俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
静寂。それは死刑判決を待つ被告人が感じるような、重く冷たい静寂だった。特四の地下訓練施設に漂う、硝煙の匂いと破壊された瓦礫の粉塵。それらが混ざり合った独特の空気を吸い込む度に、橘圭一の胃袋は悲鳴を上げていた。彼の膝は小刻みに震え、高級スーツの下のシャツは冷や汗で濡れそぼっている。
だが、倒れるわけにはいかない。なぜなら隣には、この国の警察組織の頂点に君臨する男であり、絶対的な支配者である父•橘厳一郎が立っているからだ。
(終わった…)
橘は、虚ろな目でフィールドを見つめた。そこには、彼の常識と社会的地位を粉砕する光景が広がっていた。
黒澤麗奈。彼女はスナイパーライフルを構えたまま、優雅に微笑んでいる。だがその足元に転がっているのは、無残に撃ち抜かれたコインやドローンの残骸だ。あんな正確無比な射撃を見せられて誰が、「優秀な警察官ですね」と拍手を送れるというのか。
あれはプロの殺し屋だ。要人暗殺を生業とするらヒットマンの仕業にしか見えない。父はきっと、「警察にこんな危険分子はいらん」と激怒するに違いない。
赤城陽菜。彼女に至っては論外だ。訓練用の戦車を素手で持ち上げ、団子のように丸めて捨てた。物理法則の崩壊。あんなものが人間の仕業だと誰が信じるのか。器物損壊どころの話ではない。国家予算で作られた備品を、鉄屑に変えたのだ。その損害賠償請求書が、誰の元に来ると思っているんだ。
そして極めつけは、白石雪乃。ドローンを使って描いた、光文字『祝♡橘家』。あれを見た瞬間、橘の心臓は物理的に停止しかけた。何が祝だ。何がハートマークだ。父の目の前で公共の電波(?)を使って、橘家へのストーカー行為を堂々と宣言したようなものではないか。あれを見た父が「なんとけしからん」と激昂し、「こんなふざけた部隊は即刻解体だ」と宣言する未来しか見えない。
その責任を取らされ、自分は僻地の交番勤務どころか懲戒免職。最悪の場合、橘家からの勘当。無職。ホームレス。そんな破滅の未来予想図が、橘の脳内を走馬灯のように駆け巡っていた。
(頼む父さん…何も言わないでくれ…むしろ怒鳴ってくれ…罵倒してくれ…無言で見つめられるのが、一番怖いんだよ…)
橘は恐る恐る、隣の父の顔を盗み見た。厳一郎は腕を組み、眉間に深い皺を寄せてフィールドを見つめている。その表情は厳格そのもので、感情を読み取ることは不可能だ。
長い沈黙。一秒が永遠のように感じられる、地獄の時間。やがて、厳一郎がゆっくりと口を開いた。
「…圭一」
重厚な低音が響く。橘はビクリと肩を震わせ、反射的に直立不動の姿勢を取った。
「は…はいッ!」
「見事だ」
「は…?」
橘は我が耳を疑った。今なんと。見事だと、そう言ったのか。怒声でも罵倒でもなく、称賛の言葉が飛んできたのか。
「お前の部隊は、私の想像を遥かに超えていた。個々の能力の高さもさることながら、特筆すべきはその統率力だ」
厳一郎は満足げに頷きながら、橘の肩に重い手を置いた。その手の温もりが、橘には氷のように冷たく感じられた。なぜなら彼が言っていることの意味が、全く理解できなかったからだ。
「あれほどの猛者たちを力でねじ伏せるのではなく心服させ、手足のように動かす。並大抵の胆力では、出来ることではない。お前は私が思っていた以上に、指揮官としての資質を開花させていたようだな」
「い…いや…その…」
「謙遜するな。結果が全てを物語っている。特にあのドローンのメッセージ。あれは彼女からの、最大限の忠誠の証だろう? 橘家への、絶対的な帰依。それを部下に誓わせるとは…お前の求心力には恐れ入ったよ」
(違うんです父さん! あれは忠誠じゃなくてただのヤンデレ特有のマーキングなんです! 俺の意思じゃないんです!)
喉まで出かかった真実を、橘は必死に飲み込んだ。ここで否定すれば父の機嫌を損ねるだけでなく、「では部下の管理ができていないのか」と藪蛇になる。今の父はなぜか機嫌が良い。恐ろしいほどに、都合の良い解釈をしてくれている。ならばこの誤解に乗っかるしかない。それが保身のプロフェッショナルである橘圭一が導き出した、唯一の生存ルートだった。
「…ありがとう…ございます。彼女たちは…少し個性が強いですが…優秀な部下です」
引きつった笑顔でそう答えるのが、精一杯だった。厳一郎は「うむ」と力強く頷き再び、フィールドの三人に視線を向けた。
「これで憂いなく本庁に戻れる。ニーズヘッグの件は頼んだぞ、圭一。お前とこの部隊なら、必ずや成し遂げられると信じている」
そう言い残すと、厳一郎は踵を返した。その背中は、息子の成長を確信した父親の満足感に満ち溢れていた。遠ざかっていく足音。重厚なドアが閉まる音。絶対君主が去った。その瞬間、橘の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。
(た…助かった…)
奇跡だ。あの地獄絵図を見て、なぜか感動して帰っていった。親バカフィルター、ここに極まれり。だが安堵するのはまだ早かった。最大の脅威は去ったが、この部屋にはまだ三匹の猛獣が残っているのだ。しかも、檻の鍵は開け放たれたままで。
橘は恐る恐る顔を上げた。フィールドから三人の隊員たちが、こちらに向かって歩いてくる。その足取りは軽い。あまりにも軽やかで自信に満ちている。彼女たちの顔には「やり遂げました!」という達成感と、「褒めてください!」という期待感が溢れていた。
(来るな…こっちに来るな…!)
橘は内心で悲鳴を上げた。今の彼女たちはただの部下ではない。興奮状態にある捕食者だ。父という抑止力がなくなった今、この密室で彼女たちの情熱(という名の殺意に近い愛)を受け止めるのは自分しかいない。
麗奈が優雅に髪をかき上げながら近づいてくる。
陽菜がブンブンと手を振りながら走ってくる。
雪乃が幽霊のように音もなく滑るように寄ってくる。
三者三様の圧力が橘を包囲していく。
「隊長! いかがでしたか!」
「お義父様…いえ次長閣下はなんとおっしゃっていましたか!」
「私の…メッセージ…届きましたか…?」
三人が同時に詰め寄ってくる。その瞳はギラギラと輝き期待に潤んでいる。橘にはその視線が「さあ評価を下せ」「私を選べ」「愛を返せ」という無言の脅迫に見えた。
(どうすればいい…! ここで下手に誰か一人を褒めれば、他の二人が暴走する! かといって、全員を無視すれば俺の命が危ない!)
橘の脳内CPUが最高速度で回転する。生き残るための最適解。それは、「全員を平等に、彼女たちの勘違いを肯定しない範囲で褒めちぎる」ことだ。まさに、薄氷を踏むようなバランス感覚が求められる。橘は深呼吸をし、崩れかけた理性を必死に繋ぎ止めた。そして彼が最も得意とする、「理想の上司」の仮面を被った。
まずは麗奈だ。彼女はプライドが高い。技術を褒めるのが一番だ。
「麗奈。見事だった」
橘は努めて冷静な声を出し、彼女の目を見つめた。麗奈の肩がビクリと震え、頬が朱に染まる。
「あの一撃。震えたよ。君の狙撃技術は芸術の域に達している。次長も『警察の宝だ』と感心していたぞ」
(実際は『殺し屋かよ』って思ったけどな! でも嘘は言ってない! 感心はしてた!)
「あ、ありがとうございます…! 隊長のお言葉…身に余る光栄ですわ…!」
麗奈は、その場で崩れ落ちんばかりに感激していた。彼女の脳内では「君のハートも撃ち抜かれたよ」という、幻聴が追加されていることだろう。だが今はそれでいい。彼女の殺意が収まれば、それでいいのだ。
次は陽菜だ。彼女は単純だ。とにかく、そのパワーと元気を肯定すればいい。
「陽菜。素晴らしかった」
橘は、陽菜に向かって力強く頷いた。陽菜が、パァッと花が咲いたような笑顔になる。
「君のあのパワーには圧倒された。あそこまでの破壊力は、君にしか出せない。次長も『頼もしい』と太鼓判を押していた」
(実際は『人間重機かよ』ってドン引きしたけどな! 頼もしいのは確かだ! 敵じゃなければな!)
「やったー! 隊長に褒められた! お義父様にも認められた! 私もっともっと頑張ります! 次はビルごと投げ飛ばしてみせます!」
「い、いやそれはやめてくれ! 今のままで十分だ! 十分すぎるほどに!」
橘は慌てて釘を刺した。このままでは本当に、本庁を引っこ抜かれかねない。しかし陽菜は聞く耳を持たず、幸せそうに筋肉を躍動させている。…まあいい。今は暴走していないだけマシだ。
最後は雪乃だ。彼女が一番厄介だ。あのメッセージについて、触れなければならない。だが、「祝♡橘家」を肯定するわけにはいかない。
「雪乃。驚いたよ」
橘は少し声を落とし、優しく語りかけた。雪乃がハッとして顔を上げる。
「あの情報処理能力。そしてドローンの制御。完璧だった。君がいれば我々の情報は鉄壁だ。次長も『彼女がいれば安心だ』と感銘を受けていた」
(実際は『何だあれは』って困惑してたけどな! 安心どころか、一番のセキュリティホールになりかねないけどな!)
そして橘は一瞬、言葉を詰まらせた。あのメッセージについて、どうコメントすべきか。否定すれば彼女は傷つき、自爆するかもしれない。肯定すれば、既成事実化される。橘は苦渋の決断を下した。
「最後の…演出も。君らしい熱意が伝わってきたよ。ありがとう」
当たり障りのない、感謝の意を含んだ言葉。これが精一杯だった。だが雪乃には、それが決定打となったようだ。彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「…っ…! 隊長…! 受け取ってくださったんですね…私の、魂の叫びを…!」
「あ…ああ。まあ、魂というか…うん」
(魂重すぎだろ! ドローン数十機分の魂ってなんだよ!)
雪乃は胸の前で、手を組み祈るように天を仰いだ。彼女の世界では今頃教会で鐘が鳴り響き、二人の結婚式が執り行われているに違いない。橘は背筋に悪寒を感じながらも、なんとかその場を収めることに成功した。
三者三様の歓喜。彼女たちはそれぞれが、「自分が一番褒められた」「自分が選ばれた」と確信し、満足げな表情を浮かべている。
麗奈は「やはり技術と美しさですわね」と優越感に浸り。
陽菜は「パワーこそ愛!」と筋肉を誇示し。
雪乃は「精神的な繋がりこそ最強」と独りごちている。
彼女たちの間の火花は消えていない。むしろ、「次こそは私が」という新たな燃料が投下されただけだ。少なくとも、今この瞬間、橘の命は繋がった。彼は隊長としての威厳を保ったまま、静かに告げた。
「よし、今日の訓練はここまでだ。全員解散。各自、次の任務に備えてくれ」
「「「はいっ! 隊長♡」」」
三人の声が重なる。その声色は甘く重く、そしてどこまでも執着に満ちていた。彼女たちは名残惜しそうに、何度も橘を振り返りながら更衣室へと消えていった。その背中からは「次はもっと凄いところを見せてあげますからね」という、無言の圧力が放たれていた。
隊長室への廊下を歩きながら橘は大きく息を吐いた。足取りは重い。まるで鉛の靴を履いているようだ。プレゼンの成功。父の視察のクリア。表向きには、順風満帆なエリート街道を爆走しているように見えるだろう。だが、その実態は…。
(地獄だ…)
橘はよろめきながら自分のデスクに辿り着き、椅子に崩れ落ちた。胃が痛い。頭も痛い。成功すればするほど、彼女たちの愛(狂気)は深まり、父の期待(誤解)は膨らんでいく。逃げ場なんてどこにもない。出世すればするほど、この猛獣たちの檻は強固になり、自分はその中心で飼い殺しにされるのだ。しかも「英雄」という、煌びやかな鎖に繋がれたままで。
橘は引き出しを開け、常備している胃薬の瓶を取り出した。震える手で蓋を開け、錠剤を二粒口に放り込む。水なしで飲み下すと、苦い味が口いっぱいに広がった。
「…クソッ…なんで俺ばっかり…」
誰もいない部屋で、橘は小さく毒づいた。窓の外には平和な東京の街並みが広がっている。あの平和を守るために、俺の胃袋が犠牲になっていることを知る者は誰もいない。いや知らなくていい。知られたら俺の社会的な死だ。橘はモニターに映る、自分の顔を見た。そこには疲労困憊しクマを作った、男の顔があった。
だが不思議と以前のような、怯えきっただけの顔ではない。諦念と覚悟、ほんの少しの狡猾さが混じった「生き残る男」の顔になっていた。
(やってやるよ…! こうなったらとことん利用してやる!)
橘は歪んだ笑みを浮かべた。
(親父もあいつらも俺の踏み台だ! 手柄も金も全部俺のものにして、最後に笑うのはこの俺だ!)
クズな決意を新たにし、橘は立ち上がった。まずは溜まっている書類を片付けなければならない。そして今夜は高級焼肉でも食べて英気を養おう。もちろん経費で。
その時だった。デスクの上に放り出していたスマートフォンが、短く震えた。通知音。画面に表示された送信者名を見た瞬間、橘の動きが石像のように固まる。
『父上』
嫌な予感しかしない。恐る恐るメッセージを開く。
『お前の成長を祝い、今夜は二人きりで食事をしよう。個室を取った。逃げるなよ』
「……」
橘の手からスマホが滑り落ち、ふかふかの絨毯の上に音もなく着地した。高級焼肉。一人きりの至福の時間。経費での豪遊。それら全ての希望が一瞬にして消し飛んだ。
二人きり。逃げるなよ。
それは食事への誘いではなく絶対君主からの召喚状だった。まだ続くのか。あの緊張感が。あの胃痛が。せっかく猛獣の檻から出られたと思ったのに、今度はライオンの巣穴に放り込まれるようなものだ。
「……うそ……だろ……」
橘は再び椅子に崩れ落ちた。先ほどまでの、「やってやるぜ」という覇気は見る影もない。あるのは、終わらない悪夢に直面した男の絶望だけだった。
「許してくれよ…俺はただタダ飯が食いたいだけなんだよぉぉぉッ!!」
無人の隊長室に、魂の慟哭が虚しく木霊した。
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