俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ   作:最高司祭アドミニストレータ

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腹痛…。


英雄の咆哮(悲鳴) - (橘圭一 視点)

 都庁前の広場に急造された、現地指揮本部。張り詰めた空気の中で、無数のモニターが不吉な電子音を奏でている。橘圭一はパイプ椅子に腰掛け、目の前の画面を凝視していた。彼の胃袋は、限界を超えて悲鳴を上げている。口の中はカラカラに乾き、冷や汗が背中を伝い落ちる感覚だけが鮮明だった。

 

 モニターに映し出されているのは、地下深くに潜った爆発物処理班の様子だ。日本で一番爆弾に詳しいはずの彼ら。プロ中のプロ。彼らだけが頼りだった。彼らが「大丈夫です。解除できます」と言ってくれれば、それで全てが終わるはずだった。

 

 橘は祈るような気持ちで、画面を見つめていた。神様、仏様、ご先祖様。どうか、この悪夢を終わらせてください。俺はただ、温かい布団で眠りたいだけなんです。

 

 しかし無慈悲な現実は、橘の祈りを踏みにじった。スピーカーから流れてくる声には、絶望の色が滲んでいた。

 

 

『処理不能です』

 

 

 その言葉が、指揮本部の空気を凍りつかせた。処理不能。それは、死刑宣告と同義語だ。橘の思考が、一瞬停止する。今なんて言った。処理不能。つまり、爆発するということか。新宿が消えるということか。何より、その責任者が俺になるということか。

 

 

『本部。退避を進言します。これは人間には解除できません』

 

 

 画面の中の、防護服を着た男たちが背を向けた。彼らが歩き出す。爆弾から遠ざかる方向へ。逃げる気だ。専門家たちが匙を投げて、逃げ出そうとしている。

 

 

(は…?)

 

 

 橘の顔色が土気色に変わった。血の気が引く音が聞こえるようだ。

 

 

(退避…? 嘘だろ…? お前らが逃げたら、誰がこの場を収めるんだ…?)

 

 

 彼らは防波堤だ。専門知識という盾を持った、最強の防壁だ。彼らが現場にいる限り、「専門家が対応中」という免罪符が橘を守ってくれる。もし失敗しても、「プロでも無理だったなら仕方がない」という言い訳が立つ。

 

 けれど、彼らが逃げ出したらどうなる。現場に残るのは誰だ。最高責任者という、名ばかりの肩書きを背負わされた自分だ。全ての視線が橘に集中する。「おい隊長どうするんだ」という無言の圧力が降り注ぐ。

 

 

(まさか…俺か…? 俺たちがやらなきゃならないのか…!?)

 

 

 嫌だ。絶対に嫌だ。あんな得体の知れない黒い箱と対峙したくない。死にたくない。責任を取りたくない。専門家が逃げるということは、死のリスクが確定したということだ。それを素人の俺が背負うなんて、狂気の沙汰だ。

 

 

『総員撤退する。急げ』

 

 

 班長の佐藤の声が聞こえた。その声は橘の耳には、裏切りの合図にしか聞こえなかった。彼らが去っていく。自分をこの地獄の真ん中に置き去りにして、安全圏へと逃げていく。

 

 

(ふざけるな!)

 

 

 橘の中で何かが弾けた。恐怖と怒りと寂しさが、混ぜこぜになった感情の爆発。

 

 

(専門家のくせに仕事を放棄するな。お前らが逃げたら、俺が矢面に立たされるだろうが。生贄は多い方がいいんだよ。一人でも多く道連れが欲しいんだよ…俺を一人置いて行くんじゃねえ!!)

 

 

 橘は震える手で、マイクをひったくった。理性が消し飛ぶ。保身の本能だけが喉を震わせる。彼は腹の底から空気を吸い込み、そして思い切り吐き出した。

 

 

「その場から逃げるなァァァ!!」

 

 

 絶叫。それは、指揮本部全体をビリビリと震わせるほどの轟音だった。スピーカーを通して、地下通路にも木霊する。画面の中の隊員たちが、ビクリと動きを止めた。佐藤班長が驚いたように、カメラの方を振り返る。

 

 橘は肩で息をしながら、モニターを睨みつけた。心の中は、悲痛な叫びで満たされていた。

 

 

(頼むからそこにいてくれ! 何もしなくていいから! ただ一緒にいてくれ! 一緒に恐怖を分かち合ってくれ! 俺一人で、責任を負いたくないんだよぉぉぉ!!)

 

 

 寂しいのだ。怖いのだ。大人たちがよってたかって逃げ出すような場所に、一人で残される子供のような心境。誰かいてくれれば安心する。専門家がそこに立っているだけで、「まだ何とかなるかもしれない」という幻想に浸れる。だから行かないでくれ。俺を見捨てないでくれ。その一心で叫んだ言葉だった。

 

 しかし、世界は橘の言葉を正しく受け取らなかった。またしても、歪んだ翻訳機能が働いたのだ。

 

 指揮本部の空気が一変した。沈殿していた絶望感が熱気に変わっていく。警察幹部たちが目を見開き、橘を見つめている。彼らの目には、橘の絶叫が恐怖の悲鳴ではなく魂の叱咤として映っていたのだ。

 

 

「橘隊長…」

 

 

 一人の幹部が震える声で呟いた。

 

 

「これぞ指揮官の鑑…! 絶望的な状況でも決して諦めない、不屈の闘志…!」

「死地に赴く覚悟か…我々が恥ずかしい…っ」

 

(えっ?)

 

 

 橘は内心で狼狽えた。違う。闘志じゃない。ただの駄々っ子だ。帰らないでと泣き叫んでいるだけだ。なんで感動してるんだ。そしてモニターの中。佐藤班長の表情が変わった。悔しさと無力感に歪んでいた顔が驚愕を経て、決意に満ちたものへと変化していく。彼は目に涙を浮かべ、カメラに向かって敬礼した。

 

 

『…ッ! すみません…隊長…! 我々は…なんと恥ずかしいことを…! プロとしての誇りを捨てて、逃げ出すところでした…! 市民を見捨てるなど、警察官としてあるまじき行為…!』

(いや戻らなくていいから! 作業しなくていいから! ただそこにいてくれるだけでいいから! 棒立ちでいいから!)

 

 

 橘は、心の中で訂正しようとした。だが声が出ない。喉が張り付いている。佐藤の言葉は熱を帯びて続く。

 

 

『あなたの叱咤で目が覚めました。逃げてはいけない。立ち向かわなければならない』

 

 

 そして、最悪の事態は背後から忍び寄っていた。橘は背筋に走る悪寒でそれを察知した。振り返るまでもない。特四の三人娘だ。麗奈、陽菜、雪乃。彼女たちが控えている場所から放射される熱量が、異常なほど高まっている。

 

 

(あ…ああ…)

 

 

 橘には分かる。彼女たちの脳内で何が起きているかが、手に取るように分かる。

 

 

『隊長カッコイイ』

『あんなに熱く叫ぶなんて』

『私たちのために怒ってくれてる』

 

 

 そんな超解釈が、脳内麻薬と共に爆発しているのだ。彼女たちの視線が橘の背中を焼き尽くす。うっとりとした熱っぽい視線。それは「今すぐ抱きつきたい」という衝動を、必死に抑え込んでいる猛獣の目だ。後ろからは愛の重圧。前からは機待の重圧。橘はサンドイッチ状態で、押し潰されそうになっていた。

 

 だが、ここで終わりではなかった。佐藤班長が、さらに恐ろしいことを口にしたのだ。

 

 

『ですが隊長! 我々がここにいては、足手まといになるだけです!』

(は?)

 

 橘の思考が止まる。足手まとい? 何言ってるんだこいつは。お前らが主力だろうが。

 

 

『この爆弾は、人間には解除できません。人間の思考速度を超えた、悪魔の兵器です。これを止められるのは…』

 

 

 佐藤はカメラ越しに、橘の後ろを指差した。その指先が示しているのは、橘の背後に佇む一人の女性。白石雪乃。

 

 

『あなたの部下だけだ! あの神の如き計算能力を持つ彼女にしか、この悪夢は止められない!』

(バカヤロウウウウウッ!!)

 

 

 橘は心の中で絶叫した。

 

 

(余計なことを言うな。なんでパスするんだ。なんでボールをこっちに投げるんだ。俺は「お前らが頑張れ」って、言いたかっただけなんだ。「俺たちの出番はない」って、言いたかったんだ…それを「私たちがやります」みたいな空気にすり替えるな!!)

『我々は撤退し、場所を空けます! 後は頼みます! 橘隊長!』

 

 

 佐藤はそう言うと、今度こそ本当に部下たちを連れて走り去っていった。それは逃亡ではない。「勇気あるバトンタッチ」という、演出の下に行われた美しい撤退だった。残されたのは、空っぽになった地下通路の映像と指揮本部に満ちる、「さあ出番だ」という期待の空気だけ。

 

 詰んだ。完全に詰んだ。橘は呆然と立ち尽くしていた。自分の絶叫が、自分の首を絞める結果になった。「逃げるな」と叫んだせいで、「俺たちがやるしかない」という状況が確定してしまった。なんという皮肉。なんという自爆。

 

 現場の全視線が、橘に集まっている。その背後の雪乃にも。雪乃は無表情のまま、静かに橘を見つめている。その瞳の奥には「いつでも行けます」という、静かな狂気が宿っていた。

 

 彼女はやる気だ。爆弾だろうが何だろうが、隊長のためならハッキングして爆破してみせると言わんばかりだ。麗奈も陽菜も同じ顔をしている。「隊長の命令待ちです」という忠犬の顔だ。

 

 もう後戻りはできない。ここで「やっぱり無理です」と言えば暴動が起きる。警察の威信も特四の伝説も、自分の社会的地位も全てが崩壊する。爆弾処理班ですら匙を投げた「悪魔の兵器」に、自分の部下と自分のキャリアを突っ込ませるしかないのだ。

 

 選択肢はない。進むか死ぬか。もしかしたら、進んでも死ぬかもしれない。

 

 橘は震える手を隠すために、腕を組んだ。膝が笑っているのを、必死に堪える。顔面の筋肉を総動員して、「苦渋の決断を下す英雄」の表情を作り上げる。心臓が口から飛び出しそうだ。胃液が逆流してくる。

 

 

「…分かっている」

 

 

 橘は重々しく頷いた。声が震えないように腹に力を入れる。

 

 

「行け、爆弾処理班。君たちの判断は正しい」

(正しくねえよ! 戻ってこいよ! チクショウ!)

「あとは…私が引き受ける」

 

 

 言った。言ってしまった。自分の口から死亡フラグを建築する言葉が出ていくのを、橘は他人事のように聞いていた。指揮本部が「おおっ!」とどよめく。感動の渦だ。誰も彼が、内心で泣き叫んでいることに気づかない。

 

 

(引き受けたくねえええええ! 誰か代わってくれ! お母さーん! おうちに帰りたいよぉぉぉ!)

 

 

 橘は椅子から立ち上がった。足が鉛のように重い。だが、動かなければならない。彼はゆっくりと歩き出した。雪乃が、音もなくその後に続く。

 

 都庁の地下へと続くゲート。その暗い口が、橘を待ち構えている。あの中に、「レクイエム」がある。触れれば終わりの絶望がある。

 

 

「行こうか雪乃」

「はい。隊長」

 

 

 橘は一歩を踏み出した。その背中は悲壮な決意に満ちて見えたが、実態は恐怖で硬直しているだけだった。絶望までのカウントダウンは、もう止まらない。橘圭一は、自らの足で地獄の底へと降りていく。

 

 英雄という名の重すぎる仮面を、被ったまま。




ご愛読ありがとうございます。作者の精神不安定で打ち切り感ある中、果たして当作は完結なるか…「完結させてみせます」と公言した以上、有言実行してみせますが…ジカイモオタノシミニ。
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