俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ   作:最高司祭アドミニストレータ

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おいたわしや隊長殿…ブフゥw


絶叫と勘違い - (橘圭一 視点)

 地獄へのドライブは、存外静かなものだった。正確に言えば音は存在しないはずなのに、橘圭一の鼓膜は常に甘く、危険な不協和音で満たされていた。特四が誇る漆黒の装甲車は、自動運転で滑るように現場へと向かっている。その車内後部座席で橘は完璧な地獄、いや…ある意味で完璧な天国を味わっていた。

 

 右に麗奈、左に雪乃。両手に華とはよく言ったものだが、この華たちは美しい棘どころか触れた者を虜にし、骨の髄まで溶かす甘い毒を内蔵している。

 

 

(なんで俺が真ん中なんだよ…! いやでもこれはこれで…いやいやいや!)

 

 

 橘は内心で、絶叫と葛藤を繰り返した。指揮官である自分が、なぜこんな状況に。だが「隊長を護衛するのは当然ですわ♡」「はい、隊長の半径50センチ以内は私の聖域です♡」という甘い囁きと有無を言わさぬ圧によって、彼は今この世で最も危険で甘美なサンドイッチの具材と化していた。

 

 

 右からは、麗奈の高級な香水と彼女自身の肌の甘い香りが混じり合い、橘の理性を直接的に揺さぶる。

 左からは、雪乃の清潔な石鹸の香りとシャンプーの香りが漂い、その無防備さに背徳的な感情を煽られる。

 

 

 ぴたりと寄せられた肩から伝わる柔らかな感触と熱い体温が、橘の寿命と理性を確実に削り取っていく。装甲車が滑らかにカーブを曲がったその時だった。

 

 

 ぐにゅぅ…ん。

 

 

 橘の右腕に、これまでとは比較にならないほど柔らかく、弾力に満ちた感触がゆっくりと押し付けられた。見なくとも分かる。麗奈のたわわに実った、豊満な二つの柔らかメロン。制服のブレザーの上からでもはっきりと分かるその圧倒的な存在感が、橘の思考回路を焼き切らんと猛威を振るう。

 

 

「あら、ごめんなさい隊長ぉ♡ 少し揺れてしまいましたわ」

 

 

 麗奈は悪びれる様子もなく猫なで声でそう言うと、体重を預けたまま離れる気配を一切見せない。むしろぐりぐりと、その感触を確かめさせるかのように腕に擦り付けてくる。上目遣いで見つめてくるその瞳は心配しているように見せかけて、橘の反応を心底楽しんでいるかのようだ。確信犯だ。この悪魔は、絶対に分かってやっている。

 

 橘が右腕の天国的な地獄に耐えていると、今度は左腕にふにぃ…とした優しい感触が伝わってきた。雪乃だ。彼女もまたバランスを崩したかのように、橘にもたれかかってきていた。麗奈のものとは少し違う、もっちりとした感触。まるで極上の大福のような、純粋な柔らかさが橘の思考を穏やかに麻痺させていく。

 

 

「…すみません、隊長…私も…」

 

 

 耳元で囁かれるか細い声。吐息が耳にかかりぞくぞくとした感覚が、背筋を駆け上る。彼女の場合は、本当に無意識なのかもしれない。だとしたら余計にタチが悪すぎる。橘は、完全に身動きを封じられた。左右から伝わる、二種類の極上の柔らかさ。それは甘美な拷問であり、逃れようのない快楽の罠だった。

 

 

(うおおお…柔らかい…! 柔らかすぎる…! だがしかし! これはハニートラップなんだ! 触れたら最後骨までしゃぶられる毒入りマシュマロなんだぞ俺!)

 

 

 クズな本能が歓喜の声を上げ、生存本能が悲鳴に近い警鐘を乱打する。脳内で繰り広げられる激しいせめぎ合いに耐えながら、橘はただひたすらに天井のシミを数えることに集中した。だがこの物理的な圧迫という甘美な地獄は、まだ序の口に過ぎなかった。

 

 そしてその地獄にさらなる薪をくべるのが、二人の終わらない奉仕合戦だった。

 

 

「隊長ぉ♡ お顔の色が優れませんわ。やはり紅茶を一口…私が愛情と…この唇の潤いを込めて淹れた特別な一杯を飲めばきっと元気が出ますわよ?」

 

 

 麗奈がうっとりとした表情で、ティーポットを傾けようとする。その仕草は貴婦人のように優雅だが、言葉の端々からは濃厚な色香が漂っていた。唇の潤い。その言葉が意味するものを想像し、橘の喉がごくりと鳴る。彼女は自分の腕に胸を押し付けたまま、もう片方の手でカップを橘の唇に近づけてくる。甘い紅茶の香りと、彼女自身の肌の香りが混じり合い、橘の理性を直接的に麻痺させにきていた。

 

 断れば、このむにゅむにゅ地獄がさらに悪化するのは、目に見えている。

 

 

(やめてくれ! お前の愛情は致死量の媚薬なんだよ! 一口飲んだら骨抜きにされる!)

 

「…いえ。隊長の今のお身体に必要なのは、刺激の強いカフェインではなくて純粋な水分…私の清らかな気持ちが込められた天然水の方がきっと…お身体に優しいはずです」

 

 

 雪乃が小さな声で反論し、水筒をぎゅっと胸に抱きしめながら橘の顔を覗き込んできた。その潤んだ瞳は庇護欲をそそるが、彼女もまた橘にもたれかかったままだ。ふにふにとした感触が、左腕から絶え間なく伝わってくる。そして彼女は、橘の目をじっと見つめながらこてんと首を傾げた。

 

 

「隊長…あーん…して、さしあげましょうか…?」

 

(直球でキタァァァァッ!!)

 

 

 橘は内心で絶叫した。無垢な顔をして、とんでもない爆弾を投下してくる。雪乃の恐ろしさはそこにあった。彼女のその言葉に、麗奈の纏う空気がぴしりと凍ったのが分かった。

 

 

「あら雪乃さん。隊長は赤ん坊ではないのよ? あーんだなんて…はしたない。それに、ただのお水でご満足されるとでも?」

 

 

 麗奈の声は蜂蜜のように甘いが、その奥には絶対零度の嫉妬が渦巻いている。彼女はわざとらしく橘の腕にさらに体重をかけ胸の谷間を強調するように身じろぎした。ぐにゅぅぅ…と柔らかい感触が深まり、橘の思考は完全にショート寸前だった。

 

 

「…麗奈さんこそ、隊長の今の繊細なお心を理解していない。あなたのその厚かましいお体で隊長を圧迫するのは、やめてください。隊長がお苦しそうです」

「あらあら嫉妬かしら? 私と隊長の、この親密な距離が羨ましいのね? あなたのようなお子様には、まだ早いわ」

「…厚かましいだけでなく、自意識も過剰なのですね。憐れです」

 

 

 バチバチバチッ! 

 

 

 視線と視線がぶつかり合い甘い香りが、充満する車内に見えない火花が散る。二人の美女に挟まれ、極上の柔らかさに包まれながら、橘はただひたすらに死の恐怖を感じていた。

 

 

(やめて! 俺のために争わないで!)

 

 

 まるで少女漫画のヒロインのようなセリフが脳内を駆け巡ったが、口が裂けても言えない。言えば最後、二人の独占欲の炎に油を注ぐだけだ。

 

 

(違う! これは俺の純情を弄ぶ悪魔たちの誘惑合戦だ! 俺は被害者だ! というかお前らの争いの本質は、どっちが俺を合法的にセクハラできるかっていう痴女マウントだろ! 全部お見通しなんだからな!)

 

 

 このままでは埒が明かない。どちらかを選べばもう一方が暴走し、身体中の骨を嫉妬で折られるだろう。両方を断れば二人が結託して、夜の尋問という名の拷問にかけてくるかもしれない。詰んでいる。人生は甘すぎる毒に満ちたクソゲーだ。だが橘のクズ性は極限の痴情のもつれにおいてこそ、真価を発揮する。

 

 生き残るためなら、どんな甘言もどんな思わせぶりな態度もやってのける。彼はゆっくりと顔を上げ、苦悩に満ちた聖人の表情を浮かべた。

 

 

「…二人ともありがとう。その気持ちだけで十分だ」

 

 

 声はわずかに震え、その瞳は愛する者を守るために戦場へ向かう、騎士のように憂いを帯びている。

 

 

「だが…今は何も喉を通らないんだ。これから向かうのは戦場だ。多くの人間の運命が、私の双肩にかかっている。そんな状況で君たちが心を込めて用意してくれたものを、味わうことなどできない。それは君たちの純粋で美しい気持ちを、穢れた戦場に持ち込むことになってしまう…それは、私には耐えられない」

 

 

 橘は一世一代の色男を演じきった。自分の命と貞操と胃の平和を賭けた、乾坤一擲の口説き文句だ。嘘八百を並べ立て、以下にも自分が彼女たちの心を深く理解し、大切に思っているかのように振る舞う。ポイントは、「君たちの美しい気持ちを穢したくない」という部分だ。責任を相手に転嫁しつつも相手を聖女のように崇めていると錯覚させる、超高等テクニックである。

 

 

(俺天才か…!?)

 

 

 内心でガッツポーズをする橘。脳内では愛のファンファーレが鳴り響き勝利を祝う薔薇の花びらが舞っている。これだ。これぞ完璧な処世術。己の高潔本能と、生き残るための知恵が融合して生み出した至高の解答。橘圭一は生き残れる。この地獄のハーレムでもやっていける。そう確信した。

 

 麗奈と雪乃は、一瞬きょとんとした顔で橘を見つめていた。その美しい顔に浮かぶ純粋な疑問符が、橘の心を少しだけチクリと刺す。

 

 

(あ…こいつら本当に俺のこと心配してたのか…? いやいやいや! 騙されるな俺! こいつらの心配は独占欲の裏返しだ! 俺は悪くない!)

 

 

 自己正当化の防壁を瞬時に築き上げ、橘は聖人の仮面を貼り直した。やがて二人は橘の言葉の意味を、それぞれの脳内で完璧に自分たちに都合よく変換し始めたようだった。蜂蜜色のフィルターがかかった、乙女チックな思考回路が導き出した結論。やはり、自分の想像通りだった。

 

 

「…流石です隊長。私たちのことをそこまで…深く考えてくださるとは…」

 

 

 雪乃がうっとりと頬を染めながら呟いた。その瞳は熱っぽく潤み、まるで愛の告白を受けたかのように、キラキラと輝いている。彼女の頭の中では今頃『隊長は私の純粋な気持ちを、大切にしてくださっているんだ。私のこの想いは、穢れを知らないものだと…嗚呼、神様…♡』という、壮大な勘違いオペラが上演されているに違いない。

 

 

(違うぞ雪乃! お前の水筒がどうとかじゃなくて! 単にお前の後ろにいる麗奈が怖かっただけなんだよ! 分かってくれとは言わん! だがせめて普通に引いてくれ!)

 

「ええ本当に。私たちの心を、完璧に理解してくださっているのね。だからこそ私たちは、この身も心も隊長にお仕えするのですわ」

 

 

 麗奈もまた、恍惚の表情を浮かべている。その口元は緩み勝利を確信した、女王のような笑みを浮かべていた。彼女の脳内でも『ふふ。隊長は私たちの愛を戦場という俗な場所で、消費するべきではないとおっしゃっているのね。私たちの関係はそれほどまでに…やはり私こそが真のパートナー…!!』という勘違いミュージカルが絶賛公演中なのだろう。

 

 

(お前の紅茶も別に飲みたくないんだよ! というかお前らが怖いんだよ! 分かれ! とは死んでも言えないけどな!)

 

 

 橘は内心のツッコミを強制終了させ、安堵のため息を心の奥底でついた。表面上はあくまで「君たちの気持ちが嬉しいよ」という、慈愛に満ちた微笑みを浮かべている。我ながら完璧な演技だ。ハリウッドからスカウトが来てもおかしくない。この地獄の特四で鍛えられた演技力は、そこらの俳優など足元にも及ばないだろう。

 

 だが橘の安堵は、砂上の楼閣よりも脆かった。彼が勝利の美酒に酔いしれたのは、わずか2秒。その束の間の平和は麗奈の一言によって、無慈悲に打ち砕かれた。

 

 

「ですが…」

 

 

 麗奈が口火を切った。その声は先ほどよりも、甘くねっとりとしていた。橘の背筋に、嫌な汗が流れる。

 

 

「やはり隊長のお身体が心配ですわ。このまま水分も摂らずに現場指揮を執られるなど…万が一にも隊長が倒れられたら私は…。せめて一口だけでも、喉を潤すだけでも構いませんのよ?」

 

 

 そう言って彼女は再び、ティーポットを橘の目の前に差し出した。その瞳には「さあ、断れるものなら断ってみなさい」という、無言の圧力が宿っている。

 

 

(でたー! 聖母の仮面を被った悪魔の追い打ち! 俺の心配してるフリして自分の要求を通そうとするやつ!)

 

「…はい。隊長が倒れられては元も子もありません。麗奈さんの言う通りです」

 

 

 雪乃も続く。彼女もまた、一歩も引く気はないようだ。水筒をぎゅっと胸に抱きしめながら、潤んだ瞳で橘を見上げてくる。

 

 

(お前も乗っかるのかよ雪乃! そこは「麗奈さんが出しゃばるからだ」って喧嘩するところだろ! なんでこういう時だけ団結するんだよ! 俺を追い詰める時だけ!)

 

 

 二人の瞳には「お前が引け」という、強い意志が宿っていた。視線と視線がぶつかり合い、バチバチと火花が散るのが見えるようだ。狭い車内の空気は、一気に希薄になり橘の呼吸を圧迫する。

 

 戦いは終わっていなかった。休憩時間を挟まずに、第二ラウンドのゴングがけたたましく鳴り響いたのだ。橘は再び、絶望の淵に突き落とされた。もはや打つ手はない。このままではどちらかを選ぶまで、この地獄のループは終わらないだろう。そしてどちらを選んでも、待っているのはバッドエンドのみ。

 

 

(嗚呼、もういっそ陽菜のところに行きたい。あいつなら、こんな面倒な駆け引きはしない。ただ殴ってくるだけだ…その方がまだマシだ…いやマシじゃないけど!)

 

 

 思考が完全に袋小路に入り込んだ、その時だった。

 

 

『目的地に到着しました』

 

 

 無機質な合成音声が車内に響いた。それは橘にとって、仏の慈悲に等しかった。天からの蜘蛛の糸。地獄に差し込む一筋の光。装甲車が静かに停車する。地獄のドライブは、終わりを告げた。

 

 橘は神に感謝した。自動運転システムを開発してくれた、名も知らぬ技術者に心からの感謝の念を送った。そして陽菜が起こしてくれた、大惨事にすら感謝した。このまま車内にいれば、自分の精神は持たなかっただろう。目の前に広がるであろう、地獄絵図の方がまだマシに思えた。そうこの時の橘は、本気でそう思っていたのだ。その考えがどれほど甘かったか、彼はこの後すぐに思い知ることになるのだが。

 

 橘は深呼吸をし、覚悟を決めて両隣の美女たちに言った。人生で最も、勇気を振り絞った瞬間だったかもしれない。

 

 

「そろそろ降りるぞ。少し離れてくれないか」

 

 

 その言葉に二人は一瞬不満そうな顔をしたが、すぐに完璧な笑顔で応じた。

 

 

「「はい喜んで♡」」

 

 

 二人は素直に離れたが、その名残り惜しそうな視線が痛かった。まるで、愛する主人との別れを惜しむ忠犬のようだ。ただし、その首輪の先には爆弾が繋がっているのだが。

 

 橘はよろめきながら立ち上がると、車のドアを開けた。その瞬間、鼻を突く硝煙の匂いと鉄錆の匂い。そして目の前に広がっていたのは、彼の貧弱な想像力を遥かに超えた地獄絵図だった。左右から「隊長お降りの際は足元にお気をつけて」「私が手を取りましょうか」「いえ私が隊長の盾となります」という声が聞こえてきたが、もはや彼の耳には届いていなかった。

 

 

(やっぱり車内にいればよかった…)

 

 

 橘は心からそう思った。だがもう遅い。彼は地獄の中心へと、その一歩を踏み出したのだから。

 

 

「一体何があったんだ…」

「戦争でも起きたのか?」

「まるで怪獣映画のセットだ…」

 

 

 橘が装甲車から降り立った瞬間、現場の空気が変わった。それまでざわついていた機動隊員たちの囁き声がぴたりと止み、全ての視線が彼一人に集中する。さながらレーザービームのように突き刺さった。

 

 

(なんだこの空気…)

 

 

 橘は内心で戸惑った。だが彼は指揮官であり伝説の聖人()だ。動揺を顔に出すわけにはいかない。彼は背筋を伸ばし、厳しい表情で目の前に広がる惨状を見据えた。

 

 壁は放射状に砕け、分厚い鉄骨は飴のように捻じ曲がっている。床や天井にはおびただしい数の人型のクレーターが刻まれ、まるで現代アートのオブジェのように、マフィアたちが埋め込まれていた。それはもはや戦闘の跡などという、生易しいものではない。神話の巨人が癇癪を起こしたかのような、一方的な破壊の痕跡だった。

 

 そしてその中心に彼女はいた。地獄絵図の玉座に君臨する、無垢なる破壊神。

 

 

 赤城陽菜が一人そこに立っていた。

 

 

 戦闘服である白いタンクトップは所々汚れ、少しはだけて健康的な肌と汗に濡れた谷間が覗いている。彼女は満足げな汗を額に浮かべていた。まるで運動会を終えた子供のような、純真無垢な笑顔。そしてその華奢な足元には完全に魂が抜け落ち、白目を剥いて泡を吹いているマフィアのボスが粗大ゴミのように転がっている。

 

 

(…なんだこれ?)

 

 

 橘の脳は、目の前の光景を処理することを拒否した。

 

 

(特撮の撮影現場か? いや待て。あのボスの失禁具合は本物だ…)

 

 

 現実逃避しかけた思考が引き戻される。これが現実。そしてこれを引き起こしたのが、自分の部下であるという厳然たる事実。

 

 

(ラスボスでもこんな一方的な破壊しねぇよ…!)

 

 

 恐怖が全身を駆け巡り、膀胱がきゅうっと悲鳴を上げた。こいつはダメだ。こいつだけは絶対に怒らせてはいけない。橘は改めてそう心に誓った。同時にこの惨状の責任者が自分であるという事実が、重くのしかかる。

 

 

 始末書。

 報告書。

 委員会。

 

 

 考えただけで、胃が溶けそうだ。嗚呼、機動隊員たちの視線が痛い。麗奈と雪乃の視線も、背中に突き刺さる。ここで怯えれば、全てが終わる。指揮官としての威厳も聖人伝説も全てが崩壊し、自分は社会的に殺される。橘の本能がそう告げていた。彼は最後の理性を振り絞った。完璧な指揮官の仮面を被り、腹の底から声を絞り出す。その声は自分でも驚くほど低く、地響きのように響き渡った。

 

 

「赤城陽菜ッッ!!!!」

 

 

 静まり返った惨劇の現場に、橘の怒号が轟いた。空気がビリビリと震える。機動隊員たちがビクリと肩を震わせた。麗奈と雪乃も息を呑んだ。陽菜は自分の名前を呼ばれ、「あっ、隊長!」と嬉しそうに振り返った。その無邪気な笑顔が、橘の怒りのボルテージをさらに引き上げる。

 

 

「勝手な行動はするなとあれほど言ったはずだぞ! これは重大な命令違反だ! 聞いているのか!」

 

 

 腹の底からの大音声。それは恐怖と絶望と胃痛と、将来への不安がごちゃ混ぜになった魂の叫びだった。

 

 

(頼むからもう本当に何もしないでくれ! 俺の胃に穴が開くどころか胃が消滅する! この瓦礫の山の始末書を書くの俺なんだぞ! 責任者は俺なんだぞ!)

 

 

 血を吐くような本音の絶叫は、完璧な指揮官の叱責としてその場に響き渡った。これで少しは反省するだろう。橘はそう思った…そう思いたかった。だが陽菜の反応は、橘の予想の斜め上を遥かに超えていた。

 

 叱責された陽菜は、一瞬きょとんとした顔をした。だが次の瞬間、愛を囁かれた乙女のようにその頬をぽっと赤く染めたのだ。その瞳はとろりと潤み、鬼の形相で自分を睨みつける橘をうっとりと見つめている。

 

 橘の脳内に? マークが乱舞する。

 

 

(え? なんで? なんでそんな反応なの?)

 

 

 もしや、陽菜の瞳には今の光景はこう映っているというのか? 

 

 

『俺の陽菜に何かあったらどうするんだ! 心配しただろうが!』

 

 

 愛する隊長が、自分のために激情を露わにしている。その不器用で情熱的な愛情表現の塊が、陽菜の心を鷲掴みにしていた…なるほど、あり得るな。

 

 

「心配してくださってありがとうございます、隊長…♡」

 

 

 陽菜はとろけるような声で返事をした。正解のようだと認識した橘は──

 

 

(心配してるのはお前のことじゃなくて俺の胃とキャリアだよ!)

 

「こんなに大きな声で私の名前を…嬉しいです…♡」

 

(嬉しいのかよ! 怒られてるんだぞこっちは!)

 

「次からはもっと上手に隊長にご心配をおかけしないようにやりますね!」

 

(やらないでくれ! 頼むから何もしないでくれ!)

 

 

 橘の心の叫びは、陽菜には届かない。彼女は叱責されたことすら、最高の愛情表現として受け取り、その狂信的な愛をさらに深めていたのだ。

 

 

 致命的なすれ違い。

 絶望的なコミュニケーション不全。

 

 

 これこそが特四という部隊の本質だった。橘はその場で崩れ落ちそうになった。だが彼は、指揮官であり伝説の聖人だった。その姿は、周囲の人々の目に焼き付いていた。

 

 

「全く…抜け駆けは感心しませんね」

 

 

 麗奈が嫉妬の炎を燃やしつつも、感嘆のため息を漏らした。

 

 

「ですが、あの猛犬を手懐ける隊長の手腕はやはり見事ですわ」

 

 

 雪乃もその横でこくりと頷き、橘への尊敬の念を新たにしていた。彼女たちにとって、橘の叱責は暴走した部下を完璧にコントロールする、理想の上司の姿そのものだった。

 

 そしてその勘違いは、機動隊員たちにも伝播していた。彼らは地獄の中心で繰り広げられる光景に、完全に心を奪われていた。

 

 

「おい…見たか…? あの化け物みてえな女を、橘隊長が一喝しただけで黙らせたぞ…」

 

 

 その言葉には純粋な畏怖が込められていた。

 

 

「黙らせたっていうか…なんかうっとりしてなかったか…?」

 

 

 別の隊員が少し興奮した声で言った。彼の目は、陽菜の汗に濡れたタンクトップとミニスカートに釘付けになっている。

 

 

「とんでもねえ美女だけど、中身ヤベーな…」

「だがそれがいい…!」

「「おっふ…!」」

 

 

 なぜか一部の隊員たちの間で、謎の連帯感が生まれていた。彼らにとって陽菜は恐怖の対象であると同時に、抗いがたい魅力を持つ偶像となりつつあった。

 

 そしてその偶像を従わせる男橘圭一。

 

 

「橘隊長マジ半端ねえ…」

「あの女を従わせられるなんて、一体何者なんだ…?」

 

 

 橘の『聖人伝説』に新たに『猛獣使い伝説』という、具体的でより畏怖に満ちた1ページが力強く刻まれた瞬間だった。

 

 

 尊敬。

 畏怖。

 そして煩悩。

 

 

 全方位からの勘違いの視線を一身に浴びながら、橘は目の前で「えへへ…♡」と幸せそうに微笑む陽菜を見つめていた。完璧すぎる地獄絵図。その中心で橘の理性は、ついに限界を突破した。ぶつり。何かが焼き切れる音が確かに聞こえた。

 

 

(違う…)

 

 

 心の中で呟く。

 

 

(そうじゃないんだよ…!)

 

 

 誰か。誰か一人でいい。この悲痛な心の叫びを聞いてくれ。

 

 

(違うんだよォォォォォォォッ!!!!)

 

 

 誰にも届かない魂の絶叫が、彼の心の中で虚しく木霊する。その絶叫をかき消すかのように、陽菜の嬉しそうな声が響いた。

 

 

「隊長! ちゃんと証拠品も持ってきましたよー!」

 

 

 そう言って彼女が、足元のボスをひょいと担ぎ上げた。白目を剥いたボスがだらりと手足を垂らしている。その光景がとどめだった。

 

 橘は完璧な指揮官の仮面を被ったまま、静かに意識を失った。




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