俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
午後三時の警視庁特四•隊長室。そこには、奇跡のような静寂と平和が満ちていた。橘圭一は窓から差し込む柔らかな陽光を浴びながら、恍惚の表情を浮かべていた。
彼の身体を包み込んでいるのは、先日支給された特別報奨金の大半を注ぎ込んで購入した、最高級のマッサージチェアだ。本革のシートが彼の疲弊した背中を優しく受け止め、内蔵された高性能ローラーが凝り固まった筋肉を的確にほぐしていく。
橘は深々と息を吐いた。口の中に広がるのは、淹れたての最高級アールグレイの芳醇な香りだ。この茶葉もまた、経費ではなく自腹で購入した逸品である。誰にも邪魔されない、至福の時間。部下たちは別室で待機しており、ここには自分一人しかいない。猛獣のいない檻の中こそが、飼育員にとっての楽園なのだ。
(ふゥー…これだよ。俺が求めていたのは、これなんだ)
橘は心の中で呟いた。激動の日々が嘘のようだ。国際犯罪組織との死闘。父との息詰まる食事会。そして、部下たちからの過剰な愛情攻撃。それら全ての嵐が過ぎ去り、ようやく訪れた凪の時間。
このまま定年まで、この椅子の上で過ごしたい。トラブルなんて二度とごめんだ。俺はもう十分に働いた。一生分の冷や汗を流したはずだ。神様がいるなら、これくらいの安息を与えてくれても罰は当たらないだろう。
橘はカップを傾け、温かい紅茶を喉に流し込んだ。胃薬なしで飲む紅茶が、これほど美味しいものだとは忘れていた。
平和こそ最高。
平穏こそ至高。
彼は目を閉じ、マッサージチェアの微振動に身を委ねた。意識がまどろみの中へと沈んでいく。このまま昼寝をするのも悪くない。誰にも文句は言わせない。だが、世界は橘圭一を休ませてはくれない。あるいは、彼が積み上げてきた業が、あまりにも深すぎたのかもしれない。彼のささやかな楽園は、唐突かつ暴力的に破壊された。
ザザッ。
不快なノイズ音が静寂を引き裂いた。橘は驚いて目を開けた。壁一面に設置された大型メインモニターが、砂嵐のようなノイズを映し出している。
故障か。いや違う。手元のスマートフォンが同時に震え出した。デスク上のPCモニターも、勝手に起動し明滅を始めている。そして窓の外。高層ビル街の巨大な街頭ビジョンまでもが一斉に同じ、画面へと切り替わったのが見えた。
(な…なんだ!? サイバーテロか!?)
橘の思考が警鐘を鳴らす。雪乃の悪戯かとも思ったが、彼女ならもっとスマートにやるはずだ。こんな無粋なジャックの仕方はしない。では誰だ。ノイズが晴れ、鮮明な映像が映し出された。そこには、二人の男が映っていた。一人は豪奢なソファに優雅に脚を組んで座る、イタリア製の高級スーツを着た男。もう一人はその背後に立つ、異様な風体の男だ。
橘は、持っていたティーカップを取り落とした。ガチャンという、陶器が割れる音が室内に虚しく響く。彼はそれに気づかないほど、画面に釘付けになっていた。
見覚えがありすぎたのだ。特に後ろの男に。顔立ちは強面だが、その頭部は物理法則を無視した巨大な球体状のアフロヘアになっていた。チリチリに焼け焦げ固まった髪。虚ろながらも狂気を宿した瞳。
(あ…あれは…! 湾岸倉庫の!)
橘の脳裏に、忌まわしい記憶がフラッシュバックする。部下の赤城陽菜が「サーバーより軽いから」という理由で、米俵のように担いで持ち帰ってきた、あの武器庫の現場責任者だ。マフィアのボスだったはずの男。なぜ彼がシャバにいる。厳重に収監されていたはずだ。しかも、髪型が更に爆発して進化しているではないか。
そして前の男。彫りの深い顔立ちに、ナルシスティックな笑み。忘れるはずもない。豪華客船で麗奈にちょっかいを出し、彼女の逆鱗に触れたあのニーズヘッグの幹部だ。
(マルコ…ベラルディ…!)
最悪の組み合わせだ。これは偶然ではない。明確な悪意を持った帰還だ。橘の背筋に冷たいものが走った。マッサージチェアの心地よい振動が一転して、死刑台へのカウントダウンのように感じられた。画面の中のマルコが口を開いた。流暢だが、どこか芝居がかった日本語だ。
『ご機嫌よう警視庁の諸君。そして…愛しの特四橘圭一隊長』
名指しされた。全国放送でフルネームを呼ばれた。橘は椅子の上で小さくなった。やめてくれ。俺の名前を、そんな恨みたっぷりに呼ばないでくれ。
『君たちのおかげで私は屈辱的な撤退を余儀なくされた。だが感謝しよう。その屈辱が私に新たなインスピレーションを与えてくれたのだから』
マルコは優雅に手を広げた。その背景には、巨大な時限爆弾のような装置が鎮座しているのが見えた。場所は、どこかの地下施設だろうか。無機質なコンクリートの壁と太い配管が見える。
『プレゼントを用意した。名付けて「レクイエム」。美しい名前だろう?』
マルコは陶酔した表情で語る。
『場所は、東京都庁の地下構造体。この国の心臓部だ。この爆弾が起動すれば都庁はおろか、新宿一帯が地図から消滅することになる。かつてのポンペイのようにね』
新宿消滅。規模が大きすぎる。テロリストの要求としては、あまりにも破滅的だ。金か。仲間の釈放か。マルコの次の言葉は、橘の予想を遥かに超えていた。
『金はいらない。政治的な要求もない。我々が求めるのは、たった一つ…特四の完全なる敗北と屈辱だ』
マルコの瞳が画面越しに橘を射抜く。
『橘圭一。お前が一人で、都庁の最上階に来い。武器は捨てろ。部下も連れてくるな。さもなくば、このスイッチを押して東京を火の海にする』
一人で。その言葉が重くのしかかる。これは戦争ではない。決闘の申し込みだ。しかも、圧倒的に不利な。その時、背後のアフロ男が前に乗り出してきた。彼はカメラに向かって、唾を飛ばしながら絶叫した。
『テメェだよ橘ァァァ! テメェの飼ってるあの猛獣どものせいで、俺の人生は茶番になっちまったんだよ! 米俵だぞ!? 俺はマフィアの幹部だったのに、米俵として搬送されたんだぞ! あの屈辱がテメェに分かるかァァァ!』
ボスの叫びは悲痛だった。魂の叫びだった。あまりの理不尽な扱いに精神が崩壊し、再構築された狂気。
『今度はテメェが茶番に付き合う番だァ! 一人で来い! あの化け物女たちに守られて、ぬくぬくしてるテメェを引きずり出して、俺と同じ目に遭わせてやる!』
(やっぱり個人的な恨みじゃないか! 知らねえよ! 俺はあいつらに、『やるな』って言ったんだぞ!)
橘は内心で激しく抗議した。悪いのは、全部暴走した部下たちだ。
(俺はむしろ止めた側だ。被害者だ。なんで俺が一人で行かなきゃなんないんだよ!? 絶対に行けば殺される。なぶり殺しにされる…米俵にされるかもしれないんだぞ!!?)
『期限は一時間だ。待っているぞ? 私の愛する宿敵よ』
マルコの嘲笑と共に、画面が暗転した。プツンという音がして、元の静寂が戻る。それはもう、平和な静寂ではなかった。死の宣告を受けた後の、絶望的な静寂だ。
橘は震える手で顔を覆った。どうする逃げるか。いや、逃げられない。相手は、新宿を人質に取っている。しかも自分を名指しした。逃げれば、「東京を見捨てた臆病者」として社会的に抹殺される。行けば物理的に抹殺される。どちらに転んでも地獄。詰んでいる。
(誰か…嘘だと言ってくれ…)
その願いは、最悪の形で叶えられた。隊長室のドアが、破壊されんばかりの勢いで開かれたからだ。ノックなどない。雪崩れ込んできたのは、三人の美しき修羅たちだった。
「隊長」
麗奈の声。低い。地獄の底から響くような低音だ。彼女は一言も発していない。その全身から立ち昇る冷気は、室温を一瞬で氷点下まで下げた。彼女の表情は能面のようだが、その瞳は画面に映っていたマルコを既に「肉塊」としてしか、認識していない。彼女にとってマルコは、「私有物である隊長に喧嘩を売った害虫」であり、「自分のプライドを傷つけた愚か者」だ。生かしておく理由など、万に一つもない。
「あのアフロのおじさん…まだ懲りてないんですね…」
陽菜が呟いた。彼女は拳を強く握りしめている。ミシミシと骨がきしむ音が聞こえる。彼女の笑顔は消えていた。あるのは、「躾が足りなかった犬を見る目」だ。「今度こそ粉々にして、土に還してあげないといけませんね」という、慈悲なき殺意が全身から溢れ出している。
「…都庁の制御システム…ロックされました」
雪乃がスマホを操作しながら淡々と告げた。その周囲の空気が、ビリビリと静電気を帯びて震えている。
「物理的遮断されています。ハッキングによる解除には、時間がかかります。…挑戦状ですね。受けて立ちましょう」
彼女の目は、既に戦闘モードに入っている。橘はマッサージチェアの上で縮こまった。怖い。敵も怖いが、味方がもっと怖い。この部屋の酸素濃度が、一気に下がった気がする。彼女たちの殺意が濃密すぎて、呼吸が出来ないのではと錯覚してしまう。
(お前ら! 頼むから、ここで爆発しないでくれよ! 顔が! 顔が放送コードギリギリだぞ!)
彼女たちは完全に「やる気」だ。マルコの脅しなど意に介していない。「一人で来い」という要求など無視して全員で乗り込み、新宿ごと敵を殲滅する気満々だ。そうなれば都庁は守られても、東京は彼女たちの手によって更地になるかもしれない。それを止められるのは、世界でただ一人。この哀れな中間管理職だけだ。
橘は覚悟を決めた。いや覚悟させられた。ここで「行きたくない」と言えば部下たちの暴走で都庁より先に、警視庁が消滅すると悟ったからだ。彼は震える膝をデスクで隠し、引きつる頬を必死に持ち上げて、聖人の微笑みという名の仮面を装着した。震えを止めるために、握りしめた拳には爪が食い込んでいる。
「…やれやれ」
橘は演技がかった溜息をついた。それは余裕の表現ではなく、諦めのため息だった。
「亡霊たちが、二度目の死を懇願しに来たようだね」
声が裏返らないように、細心の注意を払う。
「彼らは分かっていないようだ。我々特四を怒らせることが、どれほど愚かなことかを」
(俺が一番分かってるよ! 怒らせたら終わりだってことくらい!)
橘は椅子から立ち上がった。足が鉛のように重い。それでも進むしかない。挟み撃ちされないために。
「行こうか。彼らに真の絶望を教えてあげよう」
かっこいいセリフだ。映画の主人公なら、ここでテーマ曲が流れるところだ。もちろん、橘の内心は真逆だった。
(教えてあげようじゃねえよ! 俺が一番教わりたいよ! 絶望の回避方法を! 誰か助けてくれぇぇぇぇッ!!)
橘の言葉を聞いた瞬間、三人の乙女たちがゾッとするほど美しい獰猛な笑みを浮かべたのを、視界の端で捉えた。それは鎖を解かれた猛獣の笑顔だった。
橘圭一は虚勢を張り、背筋を伸ばして歩き出した。その背中は雄弁に語っていた。「俺は英雄だ」と。だがその心臓は早鐘を打ち、胃袋は悲鳴を上げていた。自らの足でラスボスたちが待つ、最後の地獄都庁へと向かわざるを得なくなった男の悲哀。
東京の運命と橘圭一の命運を懸けた最終決戦の幕が、今切って落とされた。逃げ場のない英雄の進撃が始まる。
胃薬の瓶をポケットに忍ばせて。
ご愛読ありがとうございます。作者の精神不安定で打ち切り感ある中、果たして当作は完結なるか…「完結させてみせます」と公言した以上、有言実行してみせますが…ジカイモオタノシミニ。