俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
偽りの王国と、本物の王 - (橘圭一 視点)
完璧だった。プレゼンテーションの成功から翌日。特四の隊長室で、橘圭一は完全に王様気分に浸っていた。世界は俺のために回っている。そう本気で思えるほど、彼の王国は完璧な調和を保っていた。
机の上には、寸分の狂いもなく整理された書類の山。
これは麗奈の仕事だ。彼女は完璧な秘書として、橘のスケジュールを管理。彼が目を通すべき書類だけを厳選し、付箋まで付けて差し出してくる。橘がコーヒーを欲すれば、彼が口にする三秒前には完璧な温度のそれが差し出される。
モニターに目を向ければ、今まさに必要としていた情報が既に表示されている。
これは雪乃の仕事だ。彼女は橘の思考を先読みしているかのように、彼が求める情報を瞬時に提示する。その精度はもはや、予知能力の域に達していた。
そして──
「隊長、お茶です! 今日は静岡産の最高級玉露ですよ!」
元気な声と共に、陽菜が甲斐甲斐しく湯呑みを差し出してくる。彼女の役割はムードメーカーであり、橘の精神的な安寧(という名の身の回りの世話)を保証する存在だった。湯呑みの温度は、完璧な人肌。橘が火傷しないようにという、彼女なりの配慮なのだろう。
(ククク…完璧だ…)
橘は椅子に深く腰掛け、ふんぞり返りながら内心でほくそ笑んだ。
(俺の王国は、今まさに黄金時代を迎えようとしている…! 麗奈は俺の右腕。雪乃は俺の頭脳。そして、陽菜は俺の癒し…! 俺こそが王! 選ばれし支配者!)
彼は完全に増長しきっていた。先日振り込まれた莫大な報奨金のほとんどを、自分の個人口座に移し替えたこともあり、彼の心は一点の曇りもなく晴れやかそのものだった。この快適な生活が永遠に続く。そう信じて疑わなかった。
この偽りの王国で永遠に王として君臨できるのだと。その傲慢な幻想は、一本の内線電話によって無慈悲に打ち砕かれることになる。
けたたましく鳴り響く電子音が、静かな隊長室の空気を切り裂いた。橘は眉をひそめ、尊大な態度で受話器を取った。この俺の時間を邪魔するのは、どこのどいつだ。そんな不遜な態度が滲み出ていた。彼は決意する。内容次第では、ベッタンベッタンのギッチョギッチョにすることを。
「もしもし、こちら特四隊長室だが」
『た、橘隊長! 大変です!』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、父の秘書を務める男の切羽詰まった声だった。その慌てぶりに、橘は眉をひそめる。
「なんだ騒々しい。私は今忙しいんだが」
『も、申し訳ありません! ですが緊急事態でして! お伝えしなければと!』
「緊急事態だと? ニーズヘッグに何か動きでもあったか?」
『いえ! それよりもっと…!』
秘書の声は恐怖に震えていた。橘はその様子に苛立ちを覚えながらも、わずかな胸騒ぎを感じていた。この男がこれほど取り乱すなど、余程のことがあったに違いない。
『──たった今、橘次長が向かわれました! 行き先は…おそらく特四かと!』
瞬間、橘の思考は完全に停止した。時が止まるという表現があるが、今まさにそれだった。受話器を持つ手が震え、顔から血の気が引いていくのが自分でも分かった。先ほどまでの王の威厳は跡形もなく霧散し、彼の内側に潜んでいた小心者の本体が、悲鳴を上げながら顔を出す。
「ち…父さんが…!? な…なぜ…!?」
素の声が出てしまった。それは王(笑)の声ではなく、ただ父親に怯える息子の情けない声だった。受話器の向こうで秘書が『申し訳ありません! 私ではお止めすることができず!』と謝罪しているが、もはや彼の耳には届いていなかった。
橘の異変を敏感に察知したのか、それまで完璧な調和を保っていた部下たちが一斉に彼に注目した。麗奈の鋭い視線が。雪乃の心配そうな眼差しが。そして、陽菜の曇りのない純粋な瞳が突き刺さる。
(ななななななんでだ!? なんでこのタイミングで来るんだよ!)
橘の脳内で警報が、けたたましく鳴り響く。
(アポなし訪問とか、社会人のマナー違反だろ! いや待て、あの人にはそんな常識は通用しない! やばいやばいやばいやばい!)
脳が最高レベルのパニック状態に陥り、思考がまとまらない。
父、橘厳一郎。警察庁次長にして、この国の警察組織の影の支配者。そして橘圭一にとって、唯一頭が上がらない絶対君主。あの男が、なぜこのタイミングで視察に来るのだ。
プレゼンの成功を労うため?
いや違う。あの男がそんな甘いことをするはずがない。きっと何かを探りに来たのだ。この完璧な王国のどこかに潜む綻びを。そしてもし何かボロが出ようものなら。
(俺は…勘当される…!)
その最悪の未来を想像しただけで、全身から汗が噴き出した。脳裏に父の幻影が現れ、冷たい声で言い放つのが聞こえた。
『この橘家の面汚しめ。貴様のような愚図は、もはや私の息子ではない。とっとと荷物をまとめて出て行け。二度とその顔を見せるな』
その声はあまりにもリアルで、橘の心臓を氷の鷲掴みにした。勘当。その二文字が持つ絶望的な響き。この快適な生活も警察キャリアとしての地位も、女たちからの(歪んではいるが)尊敬も全てが水泡に帰すのだ。それだけは絶対に避けなければならない。
パニックに陥る橘を、三人の部下たちが完璧にサポートし始めた。だがその完璧すぎるサポートこそ、橘にとっての新たな地獄の始まりだった。
それはまるで沈みゆく船の船長に、三人の美しい死神が救いの手を差し伸べているかのようだった。その手を取れば最後、更に深い海の底へと引きずり込まれるのだ。
「隊長、お顔の色が優れませんわ。お召し物が少し乱れています」
麗奈がいつの間にか背後に回り込み、寸分の狂いもなく彼のスーツの襟を直し、ネクタイを締め直していく。その指先は冷たく、動きは機械のように正確だった。彼女の黒髪から漂う高級シャンプーの香りが橘の鼻をくすぐるが、今の彼にはそれを楽しむ余裕など微塵もない。
「次長閣下にご挨拶なさるのでしょう? 第一印象は重要です。橘家の長子として、恥ずかしくないお姿でなければ」
(麗奈! お前のその完璧さが逆に怖いんだよ!! 父さんの前で俺への忠誠心を見せすぎるな! 息子が部下を洗脳して人心掌握してるヤバい奴だと思われたらどうするんだ!?)
橘は内心で絶叫した。麗奈の忠誠心は度が過ぎている。彼女は橘を完璧な主君として崇めているが、その姿は客観的に見れば異常そのものだ。父の鋭い観察眼の前でそれを露呈すれば、『圭一…お前は一体部下に何を教えているんだ』と最低の評価を下されるに決まっている。
そうなれば自分の監督不行き届きを問われ、減俸どころか左遷もあり得る。想像しただけで、胃がひっくり返りそうだった。
「隊長。次長閣下の最近の関心事項と、想定問答集です。直近のゴルフのスコアと、好物の和菓子の情報も入れておきました。ちなみに先日のコンペでは最終ホールでバンカーに捕まり、スコアを崩されたようですのでその話題は避けるのが賢明かと」
雪乃がタブレットを差し出し、完璧なデータを表示する。そこには橘厳一郎の行動パターンから思想や信条、健康状態に至るまで、恐ろしいほどの精度で分析された情報が並んでいた。その情報量は、橘自身が知る父親の姿を遥かに凌駕している。
(雪乃! なんでそんなデータまで持ってんだよ!? 俺より父さんのこと詳しいだろ!! どんだけうちの親父の個人情報ハッキングしてんだお前は! ストーカーか!? というか、プライバシーの侵害で訴えられたらどうするんだ!!)
橘の胃がキリキリと痛み出す。この女の能力は便利だが、同時に底知れない恐怖を感じさせる。彼女のやっていることは、紛れもない犯罪行為だ。それがもし父に露見すれば特四は即刻解体、自分は懲戒免職。その未来しか見えない。
そして最悪の地雷が、最高の笑顔で爆弾を抱えて突撃してきた。
「隊長! きっとプレゼンのご成功を直接褒めに来てくださったんですよ! すごいじゃないですか! 私、一番良いお茶を淹れてきますね!」
陽菜が太陽のような笑顔で、ポジティブな発言をした。彼女の純粋さは、時として核兵器並みの破壊力を持つ猛毒になることを、橘は嫌というほど知っている。
(陽菜! お前が一番の地雷なんだよ! お前の淹れるお茶は絶対何かやらかす! 良かれと思って茶葉を握り潰して粉末にするとか湯呑みを握り割るとか! そして父さんの前で『力が有り余っちゃって!』とか言って壁とか破壊してみろ! 俺はその場で腹を切って詫びるしかなくなるんだぞ!)
彼女たちの完璧すぎるサポートは、橘にとって慰めではなくいつ爆発するか分からない、地雷原そのものだった。
このままではいけない。父が来る前にこの危険な地雷を全て撤去し、安全な更地にしておかなければ。橘は、鬼の形相で部下たちに向き直った。その顔は、恐怖と絶望と胃痛で歪みきっていた。
「いいかよく聞け…!!!」
その声は恐怖で震えていた。王の威厳など欠片もないただの小心者の悲鳴だった。
「父の前では、私の指示があるまで絶対に喋るな! 動くな! 息もするな! いいな!」
それはもはや命令ではなく懇願だった。三人は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに「「「はい隊長♡」」」と完璧な笑顔で頷いた。
(本当に分かってるのかコイツらは…ッ)
その笑顔が、橘には悪魔の微笑みに見えた。分かっていない。こいつらは、何も分かっていない。これからこの部屋に現れる存在が、どれほど恐ろしいものなのか。
彼が必死に指示を飛ばしている最中だった。隊長室のドアが静かに、しかし有無を言わせぬ威圧感と共に開かれた。ノックの音すらなかった。この部屋の主は自分であると宣言するかのような、あまりにも傲慢な入り方。そんなことをするのは、この世に一人しかいない。
そこに立っていたのは、猛禽類のような鋭い瞳で室内を見渡す彼の父、橘厳一郎だった。
隙のない高級スーツに身を包み、ただそこにいるだけで周囲の空気を支配する絶対的なオーラ。年齢は五十代後半のはずだがその体躯は一切の衰えを見せず、むしろ長年の激務によって研ぎ澄まされた鋼のような印象を与える。白髪交じりの黒髪はオールバックに固められ、その鋭い眼光は一度睨まれただけで、相手の心を凍てつかせるほどの力を持っていた。
そのオーラは、特四の室内の空気を一瞬で凍りつかせた。先ほどまで橘を中心に回っていたはずの空気が、一瞬にして塗り替えられていく。麗奈も雪乃も陽菜も、その圧倒的な存在感を前に流石に息を呑んでいる。
彼女たちが放っていた危険なオーラすらも、厳一郎のそれの前ではまるで嵐の前の蝋燭の炎のように、かき消されてしまった。
そして、橘の予想だにしなかった事態が起こった。絶対君主の登場に凍り付いていたはずの、三人娘。彼女たちの頬が微かに赤く染まり、その瞳がうっとりとした熱を帯び始めたのだ。
(え…?)
橘は我が目を疑った.麗奈は普段のクールな表情を崩し、憧れの俳優でも見るかのような、夢見る乙女の顔になっている。
雪乃はタブレットを胸に抱きしめ、その大きな瞳をキラキラと輝かせている。
そして陽菜に至っては口を半開きにし、よだれでも垂らしそうな恍惚の表情を浮かべていた。
(な…なんだこの反応は…!?)
そして三人はまるで示し合わせたかのように、同時に息を呑み小さな声で呟いた。
「「「おっふ♡」」」
その声は純粋な感嘆と、そして紛れもない異性への憧憬の色を帯びていた。
橘は理解した。こいつら揃いも揃って父の圧倒的なオーラに当てられてやがる。熟練の紳士が持つ、抗いがたい魅力と権力者が放つ危険な色香。それがこの三人の化け物たちの乙女心を、直撃してしまったのだ。
(いや分かる…! 分かるぞお前らの気持ち…!)
橘は内心で激しく同意していた。もし自分が女だったら、間違いなく同じ反応をしていた自信がある。自分のようなひ弱な若造とは違う、本物の男が持つ圧倒的な存在感。敵にしたくないが、味方であればこれほど頼もしい存在はいないだろう。
(もしも俺が女だったら絶対『おっふ♡』してたな…いや待て!? 何納得してんだ俺は…!!!)
橘は慌てて、思考を現実に引き戻した。状況は最悪だ。部下たちが揃いも揃って、自分の父親に惚れたような顔をしている。
橘はその場で硬直した。背筋に滝のような冷や汗が流れ、呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだった。偽りの王の前に、本物の王が降臨した瞬間だった。
(終わったァ…)
橘圭一の人生最大にして、最悪の試練が今まさに始まろうとしていた。
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