は、「あなたは私のもの」と雄弁に語っている。その独占欲に満ちた視線に射抜かれ、橘は金縛りにあったように動けない。

 

 

(やめろ…そんな目で見つめるな…)

 

 

 橘は、引きつった笑みを浮かべることしか出来ない。彼女の指はネクタイを直し終えても、すぐには離れなかった。それどころかまるで確かめるように、シャツの上から彼の鎖骨のラインをゆっくりとなぞる。その指先の動きはどこまでも優雅で官能的だったが、橘にとっては焼印を押されるような苦痛だった。

 

 

(やめろ! そこは俺のプライベートゾーンだ! セクハラだぞ! 訴えてやる! いや無理だ! 訴えたら俺が消される!)

 

 

 思考が完全にパニックに陥る。麗奈はそんな彼の内心を見透かしたように、クスリと笑った。その笑みは小悪魔のようであり、聖母のようでもあった。そして最後にトンと彼の胸を軽く叩くと、何事もなかったかのようにすっと離れていく。解放された安堵と後に残された恐怖の余韻で、橘の足はガクガクと震えそうだった。

 

 周囲の男たちが羨望と嫉妬の入り混じった視線を、こちらに向けているのが分かった。

 

 

『あの若造がなぜあんな極上の女を…』

 

 

 そんな声が聞こえてくるようだ。彼らの視線は、先ほどの麗奈の親密な仕草に釘付けだったのだろう。彼らの目には今のやり取りが睦まじい恋人同士の戯れにしか、映っていないに違いない。

 

 

(代われるものなら代わってくれ! お前らにはこの地獄は分からんだろうな!)

 

 

 橘は心の中で彼らに向かって叫んだ。この女の隣に立つということが、どれほどのプレッシャーと、恐怖を伴うものなのか。一分一秒が寿命を削る、ロシアンルーレットのようなものなのだ。お前たちは、あの女の本当の姿を知らない。

 

 あの完璧な淑女の仮面の下に、どれほど冷徹で残忍な怪物が潜んでいるかを。今感じているこの恐怖を、お前たちにも味わわせてやりたい。そうすれば二度と、羨望の目で見ることなどなくなるだろう。

 

 だが彼らの嫉妬の視線は、橘の新たな恐怖の火種となった。男たちの視線が、麗奈の美しい姿態に集中している。特に、その大胆に開いた背中に。滑らかな肩甲骨の動き。くびれた腰へと続く官能的なライン。男たちがその美しさに目を奪われ、息を飲むのが手に取るように分かった。

 

 

(見るな! 見るな見るな見るな! その視線を今すぐやめろ!)

 

 

 橘の脳内で警報が鳴り響く。麗奈は今、穏やかな表情をしている。だが、彼女が気づいていないはずがない。自分に向けられる、不躾な視線の数々を。今は俺の前だから、猫を被っているだけだ。きっと内心では『あの男たちの眼球をくり抜いてシャンパングラスに浮かべてやろうか』くらい、考えているに違いない。そしてその怒りの矛先が、なぜか俺に向かってくるのだ。

 

 

『隊長があのようなふしだらな格好を、私に強いたからだ』

 

 

 そんな理不尽な責任転嫁が起きる可能性は、十二分にあった。橘はただ麗奈の嫉妬のスイッチがいつ入るか分からない時限爆弾の隣で、愛想笑いを浮かべているだけの哀れなピエロなのだ。

 

 

(ああもうやだ…このプレッシャーの中で平常心を保てとか無理ゲーだろ…)

 

 

 橘がそう思いながら必死に愛想笑いを振りまいていた、その時。ふわりと濃厚な甘い香りが鼻腔をくすぐった。それは麗奈のクールなフローラルの香りとは全く違う。もっと原始的でもっと官能的で、そして同じくらい危険な香り。熟れすぎた果実のようなむせ返るほどの甘さ。それは理性を麻痺させ、本能を直接刺激する類の香りだった。その香りに誘われるように視線を動かし、彼の目に鮮烈な赤色が飛び込んできた。

 

 人混みの中でひときわ目を引く、深紅のドレス。そのドレスを纏った女が、こちらに向かってくるのが見えた。それはまるでモーゼが海を割るように周囲の男たちが、彼女のために道を譲りその視線が一本の道となって、彼女へと続いている。彼女の歩みはまるで血の匂いに引き寄せられる鮫のように、滑らかで唐突で致命的だった。

 

 女は橘たちの目の前で足を止めると、その豊満な体をくねらせながら微笑んだ。そしてその真っ赤なルージュが塗られた唇が、ゆっくりと開かれる。

 

 

「ごきげんよう、素敵な殿方」

 

 

 甘く蕩けるような声が、耳元で囁かれた。その声だけで、骨の髄まで蕩かしてしまいそうだ。振り返るとそこに立っていたのは、麗奈とはまた違うベクトルで完成された美女だった。体にぴったりとフィットした深紅のドレス。その胸元は今にもその豊満な果実が、こぼれ落ちんばかりに大きく開いている。布地に押し上げられた二つの肉塊は重力に逆らい、見事な渓谷を形作っていた。

 

 その谷間は、あまりにも深く底が見えない。一度落ちたら二度と這い上がれない、甘美な奈落のようだった。長くスリットの入ったスカートからは、むっちりとした太ももが悩ましげに覗いていた。歩くたびにその肉感的な脚線美が見え隠れし、男の視線を釘付けにする。その女は、明らかにプロだった。男を惑わし虜にする術を知り尽くした、魔性の女。おそらくは、敵対組織の女スパイか何かだろう。

 

 

(うわああああ! また面倒くさいのが来た!)

 

 

 橘の脳内で警報が鳴り響く。

 

 

(しかもこっちはこっちでドストライクだ! グヘヘ! 麗奈のクールビューティーもいいが、こっちの肉食系グラマラスも最高だ! あの胸に顔を埋めてみてえ! あの太ももに挟まれてみてえ! あの唇を奪いてえ!)

 

 

 そんな下劣な欲望が恐怖と共に彼の頭を支配する。一瞬麗奈の存在を忘れ、その肉体の魔力に魂を奪われかけた。

 

 

(とか言ってる場合じゃねえ! 死ぬ! 俺が社会的にじゃなくて、物理的に死ぬ!)

 

 

 美女は橘に妖艶なウインクを一つ送ると、すれ違いざま彼のタキシードの胸ポケットにこっそりと、一枚のカードを滑り込ませた。その指先が胸元に触れた瞬間、柔らかな感触と甘い香水の香りが橘の理性を揺さぶる。そして吐息混じりの声で囁く。

 

 

「後で私の部屋へいらして…♡ 楽しいこと、しましょう?」

 

 

 その瞬間。橘は隣にいる麗奈から放たれる殺気のオーラで、全身が凍りつくのを感じた。物理的に気温が数度下がったのではないかと、錯覚するほどだ。会場の陽気な音楽が遠のき、代わりに地獄の釜が開くような幻聴が聞こえる。

 

 

(やめろ! 俺は何もしてない! 不可抗力だ!)

 

 

 橘は、心の中で全力で無実を訴える。

 

 

(ていうか、なんで俺はこんなにモテるんだ! いや! モテてる場合じゃねえ!)

 

 

 この状況はハーレムなどではない。時限爆弾と地雷に挟まれた、一本橋を渡っているようなものだ。一歩でも踏み外せば、即死。

 

 彼は胸ポケットに入れられたカードをどう処理するべきか、麗奈にどう言い訳するべきか、人生で最大級の思考を巡らせた。まず、パターンA。カードを即座に取り出し中身も見ずに破り捨てる。

 

 

『あら隊長。なぜそんなに慌てていらっしゃるのですか? 何か疚しいことでもおありで?』

 

 

 そう言って、絶対零度の瞳で問い詰められる未来が見える。駄目だ。ではパターンB。堂々とカードを確認し、『敵の情報かもしれない』とシラを切る。

 

 

『まあ! そのメス猫に興味がおありで? ふふっ、よろしいでしょう。今すぐその部屋に乗り込み、二度とその汚らわしい口をきけなくして差し上げますわ』

 

 

 そう言って、パーティー会場が血の海と化す未来が見える。これも駄目だ。ならばパターンC。完全に無視を決め込む。

 

 

『隊長。なぜあの女の誘いを断らないのです? まさか本当に行くおつもりで? そうですか…ならば、仕方ありませんわね。あなたが行く前に、あの女の存在そのものをこの世から消去しておきますから』

 

 

 地獄の底から響くような声で、そう宣告される未来が見える。詰んでいる。またしても、完全に詰んでいる。どの選択肢を選んでも、バッドエンド直行だ。麗奈はそんな橘の葛藤を心の底から楽しむかのように、彼の耳元で甘く囁いた。その声は蜂蜜のように甘く、しかしその内容は毒薬のように恐ろしかった。

 

 

「隊長。あのメス猫も一緒に海に沈めて差し上げましょうか? それとも、手足の一本くらいで勘弁してあげましょうか? 隊長はお優しいですから」

 

 

(どっちもダメに決まってるだろ!!!)

 

 

 橘は泣きそうだった。俺はただ平和に生きたいだけなのに。なぜ俺の周りには物騒な選択肢しかないんだ。海に沈めるか、手足を切り落とすか。究極の二択すぎるだろ。せめて『厳重注意』とか『始末書』とか、そういう平和的な選択肢を提示してくれ。彼は必死に頭を回転させ、ひとつの活路を見出した。そうだ。ここは、正直に話すしかない。

 

 

「れ、麗奈。これは任務の一環だ。敵の情報を引き出すために、僕がわざと誘いに乗る必要があるかもしれない」

 

 

 我ながら苦しい言い訳だ。だが麗奈は、それを聞くとふわりと微笑んだ。その笑顔は全ての罪を許す、聖母のようだった。

 

 

「まあ隊長。それでしたらわたくしにお任せくださいませ」

「え?」

「あの女の部屋に、二人で参りましょう。わたくしが尋問すれば、五分もかからずに組織の秘密から昨日の夕食のメニューまで、全てを洗いざらいお話ししてくださるでしょうから」

 

 

 その笑顔は聖母のようだったが、言っている内容は拷問官のそれだった。麗奈の言う『尋問』がただの言葉のやり取りで終わるはずがない。きっとあの女の美しい指の爪を一枚一枚、丁寧に剥がしていくのだろう。その光景を想像し橘は背筋が凍るのを感じた。

 

 

(ダメだ! こいつに任せたら絶対に死人が出る!)

 

 

 橘は、最後の手段に出ることにした。彼は胸ポケットからカードを取り出すと、それを麗奈に見えるようにひらひらとさせた。

 

 

「麗奈、君の言う通りだ。こんなものに惑わされる僕ではない。君という、最高のパートナーがいるのだからね」

 

 

 そう言って彼はそのカードを近くにあったシャンパンのクーラーの中にぽちゃんと落とした。完璧な対応。これなら麗奈の機嫌も直るはずだ。

 

 

(俺ってば、天才)

 

 

 だが、麗奈はまだ微笑んでいた。その笑みは、全てを見通していると言っているかのように。

 

 

「隊長。お戯れを」

「え?」

「今捨てたカードは、ただのルームキー。本命のメッセージはあなたのカフスボタンの裏に、極小のフィルムで貼り付けられていますわ」

「なっ…!?」

 

 

 橘が慌てて自分の袖口を見ると、確かにそこには米粒ほどの何かが付着していた。いつの間に!? あの女が近づいたのは、ほんの一瞬だったはずだ。その一瞬で、こんな芸当をやってのけたというのか。プロの仕事すぎる。

 

 麗奈は、くすくすと笑った。その笑い声は無邪気な少女のようでありながら、同時に全てを嘲笑う悪魔のようだった。

 

 

「ご安心ください隊長。あの女があなたに近づいた瞬間、彼女の懐から発信機を抜き取り、代わりにあなたのジャケットの裏地に盗聴器を仕込んでおきましたから。彼女の行動も部屋の様子も全て筒抜けですわ」

「………」

 

 

 橘はもう何も言えなかった。この女はスパイとしても完璧すぎる。そしてヤンデレとしても完璧すぎた。己の行動は全てお見通し。自由はどこにもない。麗奈は満足げに橘の腕に自分の腕を絡ませた。その豊満な胸が二の腕にぐりぐりと押し付けられる。柔らかくしかし確かな弾力を持つその感触は本来なら男を天国に導くはずのものだ。

 

 だが今の橘にとっては、地獄の番人に捕縛されたのと同じだった。彼女の美しい顔がすぐ隣にある。吐息がかかるほどの距離で、彼女が囁く。

 

 

「さあ隊長。次のターゲットの元へ参りましょうか」

 

 

 その声は甘く、しかし逆らうことを許さない絶対的な響きを持っていた。橘は華やかなパーティーの裏で繰り広げられる静かなる恐怖に、ただただ耐えながらこの地獄のクルージングが一刻も早く終わることだけを、天にますます神に仏に心から祈り続けるのだった。もちろん、その祈りが届くことなどないと知りながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◼️

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長い長い夜が、ようやく終わった。橘圭一は自分の客室のドアを開けると、雪崩れ込むように室内へ転がり込んだ。そして背後で重厚なドアが閉まる音を聞くと同時に、床にへたり込む。カシャンという金属質なロック音が、彼にようやく訪れた安寧を告げていた。

 

 

(終わった…終わったァ…!)

 

 

 彼は、ぜえぜえと荒い息を繰り返す。全身からどっと力が抜けていく。タキシードの窮屈な襟元を緩め、蝶ネクタイを乱暴に引きちぎった。まるで首輪を外された、奴隷のような解放感だった。

 

 あの地獄のパーティー会場。鳴り響く悪魔のワルツ。腹の底を探り合う、化け物たちの饗宴。そして何より、隣に立つ最強最悪の監視役。その全てから解放されたのだ。生きて帰ってこられた。五体満足で。その事実だけで涙が出そうだった。

 

 橘はふらふらと立ち上がると部屋のミニバーに向かい、一番度数の高いウイスキーの小瓶を掴んだ。そしてそれをグラスにも注がず、ラッパ飲みする。喉を焼くようなアルコールの熱が、緊張で凍りついていた彼の神経を無理やり溶かしていくようだった。

 

 

(…ああ…うめえ…生きてるって感じがする…)

 

 

 彼はようやく人間らしい思考を取り戻しつつあった。そうだシャワーを浴びよう。あのパーティー会場で浴びた腹黒い欲望と殺意の匂いを、全て洗い流してしまおう。そしてふかふかのベッドで泥のように眠るのだ。もう誰にも邪魔されない。自分だけの聖域で。

 

 シャワールームの扉を開け、熱い湯を出す。湯気がもうもうと立ち上り、鏡を曇らせていく。橘はタキシードを脱ぎ捨てると、その湯気の中に身を投じた。熱いシャワーが凝り固まった肩や背中の筋肉を、優しくほぐしていく。嗚呼、気持ちいい。まるで、全身の細胞が生き返るようだ。彼は目を閉じながら、地獄の一夜を振り返っていた。麗奈の恐ろしさ。マフィアたちの胡散臭さ。

 

 そして。

 

 

(…しっかし、あの女スパイたまんねぇな…)

 

 

 恐怖から解放された橘の脳裏に、あの深紅のドレスの女の姿が鮮明に蘇ってきた。恐怖と混乱の中で彼の本能に深く刻み込まれた、その記憶。ドレスの胸元から、こぼれ落ちそうだったあの豊満な双丘。スリットから悩ましげに覗いていた、むっちりとした太もも。そして「楽しいことしましょう?」と囁いた、あの妖艶な唇。思い出すだけで、橘の橘が天国に昇りそうである。

 

 

(グヘヘヘ…麗奈のあの完璧なスタイルも国宝級だが…ああいう分かりやすい肉感的なボディも最高だ…! あの谷間に顔を埋めてみてえ…! あの太ももに思いっきり挟まれてみてえ!)

 

 

 彼の思考は、完全にクズな男のそれに切り替わっていた。シャワーの湯気の中で、彼は一人薄汚い笑みを浮かべる。恐怖という名のストッパーが外れた彼の欲望は、留まるところを知らない。

 

 

(夢に出てこねえかなあ…そんで朝までイチャイチャしてえなあ…)

 

 

 そんな馬鹿なことを考えながら、彼はシャワーを終えた。バスローブを羽織りふかふかのベッドにダイブする。高級ホテルのシーツは天国のような肌触りだった。疲労とアルコールと解放感が、一気に彼を襲う。彼の意識は、急速に闇の中へと沈んでいった。

 

 そして彼は夢を見た。人生で最高に幸せな夢を。夢の中で彼は超絶敏腕スパイ、『コードネーム:プリンス』だった。敵のアジトである豪華客船に単身乗り込み、そのカリスマと知略で全ての敵を出し抜いていく。そこにあの深紅のドレスの女が現れるのだ。

 

 

『プリンス…あなたに会いたかったわ…♡』

 

 

 彼女はそう言って、彼のたくましい胸板にその豊満な体を押し付けてくる。

 

 

『俺もだよ、ベイビー』

 

 

 橘は(夢の中の彼は)クールにそう答え、彼女の腰を抱き寄せた。そして二人は誰もいないダンスホールで、情熱的なタンゴを踊る。彼女の柔らかい豊満マシュマロが彼の胸で弾み、甘い香りが彼の理性を蕩かす。夢の中では麗奈の監視もなければ、ヤンデレの恐怖もない。ただ甘く官能的な時間だけが流れていく。

 

 

『嗚呼、プリンス…あなた素敵…♡』

 

 

 女は彼の耳元でそう囁くと、その真っ赤な唇を彼の唇に重ねてきた。

 

 

(うおおおおお! 最高だ! このまま時間が止まればいいのに!)

 

 

 橘の幸福感は絶頂に達した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。橘はここ数ヶ月で、最も心地よい目覚めを体験していた。窓から差し込む朝日が眩しい。夢の余韻が、まだ全身を包んでいる。

 

 

(いやあ、いい夢だった…)

 

 

 彼はベッドの上で大きく伸びをすると、幸福な気分で立ち上がった。さて、朝食でも頼むか。ルームサービスで、豪華なアメリカンブレックファーストでも注文しよう。そう考えながら、彼は何気なく部屋のドアを開けた。

 

 その瞬間。彼の幸福な一日は、開始五秒で終わりを告げた。

 

 

「は?」

 

 

 ドアの前の廊下に二人の女がいた。一人は黒澤麗奈。彼女はいつもの完璧な微笑みを浮かべ「おはようございます隊長」と淑やかに頭を下げた。その手には小さなボイスレコーダーが握られている。

 

 そしてもう一人。その麗奈の足元に膝をついて座っていたのは、昨夜の夢にまで見たあの深紅のドレスの女だった。しかしその姿は昨日とは、まるで別人だった。完璧にセットされていたはずの髪は乱れ、高価なドレスはところどころ皺になり破れている。

 

 そして何よりその美しい顔は、涙と鼻水とよだれでぐちゃぐちゃになっていた。その瞳は虚ろで焦点が合っていない。まるで、魂を抜かれた人形のようだった。

 

 女はドアを開けた橘の姿を認めると、その虚ろな瞳にわずかな光を取り戻した。そして堰を切ったように泣き叫びながら、橘に這い寄ろうとする。

 

 

「ひっ…! あ…! お、お願いです…! た逮捕してください…! もう嫌なんです…! あんな尋問はもう二度と…!」

「じ、尋問…」

「喋ります! なんでも喋りますから! 秘密の武器庫の場所は、横浜の港湾地区Dブロックの第7倉庫です! 他にも幹部のリストも隠し口座の番号も全部…!」

「潜入捜査の意味とは…」

「だからお願いです! 私を警察の安全な独房に入れてください! あの女から引き離してくださいぃぃぃぃ!」

「………あ、うん」

 

 

 その絶叫と懇願。そしてその隣で完璧な笑みを浮かべながら、こてんと首を傾げる麗奈の姿。彼女の瞳はまるで、「見てください、隊長。私ちゃんと言いつけを守って、任務を遂行しましたわ。褒めてください」と語っているようだった。橘の脳裏に、昨夜の会話がフラッシュバックする。

 

 

『わたくしが尋問すれば五分もかからずに…』

 

 

(…ごふん…?)

 

 

 橘の思考が停止した。あれは、冷酷な予告だったのか…。

 

 

(五分どころか一晩中…一体こいつはこの女に何を…!?)

 

 

 彼の視線が、麗奈の手の中にある小さなボイスレコーダーに吸い寄せられる。そこには一体、どのような音声が記録されているというのか。

 

 

 この女スパイの悲鳴か。

 命乞いか。

 あるいはもう人間としての尊厳を失ったただの鳴き声か。

 

 

 想像しただけで吐き気がこみ上げてくる。夢の中の甘く官能的な彼女の姿と目の前で精神が完全に崩壊している彼女の姿。天国と地獄。そのあまりにも残酷なギャップ。橘の胃がひっくり返るような感覚に襲われた。そして──

 

 

(ナニしてくれてんだァァァァァッ!!!!)

 

 

 彼の脳内で、全ての理性が焼き切れる音がした。




どうも、黒髪が腰まで届いてるアメリカ育ちの作者です。次回は、初めてのNG集をお届けします。範囲内容は「#10」で、「採用したかったけど、これ以上は隊長のライフはゼロになるから採用しなかったシーン」です…ニヤニヤが止まらないよw …彼は違うようですがw


橘「ふざけるナァ!!! 王子様系女子で通ってる作者ァ!!! マシになったバージョンも採用されてないバージョンも、俺は全てに対して胃がヤバいんだよ!!! 死んでしまう…ッ」


褒めてくれているのかい? ふふっ、嬉しいね…そんな君には、ヤンデレ三人衆をプレゼントだァ!! さっ、わからせてやれ!


橘「(必死に逃げる隊長)」
ヤンデレ三人衆「(愛する男を、瞳ギラギラさせて追いかける美女)」


では皆さま、次回もお会いしましょう…あっ、ちょっと作者を盾にするの反則d
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