俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
【黒澤麗奈 視点】
深夜の警視庁。都市の喧騒が遠い波音のように響く時刻。特四隊長執務室は、重厚な静寂に支配されていた。照明は落とされ、メインモニターの青白い光だけが室内の主を照らし出している。
橘圭一。彼が革張りの椅子に深く身を沈めているその姿は、ただ休息を取っているようには見えなかった。少なくとも、黒澤麗奈の瞳にはそう映らなかった。それは熾烈な盤上の戦いを制し、愚かな挑戦者を完膚なきまでに叩き潰した後にのみ訪れる、絶対的な支配者の孤独と安息。窓外に広がる東京の夜景すらも、彼の背後でひれ伏す宝石の絨毯に過ぎない。
麗奈は執務室の隅で音もなく、佇み愛する隊長の横顔を見つめ続けていた。彼女の胸中を満たすのは甘く熱い陶酔感だ。ここ数日間の出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。それは不快なノイズの侵入から始まり、完璧な静寂の回復によって幕を閉じた一連の喜劇だった。
全てはあの男の登場から始まった──結城誠。公安のエリートという薄っぺらい肩書きを鎧のように纏い、正義という名の妄想に酔いしれた道化。彼がこの神聖な執務室に足を踏み入れた瞬間の不快感を、麗奈は昨日のことのように鮮明に思い出せる。
空気の味が変わった。研ぎ澄まされた特四の空間に、土足で踏み込む無神経さ。キラキラとした瞳で隊長を見つめるその視線の裏にある、浅はかな功名心と無自覚な傲慢さ。
麗奈は即座に断じた。あれは害虫であると。この完璧な調和を乱す、不純物であると。
しかし、隊長は寛大だった。あの道化の戯言に耳を傾け、あまつさえ共同作戦という名の茶番を受け入れられた。麗奈はその深淵なる御心に戦慄した。隊長は最初から分かっていらしたのだ。あの男が如何に無能で、如何に邪魔な存在であるかを。その上で彼を泳がせ、自滅への道を歩ませるという残酷なシナリオを描いていたのだ。
そして、決定的な瞬間が訪れた。作戦会議の場であの男が、隊長の肩に触れたあの瞬間だ。麗奈の記憶の中で、その光景だけが赤く焼き付いている。
汚らわしい。万死に値する。許可なく触れるなど、冒涜以外の何物でもない。あの時、麗奈の指先は確実にナイフの柄を捉えていた。あの男の指を一本ずつ切り落とし、その愚かさを髄まで理解させてやるつもりだった。
だが、隊長はそれを制した。あの無造作に手を振り払う動作。そして「他人に触られるのが苦手だ」という言葉。凡人はそれを、拒絶だと受け取るだろう。麗奈には分かっていた。
あれは命令だ。「こいつはこの場で殺す価値もない。今は生かしておけ。私の手を使わずに処理しろ」という無言の勅命だ。彼が手を汚す必要はない。汚れ仕事は、影である私たちが担えばいい。麗奈はその瞬間に誓った。必ずやこの不敬者に、相応しい末路を与えてやろうと。
強襲作戦の現場は麗奈にとって、単なる処刑場だった。公安の精鋭たちが足並みを揃えて行進する横で、彼女は屋根の上から戦場を見下ろしていた。スコープ越しに見える、敵兵などただの的だ。
彼女の意識の全ては、隊長の傍らに立つ結城に向けられていた。敵を撃つたびに、彼女は結城の絶望を幻視した。一発撃つごとに結城のプライドを削ぎ落とし、二発目で自信を粉砕し、三発目で公安という組織の無力さを骨身に刻み込む。
陽菜が壁を粉砕した時の、彼のマヌケな顔。雪乃がシステムを掌握した時の、彼の恐怖に引きつった表情。それら全てが、隊長への供物だった。隊長は指揮車の中で、全てを見ていらしたはずだ。
私たちが繰り広げる、一方的な蹂躙劇を。それが結城への、メッセージであることを。通信機越しに聞こえた、隊長の「計算通りだ」というお言葉。あれこそが答え合わせだった。やはり隊長は全てを予見し、私たちという駒を使って公安の鼻をへし折ることを、楽しんでおられたのだ。
そしてフィナーレ。作戦終了後の倉庫裏での、密やかな語らい。麗奈は結城の首筋に指を這わせた時の感触を思い出して、うっとりと目を細めた。
震える体。
涙と鼻水で汚れた顔。
かつてのエリートの面影など微塵もない敗北者の姿。
彼は必死に隊長に助けを求めた。だが隊長は空を見上げた。完璧な無視。冷徹なる黙殺。それこそが隊長の下した、最終判決だった。「お前はもう用済みだ」と。「私の部下たちが好きにするがいい」と。
なんと慈悲深いのだろうか。自らの手を下すことなく、ただ沈黙することで敵を地獄へと突き落とす。その絶対的な権力行使のあり方に、麗奈は背筋が震えるほどの快感を覚えた。あの男の精神を破壊し、二度と特四に関わらないよう徹底的に「教育」した時間は、麗奈にとって至福の奉仕活動だった。
そして今。デスクの上には、警視庁上層部からの評価通知が置かれている。内容は明白だ。今回の作戦における全功績は、橘圭一のもの。公安の失態は隠蔽され、一公の存在など最初からなかったかのように処理されている。
歴史が書き換わったのだ。否…正しい形に修正されたのだ。隊長という太陽の前では他の星々など光を失い、ただの石ころに過ぎない。あの不純物は我が隊長を輝かせるための、良質な踏み台としての役割を全うしそして消え去った。二度とあのような、薄っぺらい正義がこの神域を汚すことはないだろう。
麗奈は静かに息を吐いた。執務室の空気が澄み渡っている。不純物が取り除かれ、純粋な忠誠心と支配の構造だけが残った完璧な空間。椅子に沈む隊長が、ふと小さく溜息をついた。一般人ならそれを疲労と捉えるかもしれない。けれど、麗奈には分かる。それは次なる獲物を見据えた、捕食者の呼吸だ。一つの獲物を食らい尽くし、既に次の覇道へと意識を向けておられるのだ。
(ああ…私の隊長…)
麗奈の瞳が潤む。あなたの行く道がどれほど険しくとも、私が必ずその足元の小石を取り除きましょう。あなたの視界を遮るものがあれば、私が全て撃ち抜きましょう。あなたはただそこに座り、冷酷な瞳で世界を見下ろしていればいいのです。
結果こそが全て。その結果を捧げることこそが、私の存在意義。麗奈は深く深く一礼した。その顔には聖女のような慈愛と、悪魔のような残忍さが同居した美しい微笑みが浮かんでいた。忠誠の果実は甘く熟れ、今まさに王の足元に捧げられたのだった。
【赤城陽菜 視点】
赤城陽菜は、満面の笑みを浮かべていた。その体からは、湯気が立ち上りそうなほどの熱気と幸福感が溢れ出している。
特四隊長執務室。少し落とされた照明の中で、彼女の視線は一点に釘付けだった。愛する隊長、橘圭一。彼は革張りの椅子に深く体を預け、グラスを手に静かに佇んでいる。その横顔は憂いを帯びているようにも見えるが、陽菜には分かっていた。
あれは戦いを終えた戦士だけが許される、休息の姿だ。勝利の余韻を噛み締め、次なる戦いに想いを馳せている。なんて絵になるのだろう。なんてかっこいいのだろう。陽菜の心臓が早鐘を打ち、全身の筋肉が歓喜で震えた。
ここ数日の出来事は、陽菜にとって最高にエキサイティングな「運動会」だった。同時に自分たちの絆を確かめ合うための、素晴らしいイベントでもあった。邪魔者が入ってきた時は、どうなることかと思ったけれど。
結城誠。あの白いスーツを着たヒョロヒョロの男。陽菜は彼が最初に入ってきた時のことを思い出し、小さく鼻を鳴らした。第一印象からして、最悪だった。ニコニコ笑って愛想はいいけれど、中身がスカスカだ。筋肉に張りがないし重心が浮ついている。あんな体で隊長の隣に立とうなんて、百年早い。隊長を守る盾になれるのは、強靭な肉体と鋼の腹筋を持つ自分だけなのだ。
一番腹が立ったのは、作戦会議の時だ。あいつは、隊長の肩に気安く触った。ペタペタと汚い手で、隊長の体に触れたのだ。あの瞬間、陽菜の視界は真っ赤に染まった。血管という血管が、ブチ切れそうになった。「その腕を引きちぎってマフラーにしてやろうか」と、本気で思った。床を踏み抜く寸前まで、力を込めた。
だが、隊長は凄かった。パシッと、結城の手を払い除けたのだ。その仕草の、なんとクールで力強かったことか。「俺に触っていいのは選ばれた者だけだ」という、無言のメッセージ。陽菜は痺れた。隊長も同じ気持ちだったのだ。あんな軟弱な男に触られるくらいなら、陽菜の剛腕で抱きしめられたいと思ってくれているに違いない。
そして強襲作戦当日。あれは楽しかった。本当に楽しかった。一公とかいう弱そうな人たちが、ドアの前でモタモタしているのが見えた。
電子ロック?
パスコード?
そんな面倒なものは必要ない。陽菜には最強の鍵がある。拳だ。壁があったら壊せばいい。道がなければ作ればいい。ドカンと一発壁を粉砕して突入した時の、あの爽快感。粉塵の中から飛び出した陽菜に向けられた、一公たちの驚愕の表情。あれはきっと「すげえ! 女神だ! 破壊の女神が降臨した!」という、感動の眼差しだったはずだ。隊長も指揮車の中で、ガッツポーズをしていたに違いない。「よくやった陽菜! それが俺の求めていた突破口だ!」と。
敵がまた弱すぎた。撫でただけで吹き飛び、デコピンで壁にめり込む。手応えがなさすぎて少し物足りなかったけれど、隊長のためだから頑張って掃除をした。ゴミはゴミ箱へ。悪党はコンクリートの中へ。それが陽菜流の整理整頓術だ。
でも、結城は懲りなかった。作戦が終わった後、また隊長にベタベタと触ろうとしたのだ。学習能力がないのだろうか。それとも死に急いでいるのだろうか。陽菜の堪忍袋の緒が、完全に切れた。麗奈と雪乃も同じだったみたいだ。空気が凍りついたのが分かった。
ちょうどいいタイミングで、敵の生き残りが特攻してきた。ラッキーだった。あいつらが来なかったら、結城をその場でスクラップにしていたかもしれない。陽菜は結城の頭上を飛び越え、敵の群れに突っ込んだ。「隊長から離れろ!」という怒りを拳に乗せて。
敵を掴んで武器にして振り回す。
人間ハンマー投げ。
人間ボウリング。
久しぶりに全力が出せた。ストレス発散にはもってこいだった。
そして最後の仕上げ。倉庫裏での女子会。あれは最高に盛り上がった。結城は泣いて逃げようとしたけれど、許さなかった。「人間風車」の練習台になってもらった。グルグル回してあげたら、すごく変な悲鳴を上げていたけれどあれは、きっと喜びの声だ。だって、隊長の部下である自分に遊んでもらえたのだから。
彼はボロボロになって這いつくばり隊長に助けを求めた。「橘隊長!」ってすがるような目で。でも隊長はどうしたか。空を見たのだ。「明日は雨か」って呟いたのだ。かっこよすぎる。痺れる。あの態度は「甘えるな」という厳しくも愛のある指導だ。「自分のケツは自分で拭け。俺の部下たちの教育を受けて出直してこい」という采配だ。
隊長は分かってくれていた。自分たちが結城を教育したがっていることを。だからあえて無視することで、自由な時間を与えてくれたのだ。その海よりも深い包容力に、陽菜は感動して泣きそうになった。結城を引きずって闇に戻る時、背中で感じた隊長の気配は「存分にやれ」と言っていた。だから存分にやった。骨の数本は折れたかもしれないけれど、命までは取らなかった。
陽菜は優しいから。
今デスクの上には隊長の功績を称える書類が、山積みになっているらしい。当然だ。全部隊長の計算通りだったのだから。全て、隊長の掌の上での出来事。
やっぱり隊長は最強だ。頭もいいしかっこいいし、何より「自分たちの正常な能力」を受け入れてくれる。あんな弱っちいエリートなんて、最初から相手じゃなかったのだ。
陽菜は誇らしげに胸を張った。自慢の筋肉が制服の下で躍動する。隊長がグラスを少し持ち上げた。あれは乾杯の合図だ。勝利の美酒を分かち合おうという誘いだ。
(飲みましょう隊長! プロテインで乾杯です!)
いつかその背中を物理的に抱きしめて、背骨をきしませるその日を夢見る陽菜の心は晴れやかだった。
【白石雪乃 視点】
電子の海は静寂に包まれていた。特四隊長。白石雪乃は無機質なモニターの光に顔を照らされながら、静かに佇んでいる。彼女の指先はタブレットの上を滑るように動き、世界を書き換える作業を淡々と進めていた。
彼女の視線の先にはこの部屋の主であり、彼女の世界の中心である橘圭一がいる。彼は椅子に深く沈み込み、重い溜息をついていた。その姿は、一般人には疲労困憊した男に見えるかもしれない。
だが、雪乃のフィルターを通した彼は、全く別の存在として認識されていた。それは全てのデータを処理し終え、次のコマンドを待つスーパーコンピューターのように静謐で、絶対的な演算能力を秘めた神の休息姿だ。
雪乃はここ数日間のログを脳内で再生した。膨大なデータストリームの中から特定のフォルダを開く。そこには、「不純物排除および神格化プロセス」というタグが付けられていた。
不純物。結城誠という名のバグ。彼がこの執務室に現れた時のことを、雪乃は鮮明に記憶している。彼の発する音声と波形、表情筋の動き、そして歩行のリズム。
その全てが、生理的な嫌悪感を催させるノイズだった。公安のエリートという属性も正義感というパラメータも、特四という閉じたシステムにおいてはエラーの原因にしかならない。彼が隊長に敬礼した時、雪乃の脳内セキュリティソフトは即座に彼を「排除対象」としてマーキングした。
そして、決定的なセキュリティ違反が発生した。作戦会議における身体接触だ。彼の手が隊長の肩に触れた瞬間、雪乃の視界は真っ赤な警告色に染まった。アクセス権限のないユーザーによる不正アクセス。
神聖なハードウェアへの汚染攻撃。
許されない。
万死に値する。
あの時、雪乃は即座に彼の個人情報を特定し、社会的に抹殺する準備を整えた。
銀行口座の凍結。
SNSの乗っ取り。
秘匿フォルダの公開。
エンターキー一つで彼の人生を「404 Not Found」にする準備はできていた。しかし、隊長はそれを制止した。自らの手で彼を振り払うことで。雪乃はその行動に深い慈悲と計算を見た。
「今はまだ泳がせておけ」という神の采配。
「より効果的な排除のタイミングを待て」という高度な戦術的判断。
雪乃は震えた。やはり隊長は全てを見通しているのだと。
強襲作戦当日。それは雪乃にとって、結城というバグをデバッグするための公開実験場だった。一公の隊員たちがアナログな突入を試みている横で、雪乃は電子空間を支配した。敵の監視カメラを乗っ取り、防衛システムを書き換え、通信網を遮断する。指先一つで、戦場の神になる全能感。
それは自己満足のためではない。全ては、隊長の偉大さを証明するための演出だ。結城がパニックになり無線で悲鳴を上げた時、雪乃は口元を歪めた。「理解できません」と喚く彼に対し、隊長は「計算通りだ」と答えた。あの言葉こそが真実だ。この混沌も破壊も、結城の醜態さえも全ては隊長のシナリオ通り。自分はそのシナリオを忠実に実行する、ただのデバイスに過ぎない。
作戦終了後の倉庫街。再び発生した不正アクセス。結城が隊長の手を握ったあの一瞬。雪乃の中で保留されていた、実行コマンドが承認された。
「デリート」。
ちょうど良く現れた敵の残党は、結城への怒りをぶつけるためのサンドバッグとしては、上質だった。敵の通信機をハッキングし、耳をつんざくようなノイズを流し込みながら、雪乃は結城を見つめていた。「次は、お前の脳内に直接ノイズを流し込んでやる」と念じながら。
そして訪れた断罪の時。倉庫裏での「ヒアリング」は雪乃にとって、有意義なデータ収集の時間だった。麗奈が精神を削り、陽菜が肉体を砕く。その横で雪乃は、淡々とスマートフォンのカメラを回し続けていた。泥にまみれ無様に泣き叫ぶ、エリート隊長の姿。「助けてください」と懇願する醜い表情。
その全てを、高解像度で記録した。これは彼を一生涯脅迫し続けるための、最強の武器となる。彼が、隊長に助けを求めた時のこと。隊長は空を見上げた。「明日は雨か」と呟いた。雪乃はその言葉をこう解釈した。「涙の雨が降るだろう。愚かなる者の上に」。
それは完璧な黙認であり、GOサインだった。神は供物を受け入れたのだ。結城という生贄を、私たちが調理することを許したのだ。引きずられていく結城の絶望的な顔を見ながら、雪乃はかつてない充足感を感じていた。これで害、虫は排除された。二度と、この神域に近づくことはないだろう。
現在。雪乃の手元にあるタブレットには、最新の報告書が表示されている。それは公安内部の通信ログや上層部の極秘資料を基に、雪乃が再構築し編集した「真実の歴史」だ。そこには「一公の指揮系統の混乱」と「特四の迅速かつ的確な対応」。そして、「橘圭一隊長の神がかり的な戦術眼」が客観的なデータとして記されている。
もちろん、都合の悪い事実は全て削除済みだ。ハッキングの痕跡も過剰防衛の証拠も、全て電子の彼方に消し去った。残ったのは、輝かしい「結果」だけ。
(……これでいい)
雪乃は心の中で呟いた。隊長が世界を支配するのではない。世界が隊長という真実に、平伏していくのだ。公安の記録も歴史の編纂も、全て己の指先が隊長の望む『結果』へと書き換えた。己のハッキング能力は金銭を盗むためでも、国家を転覆させるためでもない。
ただ一人の男を、英雄にするためだけに存在する。
隊長が再び重い溜息をついた。それは凡人には理解できない、高次元の憂鬱。あるいは次なるステージを見据えた、神の呼吸。雪乃は背筋を伸ばし、その音を聞き逃すまいと耳を澄ませた。
(ああ…尊い…)
彼女はそっとデスクに近づき、膝をつくようにして彼を見上げた。その瞳に映る橘圭一は、もはや一人の人間ではない。あらゆる思惑と混沌を飲み込み、輝かしい『結果』だけを抽出する装置のような存在。
神。
絶対者。
私の存在理由。
雪乃は、そっとタブレットをデスクに置いた。画面には、「作戦成功」「評価Sランク」「次回予算増額確定」の文字が並んでいる。
「おめでとうございます、隊長」
雪乃は、掠れるような声で囁いた。誰にも聞こえないほどの、小さな声。しかし、それは魂からの祈りだった。
「世界は再び…あなたの正しさを認めましたわ…」
結城誠という犠牲者を踏み台にして、橘圭一の伝説は更に高みへと登った。雪乃は悦びの笑みを浮かべた。その笑顔は無垢でありながら、底知れぬ狂気を孕み、モニターの光を受けて青白く輝いていた。
【三人娘•集結視点】
執務室の空気が飽和する。もはや酸素ではなく、濃密な情念だけで満たされたこの空間において、橘圭一という存在はただ一人の人間であることを許されなかった。
彼は中心点。
彼は特異点。
彼は彼女たちの世界の全てを規定する、絶対座標。
三人の乙女たちは、音もなくデスクを包囲した。まるで獲物を追い詰めた肉食獣のように。あるいは祭壇に捧げられた、神聖な供物を崇める信徒のように。彼女たちの視線は熱を帯び、その瞳孔は欲望で開ききっている。先ほどまでの冷静な回想はどこへやら。勝利の安堵と邪魔者を排除した開放感が、彼女たちの理性のタガを静かに、しかし確実に外し始めていた。
黒澤麗奈はデスクの右側に立ち、優雅に髪をかき上げた。その指先は微かに震えている。それは恐怖ではなく、抑えきれない興奮によるものだ。彼女の視線は、橘が愛用している革張りの椅子に向けられていた。正確にはその椅子に置かれた、クッションに向けられている。そこには、橘の匂いが染み付いているはずだ。彼の体温が残り香となって、漂っているはずだ。
(ああ…隊長…)
麗奈の脳内で妄想が爆発する。今すぐ隊長を押し倒したい。しかし、それはあまりにも無粋。まずは、このクッションを抱きしめたい。顔を埋めたい。深く深く息を吸い込み、隊長の残り香を肺の奥底まで満たしたい。スゥスゥハァハァと、貪欲に執拗に。隊長の匂いを、己の細胞の一つ一つに刻み込みたい。その後は隊長の私室に忍び込み、枕カバーを回収。代わりに、自分の香水をたっぷりと染み込ませた新品と交換しておくのだ。
そうすれば隊長は、毎晩自分の匂いに包まれて眠ることになる。無意識のうちに、己に支配されていく。
なんて甘美な支配。
なんて倒錯的な幸福。
麗奈はうっとりと目を細め、その美しい顔を紅潮させた。彼女の手は無意識に懐のナイフではなくハンカチを握りしめ、荒くなる呼吸を必死に整えていた。
赤城陽菜はデスクの左側に立ち、自慢の胸を誇らしげに張った。彼女の筋肉は未だ戦闘の興奮を記憶しており、ピクピクと脈打っている。彼女が見つめているのは、橘の華奢な首筋だ。白く、細く頼りなげな首。力を込めれば簡単に折れてしまいそうな、儚い生命線。だが陽菜にとってそれは、破壊の対象ではない。庇護と所有の対象だ。
(隊長…細い…もっと食べさせなきゃ…!)
陽菜の母性本能が暴走する。今すぐ隊長を抱き上げたい。お姫様抱っこで軽々と持ち上げ、そのまま己の太ももの上に座らせたい。そしてあの細い首筋に顔を埋め甘噛みしたい。
ガブッと、少し強めに。
痛いと泣く隊長を「よしよし」とあやしながら、その痛みで自分の存在を刻み込みたい。己の歯型を隊長の首に残すのだ。そうすれば、誰が見ても分かる。「この人は赤城陽菜のものです」という、消えないマーキング。そのまま背骨が軋むくらい強く抱きしめて、「もう離しません!」と宣言したい。
物理的な一体感。
筋肉と骨の共鳴。
陽菜は自分の腕を見つめ、エアハグをするように指を動かした。その剛腕の中に隊長が収まる感触を幻視して、彼女はニヤニヤと笑いを漏らした。
そして白石雪乃はデスクの正面、その足元に跪くように座り込んでいた。彼女の視線は、下から上へと橘を見上げている。その角度は崇拝者のそれであり、同時に奴隷のそれでもある。
彼女の瞳の奥にあるのは、服従だけではない。管理と支配への渇望だ。彼女が見ているのは橘の指先だ。キーボードを叩き書類にサインをし、世界を動かすその指先。
(隊長の全てを…記録したい…)
雪乃の指が、タブレットの画面を愛おしげに撫でる。そこには橘のバイタルデータが、リアルタイムで表示されている。
心拍数。
体温。
血圧。
その数値の揺らぎ、一つ一つが雪乃にとっては至高の詩だ。今すぐ隊長の指にセンサーを取り付けたい。いや、体内にチップを埋め込みたい。どこにいて何をしていて、どんな夢を見ているのか。その全てを24時間365日、監視したい。
隊長が苦しんでいる時は薬の量を調整し。隊長が喜んでいる時は、その脳内物質の分泌量を記録する。隊長という、ハードウェアの管理権限を独占したい。誰にも触らせない。パスワードを知っているのは私だけ。雪乃は恍惚とした表情で、自分の唇に指を当てた。その指で隊長の唇に触れ、電子ロックを解除するように、深い口づけを交わす妄想。データの海で溶け合う、魂の交歓。
彼女の身体から微弱な静電気がバチバチと発生し、周囲の空気をピリつかせた。
三者三様の狂気。
三者三様の愛。
彼女たちの行き着く先は同じだ。橘圭一という存在を自分たちの愛という名の檻に閉じ込め、永遠に飼い殺すこと。外の世界では「伝説の英雄」として崇めさせ、この部屋の中では「命を賭すべき絶対的な神」として奉る。逃げ場はない。彼が手柄を上げれば上げるほど、檻の格子の黄金は輝きを増し、鍵は複雑化していく。
公安のエリートですら手出しできない聖域。そこは最も安全で、そして最も危険な楽園。
橘が身じろぎをした。そのわずかな動きに、三人は敏感に反応した。彼女たちの瞳孔が、一斉に収縮する。神が動いた。次なる命令か。あるいは、休息の終わりか。彼女たちは瞬時に背筋を伸ばし、完璧な部下の顔を取り戻した。だが、その瞳の奥の熱だけは隠しきれない。
「「「おめでとうございます、隊長」」」
三人の声が重なった。それは事前の打ち合わせなどない、完璧なユニゾンだった。
麗奈の艶やかな声。
陽菜の弾むような声。
雪乃の鈴のような声。
それらが混ざり合い甘く、重い呪詛のような祝福となって橘に降り注ぐ。
「世界は再び…あなたの正しさを認めましたわ…」
彼女たちは心の中でそう続けながら、深々と頭を下げた。その恭しい姿勢とは裏腹に、彼女たちの影は大きく伸び、橘を飲み込むように蠢いている。
結果が全て。そう──結果こそが全てだ。
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