俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
お風呂だってそう。もう、一緒じゃなくてイイと思うの。だって……鏡越しに見える貴方のあまりのイケメンぶりに、毎回『おっふ!』しちゃって、心臓が爆発しそうでヤバイんだから!
……これがフィクションだったら。 読み飛ばせるくらいありふれた、創作の中のお話だったら、どんなに嬉しいことか。作者は、そう思わずにはいらない。
静寂に包まれた高級料亭の個室。橘厳一郎は猪口を傾けた。極上の日本酒が喉を滑り落ち、胃の腑に温かい熱を広げていく。今夜の酒がこれほど美味いのは、銘柄のせいではない。目の前に座る息子の存在が、何よりの肴だからだ。
厳一郎は満ち足りた気持ちで、息子を見つめた。この食事会に政治的な意図や策略など、微塵もない。ただ純粋に息子の成長を祝い労いたいという、一人の父親としての愛情表現だった。多忙を極める公務の合間を縫って、ようやく確保した親子水入らずの時間。厳一郎にとって、これ以上の贅沢はなかった。
息子は殊勝な態度で、膳に向かっている。背筋を伸ばし、緊張感を保ちながら一口ずつ料理を運ぶ姿。その箸の進みが遅いのは、最高級の食材をしっかりと噛み締め味わっているからだろう。あるいは次長である父親と対面することで、指揮官としての矜持を保とうとしているのかもしれない。
その生真面目さが、厳一郎には愛おしかった。近頃の若者には珍しい、礼節と謙虚さ。やはり、己の教育は間違っていなかったのだ。
厳一郎は、息子の顔をまじまじと観察した。改めて見ると、若い頃の自分によく似ている。意志の強さを感じさせる眉。理知的な光を宿す瞳。その精悍な輪郭の中に、母親譲りの甘い目元と優しげな雰囲気が加わっている。厳格さと柔らかさの同居。これは人を惹きつける上で、強力な武器になる。男としての魅力も申し分ない。これなら、女に不自由することはあるまい。
(仕事も、私の想像を遥かに超える成果を出し始めた)
厳一郎は心の中で深く頷いた。あの難攻不落と思われた特四を見事にまとめ上げ、警察組織の歴史に残るであろう作戦を立案した。部下たちの能力を最大限に引き出し、自らは矢面に立って指揮を執る。
まさに理想的なリーダー像だ。プレゼンテーションでのあの堂々たる姿。そして、訓練施設で見せた部下たちとの強固な信頼関係。どれをとっても完璧な後継者だ。私の血を受け継ぎ、私を超える器を持った男。橘家の未来は安泰だ。そう確信できるだけの根拠が、目の前にあった。
しかし、完璧に見えるこの状況において…厳一郎には、一つだけ気がかりなことがあった。
唯一の懸念材料。それはニーズヘッグという、強大な敵の存在ではない。作戦の難易度でもない。もっと身近で、そしてもっと根源的な問題だ。厳一郎の脳裏に、先日の視察の光景が蘇る。あの三人の女性隊員たち。
黒澤 麗奈。
赤城 陽菜。
白石 雪乃。
彼女たちの能力は疑いようがない。警察最高峰の戦力…なのだが、その息子へ向ける眼差し。あれは少々どころか、かなり度を越していた。
厳一郎は眉間に皺を寄せた。部下が上官を慕うのは良いことだ。尊敬や信頼は、組織の結束を固める。しかし、彼女たちの視線には、それ以上の何かが混じっていた。熱だ。火傷しそうなほどの熱量。粘りつくような執着。退室間際に聞こえた、あの「おっふ…♡」という謎の吐息。あれは明らかに、忠誠心の範疇を超えていた。
(狂信的とも言える忠誠心。それ以上に、異性としての強烈な渇望を感じずにはいられなかった)
厳一郎は猪口を置いた。父親としての直感が、警鐘を鳴らしている。あれは、獲物を狙う雌豹の目だ。隙あらば息子を食らおうとする、肉食獣の気配。圭一はあのような環境で、貞操を守れているのだろうか。そもそも貞操どころか、身の安全すら危ういのではないか。
特にあの黒澤の娘。彼女の目は、「正妻の座は譲らない」という野心に満ちていた。赤城の娘は、「私の遺伝子を受け取れ」と言わんばかりの野生の求愛。白石の娘に至っては、「貴方の全てを記録し管理したい」という歪んだ独占欲が見え隠れしていた。
どれも一筋縄ではいかない。あのような強烈な個性を持つ美女たちに囲まれ、日夜アプローチを受け続けているとしたら。圭一の精神力は相当なものだ。顔色が蒼白になるのも無理はない。あれは激務による疲労だけではなく、彼女たちの猛烈なアプローチをかわし続ける心労によるものではないか。
(圭一よ。お前はよく耐えているな)
厳一郎は、息子に同情の視線を向けた。仕事ができる男はモテる。それは世の常だ。だが、モテすぎるのも考えものだ。ましてや相手は人間離れした戦闘能力を持つ、規格外の猛者たち。一歩間違えれば、色恋沙汰が物理的な抗争に発展しかねない。あるいは、既成事実という名の強行突破を許してしまう可能性もある。
孫の顔は見たい。しかし、それには順序というものがある。あのような破壊神たちが嫁に来たら、橘家が物理的に崩壊してしまうかもしれない。
厳一郎の憂慮は深まった。このままでは息子が職務とは別のところで、消耗し潰れてしまうかもしれない。父親として何か手を打つべきか。しかし、もし介入すれば部下たちの反発を招き、圭一の立場を悪くするだけかもしれない。それに圭一自身があれだけの信頼関係を築いているのだ。知らぬところで、彼の操縦法を確立しているのかも…。
(油断は禁物だ。あの娘たちの目は本気だった。あれは恋する乙女の目であると同時に、獲物を前にしたハンターの目だった)
厳一郎はため息をついた。息子の優秀さは誇らしい。が、その優秀さが故に招いてしまった女難の相。こればかりは、次長の権力でもどうにもならない。むしろ私が口を出せば事態はより複雑化するだろう。厳一郎は再び息子を見た。圭一はどこか遠くを見るような目で、虚空を見つめている。箸は止まったままだ。その表情には、諦念にも似た静けさが漂っている。
厳一郎にはそれが、「女たちの誘惑に耐え、自らを律する禁欲的な男の横顔」に見えた。なんてストイックなのだ。若くしてこれほどの自制心を持つとは。やはりお前は──
(安心しろ圭一。私がお前の盾となろう。公的な立場からは支援できんが、父親としてお前の平穏な未来を守るために全力を尽くそう)
厳一郎は決意を新たにした。ニーズヘッグとの戦いも重要だが、息子を肉食獣たちから守ることもまた重要な任務だ。彼は徳利を手に取り、息子の猪口に酒を注いだ。とくとくと注がれる音だけが、静寂な室内に響く。息子がハッとして、恐縮しながら猪口を掲げる。
「飲め圭一。今夜は長いぞ」
厳一郎は優しく言った。これから語るべきことは多い。
組織のこと。
未来のこと。
女という生き物の恐ろしさと、素晴らしさについて。
父親として先輩として、息子に伝授すべき帝王学は山ほどある。夜はまだ始まったばかりだ。
■
食事も終盤に差し掛かり、給仕の女性が温かいお茶と甘味を運んでくる。そのタイミングを見計らって、厳一郎は居住まいを正した。ここからが本番だ。彼は目の前で背筋を伸ばし続ける息子を見つめた。その姿はあまりにも模範的であり、理想的な部下の姿そのものだ。
だが今夜、厳一郎が求めているのは部下としての圭一ではない。血を分けた、息子としての圭一だ。その堅苦しい鎧を脱がせなければ、本音で語り合うことはできない。
「圭一。敬語はやめろ」
厳一郎は静かに告げた。その言葉に、息子が驚いたように動きを止める。箸を持つ手が空中で凍りついたように見えたのは、父親の突然の提案に戸惑いと喜びを感じているからだろう。
無理もない。職場では上官と部下として、厳格に接してきたのだ。急に親子に戻れと言われても、心の切り替えに時間がかかるのは当然だ。その不器用さが、厳一郎には好ましく思えた。
「ここは職場ではない。親子水入らずの席だ。昔のように話せ」
厳一郎は、猪口を置き諭すように言った。これは命令ではない。父親からの歩み寄りだ。
(さあ心の壁を取り払え。私をもっと近くに感じていいのだ)
「あ…ああ。分かったよ…父さん」
(可愛い)
息子が喉に引っかかるような声で答えた。ぎこちない笑顔。引きつったような口元。それは長年の緊張感から解放された安堵と、照れ隠しがない交ぜになった表情だと厳一郎は解釈した。
「父さん」。その響きが厳一郎の胸に染み渡る。そうだ。私は警察庁次長である前に、お前の父なのだ。その事実を再確認し、厳一郎の表情が自然と緩んだ。室内の空気が和らいだように感じる。息子もまた肩の力が抜け、リラックスしたように見えた。
機は熟した。厳一郎は懐から、桐の箱を取り出した。年代物だが手入れの行き届いたその箱を、テーブルの上に重々しく置く。ゴトという鈍い音が、静寂に響く。息子の視線が、その箱に釘付けになるのが分かった。
「これを、お前にやろう。開けてみろ」
促され、息子が震える指先で箱の蓋に手をかけた。その手つきは、慎重で中身に対する敬意が感じられる。ゆっくりと蓋が開く。そこに収められているのは、一つの腕時計だ。銀色に輝くスイス製の最高級機械式時計。厳一郎が長年愛用し、数々の重要な決断を下す際に時を刻んできた相棒だ。その価値は、金銭的なものだけではない。橘家の歴史と権威そのものだ。
「こ、これは…」
「私の愛用品だ。スイスの職人に特注で作らせた、世界に一本しかない」
厳一郎は誇らしげに語った。息子の驚愕の表情が心地よい。彼はその時計の価値を、正しく理解しているようだ。
「次長就任の祝いに、祖父から譲り受けたものだ。それを今、お前に譲る」
継承。その言葉を口にした瞬間、厳一郎の胸に熱いものが込み上げた。いつかこの日が来ることを夢見ていた。自分の手で育て上げた後継者に、自らの証を託す瞬間。それが今、まさに訪れたのだ。息子の顔色がさっと変わる。蒼白になり、口元が震えている。あまりの責任の重さと、父からの信頼の深さに打ち震えているのだと、厳一郎は確信した。
「裏を見てみろ」
トドメの一撃だ。息子は言われるがまま、時計を裏返した。磨き上げられたステンレスの裏蓋に刻まれた文字。
『To the future Deputy Commissioner General, from Father』(未来の次長へ 父より)
息子が息を呑む音が聞こえた。彼の動きが完全に止まる。時が止まったかのような静寂。その目から光が消え、焦点が合わなくなっているように見えるのは、未来という名の光があまりにも眩しすぎるからだろう。
厳一郎は満足げに頷いた。そうだ。その重みを感じろ。その刻印は単なる文字ではない。お前への期待であり予言でありそして魔除けだ。
そう、魔除けだ。厳一郎がこの時計を贈った真の理由は、継承だけではない。むしろもっと、切実な危機感が彼を突き動かしていた。彼の脳裏に、あの三人の女性隊員たちの顔が浮かぶ。彼女たちが息子に向ける、あの異常なまでの熱視線。あれは危険だ。あまりにも危険すぎる。
厳一郎は冷静に分析した。彼女たちは個々でも十分に脅威だが、もし彼女たちが手を組んだらどうなるか。黒澤の策略、赤城の武力、白石の情報力。この三つが「橘圭一を陥落させる」という一点で結託した時、世界最強のセキュリティすら突破しかねない。
(まさかとは思うが…あの娘たちが共謀し圭一を無理やり襲って赤ん坊を作り、既成事実で結婚を迫るという可能性もゼロではない…! むしろあり得る!)
厳一郎の危機感は、妄想の域を超えていた。相手は常識の通じない、怪物たちだ。
黒澤なら睡眠薬を盛ることなど、造作もないだろう。
赤城なら物理的に拉致して、監禁することなど朝飯前だ。
白石なら全ての記録を改ざんし、最初から夫婦だったことにすることさえ可能かもしれない。
そんな無法地帯におかれた息子が、不憫でならなかった。貞操の危機。それは笑い事ではない。橘家の血統に関わる重大事だ。孫は欲しいが、そのような強硬手段で作られた孫を、どう受け入れればいいというのか。むしろ、受け入れるしかないだろう。だが、それでは圭一の尊厳はどうなる?
だからこその、この時計だ。これは「手錠」であり、「鎖」であると同時に「首輪」なのだ。「この男は橘厳一郎の所有物であり、未来の警察組織の頂点に立つ男である。手出し無用」という、強力なタグ付け。彼女たちが圭一の腕にこの時計を見れば、その背後にいる厳一郎の存在を、意識せざるを得ない。迂闊な真似は出来ないはずだ。これは父が息子に与える、最強の防御結界なのだ。
息子は震える手で、その時計を握りしめている。感動で言葉が出ないのだろう。あるいは父の深すぎる愛に、言葉を失っているのかもしれない。厳一郎は優しい眼差しで、息子を見守った。泣いてもいいんだぞ圭一。男泣きもたまには悪くない。
「…ありがとう…父さん」
ようやく絞り出された息子の声は、掠れていた。消え入りそうなほど、か細い声。
「大切に…します」
その一言に込められた、万感の思い。厳一郎は深く頷いた。伝わった。私の思いが全て伝わった。彼はこの時計の重みを受け入れ、未来の次長としての覚悟を決めたのだ。そして私の加護を受け入れ、身を守ることを誓ったのだ。
息子は左手首にその時計を巻いた。カチリという音が個室に響く。それは継承の儀式が完了した合図だった。銀色の時計が息子の手首に、完璧にフィットしている。まるで最初からそこにあるべきだったかのように。その輝きは息子を縛り付ける鎖のようにも見えたが、厳一郎には息子を守る鎧の一部に見えた。
「うむ」
厳一郎は短く応じた。これでもう安心だ。この時計がある限り、息子は道を踏み外さない。誘惑に負けることもない。そして何より、あの猛獣たちもこの「橘家の紋章」の前では爪を引っ込めるはずだ。
(よく似合っているぞ圭一。それでお前は、完全に私のものだ。いや、警察組織のものだ)
厳一郎は、グラスに残った酒を飲み干した。勝利の美酒のように甘かった。息子はまだ呆然としている。その顔には絶望にも似た深い陰影が刻まれているが、それこそが重責を担う男の顔だ。ヘラヘラと笑うような軽薄な男に、私の後は継がせない。この悲壮感こそが、信頼の証。
(逃がさんぞ圭一。お前には私が敷いたこの輝かしいレールを、脱線することなく走り抜けてもらう。それがお前の幸せであり、私の願いなのだから)
厳一郎は確信していた。自分が息子に与えたものが「祝福」以外の、何物でもないことを。息子の心の中で「いらねええええ!」という絶叫が木霊していることなど、知る由もない。親の愛とは時に海よりも深く、鉛よりも重い。その重圧の下で、息子が窒息寸前であることに気づくことなく、厳一郎はただ満足げに微笑んでいた。
父の愛という名の最強の呪いは、こうして完璧な形で息子に継承されたのだった。
さぁて、次回もサービスサービスゥ!!