俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ   作:最高司祭アドミニストレータ

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皆さんこんにちは。日本酒でハイしてるアメリカ人作者です。今回は予定通り、「採用したかったけど、これ以上は隊長のライフはゼロになるから採用しなかったシーン」をお届けします。前半は「橘視点メインだけど、女スパイと麗奈視点もある」、後半は「橘視点のみ」となります。


NG集 豪華客船の夜

【パターン1 : メス猫の末路】

 

 

 パーティーという名の地獄の責め苦から解放され、橘圭一はようやく自室のスイートルームへと戻ってきた。彼は重厚なマホガニーのドアに背中を預けると、そのままズルズルと床にへたり込んだ。

 

 

「つ、疲れた…」

 

 

 絞り出した声は自分でも驚くほどか細く情けないものだった。最高級のタキシードは鉛のように重く、彼の精神と肉体を圧迫している。彼は覚束ない手つきで蝶ネクタイを緩めると、大きく息を吐いた。吸い込んだ空気は、胃薬の匂いがした。今日の出来事が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 

 

 麗奈の殺意に満ちた囁き。

 マルコとかいう、マフィアの下品な視線。

 そしてあの、深紅のドレスの女スパイ。

 

 

 全てが悪夢のようだった。ふと廊下の向こうから、微かに人の争うような声と物音が聞こえたような気がした。

 

 

「なんだか騒がしいような?」

 

 

 橘は、一瞬だけ眉をひそめた。だがすぐに、首を横に振る。

 

 

「気のせいか!」

 

 

 豪華客船だ。酔っ払いが騒いでいるか。あるいはどこかの部屋で、情熱的な夜が繰り広げられているだけだろう。これ以上面倒ごとに巻き込まれるのは、ごめんだった。彼は全ての面倒事をシャットアウトするように立ち上がると、シャワーを浴びるためにバスルームへと向かった。

 

 熱いシャワーが、彼の疲れた体を芯から温める。ようやく人心地ついた橘は、備え付けのふかふかの上質なバスローブに身を包み、ミニバーから取り出した高級そうなブランデーをグラスに注いだ。

 

 

「ゲームでもするか」

 

 

 この部屋には、最新のゲーム機も完備されている。少しは気晴らしをしないと、本当に気が狂いそうだ。

 

 

(しっかしあの女スパイ、ドストライクだったなァ)

 

 

 橘の脳裏に、あの豊満な肉体が蘇る。ドレスの上からでも分かる巨大なマシュマロ。スリットから覗く、むっちりとした太もも。そして、全てを蕩かすような甘い声。

 

 

(あの誘いに乗ってたら、今頃天国を見れたんだろうなァ…グフフ)

 

 

 そんなクズな思考が頭をよぎるが、隣のスイートルームには麗奈がいる。その事実が、彼の煩悩に冷や水を浴びせかけた。もし誘いに乗っていたら今頃はあの女スパイと一緒に、海の底で魚の餌になっていただろう。そう思うと、流石の橘も背筋が寒くなる。結局疲労が勝り、ゲームをする気力も失せた。

 

 

(よし寝よう! 今日という悪夢を忘れるには、眠るのが一番だ)

 

 

 キングサイズのベッドは彼の体を優しく受け止めた。シーツは滑らかで心地よい。橘は数秒で意識を手放しかけた。

 

 その時だった。

 

 

 カチャリ。

 

 

 バルコニーのドアが開く、微かな音がした。そして誰かが、部屋に侵入してくる気配。息を切らし、必死に何かから逃げているような気配。橘の寝室に、一人の女が文字通り転がり込んできた。

 

 あの深紅のドレスの女スパイだった。だがその姿はパーティー会場で見た妖艶な姿とは、似ても似つかないものだった。ドレスはところどころ引き裂かれ、美しい脚には痛々しい擦り傷がいくつもついている。完璧にセットされていたはずの髪は乱れ、その顔には恐怖と絶望の色が浮かんでいた。彼女は息も絶え絶えに橘のベッドに這い寄ると、彼の体を必死に揺さぶった。

 

 

「た、助けて! お願い、助けて! 追われてるの!」

 

 

 その悲痛な声に橘は「んー…」とうっすらと目を開けた。目の前に涙と汗で濡れた、美女の顔がある。夢か。

 

 

(なんか良い夢見てるな、俺…)

 

 

 そう思いながら、彼は再び眠りの淵へと沈んでいった。

 

 

「きゃっ!」

 

 

 女スパイが短い悲鳴を上げた。彼女の背後のバルコニーの闇から、すっと音もなく一人の人影が現れたからだ。黒澤麗奈だった。その手には銀色に光る、細いワイヤーが握られている。彼女はパーティーの時と同じ、優雅な笑みを浮かべていた。だがその瞳には、一切の光がなかった。

 

 

「あらあら、ダメですよ? 隊長の安らかな睡眠を邪魔してはいけません」

「ひっ…! な、なんなのよアンタ! ただの護衛じゃない…! 化け物…!」

 

 

 女スパイは完全に怯えていた。裏社会で数々の修羅場を潜り抜けてきた彼女ですら、麗奈という存在は理解の範疇を超えていた。気配がないのだ。まるで幽霊のように背後に現れ、悪魔のように冷徹に自分を追い詰めてくる。

 

 

「お願い! いくら払えばいいの!? 命だけは助けて! 私この男の情報を組織に売るつもりなんて、微塵もなかったの! ただのハニートラップのテストだったのよ!!」

「お金? そんなもので、隊長の安眠の価値が計れるとでもお思いで?」

 

 

 麗奈は心底軽蔑したように言った。

 

 

「それにテストですって? この私の隊長を貴女のような安物のメス猫が試すなど、一億年早いですわ」

「違う! この男はただのボンボンじゃない! 日本の警察組織が隠している最終兵器だって噂なのよ! だから私に接触命令が…っ」

「まあ! 隊長の素晴らしさをご存知でしたのね…それならば、尚更許せませんわ。その汚らわしい唇で隊長の名を口にすること自体が、罪なのですから」

「いやぁ、いやあああ! 助けて! 起きてよ!」

 

 

 女スパイが再び橘を揺さぶる。だが。

 

 

「んー…騒がしいな…むにゃむにゃ…麗奈…あんかけチャーハン…」

 

 

 橘はそう寝言を言うと枕をぎゅっと抱きしめ、幸せそうな寝息を立て始めた。その完全に無防備な姿を見て、麗奈の口元がさらに深く歪んだ。

 

 

(ああ…なんて愛おしいのかしら…この方は私がいないと本当にダメなのですから)

 

 

「お静かになさいな、この泥棒猫。隊長の夢見が悪くなったら、どうしてくださるの?」

 

 

 麗奈は女スパイの口を、その華奢な手で容赦なく塞いだ。

 

 

「さあ、少しだけ『お話』をしましょうか。隊長に近づいた、本当の理由。その汚らわしい口で、何を囁こうとしたのか、そして、貴女の組織の全てをね。大丈夫。決して苦しいようには、いたしませんから。ただ少しだけ、長くなるかもしれませんけれど」

 

 

 麗奈は抵抗する女スパイの体を、まるで人形のように軽々と引きずりバルコニーの闇の中へと消えていった。後に残されたのは床に落ちた深紅のドレスの切れ端と、微かな恐怖の匂いだけ。

 

 彼はまさか自分のすぐ目の前で、国際的に名の知れた女スパイが恐怖のどん底に突き落とされ、静かに連れ去られていくという恐ろしい出来事があったなどとは、夢にも思っていなかった。彼の安眠はひとりの美しい悪魔によって、完璧に守られていたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【パターン2 : 悪夢を見た男】

 

 

 地獄のクルージング初日が、ようやく終わった。橘圭一は割り当てられた自室のスイートルームに戻る。ドアが閉まった瞬間、その場にへたり込んだ。背中をドアに預け、ずるずると床に座り込む。

 

 

(助かった…)

 

 

 心の底から、安堵のため息が漏れた。麗奈とは別室。その事実だけが、今の彼にとって唯一の救いだった。

 

 

 あの後も続いた、地獄のパーティー。

 常に隣に立つ、麗奈の監視と殺気。

 周囲からの、嫉妬と羨望の視線。

 

 

 その全てから解放されたのだ。彼は震える手でタキシードの内ポケットから最後の胃薬を取り出し、水も無しに喉の奥へと放り込んだ。苦い粉の味が口の中に広がるが、今の彼にはそれすらも甘露のように感じられた。

 

 シャワーを浴びて、パーティーの喧騒と緊張を洗い流す。備え付けのふかふかしたバスローブを羽織ると、ミニバーから取り出したミネラルウォーターを、一気に飲み干した。

 

 ようやく人心地がついた。部屋は無駄に広く、豪華なキングサイズのベッドが、彼を誘っている。彼はその誘いに抗うことなく、ベッドへとダイブした。シーツの冷たい感触が、火照った体に心地よい。このまま眠ってしまおう。明日のことなど、考えたくない。このまま帰るまで眠り続けられたら、どんなに幸せだろうか。そんな現実逃避の思考に身を委ね、彼の意識が微睡みの中へと沈みかけたその時だった。

 

 

(なんだか騒がしいような?)

 

 

 微かな物音が彼の耳に届いた。最初は気のせいだと思った。船のエンジン音か。あるいは、遠くの波の音か。だが物音は、断続的に続いた。ドンという、鈍い音。何かを引きずるような、擦過音。そして微かに聞こえる、くぐもった呻き声。橘の全身の産毛が逆立った。嫌な予感が、脳裏をよぎる。

 

 

(まさか…)

 

 

 彼の脳裏に浮かぶのはあの完璧なパートナーの姿。黒いドレスを纏い、絶対零度の瞳をした悪魔。

 

 

(いや違う。あいつの部屋は、俺の部屋から一番遠いはずだ。俺に近づいて余計な気を起こさせないようにという、配備だと聞いている。だから、大丈夫だ…)

 

 

 彼は自分に言い聞かせるように、そう呟いた。だが彼の願いも虚しく、物音はどんどん鮮明になっていく。

 

 

「こ、この部屋か?」

 

 

 橘はベッドから這い出し、音のする方へと耳を澄ませた。音源は近い。すぐ隣の部屋からだ。彼はそっと、壁に耳を当てた。すると先ほどよりも、はっきりと聞こえてきた。女性の、押し殺したような悲鳴。「バシン! という肉を打つ、生々しい音。そして何より恐ろしかったのは、その合間に聞こえる甘く冷たい声だった。

 

 

『あらあら、まだお話ししてくださらないのですか? 私、あまりしつこい方は嫌いですのよ?』

 

 

 間違いない。黒澤麗奈の声だ。橘の全身から、血の気が引いた。隣の部屋。確かパーティーの前に渡された資料によれば、隣室の主はあの深紅のドレスの女スパイ『リン・シャオラン』だったはずだ。

 

 

(なんでだ!? なんであいつがここに!? 俺の隣の部屋に!?)

 

 

 恐怖と混乱で、頭が真っ白になる。

 

 

(雪乃か!? 陸にいるあいつがハッキングして、わざと俺の隣にあの女の部屋を割り当てやがったのか!? 俺を試すために!? それとも単なる嫌がらせか!?)

 

 

 どちらにせよ、最悪の状況であることに変わりはなかった。見てはいけない。関わってはいけない。橘の本能が、最大級の警報を鳴らしていた。だが、人間とは愚かな生き物だ。恐怖は時として、抗いがたい好奇心へと姿を変える。彼は音を立てずにベッドから降りると、まるで亡霊のように自室のドアへと近づいた。バスローブの帯を固く結び直し、息を殺してドアスコープを覗く。

 

 廊下には誰もいない。彼は震える手で、ゆっくりとドアを開けた。そして隣の部屋のドアが、わずかに開いているのを見つけた。そこから漏れる光と声が、彼を手招きしている。悪魔の誘惑だ。彼はその誘惑に抗えなかった。猫のように足音を殺し、隣室のドアの隙間へと目をやる。

 

 そして見てしまった。彼の人生で最も恐ろしい光景を。

 

 部屋の中央。豪華な椅子にあの妖艶だった女スパイ、リン・シャオランが縛り付けられていた。彼女の代名詞だった深紅のドレスは無残に引き裂かれ、ほとんど黒いレースの下着だけの姿になっている。その白く綺麗な肌には、痛々しい腫れや痣が浮かび上がっていた。その光景は背徳的でエロティックでありながらも、同時に暴力的で凄惨だった。

 

 そしてその前に立つのは、黒澤麗奈。彼女はパーティーで着ていた、あの美しい黒のロングドレス姿のままだった。その手にはどこから取り出したのか客室の調度品である、革製のベルトを握っている。彼女はリンの前に屈み込むと、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったリンの顔を、うっとりとした表情で覗き込んだ。

 

 

「あらあら可哀想に。でも自業自得ですわ。騎乗のようなメス猫が、私の隊長に色目を使ったのですから…さあ、お話ししましょうか。貴女の知っていること全て。それからその汚らわしい舌で、二度と私の隊長の名前を呼ばないと誓いなさい。さもなくばその舌、引き抜いてしまいますわよ?」

 

 

 その声は恋人に愛を囁くように甘く、しかしその内容はどこまでも残酷だった。リンは猿ぐつわを噛まされ、何かを必死に訴えている。が、意味のある言葉にはならない。その瞳には、恐怖と絶望の色だけが浮かんでいた。

 

 

「!!?」

 

 

 橘はその光景に、声にならない悲鳴を上げた。彼は音もなくドアから離れると、自室に転がり込むように戻った。そして震える手でドアに鍵をかけ、チェーンをかけ、更に近くにあったテーブルでバリケードを築いた。

 

 ベッドに潜り込み頭までシーツを被る。だが無駄だった。壁の向こうからはまだ麗奈の甘く冷たい声と、リンのくぐもった悲鳴が聞こえてくる。

 

 

(もうダメだ…この船は地獄だ! 俺は生きて帰れないかもしれない…う、うぅ…っ)

 

 

 彼はこの船が『ポセイドン・ネプチューン号』などではなく、『地獄への片道クルーズ船』であることを改めて確信する。そして明日の朝廃人になったであろう、リンと顔を合わせるかもしれない恐怖に怯えながら、意識を失うように眠りに落ちるしかなかった。




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