俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
結城誠の世界は白かった。それは彼が身に纏っていた純白のスーツの色であり、彼が信じていた正義の色だった。
第一公安機動捜査隊•隊長。その肩書きは彼の誇りであり、揺るぎないアイデンティティだったはずだ。
だが今の彼の世界は泥と煤と、そして理解不能な闇の色に塗り潰されている。全身の節々が、軋むような痛みを訴えている。特に右腕と両足首には、万力で締め上げられたような激痛が走っている。肉体的な痛みなど些細なことだ。彼の心に刻まれた、傷跡に比べれば。
結城は薄れゆく意識の中で、ここ数日間の出来事を走馬灯のように振り返っていた。あれは悪夢だったのか。それとも神話の時代に迷い込んだような、非現実的な体験だったのか。
全ては、あの部屋から始まった。特四の作戦司令室。結城は希望に燃えていた。伝説の指揮官、橘圭一と共に戦える。その事実はエリートとしての彼のキャリアに箔をつけるだけでなく、一人の警察官として純粋な興奮を覚えさせていた。
ドアを開けた瞬間のことを、今でも鮮明に思い出せる。青白い光に照らされた橘隊長の姿。彼はただ腕を組んで立っていただけだ。その背中からは歴戦の将軍だけが持つ、静かなる覇気が立ち上っていた。結城は感動した。これこそが自分が目指すべき、理想の指揮官像だと確信した。
しかし、違和感はすぐに訪れた。橘隊長に敬意を表し、その肩に手を置いた瞬間だ。室内の温度が物理的に下がった。空調の故障ではない。肌を刺すような、明確な殺意。結城は公安の訓練で、殺気への耐性をつけていたはずだった。背後から浴びせられたそれは、訓練で想定されるレベルを遥かに超えていた。
漆黒の闇。
底なしの沼。
振り返ることもできなかった。ただ本能が「動くな死ぬぞ」と、警鐘を鳴らしていた。橘隊長が私の手を払いのけた時、結城はそれを拒絶だと思った。今なら分かる。あれは救済だったのだ。あのまま結城が触れ続けていれば、自分の手首はあの場で切断されていただろう。隊長はそれを予見し、私を救ってくれたのだ。「トラウマがある」などという、優しい嘘をついてまで。
そして、共同作戦当日。結城は完璧な作戦を立案したつもりだった。一公が正面から陽動し特四が側面を突く。教科書通りのセオリー。しかし現場で起きたことは、セオリーの崩壊だった。いや、セオリーの蹂躙と言った方が正しい。
まだ突入の合図も出していないのに、屋根の上が制圧された。見えない何かが、敵のスナイパーを次々と沈黙させていく。あれは黒澤麗奈だ。彼女の射撃には、銃声すらなかった。ただ、結果だけがそこに残されていた。魔法を見ているようだった。
正面ゲートの電子ロックを、解除しようとした時だった。隣の壁が弾け飛んだ。爆薬ではない。中から何かが飛び出してきた衝撃で、分厚いコンクリートが粉砕されたのだ。土煙の中から現れた、赤城陽菜の笑顔。「お先に失礼しまーす」という、場違いに明るい声。彼女は人間ではなかった。人の形をした重機だ。重機ですら、あんな芸当はできない。彼女が通った後には、道ができるのではない。更地ができるのだ。
そして、敵の兵器が勝手に暴走を始めた時の恐怖。白石雪乃。彼女の姿はどこにもないのに、戦場全体が彼女の掌の上にあった。結城の部下たちは、トリガーを引く機会すら与えられなかった。
ただ呆然と立ち尽くし、目の前で繰り広げられる一方的な虐殺を眺めることしか、できなかった。これが特四。これが橘隊長の軍隊。結城は震える声で無線を入れた。何が起きているのかと。橘隊長は答えた。「全て計算通りだ」と。その声には、一点の揺らぎもなかった。
恐ろしかった。このカオスを、この地獄絵図を、彼は計算していたというのか。部下たちの暴走すらも織り込み済みで、盤上の駒として動かしていたというのか。自分が知る警察組織の理屈など、彼には通用しない。
彼は法の番人ではない。混沌を統べる魔王だ。
作戦終了後。結城は、彼を称賛せずにはいられなかった。自分の未熟さを恥じた。そして、感謝の気持ちを伝えようと再び彼の手を握った。
それが間違いだった。結城の愚かさが招いた、致命的なミス。背後の三つの戦略兵器の安全装置が、解除される音が聞こえた気がした。
敵の残党が現れた時、結城は橘隊長を庇おうとした。彼女たちは、敵を見ていなかった。彼女たちの目は、自分に釘付けだった。敵への攻撃は、私へのデモンストレーションだったのだ。
壁にめり込む敵兵。四肢を撃ち抜かれる敵兵。装備を暴走させられ、聴覚を奪われる敵兵。それら全てが「お前もこうなる」という、無言のメッセージだった。敵が可哀想に見えたのは、初めてだ。彼らは結城の身代わりとして、八つ裂きにされたのだから。
訪れた破滅の時。橘隊長は結城に言った。
「君のような優秀な人材を、この修羅場に長く留めるわけにはいかない」
「もっと日の当たる場所で、活躍すべきだ」
嗚呼、なんて慈悲深い言葉だろう。彼は分かっていたのだ。結城がこれ以上ここにいれば、精神が崩壊することを。だから優しく、突き放してくれたのだ。そう信じていた。あの三人が、結城を取り囲むまでは。
「女子会」という名の拷問。「ヒアリング」という名の精神破壊。彼女たちの笑顔が、悪魔に見えた。黒澤麗奈の冷たい指先が、彼の痛覚神経を正確に刺激する。
「隊長に触れて良いのは選ばれた者だけですのよ?」
その言葉と共に、味わったことのない激痛が走る。赤城陽菜の無邪気な暴力。
「人間風車いきまーす!」
結城の体は玩具のように振り回され、関節という関節が悲鳴を上げた。白石雪乃の無機質なレンズ。彼女は、ただ無言で私の醜態を記録し続けていた。それが未来永劫消えることのない、デジタルタトゥーになると告げながら。
結城は這いつくばった。泥水を啜り、プライドをかなぐり捨てて逃げ出した。視界の先に、橘隊長の姿があった。彼は現場指揮車の横で、静かに空を見上げていた。後光が差しているように見えた。彼なら止めてくれる。彼なら、この理不尽な暴力を制止してくれる。そう信じて、必死に手を伸ばした。
「橘隊長…ッ! 助け…!」
指先が橘の足元に届きそうになった、その瞬間。足首を掴まれた。万力のような力。引き戻される絶望。結城は泣き叫んだ。なりふり構わず、助けを求めた。
だが、橘隊長は動かなかった。彼は結城を見なかった。確実に、目は合ったはずだ。自分の涙も鼻水も絶望に歪んだ顔も、全てその網膜に映っていたはずだ。彼はスッと視線を逸らした。そして空に浮かぶ雲を愛でるように、呟いたのだ。「明日は雨か」と。
その瞬間、結城の心の中で何かが決定的に砕け散った。あれは拒絶ではない。断罪だ。「自分の始末は自分でつけろ」という、冷徹な判決だ。橘隊長は知っていたのだ。部下たちが、自分に何をしようとしているのか。そして、それを黙認した。あえて見逃すことで、自分に「特四に関わることの代償」を骨の髄まで、刻み込ませようとしたのだ。
完璧な知らんぷり。それはどんな罵倒よりも、雄弁に結城を打ちのめした。
闇の中へ引きずり戻される結城の耳に、彼が耳の穴をほじる音が聞こえた気がした。それが、結城のエリート人生の終わりの合図だった。
今、自分は病院のベッドの上にいる。肉体的な傷は、いずれ癒えるだろう。しかし、心に刻まれた恐怖は一生消えない。
橘圭一。彼は英雄だ。だが同時に、触れてはならないタブーだ。彼に近づく者は、その身を焼かれる。彼の周囲には、常識の通じない結界が張られている。結城はそれを、身を持って学んだ。
もう二度と特四には近づかない。彼らの視界に入ることすら避ける。私は公安のぬるま湯で生きていく。それが彼が私に与えた最後の慈悲なのだから。
窓の外を見る。東京の空は今日も青い。しかし結城には、その空の向こうにあの三人の悪魔の嘲笑と、橘隊長の冷徹な瞳が浮かんで見えた。
結城は布団を頭から被り、震えながら眠りを待った。夢の中にまで、彼らが現れないことを祈りながら。
次回は明日を予定してます。