俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ   作:最高司祭アドミニストレータ

39 / 72
何げに珍しい回かもしれない。


#12.5 閉話
残骸 - (元・女スパイ、リン・シャオラン 視点)


 金色の鳥籠。リン・シャオランは自分のいるこの部屋を、そう認識していた。窓の黒い鉄格子は鳥籠の骨組みのようだったが、部屋そのものは殺風景ではなかった。柔らかそうな絨毯。上品なデザインのベッド。そして、美しい木目のテーブル。さながら、高級ホテルのスイートルームの一室のようだ。過剰なまでの快適さは、この部屋が紛れもない「檻」であることを、より一層際立たせていた。

 

 リンはシルクの寝間着に身を包み、ベッドの上でただ虚空を見つめている。かつてその瞳に宿っていた、自信に満ちた強い光はもう無い。あるのは、ただ怯えと諦念だけ。組織きっての凄腕スパイ『紅牡丹』の面影はどこにもなく、そこにいるのはただ物音に怯え、時折意味もなく涙を流すだけの壊れた人形だった。

 

 

「…あ…あぁ…」

 

 

 喉の奥から乾いた声が漏れる。まただ。あの記憶がフラッシュバックする。あの夜。あの豪華客船の一室で、黒いドレスの悪魔から受けた『尋問』の記憶。

 

 物理的な暴力は一切なかった。殴られも蹴られもしなかった。ただひたすらに言葉のナイフで、精神を少しずつ削り取られていっただけ。彼女の過去の失敗を暴き出し、小さな嘘を丹念に突き崩し、自己を否定させ、思考の迷宮に閉じ込める悪魔的な技術。

 

 リンの築き上げてきたプライドも自信も矜持も、全てが木っ端微塵に砕け散り、後に残ったのは空っぽの自分という名の残骸だけだった。

 

 

「いや…やめて…」

 

 

 声にならない悲鳴を上げ、リンはシーツを強く握りしめた。あの冷たい瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。悪魔は今もどこかで、あの美しい顔で微笑んでいるのだろうか。その想像だけで、全身の血が凍りつくようだった。

 

 絶望。だがその絶望の中で、リンは一つの音だけを心待ちにしていた。静かで規則正しい廊下を、歩いてくる足音。自分の部屋の前で止まり、電子ロックが解除される軽やかな音。その音は彼女にとってこの地獄に差し込む、たった一筋の光だった。

 

 

 カチャリ。

 

 

 待ち望んだ音が響く。リンは弾かれたように顔を上げた。静かにドアが開き、銀色の髪を持つ女性が、食事の乗ったトレイを持って入室してきた。メイド服に身を包んだその女性の所作は完璧で、一切の無駄も感情もなかった。まるで精巧に作られた人形のようだったが、その紫水晶の瞳には確かな知性の光が宿っている。

 

 

「…あなた…今日も…来てくれたのね…」

 

 

 リンのかすれた声に、メイドは無表情のまま応じた。

 

 

「ええ。それが私の仕事ですので。さあ食事の時間です。本日は洋食ですがお口に合いますか」

 

 

 その変わらない淡々とした態度が、リンの心を不思議と落ち着かせた。

 

 

「…ええ…あなたが選んでくれたものなら…なんでも…」

「媚を売るのはやめてください。私が作っているわけではありません」

 

 

 ぴしゃりと言い放つメイドの言葉は冷たい。だがその変わらない態度こそが、リンに唯一の「日常」と「安堵」を感じさせてくれるのだった。この鳥籠の中で唯一、時間通りに訪れる確かな存在。それがこの、銀髪のメイドだった。

 

 メイドはリンが怯えているのを意に介さず、淡々と食事の準備を進めていく。テーブルの上に白いクロスを敷き、丁寧にカトラリーを並べていく。その美しい所作を、リンはただぼんやりと眺めていた。

 

 

「さあ。冷めないうちにどうぞ」

「…あ…ありがとう…」

 

 

 リンはベッドから降りると、おぼつかない足取りでテーブルについた。震える手でスプーンを握る。だが次の瞬間、カシャンという音を立ててスプーンが床に落ちた。

 

 

「あ…ごめんなさい…いつも…いつも迷惑をかけて…」

「謝罪は不要です」

 

 

 メイドは無表情に落ちたスプーンを拾うと、どこからか取り出した新しいものと交換した。その動きには、何の感情も込められていない。

 

 

「私は、貴女のお母さんではありません。いつまでも子供返りが続くようでしたら、食事は流動食に切り替えると、先日もお伝えしたはずですが」

 

 

 その言葉に、リンは慌てて首を横に振った。

 

 

「い…いや…ちゃんと食べるから…!」

「結構です。手ずから食べさせて差し上げる趣味もありませんので」

 

 

 メイドの毒舌は相変わらずだった。だが、不思議と嫌な気はしなかった。むしろその厳しさが、今の自分には必要だとさえ感じていた。リンは今度こそしっかりとスプーンを握りしめ、ゆっくりとスープを口に運んだ。温かい液体が、冷え切った体に染み渡っていく。少しだけ生きているという、実感が湧いてきた。

 

 しばらく無言で食事は進んだ。メイドは壁際に立ち腕を組んで、その様子をただ静かに眺めている。その沈黙に耐えきれなくなったのか、リンがおずおずと口を開いた。

 

 

「…タチバナは…彼は…どうしているかしら…?」

 

 

 橘圭一。あのパーティーで出会った、優しげな男。自分を地獄に突き落とした、悪魔の飼い主。そして自分の甘い夢を、無慈悲に打ち砕いた男。それでもなぜか、彼のことが気になってしまう自分がいた。

 

 メイドは少し考えるそぶりを見せた後、淡々と答えた。

 

 

「さあ? 今日も胃薬を飲んで部下の起こした不祥事の報告書でも、書いているのではありませんか」

 

 

 その言葉に、リンは少しだけ口元を緩ませた。彼らしいなと、思ってしまった。メイドはそんなリンの様子を見て、ふと思い出したかのように言葉を続けた。その言葉は、リンの心に小さな波紋を広げることになる。

 

 

「…ああ、そういえば知っていましたか? タチバナ、貴女のこと実はドタイプでしたよ」

「え…?」

 

 

 リンは思わずスプーンを持つ手を止めた。聞き間違いかと思った。

 

 

「ええ。船の上で貴女を見た瞬間から、それはもうドスケベな妄想を頭の中で炸裂させて、いつでも貴女のこと『いただきます』という態勢でしたからね。実に分かりやすい男でした」

 

 

 メイドの口調は相変わらず淡々としている。だがその言葉の内容はリンの心をかき乱すには、十分すぎる破壊力を持っていた。リンの瞳が驚きとほんの少しの困惑、そして微かな喜びの色に揺れる。あの時、彼が自分に向けていた視線。それがただの任務上のものだけではなかったと、知ってしまったから。

 

 

「じゃあ…どうして彼は私を…助けに来てくれないの…?」

 

 

 無意識のうちに、そんな言葉が口をついて出ていた。馬鹿な質問だとは分かっていた。それでも、聞かずにはいられなかった。

 

 メイドは憐れなものを見るような目でリンを一瞥すると、残酷な真実を告げた。

 

 

「簡単なことです。タチバナは、ああいう異常者の手綱を握るだけで手一杯。貴女のような残骸に、構っている暇はありません」

 

 

 異常者。その言葉がリンの胸に突き刺さる。脳裏に、あの黒いドレスの悪魔の顔が浮かんだ。

 

 

「それに…」

 

 

 メイドは、決定的な言葉を続けた。

 

 

「貴女がこの部屋に安全に収容されていることは、あの異常者たちには一切情報開示されていません。もし彼女たちが貴女の居場所を知れば…どうなると思いますか?」

 

 

 リンの顔から血の気が引いていく。想像してしまったのだ。あの悪魔がこの部屋のドアを開けて、入ってくる光景を。

 

 

「そう。つまり、今の貴女にとって最も安全な場所はタチバナの側ではなく、この鳥籠の中というわけです。皮肉なものですね」

 

 

 メイドの言葉が、氷の刃のようにリンの心臓を貫いた。鳥籠。それは彼女を閉じ込める檻であると同時に、彼女自身を外敵から守るための最後の砦だった。そしてその外敵とは他でもない、あの男の部下たち。

 

 リンは、全身の力が抜けていくのを感じた。もう何も、考えたくなかった。考えることを、やめてしまいたかった。ただ眠っていたい。夢も見ない深い眠りの底へ、沈んでいきたい。

 

 

「…ありがとう…もう…いいわ…」

 

 

 かろうじてそれだけを告げると、リンはベッドに潜り込んだ。メイドはそれ以上何も言わず、静かに食器を片付け始めた。カチャカチャと陶器の触れ合う音が、やけに大きく聞こえる。それはこの鳥籠の中で唯一許された、生活音だった。やがてリンの意識は途切れ途切れになり、深い闇の中へと落ちていった。その寝顔はひどく幼く、無防備だった。

 

 メイドは眠りについたリンの髪を、ほんの一瞬だけ慈しむように撫でた。

 

 

 

 

 

 ほんの少しだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◼️

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(全く、あの子も親も…面倒なことばかり引き起こす…)

 

 

 メイドは内心で、深く深くため息をついた。その完璧に整えられた無表情の下で渦巻く感情は、呆れとほんの少しの面白さ、そして大部分が疲労だった。あの子とはもちろん橘圭一のことだ。親とは目の前で警察庁次長、橘厳一郎のことである。この親子は揃いも揃って厄介事の種を蒔いては、周囲にその水やりをさせる天才だった。

 

 

「おや」

 

 

 メイドは完璧な所作で食べ終えた食器を、トレイに片付け終えると静かに立ち上がった。部屋を出ると、廊下の角で待ち構えていたかのように、橘厳一郎が立っている。彼の高級スーツには一分の隙もなく、その鋭い眼光は警察組織の頂点に近い男の威厳を、物語っていた。

 

 その威厳に満ちた顔も、この銀髪のメイドの前ではどこかその鋭さを鈍らせる。

 

 

「いつもすまないな。息子の不始末で」

 

 

 厳一郎が絞り出すように言った。その声色からは権力者の威圧ではなく、ただの父親としての疲労が滲んでいるのを、メイドは聞き取った。特に「息子」という単語を口にする時、彼の纏う空気がほんの少しだけ弛緩する。メイドはその変化を、冷ややかに観察した。

 

 

「いえ仕事ですので」

 

 

 メイドは恭しく一礼する。その声は敬語でありながら、感情の起伏を一切含まない。ただ彼女が橘家の人間であり、次長すら無視できない特別な存在であるという、事実だけが厳然と存在していた。その不可侵な空気が彼女をさらにミステリアスな存在へと押し上げている。

 

 

「ですが」とメイドは続けた。その紫水晶の瞳が、すいと厳一郎を射抜く。

 

 

「あまり、タチバナを甘やかさない方がよろしいかと。火の粉は全て、こちらに飛んできますので」

 

 

 その言葉は部下が上司にかけるものにしては、あまりにも率直で遠慮がなかった。事実上の苦言だ。厳一郎はその視線を受けて、わずかにたじろいだように見えた。まるで悪戯を見抜かれた子供のように、視線をさまよわせる。

 

 

「…いやあいつなりに頑張ってはいるんだがな…その…なんだ…少しばかり頑固なだけで…」

 

 

 歯切れの悪い言い訳が、彼の口から漏れる。息子の話題になると、この男の思考は途端に単純化し、ただの親馬鹿と化す。メイドは、その様子をジト目で見つめた。その無言の圧力に耐えきれなくなったのか、厳一郎は下手な口笛を吹きながら、そそくさとその場を立ち去ろうとした。

 

 

「ひゅーひゅるるー…さてと私はこれから大事な用事が…」

「お待ちください。本日は貴方様を送迎する任も拝命しております。参りましょう」

 

 

 メイドの静かだが有無を言わせぬ声が、厳一郎の背中に突き刺さった。彼の足がぴたりと止まる。諦めたように大きくため息をつくと、観念したように肩をすくめた。このメイドには何を言っても無駄だということを、彼は長年の付き合いで嫌というほど理解していた。

 

 警視庁の地下駐車場。そこに停められた漆黒の高級セダンの運転席に、メイドが滑り込む。厳一郎は、後部座席に深く腰を下ろした。エンジンが静かに始動し、車は滑るように夜の都心へと走り出す。車内に気まずい沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは、厳一郎の方だった。

 

 

「…今回の特四の活躍報告書を読んだ。素晴らしい成果だったな」

 

 

 声には父親としての、隠しきれない誇らしさが滲んでいる。しかし、メイドはバックミラー越しに厳一郎を一瞥すると、抑揚のない声で答えた。

 

 

「成果の裏にある損害報告書と、始末書の山もご覧になりましたか? 湾岸倉庫街一帯の修復費用は、国家予算に響きかねないレベルです。全て、タチバナの名で請求が来ておりますが」

「う、うむ。それはまあ…必要経費というものだ」

「必要経費でコンクリートの壁に、人型のクレーターが数十個も形成されるものですか。あれはもはや戦闘ではなく、芸術活動の域です。タイトルをつけるなら、『絶望』でしょうか」

 

 

 メイドの容赦ない正論に、厳一郎はぐっと言葉に詰まった。だがすぐに気を取り直したように、話題を変える。その変わり身の早さこそ、彼がこの地位にまで上り詰めた理由のひとつでも、あるのだろうとメイドは分析した。

 

 

「そ、それよりもだ! 特四の制服だが、あれは一体誰が設計したのだ? あまりにも、その…けしからんデザインではないか!」

 

 

 厳一郎の声には困惑と、ほんの少しの非難の色が混じっていた。だがその目の奥には、隠しきれぬ好奇の光が宿っているのを、メイドは見逃さなかった。彼女は静かに答えた。

 

 

「私ですが」

「そうか君か…いや待て。今なんと?」

 

 

 厳一郎は耳を疑ったようだった。聞き間違いだと、思ったのだろう。その顔には、純粋な困惑が浮かんでいる。メイドは、完璧な無表情のまま繰り返した。

 

 

「ですから、私が設計しました…何か問題でも?」

「…」

 

 

 厳一郎は絶句した。後部座席で、金縛りにあったかのように固まっている。あの常に冷静沈着で、感情の起伏というものが存在しないはずの、このメイドが設計した? あの機能美と様式美を完全に無視した、痴女一歩手前のデザインを? 

 

 彼の顔が驚愕に染まる。絶句し、最終的にドン引きの色を浮かべるまでの感情のグラデーションを、メイドは完璧な無表情で見つめていた。

 

 

「いや…あのショートタイトスカートの丈は、明らかに短すぎではないか? 職務規定に違反しているぞ」

「動きやすさを最優先した結果です。それにあの丈だからこそ脚部の可動域が最大限に確保され、近接戦闘において有利に働きます。全ては計算の上です」

「計算だと…? では、黒澤隊員のあのストッキングは! あの透け感はなんだ!? あれも計算なのか!」

「20デニール。あれは心理的な圧迫と同時に、敵の視線を脚部に誘導し、上半身への警戒を逸らす、なんとも素晴らしい効果が期待できます。一種の陽動ですね」

「陽動…」

 

 

 厳一郎の口が、半開きになる。彼の頭の中では陽動という言葉の意味が、ゲシュシュタルト崩壊を起こしているようだった。

 

 

「白石雪乃のニーハイソックスと、絶対領域も同様です。あれは敵に無防備であるかのような錯覚を与え、油断を誘うための擬態です。もちろん一部の層に対する精神的ダメージも、考慮に入れております」

「ぎ…擬態…」

「赤城陽菜の素足にショートソックスは、最も機動性を重視した結果です。彼女の戦闘スタイルを考えれば、当然の帰結かと。戦闘服に関しても同様です」

 

 

 メイドは淡々と続ける。その口から語られるのは全て理路整然とした戦術的理論。その理論によって生み出された結果は、厳一郎の倫理観を激しく揺さぶるものだった。

 

 

「待て待て待て! あの戦闘服も君が!? 『バーサーカーギア』の、あのタンクトップ。汗で濡れると、下のスポブラが透ける仕様になっていたぞ! あれも計算なのか!?」

「はい。敵兵の士気を著しく低下させる効果が実証されています。健全な肉体は時に、どんな兵器よりも雄弁ですので」

「健全な肉体は兵器…!? では『サイレントハッカー』のガーターベルトはなんだ! あれに何の意味があるというのだ!」

 

 

 メイドは一瞬だけ考えるそぶりを見せ、そして静かに答えた。

 

 

「ふっ、あれは私の趣味です」

「趣味かよ!!!!」

 

 

 厳一郎の絶叫が、車内に木霊した。警察庁次長としての威厳も、何もあったものではない。ただの常識人の悲痛な叫びだった。目の前のメイドがただの無表情な人形ではなく、とんでもない爆弾を内蔵した狂人であったという事実に、彼は今更ながら気づいたのだろう。

 

 

「ま…待て、まだあるぞ!」

 

 

 厳一郎は息も絶え絶えに、最後の疑問を投げかけた。

 

 

「黒澤隊員の戦闘服! 『シャドウダイバー』、だったか? あのボディスーツはなんだ! ? 身体のライン、くっきりと浮かび上がりすぎている!!  あれでは敵の士気を下げるどころか、逆に妙な興奮を煽りかねんぞ!!?」

 

 

 彼の指摘はもっともだった。あのスーツは麗奈のグラマラスなスタイルを隠すどころか、むしろ完璧に強調していた。まるで第二の皮膚のように身体にフィットし。豊満な胸からくびれた腰、そして丸みを帯びた臀部へと続く官能的なラインを、これでもかと見せつけている。

 

 その指摘に対し、メイドはバックミラー越しに厳一郎を一瞥する。彼女は、抑揚のない声で答えた。

 

 

「あれも計算です。あのスーツは着用者の心理に大きな影響を与えます。自らの肉体の美しさを再認識させることで、絶対的な自信と高揚感を生み出し、任務遂行能力を向上させるのです。特に、黒澤麗奈のような自己愛の強い人間には、効果的です」

「じ…自己愛…!?」

「ええ。言わば『自分自身に酔わせる』ことで、リミッターを解除するのです。彼女が最高のパフォーマンスを発揮できるのであれば、敵兵が多少興奮しようが些細な問題かと。いやァ、それぞれ作り甲斐がありましたねェ」

 

 

 厳一郎は言葉を失った。部下の裸体に近い姿を戦術利用することに、何の躊躇もないこのメイドの思考回路は、もはや理解の範疇を超えていた。

 

 メイドは完璧な運転を続ける。その口元に極わずかに満足げな色が浮かんでいるように見えたのは、きっと厳一郎の気のせいだとメイド自身は認識していた。彼は後部座席で頭を抱えている。自分の息子も大概だが、そのお目付け役はそれ以上に常識の範疇を超えた存在だった。

 

 しばらくの間、車内には重い沈黙が流れた。厳一郎の荒い呼吸だけが聞こえる。やがて彼は、疲れ果てたように深くため息をついた。

 

 

「…分かった、もういい。その話はもう終わりだ」

「承知いたしました。続けて、紳士たちの間で高額取引されてることは話s」

「終わりだ!」

「…終わりですね。かしこまりました」

 

 

 メイドは静かに頷いた。先ほどの熱気は幻だったかのように、車内には再び静寂が戻る。

 

 

「○○○○」

 

 

 厳一郎が不意にメイドの名を呼んだ。その声には先ほどまでの衝撃とは違う、真剣な響きが込められている。

 

 

「お前を特例として警察官にし、息子のお目付け役として配属させたのは…他でもない。お前しかいないと思ったからだ」

「なるほど。彼女たちに襲われているタチバナの○○○光景を観察すr」

「黙って聞きなさい」

 

 

 メイドはその言葉の続きを待った。

 

 

「あいつは昔からそうだ。才能はある。頭も悪くない。だが決定的に何かが欠けている。危機感…責任感…何より覚悟がだ。普通の組織では、潰されるか飼い殺しにされるのが、オチだろう。だが、お前が側にいれば違う」

 

 

 厳一郎の言葉には息子への不甲斐なさと、それでも捨てきれない期待が入り混じっていた。

 

 

「お前は、あいつの弱さも狡さも全て知っている。そして決してあいつを甘やかさない。だが、最後の最後では決して見捨てない。私はお前をそういう存在だと信じている。だから頼む。あいつを…息子を頼んだぞ」

 

 

 それは警察庁次長としてではなく、一人の父親としての心からの懇願だった。車内に重い沈黙が落ちる。やがてメイドが静かに口を開いた。その声はいつものように抑揚がなく、感情が読めなかった。

 

 

「ご心配には及びません。タチバナを死なせず、職務を全うさせること。それが、私の役割ですので」

 

 

 その言葉は、業務連絡にも聞こえた。だが厳一郎には、それで十分だったようだった。彼は深く息をつくと、後部座席のシートに深く体を沈めた。

 

 

「…そうか。ならいい」

 

 

 それきり会話は途絶えた。漆黒のセダンは、夜の東京を滑るように走り続ける。後部座席では、一人の父親が息子の未来を案じ。運転席では銀髪のメイドが、その息子の面倒な性格と自分の多忙な業務について。静かに思考を巡らせていた。

 

 二人の間に流れる、奇妙な信頼関係。それはこれから始まる、特四のさらなる激動の日々を静かに予感させて──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「しかし、金融とはおかしなものですね。味方も敵もリッチにする。そのあと、どちらが本当の味方か見極める…ふっ、副業最高。タチバナの写真を淑女たちに取引するのもあr」

「あとで私の書斎に来なさい」

 

 

 いようとしていた。




感想やお気に入り登録、高評価などをいただけますと、作者のモチベーションとなりますので是非よろしくお願いします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。