俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ   作:最高司祭アドミニストレータ

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#22 私の価値
電子の生贄 - (白石雪乃 視点)


 東京都庁の地下深く。都市の基盤を支える巨大な共同溝は冷たく、重い静寂に満たされていた。コンクリートの壁がどこまでも続き、天井からは太い配管が血管のように張り巡らされている。湿った空気が肌にまとわりつく、不快な場所だ。普通の人間ならば、恐怖と圧迫感に押しつぶされそうになる空間だろう。

 

 だが白石雪乃にとって、ここは恐怖の対象ではなかった。むしろ、安らぎすら感じていた。なぜなら、ここには余計なノイズがないからだ。地上の喧騒も他人の視線も、社会という煩わしいシステムもここには存在しない。あるのは、無機質なコンクリートと冷たい空気。

 

 そして何より、自分の背後にはあのお方がいる。特四隊長、橘圭一。彼女の世界の中心であり、全ての演算の基準点となる絶対的な存在。彼と二人きりになれるこの空間は、雪乃にとって聖域にも等しい場所だった。

 

 雪乃は歩調を緩めず、闇の中を進んでいく。足音がコツコツと響き渡る。背後からは、隊長の荒い呼吸音が聞こえてくる。その音さえも、雪乃にとっては愛おしいBGMだった。隊長が見ている。

 

 トンネルの突き当たり。開けた空間の中央に、それは鎮座していた。新型爆弾『レクイエム』。先に到着していた爆弾処理班が「生きている要塞」と呼び恐れをなして、逃げ出した黒い筐体。複数のサーバーラックほどもあるその巨体は、闇の中で不気味な重低音を響かせている。

 

 表面には継ぎ目がなく、艶消しの黒い金属がわずかな光をも吸い込んでいた。そしてその表面を血管のように、脈打つ赤い光のラインが走っている。まるで、呼吸をする巨大な心臓のようだ。

 

 雪乃は、その黒い怪物の前に膝をついた。恐怖はない。あるのは、純粋な知的好奇心と沸き立つような対抗心だけだ。彼女は愛用のタブレット端末を取り出し、接続ケーブルを引き出した。先端のコネクタがカチリという音を立てて、筐体の隠しポートに接続される。

 

 物理的な接触。侵入の開始。

 

 

「接続確認。リンク確立」

 

 

 雪乃は小さく呟き、タブレットの画面を指で滑らせた。瞬間、彼女の視界が拡張される。肉眼で見える物理的な黒い箱ではなく電子の奔流として構成された、爆弾の真の姿が脳内に投影される。

 

 それは美しいとさえ言えるほど、複雑怪奇な迷宮だった。幾重にも重なるセキュリティウォール。常に書き換えられ続ける流動的な回路図。無数に仕掛けられた、論理爆弾とカウンタープログラム。敵組織『ニーズヘッグ』の技術者が、全精力を注ぎ込んで作り上げた悪意の結晶。

 

 

 触れれば爆発。

 解析すれば爆発。

 無視しても爆発。

 

 

 解体しようとする意思を持つ者を、あざ笑うかのように設計された『死の結び目』。

 

 

(なるほど。悪趣味な構造です)

 

 

 雪乃は、心の中で冷ややかに評価を下した。回路の一つ一つに、設計者の性格の悪さが滲み出ている。これは兵器ではない。挑戦状だ。「解けるものなら解いてみろ」という傲慢なメッセージが、コードの端々に書き込まれている。本来なら、賞賛すべき技術力かもしれない。だが、雪乃の感情回路は静かな怒りで赤く染まっていた。

 

 

(私の隊長の威光を。私の世界の王を。こんなガラクタで脅かそうとするなんて)

 

 

 許さない。絶対に許さない。隊長の平穏を乱すものは、全て排除する。それが物理的な敵であれ、電子的な悪意であれ例外はない。

 

 雪乃の指が加速する。タブレットの画面に表示されるコードが滝のように流れていく。彼女は爆弾の思考回路にダイブし、その深層へと潜っていく。第一層突破。第二層突破。ダミーの起爆信号を回避し、囮のプログラムを無力化する。まるで汚れた糸を一本ずつ、解きほぐしていくような作業。繊細かつ大胆に。だが、最深部のコアシステムに到達した時、雪乃の手が止まった。

 

 そこには、物理的な壁が立ちはだかっていた。ファイアウォールではない。もっと根源的なシステム上の断絶。コアシステムには解除コードを入力するための、インターフェースが存在しなかった。外部からの操作を一切受け付けない、完全なる閉鎖回路。唯一の入力方法は生体電位信号。つまり人間の神経系そのものを鍵として、使用するシステムだった。

 

 

(デッドマン・スイッチ…いいえ、もっと悪質なバイオメトリック認証…)

 

 

 雪乃は瞬時に理解した。この爆弾を止める方法は、たった一つ。回路の一部を人間の神経系に見立てて、バイパスを通しシステムを騙すこと。つまり、ハッキングしている自身の脳を一時的に爆弾のCPUと直結させ、演算領域として貸し出すという行為が必要になる。私の脳を部品として組み込むのだ。そうすればシステムは「正常な生体反応」を感知し、起爆シークエンスを停止させるだろう。

 

 だが、それには致命的なリスクが伴う。人間の脳と兵器のCPUを直結させるのだ。膨大なデータ量が逆流し、神経回路を焼き切る可能性がある。もし失敗すれば自分の脳はショートし、廃人になるかあるいは即死する。人格の崩壊。記憶の消去。自分が自分でなくなる恐怖。二度と隊長の名前を呼ぶことも、その笑顔を見ることもできなくなるかもしれない。

 

 雪乃は一度だけ目を閉じた。恐怖がないと言えば嘘になる。だが、天秤にかけるまでもないことだ。

 

 

(覚悟は決まっています)

 

 

 雪乃は目を開けた。その瞳には、迷いなど微塵もない。澄み切った冬の空のような、冷たく美しい決意だけが宿っていた。彼女は首元に手をやった。チョーカーのように巻かれた黒いバンド。その下には彼女が自ら改造し埋め込んだ、特殊な接続端子が隠されている。脊髄に直接アクセスするための、禁断のインターフェース。彼女はケーブルの先端を震える指で掴んだ。

 

 接続する直前。彼女は一度だけ手を止め、ゆっくりと振り返った。暗闇の中に、隊長の姿がある。彼は仁王立ちしている。その顔は強張っているが、逃げ出さずにそこにいてくれている。それだけで十分だ。私の最後の光景としてこれ以上のものはない。

 

 

「隊長…」

 

 

 雪乃の声は静かな地下空間によく響いた。彼女は普段通りの無機質な口調を保とうとしたが、言葉の端々には隠しきれない情熱が滲み出ていた。

 

 

「この先は…私の『全て』を賭ける必要があります」

 

 

 彼女はケーブルを掲げて見せた。それは彼女の命綱であり、処刑台のロープでもあった。

 

 

「通常のハッキングでは不可能です。私の脳を直接リンクさせ、爆弾の演算処理を肩代わりします。そうすることで、内部から制御権を奪取します」

 

 

 専門用語を並べ立てる。隊長には理解できないかもしれない。だが伝えなければならない。これが、最期の会話になるかもしれないのだから。

 

 

「もし…私が失敗して…壊れてしまったら…」

 

 

 雪乃は言葉を詰まらせた。想像してしまったのだ。廃人となり涎を垂らし、隊長のことも分からなくなった自分の姿を。そんな無様な姿を愛する人に見せたくない。いっそ死んでしまいたい。しかし、もし生きてしまったら。ただの肉塊として、生き長らえてしまったら。

 

 

「…私のことは忘れて…どうか生き延びてください」

 

 

 それは嘘だった。精一杯の強がりだった。忘れないでほしい。私のことを。私があなたのために命を捨てたことを。永遠に記憶の片隅に留めておいてほしい。彼女の本心が喉元までせり上がる。言いたい。言ってしまいたい。「愛しています」と。「私を一生覚えていてください」と。だが、彼女はそれを飲み込んだ。

 

 そんな重い言葉を遺せば、優しい隊長は一生苦しむことになるだろう。それは、彼女の望むところではない。だから彼女は訂正した。最も残酷で、そして最も純粋な願いへと。

 

 

「…いいえ。やっぱり…時々でいいので…思い出してくださいますか?」

 

 

 雪乃は儚げに微笑んだ。薄暗い地下でも、彼女の瞳は星のように潤んで輝いていた。

 

 

「役に立たない道具でしたが…あなたのことを、誰よりも愛していた女がいたことを」

 

 

 告白。遺言。そして祈り。全ての想いをその言葉に乗せた。これでいい。これで、心置きなく逝ける。

 

 橘が何かを叫ぼうとしているのが見えた。口が開き、必死の形相でこちらに手を伸ばそうとしている。その顔には悲痛な色が浮かんでいた。

 

 ああ。隊長は悲しんでくださっている。私のために。ただの道具である私のために、心を痛めてくださっている。その事実だけで、雪乃の胸は張り裂けそうなほどの幸福感で満たされた。

 

 

(ああ…十分です。そのお顔が見られただけで…私はもう何も怖くない)

 

 

 愛されている。必要とされている。その確信が彼女に最後の勇気を与えた。雪乃は微笑みながら、ケーブルの先端を首元の端子に押し当てた。

 

 

「行ってきます。私の…神様」

 

 

 カチリ。

 

 乾いた接続音が響く。瞬間。雪乃の意識が肉体を離れ、光速で加速した。視界がホワイトアウトする。現実世界の音が消え、重力も温度も消失する。彼女は電子の海へとダイブした。光と情報の奔流が彼女を飲み込む。そこは0と1で構成された無限の荒野。悪意と殺意が渦巻くデジタルの地獄。

 

 彼女は恐れない。彼女の背中には愛する人の視線がある。その温もりだけを頼りに、彼女はたった一人で巨大な怪物へと戦いを挑んだ。

 

 

 私の価値を証明するために。

 私の愛を完結させるために。

 

 

 白石雪乃という存在の全てを燃やし尽くす、最後のハッキングが今始まった。

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