俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
ひぇ…。
橘厳一郎が隊長室に入室した直後。室内の空気は完全に凍りつき、時が止まったかのような静寂に包まれていた。
その中で黒澤麗奈、赤城陽菜、白石雪乃の三人は橘の命令通り微動だにせず、直立不動の姿勢をとっていた。さながら精巧に作られた蝋人形のように、ピクリとも動かない。その姿は端から見れば、完璧な規律と緊張感の表れに見えたことだろう。だがその内心は全く異なる、感情の熱いマグマで燃え上がっていた。
彼女たち三人の脳内には、驚くべき共通認識が形成されていた。目の前に立つこの威厳に満ちた男、橘厳一郎。彼は、ただの上司の上司ではない。自分たちが愛する唯一無二の神、橘圭一をこの世に創り出した創造神。そしていずれ自分がその息子と結ばれた暁には…そう、未来の自分たちの夫の父親。
すなわち、「お義父様」以外の何者でもなかったのだ。
これから始まるのは、ただの視察ではない。この視察では、未来の嫁としての資質を問われる事も含まれてるに違いない。その認識が、三人の心をそれぞれの形で奮い立たせていた。
【黒澤麗奈 視点:正妻としての謁見】
(ほう…これが、隊長のお父上…)
麗奈は、その鋭い観察眼で厳一郎の全身をスキャンしていた。高級スーツの生地の光沢、靴の磨き具合。そして何より、その身に纏う圧倒的なオーラ。
隙がない。並の人間なら、その視線に射抜かれただけで膝を折り、命乞いをするだろう。
(なるほど。確かに覇王の風格。ですが、隊長の持つあの人を惹きつけてやまない魔性のカリスマとは、また少し違うタイプですわね)
麗奈は未来の舅を冷静に分析し、値踏みしていた。厳一郎のそれは恐怖と権力で相手を支配する、絶対君主のオーラ。対して息子の圭一のそれは相手の心の隙間に入り込み、いつの間にか心酔させてしまう堕天使のカリスマ。質は違うが、どちらも王の器であることは間違いない。
(大丈夫。私は黒澤家の人間。この程度の威圧感、どうということはありませんわ)
麗奈は、内心で静かな闘志を燃やしていた。他の二人とは育ちが違う。幼い頃から魑魅魍魎が巣食う社交界で生きてきた自分にとって、この程度のプレッシャーは心地良いBGMに過ぎない。
(むしろここで完璧な淑女として振る舞うことで、お義父様に「息子の隣に立つに相応しいのはやはりこの私」と認めさせなければ…!!!)
彼女にとってこの場は他の二人を出し抜き、正妻としての地位を不動のものにするための絶好の機会だった。完璧なお辞儀、完璧な言葉遣い。そして、完璧な微笑み。その全てを脳内でシミュレーションし、最高の自分を演出する準備は既に整っていた。
彼女はちらりと、圭一に視線を送った。彼は父親の前で明らかに萎縮し、冷や汗を流している。その姿が、麗奈の目にはひどく愛おしく映った。
(ふふっ…お父様の前では、まだ子供のような一面もおありなのね。お可愛い人…♡)
あの完璧な指揮官が見せる唯一の弱さ。それを知っているのは自分たちだけ。その事実が麗奈の独占欲を甘く満たしていく。
大丈夫よあなた。
あなたのお父様には、私が完璧に対応してみせますから。
あなたはただ、私の後ろで安心して見ていればいいのですわ。
そんな歪んだ母性すら感じさせる愛情で、麗奈は静かに微笑んでいた。
【赤城陽菜 視点:元気な嫁としてのアピール】
(うわー! この人が隊長のお父さん! なんか! すっごく強そう! かっこいい!)
陽菜の思考はいつだってシンプルだ。彼女は厳一郎の姿を見て、小学生がスーパーヒーローを見るような、純粋な感動に打ち震えていた。
隊長もかっこいいけどお父さんもすごい!
さすが隊長のお父さん!
そんな単純明快な思考が、彼女の頭の中を駆け巡る。
(よし! ここは元気で明るいお嫁さんとして、100点満点のアピールをしなくちゃ!)
陽菜は一人で勝手に、嫁としての試験に臨んでいた。彼女の脳内では、既に完璧なアピール計画が立てられている。
(まずは完璧なお茶出しで、家庭的なところを見せるの私! お茶菓子は昨日のお休みに練習した手作りのクッキー! 形はちょっといびつだけど味は保証付き! これを「お義父様! よかったらどうぞ!」って笑顔で渡せばイチコロのはず!)
彼女の単純な思考回路において、手作りのお菓子と元気な笑顔は最強の武器だった。これで落ちない男はいない。そう信じて疑わなかった。
(その次は自己紹介! 「赤城陽菜です! 隊長にはいつもお世話になってます! 体力と元気だけが取り柄です!」って大きな声で挨拶するの! きっと「うむ! 元気があってよろしい!」って気に入ってくれるはず!)
陽菜は自分の長所が体力と元気しかないことを、よく理解していた。そしてそれを最大限にアピールすることが、最善の策だと判断したのだ。彼女もまた、緊張している圭一の姿に気づいていた。その解釈は、麗奈とは全く異なっている。
(隊長、緊張してるのかな? 大丈夫ですよ! 私がついてますからね!)
全く見当違いな形で共感し、心の中で力強いエールを送る。隊長が緊張して上手く話せなくても大丈夫。私がこの場を盛り上げてみせますから。そんな前向きで迷惑な善意が、彼女の全身にみなぎっていた。
陽菜は今か今かと動き出す許可を待つ、猟犬のようにキラキラした瞳でその瞬間を待ち望んでいた。
【白石雪乃 視点:傑物の系譜への畏敬】
(この方が…隊長を…この世に生み出してくださった方…)
雪乃にとって、厳一郎の存在は最早人間の範疇を超えていた。彼はいわば傑物の父。すなわち英雄の創造者。その圧倒的な存在感を前に、雪乃は畏敬の念で身動き一つ取れずにいた。
彼の鋭い視線が自分に向けられただけで魂の芯まで凍りつき、その場で崩れ落ちてしまいそうだった。それは恐怖とは違うもっと根源的な畏れだった。自分が対峙するには、あまりにも格が違いすぎる相手。その事実が、雪乃の全身を支配していた。
(私のような…価値のない存在が…英雄の父君と同じ空気を吸うことすら…本来は許されない…)
いつもの自己肯定感の低さが、最大限に発揮される。彼女にとってこの空間は厳粛な謁見の間であり、自分はその片隅にいることすら、許されない、塵芥のような存在だった。今すぐこの場から消え去りたい。だがそれはできない。なぜなら…。
(ですがあのお方が、神が『ここにいろ』とおっしゃるのなら…私は壁の染みとなって、この厳粛な場を見守らせていただきます…)
圭一の命令は、雪乃にとって絶対だった。たとえそれが、どれほど身に余ることであっても、彼の言葉は絶対の理であり逆らうことは許されない。彼女は自分の存在感を完全に消すことに、全力を注ぎ始めた。呼吸を浅くし、心拍数を下げ気配を断つ。その集中力は、最早忍者の域に達していた。
私はいない。
私はただの空気。
壁の染み。
そう心の中で何度も繰り返しながら、彼女は二人の邪魔にならないよう、ただひたすらに気配を消し続けた。
【三人娘 集結視点】
こうして、三者三様の思惑と勘違いが渦巻く中、彼女たちは橘からの「喋るな動くな息もするな」という悲痛な命令を、それぞれが自分に都合よく解釈していた。
麗奈はこう解釈した。
(お義父様の前で私たち部下が軽々しく振る舞うことを、隊長はお許しにならないのね。流石ですわ。まずは隊長とお義父様、父子水入らずの時間。私たちが出しゃばる幕ではない…ということですね。ふふっ、心得ましたわ)
陽菜はこう解釈した。
(まずは隊長がお父さんと話すのが先! 私たちの出番はそのあと! っていう合図ですね! 了解です! 最高のタイミングで最高のお茶出しをしてみせます!)
そして雪乃はこう解釈した。
(傑物同士の会話に、我々凡人が口を挟むことなど許されない…という隊長のありがたいご配慮…! ああ…! どこまでもお優しいお方…! そのお心遣いに感謝いたします…!)
その結果。彼女たちは、橘の命令を完璧なまでに遂行した。まるで彫像のように微動だにせず、しかしその瞳にはそれぞれの思惑(野心、期待、畏敬)を爛々と輝かせながら。
この完璧な「偽りの王国」の光景が何も知らない、厳一郎の目にどう映るのか。そしてその中心で滝のような冷や汗を流し続ける、哀れな橘圭一の運命やいかに。
絶望と勘違いが織りなす静かな狂想曲は、まだ始まったばかりだった。
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(((お義父様…ということは、やはり隊長を…ムフフ♡)))
(うん不思議! 俺の至高なる貞操の危機を感じるのはナーゼナーゼ??)
作者です。仕事の都合上、もしかしたら投稿ペースが低下するやも知れません。ご了承ください。次回は2日後に投稿です。橘父視点でお送りします。