俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
あららァ♡
天才指揮官(と勘違いした男)の誕生 - (橘圭一 視点)
特四が誇る電子作戦室は、常に静寂に包まれている。空調の低い唸りだけが響くその空間は、まるで深海に沈んだ潜水艦の司令室のようだった。壁一面に広がる巨大なメインモニターには、滝のように無数のコードやデータが流れ落ちており、その光だけが室内にいる二人の人間の顔を青白く照らし出していた。
「ハァン」
橘圭一は、コーヒーをひと口啜った。苦い液体が喉を通り過ぎていく。その液体には、胃を守るための錠剤が三つほど溶かされているのだが、気休めにもならなかった。キリキリと締め付けられるような胃の痛みは、ここ数時間ずっと続いている。
その痛みの原因は大きく分けて二つあった。
一つは目の前でカタカタと小さな音を立ててキーボードを叩き続ける女性、白石雪乃にこの作戦の全てがかかっているという事実。
そしてもう一つの原因はそもそもこんな状況に陥った元凶が己の部下である赤城陽菜の暴走にあるという事実だ。
(そもそも陽菜の奴が…いや違うな…命令したのは俺だ…!!)
橘は内心で毒づきかけた言葉を、慌てて飲み込んだ。そうだ。忘れるところだった。壊滅させたアジトから「何か情報になりそうなもの、適当に見繕って持ってこい」と指示を出したのは、紛れもなくこの自分自身なのだ。
まさか脳筋の陽菜が、言葉通りにサーバーラックを物理的に引っこ抜いて担いでくるとは夢にも思わなかったが。彼女が凱旋とばかりに担ぎ上げてきたマフィアのボスと、そのPCサーバー。ボスからはある程度の情報を引き出せたものの、武器密輸取引の「正確な日時と場所」という最も重要な情報はサーバーの奥深くに、暗号化されて隠されていた。
そしてそのサーバーと来たら、厄介な代物だった。
内部データが高度に暗号化されているだけでなく、無理にこじ開けようとすると全てのデータが消去される自爆トラップが、幾重にも仕掛けられていたのだ。普通の解析班では、手も足も出ない。これを安全に解析できるのはただひとり、ヤンデレ美女の雪乃だけだった。
つまり陽菜が起こした大惨事の尻拭いを雪乃に丸投げし、自分はその結果を待つことしかできないという、何とも情けない状況に橘は置かれていたのだ。
(だが…!)
橘はコーヒーカップを強く握りしめた。その瞳には、不純な光が宿っている。
(だがここで情報さえ抜けさえすれば…! 陽菜の暴走は結果的に大手柄となりその功績は全て指揮官である俺のものになる! 頼む雪乃! 俺の輝かしいキャリアのために、何事もなく終わらせてくれ…!)
心の中で神に祈る。もちろんその祈りは、部下の安全や作戦の成功を願う清らかなものではない。ただひたすらに自分の手柄と出世を願う、欲望に満ちた祈りだった。
そんな不純な祈りを捧げながらも、橘の視線は無意識のうちにある一点に吸い寄せられていた。体育座りのような姿勢で椅子に座り、モニターに集中する雪乃。
その無防備な後ろ姿。
少し大きめのパーカーから伸びる白い腕。
そして何より彼の心を捉えて離さないのが、白いニーハイソックスとフレアスカートの間から覗く僅かな素肌の領域。
いわゆる「絶対領域」である。
(…実にけしからん…!)
橘のクズな本能が歓喜の声を上げる。
(この角度は神…! 神アングルだ…! この光景を肴に飯が三杯は食える…! むしろ俺が食われたい…!)
胃痛と希望と煩悩。
三つの感情がごちゃ混ぜになりながら、橘はただひたすらに雪乃の後ろ姿を見つめ続けた。彼の知らないところで、雪乃は背中に突き刺さるその熱い視線を感じていた。それが隊長の自分への信頼と期待の眼差しだと信じ込み、その身に宿る力の全てをキーボードを叩く指先に込めていたのだが。
雪乃の指が鍵盤の上を踊る。その動きは、もはや人間のものとは思えなかった。十本の指がそれぞれ別の生き物のように独立して動き、それでいて完璧な調和を保ちながら凄まじい速度でキーを叩いていく。カタカタカタという軽快な音が、美しい旋律のように室内に響き渡る。
メインモニターに映し出される光景は、圧巻だった。幾重にも重なった暗号の壁が雪乃の指の動きに合わせて、まるで美しい氷の彫刻のように削り取られていく。常人にはただの文字化けにしか見えないデータの羅列が、彼女の手にかかれば意味のある情報へと姿を変えていくのだ。
橘はその光景を、ただ呆然と眺めていた。さながら凄腕のピアニストのリサイタルを、最前列で鑑賞しているかのようだ。何がどうなっているのかは、全く理解できない。だが、凄いことだけは痛いほど伝わってきた。
(よく分からんが凄い…! このまま何事もなく終わってくれれば、全部俺の手柄だ…!!)
橘が典型的なクズ上司思考でほくそ笑み、自分の輝かしい未来を妄想し始めた、まさにその時だった。
平穏は突如として破られた。けたたましいアラート音が鼓膜を突き破り、室内の全てのモニターが一瞬にして深紅に染まった。壁を流れ落ちていた青白いデータの滝が血のような赤色に変わり、不気味に明滅を繰り返す。
『警告:不正アクセスを検知。カウンターハックを開始します』
無機質な合成音声が室内に響き渡った。橘の心臓が大きく跳ね上がる。さっきまでの安堵感は一瞬で吹き飛び、代わりに冷たい汗が背筋を伝った。
「な…なんだ!?」
「敵の、防衛AIです…ッ」
雪乃の声がわずかに震えている。彼女の指は先ほどとは比べ物にならない速度でキーボードを叩き続けているが、その額には玉のような汗が浮かんでいた。そして、無機質な音声は更に絶望的な言葉を続けた。
『60秒後に、接続元の物理的排除を実行します。カウントダウン開始。60…59…58…』
物理的排除。その言葉が意味するものを理解した瞬間、橘の血の気は完全に引いた。
(ぶ…物理的排除ってなんだ!? 爆弾か!? この部屋ごと吹っ飛ぶのか!?)
橘は、雪乃以上にパニックに陥っていた。脳裏に、翌日の新聞の見出しが浮かび上がる。
『警視庁で爆発事故! 部下を殉職させた無能指揮官!』
その横には、鬼の形相をした父親の写真。自分の輝かしいキャリアが木っ端微塵に吹き飛ぶ未来が、はっきりと見えた。
「ま…まずい…! まずいぞ雪乃! なんとかしろ!」
「だめです! このAI、私の思考パターンを読んで…先回りして罠を…!?」
雪乃の声は悲鳴に近かった。モニターには無数の赤いウィンドウがポップアップし、雪乃のハッキングツールを次々と破壊していく。まるで巨大な蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように、彼女は身動きが取れなくなっていた。
『30…29…28…』
カウントダウンは無情に進んでいく。絶望的な状況。その時だった。雪乃が震える声で呟いた。それは橘が初めて聞く、彼女の弱々しい声だった。これに対して橘は──
「隊長…こわい…です…っ」
(怖い? 俺の方がもっと怖いんだよ! お前がここで死んだら俺の人生が終わるんだぞ! 俺のせいじゃない! 俺は悪くない! でもこいつが死んだら全部俺のせいになる! それだけは…! それだけは絶対に阻止しなければ!)
究極の自己保身をした。死にたくない。出世したいという、純粋で下劣な欲望。その生存本能が、橘の脳を強制的にフル回転させた。
知識も経験もない。
だがやるしかない。
やらなければ俺が終わる。
橘は過去に読んだ警察マニュアルのサイバーテロ対策の項目や、子供の頃に夢中で見たスパイ映画の知識を、必死で記憶の底から掘り起こした。
意味なんて分からない。理論も知らない。だが今は、そんなことを言っている場合ではない。それっぽい言葉を並べて、あたかも自分が全てを理解しているかのように振る舞うしかない。
「落ち着け雪乃! 僕がついている!」
橘は雪乃の背後に仁王立ちになると、力強く叫んだ。その声には、不思議なほどの説得力と威厳が宿っていた。完全に火事場の馬鹿力だった。
雪乃の肩がぴくりと震える。その背中に、橘は畳み掛けた。
「敵の思考を読むなら思考の外から攻めろ! 常識を捨てろ! 定石を疑え!」
(そうだ! スパイ映画の主人公はいつもそう言っていた!)
「…思考の…外…?」
「そうだ! 奴らが最も警戒していないルートはどこだ!? 一番無駄で非効率的な経路を逆に利用するんだ!」
(確かそんなことを警察マニュアルで読んだ気がする!)
『15…14…13…』
「A-7のポートをバイパスしてカウンターを逆流させるんだ! 敵の攻撃をそのまま敵に返すんだ! 急げ!」
(頼む! なんかそれっぽい言葉であってくれ!)
橘は思いつく限りのそれっぽい指示を絶叫した。自分が何を言っているのか、半分も理解していなかった。だが今はそれでいい。とにかく何かを言わなければ、この場の空気に呑まれてしまう。
(合ってるかどうかなんて知るか! とにかく何か言わねえと! 俺の英雄譚に傷がつく!)
(頑張れ雪乃! めっちゃ頑張れ! お前が死んだら俺も死ぬんだぞ!)
内心では血の涙を流しながら、彼は必死に応援(という名の自己保身)を続けていた。
その声が届いたのか。橘の言葉に、雪乃が弾かれたように顔を上げた。彼女の瞳に、確かな光が宿る。
「…!? そういうこと、だったんですね…!」
雪乃の指が、再び鍵盤の上を舞い始めた。先ほどまでの迷いは完全に消え失せ、その動きはもはや神の領域に達していた。それは絶望の淵から生還した者の、力強い舞だった。
『5…4…3…』
モニター上の赤い警告表示が、次々と緑色の正常表示へと書き換わっていく。雪乃のハッキングツールが、敵のAIを逆に侵食し始めたのだ。
『2…』
雪乃の指が、エンターキーを力強く叩きつけた。
『1…』
カツン!!!
軽快な音と共に室内に満ちていたアラート音が、嘘のようにぴたりと止んだ。深紅に染まっていた全てのモニターが、一瞬で青白い正常な画面に戻る。そしてメインモニターの中央には、目的のデータがくっきりと表示されていた。
【武器密輸取引情報】
【日時:×月×日 23:00】
【場所:横浜港 第7埠頭 C倉庫】
静寂が戻った作戦室で雪乃は、ゆっくりとキーボードから手を離した。その額には汗が光り、肩が小さく上下している。彼女は疲労と安堵が入り混じった表情で、ゆっくりと橘を振り返った。その瞳は恍惚と、そしてどこか名残惜しそうな色を浮かべていた。
橘はといえばその場にへたり込みそうになるのを、必死で堪えていた。腰が抜けて、足がガクガクと震えている。だが彼の顔には安堵と、自分自身への驚嘆の表情が浮かんでいた。
(俺が…俺の指示で…この状況を乗り切った…?)
事実として、雪乃は追い詰められていた。そして自分が指示を出した途端に、状況は好転した。つまり──
(俺って…もしかして天才指揮官…?)
多大なる勘違い。だが今の橘には、それが揺るぎない真実に思えた。恐怖のあまり口走ったデタラメな指示が、結果的に部下の命を救い、作戦を成功に導いた。その奇跡的な成功体験が、彼に絶大な万能感を与えていた。
橘は震える足を叱咤し、雪乃の元へ歩み寄った。そして最高の聖人スマイルを浮かべると、彼女の頭を優しく撫でた。雪乃の肩がびくりと震え、その白い頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「よくやったな雪乃。君は最高の部下だ」
その声は自分でも驚くほど優しく、そして威厳に満ちていた。彼は続けた。心からの(と相手には思える)感謝の言葉を。
「君がいなければ僕も危なかった。ありがとう」
その言葉が雪乃の心の最後の扉を、完全に開け放った。彼女は感極まったように瞳を潤ませ、恍惚の表情で橘を見上げた。
「…いいえ…全ては…隊長の的確なご指示のおかげです…♡」
その言葉に、橘は満足げに頷いた。部下からの賞賛と尊敬の眼差しが心地良い。天才指揮官としての自分の姿が、鏡に映るように彼女の瞳に映っている。
(うんうん! これでまた俺たちの絆も深まったな!)
最も、橘のクズな思考はどこまでもポジティブだったが。
(これでこいつも、俺のために死ぬ気で働いてくれるだろう! 俺の指示があれば無敵だもんな! やったぜ!)
自分の輝かしい未来を確信し、橘は心の中でガッツポーズをした。彼の『聖人伝説』『猛獣使い伝説』に続き、新たに『天才指揮官伝説』という栄光の1ページがまた一つ力強く刻まれた。もちろんその伝説が、全て勘違いと自己保身と奇跡的な幸運によって成り立っていることなど、彼は知る由もなかった。今はただ、手に入れた(と勘違いした)新たな力に酔いしれているだから。
天才指揮官の橘圭一が、誕生した瞬間だった。
タチバナ「み、皆さま方。感想やお気に入り登録、高評価などをいただけますとンン⤴︎…は、腹の痛み無くなるはずなのでデェ⤴︎…お、お願いしますぅ…うう泣きたい」
作者「私もヤバいからお腹ァァダァン!!」
タチバナ「の、覗きはやめとくぜ」
作者「状況的に出来る訳ないだろきみ…アッ」
タチバナ「サクシャァァァアアアア!!!!」