俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
落ちついてください。あなたの反応は正常です。ひとまず、まずは久々の本編をご覧ください。
絶望のブリーフィング - (橘圭一 視点)
地獄から生還した男の顔はかくも美しいものかと、彼は思った。最もその男は橘自身であり、鏡に映る自分の顔を見ているに過ぎない。やつれてはいるものの、その目には確かな覚悟と野心が宿っているように見えた。少なくとも、表面上は。
「グッモーニン俺。今日も一日生き延びてやろうぜ」
鏡の中の自分にウィンクをひとつ送り、橘は完璧な笑顔で洗面所を後にする。向かう先は職場、すなわち特四の隊長室。かつては屠殺場へ向かう家畜の気分だった通勤路も、今やサバンナへ向かう百獣の王の心境である。
無論サバンナには、自分より遥かに強い捕食者がうようよしているわけだが、それでも王は王。特四隊員たちを巧みに操り利用し、自分の栄光の糧とするのだ。それが橘がこの地獄で生き残るために見出した、唯一の活路だった。
隊長室のドアを開けると、そこにはすでに麗奈が待っていた。彼女は音もなく立ち上がり完璧な礼をすると、一枚の報告書を差し出した。
「おはようございます、隊長。昨夜の尋問結果をまとめました」
「ご苦労」
橘は完璧な上司の笑みで、それを受け取った。内心では(またお前のポエムを読まされるのか)とうんざりしていたが、顔には出さない。それが王の嗜みというものだ。席に着き、報告書に目を通し始める。そこには女スパイ──リン•シャオランから引き出した、『ニーズヘッグ』に関する情報が羅列されていた。
武器取引の日時場所に関する核心的な情報はまだ得られていないものの、いくつかの国内拠点の情報や組織の連絡手段など有益な情報が記されている。ここまではいい。問題はその先だった。
報告書の後半は、完全にリン•シャオランの個人情報で埋め尽くされていた。スリーサイズ。好きな食べ物。初恋の思い出。男性の好み。好きな下着のブランドまで。橘は眩暈を覚えた。
(これのどこが尋問結果なんだよ! ただのストーカー調査じゃねえか!)
極めつけは末尾に添えられた、麗奈による精神分析だった。『幼少期の愛情不足が見られ、自己肯定感が低い傾向にある。強い男性に庇護されたいという願望が見て取れるが、その実支配欲も強く面倒なタイプ。隊長のお相手としては、万が一にもふさわしくありません。万死に値します』などと書かれている。余計なお世話だ。
橘は報告書を机に置き、深くため息をついた。その時、ふと昨夜の悪夢が脳裏をよぎる。理性を焼き切るほどの怒号を上げた後、結局橘は疲労困憊で眠ってしまった。夢の中で自分は敏腕スパイ『プリンス』として、リンと情熱的な恋に落ちていた。最高に幸せな夢だった。
だが、その夢から覚めた現実がこれだ。ドアの外には精神崩壊したリンと、悪魔の微笑みを浮かべる麗奈。自分の妄想の対象が、無残な姿になってしまったのだ。
「して、あの女の処遇は?」
「ご心配には及びません。組織のルールに則り、処理しておきましたので」
橘は聖人のような慈悲深い表情で尋ねると、麗奈はうっそりと微笑んだ。その微笑みが、何よりも恐ろしかった。処理。その一言が意味するものを想像し、背筋が凍る。橘は慌てて付け加えた。
「そ、そうか。まあ私が次長に『人道的な配慮を』って働きかけたからな。いくら敵とはいえ無下に扱うのは、私の信条に反する」
「…流石です隊長。その海より深い慈悲のお心、尊敬いたします」
麗奈はうっとりと目を細めた。彼女たちは知らない。リンがあの部屋に安全に収容されていることなど、一切情報開示されていないのだから。己の言葉を、麗奈がどう解釈したかは分からない。だがそれでいい。橘圭一がリンの安全を確保した。その事実が重要だった。
もちろんそれは橘の慈悲などではなく単なる自己満足とほんの少しの罪滅ぼしに過ぎない。昨夜の彼は、実家である父親の書斎に駆け込んでいた。
『父さん! この通り! お願いします!』
橘は生まれて初めて父親に、したくもない土下座をした。父であり警察庁次長である厳格な男は、驚いた顔で息子を見下ろしていた。
『…珍しいな圭一。お前が頭を下げるなど』
『一生のお願いです! リン•シャオランを保護してください! 最高の環境で!』
父親はしばらく黙っていたが、やがてやれやれと首を振るとこう言った。
『…小学生の頃、お前がくれた肩叩き券を使わせてもらおうか』
『ありがとう愛してる!』
そうして橘は文字通り人生の切り札を使い、リンの安全を確保したのだ。彼女は今頃警視庁が管轄する最高レベルの警備が施された、特別保護施設の個室にいるはずだ。窓には鉄格子がはまっているが部屋自体は殺風景ではなく、高級ホテルのように上品で質の良い家具が揃えられ、最高のケアを受けているはずだ。
(これで俺の妄想の対象は守られた…グッジョブ俺! …しっかし、おしゃべりねェ? 五分で相手の精神を破壊するおしゃべりがどこにあるんだよ…)
橘は内心で絶叫しつつも顔では、「そうか。君の腕を信じていたよ」と頷いた。これ以上この話題に触れるのは危険だと判断し、橘はすぐさま本題に入ることにした。
「よし、全員集めてくれ。ブリーフィングを始める」
数分後、隊長室には特四の全メンバーが集結していた。麗奈。陽菜。雪乃。日本警察が誇る(そして橘が最も恐れる)最強の戦闘部隊である。橘は彼女たちを前にして、大きく息を吸った。ここからは指揮官としての腕の見せ所だ。
「昨夜の麗奈の活躍により、我々は『ニーズヘッグ』の尻尾を掴むことができた。だが、敵は巨大な毒龍だ。尻尾を掴んだからといって、油断すれば逆に食い殺される」
橘は重々しい口調で語り始めた。その目は遥か遠くを見据え、まるで歴戦の勇将のような雰囲気を醸し出している。
(そうだ俺は王! 俺は指揮官! こいつらは俺の駒! こいつらは俺のハーレm…これは遠慮しときます)
内心で自己暗示をかけながら、橘は作戦指示を続ける。
「得られた情報は、まだ断片的だ。敵は我々の想像以上に、狡猾だと考えるべきだろう。下手に動けば、こちらの被害が増えるだけだ。よって、まずは雪乃による徹底的な情報収集を優先する。敵の国内拠点の金の流れ、通信履歴。その全てを洗い出し、取引の日時と場所を完全に特定するんだ」
「…了解」
雪乃がこくりと頷いた。その瞳には、隊長に信頼されたという喜びの色が浮かんでいる。橘は満足げに頷き、次に麗奈と陽菜に視線を移した。
「麗奈と陽菜は私の指示があるまで、絶対に出るな。これは命令だ。特に陽菜、お前は分かっているな?」
橘は念を押すように、陽菜の目を真っ直ぐに見つめた。その視線には、有無を言わせぬ圧力が込められている。
(頼む! 頼むから何もしないでくれ! 俺は安全な場所でコーヒーを飲んでいたいだけなんだ! お前が動くと始末書が増えるんだよ! 俺の!)
内心の悲痛な叫びとは裏腹に、彼の表情は部下の暴走を案じる厳しくも優しい上司そのものだった。
「ははいっ! 了解であります!」
陽菜は背筋を伸ばし、完璧な敬礼をした。しかし、橘は見逃さなかった。その瞳が、ギラギラと好戦的な光を宿しているのを。そしてうずうずと体を揺らし、まるで檻に入れられた猛獣のようにエネルギーを持て余しているのを。
(あいつ…絶対何かやる気だ…! 俺の胃に穴を開ける気満々だ…! この女ァ…ッ)
強烈な不安が橘の背筋を駆け上った。だがここで更に釘を刺せば、逆に彼女の反発を招きかねない。橘は己の人心掌握術()を信じ、完璧な指揮官の仮面を被り続けることを選んだ。
「いいか? 我々はチームだ。誰か一人の突出した行動は、全体の破滅を招く。私の指示を待て。以上、解散。陽菜は席に戻って待機。雪乃と麗奈は、私と作戦会議を続ける」
橘がそう締めくくると、陽菜は少し不満そうな顔をしながらも素直に敬礼し自分の席へと戻っていった。橘は引き出しに存在する胃薬のボトルに手を伸ばしかけたが、完璧な指揮官でいなければならないと思い直し、その手を固く握りしめた。
橘は祈るような気持ちで、打ち合わせを開始した。雪乃がハッキングで得た断片的な情報を元に、橘は持ち前の(悪知恵の働く)頭脳で敵の行動パターンを予測していく。麗奈はその横で紅茶を淹れながら、静かに二人の会話に耳を傾けている。
(呑気に茶飲みやがって…っ)
「この金の流れ…ダミー会社をいくつも噛ませているな。だが、金の最終的な行き先はこの倉庫街のリース会社だ。怪しいな」
「…はい。現在この会社のサーバーに侵入を試みています。ですがプロテクトが固く…もう少し時間がかかりそうです」
(嘘だ! テメーなら容易に突破出来る癖に…っ)
「構わん。じっくりやれ。敵に気づされないことが最優先だ」
打ち合わせは、数分間にも及んだ。橘は雪乃から次々と上がってくる情報を分析し、敵のアジトの可能性が高い場所を数カ所に絞り込んでいく。その集中力は本物だった。自分の命とキャリアがかかっているのだから、当然である。
そしてついに最も可能性の高い倉庫を特定した、その時だった。
「…よし。雪乃、この倉庫の監視カメラの映像をハッキング出来るか? 内部の様子を…ふぇ?」
顔を上げた瞬間、橘は言葉を失った。いつの間にか、陽菜の姿がどこにもなかったのだ。麗奈と雪乃との会議に集中するあまり、陽菜への注意が完全に途切れていたらしい。血の気が引いていくのが、自分でも分かった。まさか。いやそんなはずは。彼は震える声で、麗奈に問いかけた。
「…麗奈、陽菜はどこへ行った?」
「さあ…お手洗いではないでしょうか? 先ほど席を立たれましたが」
(それもっと速く言えよ!!?)
麗奈は紅茶を飲みながら、優雅に答えた。橘は絶望的な予感に駆られ、陽菜の席へと駆け寄った。そして見つけてしまった。机の上にちょこんと置かれた一枚のメモを。
そこには子供のような元気な字でこう書かれていた。
『隊長のため、いってきます♡』
橘の脳内で、けたたましい警報が鳴り響いた。全ての音が遠のき、視界がぐにゃりと歪む。彼はその場に、膝から崩れ落ちた。
「お、終わった…」
全てが終わった。橘圭一の平和な一日が終わった。己の胃の平穏が終わった。そしておそらく、倉庫街の一角も終わった。
「隊長、どうかなさいましたか?」
雪乃が心配そうに駆け寄ってくる。だが橘にはもう、何も聞こえなかった。彼の脳裏にはただ一つの、未来予想図だけが繰り返し再生されていた。陽菜が倉庫の扉を蹴破り『こんにちはー!』と叫びながら突入し、中にいるマフィアたちをオモチャのように投げ飛ばし、街を半壊させ、そしてその全ての責任が指揮官である自分の元にやってくるという、最悪の地獄絵図が。
その時だった。雪乃が操作していたPCから、けたたましいアラート音が鳴り響いた。
「…隊長、警察無線に緊急通報です!」
雪乃がハッキングしていた警察の緊急無線が、立て続けに情報を吐き出し始めた。橘はもう聞きたくなかった。聞かなくても分かる。だがその無慈悲な音声は、彼の耳に嫌でも突き刺さってきた。
『こちら警視庁! 湾岸地区の倉庫街で大規模な爆発音との通報多数!』
『なんだあれは!? 人が空を飛んでいるぞ!』
『報告します! 現場に単独で突入した美女1名! 実にけしからん格好をしております! タンクトップにミニスカート…おっふ!』
『隊長! 撮影の許可を!』『こちらスナイパー。あまりにもイイアングルでおっふ!』『バカ者! それでも日本警察が誇る機動部隊員か!』
『目撃情報続報! その美女『正義の鉄槌!』と叫びながら、屈強な男たちを次々とコンクリートに埋め込んでいる模様! 繰り返す! コンクリートに埋め込んでいる模様!』
嗚呼、やっぱり。橘は両手で顔を覆った。モニターには映っていない。だが彼の目には、はっきりと見えた。ミニスカートを翻しながら『えい! やー!』と叫び、マフィアたちをなぎ倒していく太陽のように明るい破壊神の姿が。
「もうだめだ…」
橘は、床に突伏したまま呻いた。
「おしまいだぁ…」
胃が焼けるように痛い。頭が割れるように痛い。そして何より、心が痛い。
「隊長、お顔の色が優れませんわ。新しい紅茶をお淹れしました…もちろん私が一口いただいた、間接キス済みのものですけれど」
「…隊長の疲労には糖分が必要です。角砂糖をどうぞ…あら、手が滑って紅茶の中に五個ほど入ってしまいました。ついでに私の指も少し浸かってしまいましたね。偶然です」
「あらあら雪乃さん。隊長は甘すぎるものはお好きではないのよ。それに、その汚れた指で隊長のお飲み物に触れるなんて、万死に値するのではないかしら?」
「陽菜さんを止められなかった、役立たずの猟犬風情が何か言っていますね。私の指は、隊長の情報という聖域に触れることを許された指です。それに比べて貴女の唇は、ただの自己満足を押し付けるだけの厚かましい器官ですね」
「あら怖い。まるで自分が役に立っていると、勘違いしているようね。隊長が本当に求めているのは貴女のような陰気な女ではなくて、私のような華やかで有能なパートナーよ」
「…訂正します。厚かましいだけでなく、脳みそもお花畑のようですね。憐れです」
「なんですって?」
「ハッ、聞こえませんでしたか? 憐れな猟犬には、人間の言葉は難しいようですね」
「「やんのかゴラ」」
紅茶の香りが、やけに鼻についた。それは橘にとって絶望の香り以外の、何物でもなかった。
どうも。…ふふ、その目、ゆっくりと開けてください。
嗚呼、落ち着いて。混乱する必要は何もありません。パニックになりそうなら、そちらに鎮静剤代わりの牛乳入りバケツを用意してありますので、ご安心を。
……さて。意識は、はっきりしてきましたか? うん、髪を染めてるのか? ははっ、地毛の銀髪は元々黒に染めてましたよ。瞳だって元々は…。
おっと、そうでした。あなたに、大切なお話があります。いいですか? どうか、心を穏やかに。私が、最高司祭アドミニストレータが、こうして傍にいます。私は最高峰の精神科医ですし、今もですが某世界の部下たちからは絶大な信頼を寄せられています。ですから、ご安心なさってください。
今がいつか、分かりますか? そうです。2025年10月20日。
あなたはずっと深い昏睡状態にありました。原因は…ええ、分かっていますとも。あの日、あの時、「俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ」が休載してしまったという、あまりにも残酷な衝撃でね。
ひと月。たったひと月でしたが、物語の続きを待ち焦がれる魂にとって、それは永遠にも等しい時間だったことでしょう。「休載のお知らせ」という無慈悲な文字列があなたの網膜に焼き付いた瞬間、あなたは「嘘だ、嘘だ…こんなものは認めない…!」と叫び、そのまま意識を手放したのです。
ですが、聞いてください。希望の光は潰えていませんでした。
このひと月の期間、「休載」という絶望的な告知があったにも関わらず、物語を愛する読者層が離れることは一切ありませんでした。それどころか…ええ、むしろ増えたのです。感想欄は橘隊長の安否を気遣う声で溢れ、彼の未来を案じる考察が日夜投稿され続けました。まるで、作者の筆が止まっている間も心の中で物語が生き、呼吸を続けていたかのようでした。実に、喜ばしいことです。
そして今、あなたは再び最新話が更新されるという奇跡を目の当たりにする。それを、その目で読むことができるのです。
…しかしです。ある程度は執筆の余裕が生まれたとはいえ、作者のリアルという戦場は、未だ硝煙の匂いが消えていないのです。上司という名の魔王からの緊急招集、新人という名のスライムたちの育成。それらを掻い潜り、ほんの僅かな隙間を縫って、こうして言葉を紡ぎ届けに来たのです。ですから、今回この最新話が投稿されたのは、限りなく「たまたま」に近い僥倖に過ぎない。
けれど、そう悲観することはありません。作者は、ここに確約いたします。本日をもって、作品ステータスを「休載中」という灰色のプレートから、「連載中」という希望の緑色に塗り替えることを。投稿頻度は不定期になりましょうが、それでも物語は再び動き出すのです。
さあ、そろそろ時間です。久しぶりに酷使したその目を、今はゆっくりと休ませてあげましょう。
そのあとは散歩に出かけたり、温かいココアを飲みながら読書をしたり、本編に対する熱い感想を綴ったり、そして「橘の前世編プロット完結まで完成済(2025年10月15日)」という禁断の果実を妄想したり…どうぞ、あなたの好きなことをしてください。
物語はもう、どこへも行きません。またすぐに様子を見に来ますよ。
では、また…。あなたの扉が再び開かれる、その時まで。
PS:
本文クオリティ低下してないか心配な作者、無理はしておりません。