俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ   作:最高司祭アドミニストレータ

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ヒーローの退場

【黒澤麗奈 視点】

 

 

 地上数百メートル。都庁舎の向かいに聳え立つ超高層ビルの屋上は、強風が吹き荒れる極限の世界だった。ごうごうと唸る風がコンクリートを叩きつけ、巻き上げられた粉塵が視界を遮る。

 

 その過酷な環境の中心で、黒澤麗奈は彫像のように微動だにしなかった。彼女の漆黒の戦闘服『シャドウダイバー』は闇に溶け込み、長い黒髪だけが風になびいて黒い炎のように揺らめいている。

 

 彼女の呼吸は極限まで浅く、静かだ。心拍数を意図的に下げ、感覚を鋭敏にする。手には愛銃PSG-1が握られている。そのスコープが捉えているのは、数百メートル離れた都庁上層階の一室。第一電源室だ。

 

 スコープ越しの世界はクリアだった。そこには重武装した傭兵たちが忙しなく動き回り、窓際にバリケードを築いているのが見える。そして彼らの足元には、数名の都庁職員が恐怖に顔を歪めながら縛られ、転がされていた。

 

 人質。卑劣な盾だ。彼らは知っているのだ。警察が人質を前にすれば、手を出せないことを。それを安全地帯と信じ込み、油断している。

 

 

(浅はかですわね)

 

 

 麗奈はスコープから目を離さず、心の中で冷ややかに呟いた。彼女の瞳には、慈悲など欠片もない。あるのは任務遂行への冷徹な意志と愛する人のために障害を排除するという狂気的なまでの情熱だけだ。

 

 

(私の弾丸は障害物を避けて、本命に届くようにできているのですから。貴方たちの薄汚い盾など、空気と同じです)

 

 

 インカムから雪乃の無機質な声が届く。

 

 

『セキュリティ解除。障壁消失まで3。2。1』

 

 

 カウントダウンがゼロになった瞬間。麗奈の指が動いた。それは引き金を引くというよりも、愛する人の頬に触れるような繊細な動作だった。

 

 

 シュッ。

 

 

 サイレンサーによって抑制された、乾いた音が風の音にかき消される。だが、その結果は劇的だった。

 

 数百メートル先の窓ガラスに小さな穴が穿たれたのと同時に、指揮官とおぼしき男の頭部が弾け飛んだのだ。血飛沫が舞う暇もなく、男はその場に崩れ落ちた。周囲の傭兵たちが何が起きたのか理解できず、呆然としている。銃声が聞こえなかったからだ。彼らは自分たちの指揮官が、突然の心臓発作か何かで倒れたのだとでも思ったのだろう。

 

 麗奈は、彼らに考える時間を与えない。彼女の手は、機械のような正確さで次弾を装填し、照準を合わせる。二人目。三人目。窓際で様子を窺おうとした敵兵が、次々と倒れていく。

 

 彼らの死に顔には、共通して驚愕が張り付いていた。どこから撃たれたのか。誰に撃たれたのか。それすら悟らせずに、命を刈り取る。それこそが麗奈の美学であり隊長への愛の証明だ。

 

 敵がようやくパニックに陥った。「スナイパーだ!」「どこだ!?」という怒号が飛び交う。一人の傭兵が恐怖に駆られ、人質に銃口を向けようとした。盾にすれば助かると、本能的に判断したのだ。その判断こそが、彼の寿命を縮めた。

 

 

(無粋な手をお使いにならないで)

 

 

 麗奈の瞳が冷たく光る。彼女の指が再び動く。弾丸は正確に、傭兵の手首を貫いた。銃を取り落とし絶叫する傭兵。続けて放たれた弾丸が彼の肩を撃ち抜き、戦闘能力を完全に奪う。

 

 殺しはしない。尋問のために、生かしておく必要があるからだ。それに、楽に死なせてやる義理もない。隊長の手を煩わせた罪は、これからたっぷりと償ってもらわねばならない。

 

 麗奈はリズミカルに狙撃を続けた。彼女の意識は極限まで集中し、世界には彼女とターゲットしか存在しなくなっていた。風速の変化も気圧の変動も、全てが計算式の一部として処理されていく。彼女は踊るようにトリガーを引く。その姿は、死を奏でるピアニストのようだった。

 

 

(隊長の手を煩わせる雑草は、根こそぎ刈り取る。それが『妻』の務めですもの)

 

 

 第一電源室の敵戦力が半減した頃、残った敵たちは恐怖に駆られ、部屋の奥へと逃げ込んだ。そこには防弾ガラスで仕切られた制御室があり、さらに分厚いコンクリートの壁が彼らを守っている。彼らはそこに立て籠もり、電源破壊装置のスイッチを押そうとしていた。

 

 射線が通らない。物理的に狙撃不可能な位置だ。敵のリーダー格が血走った目で笑っているのが見えた。「これで終わりだ! 道連れにしてやる!」と、叫んでいるようだ。麗奈はスコープから目を離し、ふっと溜息をついた。それは諦めではない。相手の愚かさに対する、憐れみだ。

 

 

(隠れれば逃げられると? …浅はか)

 

 

 彼女はマガジンを交換した。装填されたのは通常の弾丸ではない。タングステン芯を内蔵した特殊徹甲弾。戦車の装甲すら貫く対物ライフル用の弾丸を彼女は、躊躇なく選択した。

 

 

「雪乃。座標を」

『リンクします。誤差修正済み』

 

 

 雪乃から送られてきた熱源探知データが、麗奈の網膜ディスプレイに重ね合わされる。壁の向こう側。敵の心臓の位置。その背後にある、破壊装置の回路。全てが透けて見えるようだ。彼女の直感と雪乃のデータが、完璧に合致する。

 

 

(見えましたわ)

 

 

 麗奈は深く息を吸い込み、そして止めた。世界が静止する。心臓の鼓動すらコントロール下に置く。彼女はトリガーを絞った。今までのどの射撃よりも強く深く。

 

 

 ズドン!! 

 

 

 重厚な発射音が空気を震わせた。放たれた弾丸は音速を超え、第一電源室の外壁に直撃した。コンクリートが砕け散り、防弾ガラスが粉々に粉砕される。

弾丸の威力は衰えない。壁を貫通し、その向こうにいた敵の胴体を貫き、さらにその背後にあった電源破壊装置の制御基板を粉々に破壊した。

 

 一石二鳥。一石三鳥の一撃。

 

 静寂が戻った。スコープの中では、壁ごと吹き飛ばされた敵兵たちが呻き声を上げて転がっている。破壊装置からは火花が散り、完全に沈黙していた。第一電源室制圧完了。人質にはかすり傷一つない。完璧な仕事だ。

 

 麗奈は銃を下ろし、優雅に髪を払った。強風に晒され乱れた髪を整えるその仕草は、貴婦人のように洗練されていた。彼女は通信機のスイッチを入れた。その声は先ほどまでの冷徹な死神のものから、恋する乙女の甘い響きへと変化していた。

 

 

「第一電源確保しましたわ」

 

 

 彼女は頬を染め、まだ見ぬ愛しい人の顔を思い浮かべる。地下深くで待つ隊長。彼はきっと、モニター越しに私の活躍を見てくださっているはずだ。そして、その心の中で私への感謝と愛を深めているに違いない。

 

 

「隊長。後ほどたっぷりと、『ご褒美』を期待しておりますね♡」

 

 

 彼女は確信していた。この完璧な仕事に対して、橘が甘い言葉で労ってくれることを。頭を撫でてくれるかもしれない。あるいはもっと、情熱的な抱擁をくれるかもしれない。その妄想だけで、彼女の体は熱く火照った。

 

 寒風吹きすさぶビルの屋上が、彼女には暖かい春の陽だまりのように感じられた。彼女は愛銃に口づけを落とし、次なる命令を待つ忠実な騎士として再び静止した。その瞳の奥には、狂気的なまでの愛と殺意が妖しく揺らめいていた。

 

 

 

【白石雪乃 視点】

 

 

 電子の海は歓喜に震えていた。白石雪乃の意識は物理的な肉体を離れ、光と情報の奔流と同化していた。彼女の脳内に広がる、都庁の3Dマップ。そこに表示されていた赤色の警告灯が、次々と緑色の承認サインへと書き換わっていく。

 

 美しい。あまりにも美しい光景だった。上層階からは、麗奈の精緻な破壊工作の完了信号が届く。外周部からは、陽菜の圧倒的な物理破壊による電源断絶のシグナルが届く。

 

 全てが完璧だった。三つのルートが交差し、一つの巨大な悪意を封じ込めていく。雪乃はシステムの深淵で指揮棒を振るう、マエストロのようにそのシンフォニーを堪能していた。

 

 

(嗚呼、素晴らしい…)

 

 

 雪乃の思考回路が幸福感で満たされる。これで終わる。爆弾『レクイエム』は完全に沈黙し、橘圭一は再び英雄としての座を不動のものにする。自分はこの身を焦がすほどの接続負荷に耐え抜き、隊長を守り切った盾として彼の記憶に永遠に刻まれるのだ。

 

 最高のハッピーエンド。完璧なシナリオ。雪乃は電子の海の中で微笑んだ。そろそろ還ろう。愛する人が待つ肉体という名の檻へ。彼の「よくやった」という言葉と、温かい手のひらを求めて。

 

 だが…その幸福な時間は、唐突かつ無慈悲なノイズによって引き裂かれた。

 

 

 ピコン。

 

 

 警告音ではない。それはもっと、根源的で不吉な異変を知らせるアラートだった。雪乃は常にバックグラウンドで?橘圭一のバイタルデータを監視している。

 

 

 心拍数。

 血圧。

 体温。

 呼吸数。

 

 

 それらは彼女にとって世界で最も重要な数値であり、神の生命活動を示す聖なるデータだ。その数値が異常を示した。跳ね上がったのではない。消失したのだ。一瞬にして脈拍が乱れ、血圧が急降下し、そして意識レベルを示す波形が深い闇へと沈んでいく。

 

 

(え…?)

 

 

 雪乃の思考が凍りつく。何が起きた。システムエラーか。センサーの故障か。いや違う。システムに誤作動などあり得ない。ならば現実に起きていることだ。隊長の身に何かが起きている。

 

 

(まさか…心停止…!?)

 

 

 恐怖が雪乃の意識を、電子の海から強制的に引き剥がした。ダイブアウト。光の奔流が遠ざかり、冷たく湿った地下通路の感覚が戻ってくる。重力が戻る。肉体の感覚が戻る。そして視覚が戻った瞬間、雪乃の目に飛び込んできたのは信じられない光景だった。

 

 そこには誰もいないはずだった。この地下通路には、自分と隊長以外誰もいないはずだった。

 

 だがいた。いつの間にか、背後の空間が揺らめいている。光学迷彩だ。高度なステルス迷彩を纏った数名の影が、音もなくそこに佇んでいた。彼らはプロだ。気配も殺気も完全に遮断し、幽霊のように忍び寄っていたのだ。

 

 

「…が…ぁ…」

 

 

 微かな呻き声。雪乃は首を巡らせた。そこには愛する隊長の姿があった。彼は立ってはいなかった。白目を剥き、口から泡を吹きながら崩れ落ちようとしていた。その首筋には小さな赤い羽根突き、注射器が深々と突き刺さっている。即効性の強力な麻酔弾。あるいは神経毒。

 

 

「た…隊長…!?」

 

 

 雪乃は叫ぼうとした。声が出ない。脳と爆弾を直結させていた反動で、身体が麻痺している。指一本動かせない。ただ見ていることしかできない。悪夢のようなスローモーション。崩れ落ちる隊長の体を、迷彩服の男たちが手際よく受け止める。

 

 男たちは無言のまま、隊長の手足を拘束した。そして、暗闇の奥から用意していた、黒い袋のようなものを引きずり出してくる。脱出ポッドだ。地下水路を使って、逃走するための小型カプセル。彼らは隊長をゴミ袋のように、その中に押し込もうとしている。

 

 

(いや…いやあああああ!!)

 

 

 雪乃の精神が絶叫する。動け。動け私の体。ケーブルを引きちぎってでも、助けに行け。だが体は鉛のように重く言うことを聞かない。ハッキングに全てのリソースを割いていた代償だ。彼女は今、ただの無力な傍観者でしかなかった。

 

 一人の男がこちらを振り返った。暗視ゴーグルの奥で冷酷な瞳が雪乃を一瞥する。彼は雪乃を殺そうとはしなかった。ただ「用はない」とばかりに無視し作業に戻る。それが何よりも屈辱的だった。お前など脅威ではないという、無言の侮蔑。眼の前で守るべき人を奪われる無力感。

 

 

「…ま…まっ…て…」

 

 

 喉から掠れた空気が漏れる。ポッドのハッチが閉められようとしている。その隙間から隊長の顔が見えた。虚ろな瞳。だらしなく開いた口。意識はないはずだ。だがその唇が微かに動いたように見えた。何かを呟いている。助けを求めているのか。それとも最期の言葉か。

 

 

(隊長…! ごめんなさい…! ごめんなさい…!)

 

 

 雪乃の目から涙が溢れ出した。

 

 

 バシュッ。

 

 

 無情な音が響き、ポッドの密閉が完了した。男たちはポッドを担ぎ上げ、地下水路のハッチへと向かっていく。

 

 

「いやあああああッ!!!」

 

 

 雪乃の絶叫が地下通路に虚しく木霊した。その声は誰にも届かない。男たちは一度も振り返ることなく、闇の中へと消えていった。残されたのは、爆弾の駆動音と雪乃の嗚咽だけ。ケーブルに繋がれたままの彼女は、糸の切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。

 

 モニターには、『MISSION COMPLETE』の文字が皮肉に輝いている。爆弾は止まった。東京は救われた。しかし、白石雪乃の世界は今この瞬間、完全に崩壊した。

 

 

 

 

 

 

【ヒーローの退場 - (橘圭一 視点)】

 

 

 チクリとした痛みが首筋に走った。蚊に刺されたような些細な痛み。それが全ての終わりの合図だった。橘圭一の視界が急速に歪んでいく。世界が液状化し、ドロドロに溶け出していく感覚。足元のコンクリートが消失し、重力が意味をなさなくなる。膝から力が抜け、体が崩れ落ちていくのが分かる。

 

 不思議と恐怖は無かった。本来ならパニックに陥り、「助けてくれ」と泣き叫ぶべき場面だ。しかし、彼の脳内に侵入した未知の薬物は恐怖中枢を麻痺させ、代わりに過剰なドーパミンとエンドルフィンを分泌させていた。

 

 

(おやおや…?)

 

 

 橘は自分の体が床に倒れ込むのをスローモーション映像のように客観的に認識していた。痛くはない。むしろ、ふわふわとして気持ちがいい。まるで雲の上に寝そべっているようだ。視界の端に誰かがいる。風景に溶け込んでいた透明人間たちが実体化していく。

 

 黒い服を着た男たち。彼らは手際よく、橘の体を持ち上げている。誘拐だ。拉致だ。普通なら絶望的な状況だ。

 

 だが、今の橘の思考回路は完全にバグっていた。極限のストレスと強力な麻酔薬が化学反応を起こし、彼の精神を守るために最強の防衛機制を発動させていたのだ。それは「現実逃避」という名の妄想の物語化。彼は今、自分を悲劇の主人公…余裕綽々のハードボイルドな英雄だと、錯覚していた。

 

 

(ふっ…やるじゃねえか…)

 

 

 橘は内心でニヤリと笑った。実際は白目を剥いて涎を垂らしているが。

 

 

(俺の隙を突くとは大した奴らだ。正面からでは勝ち目がないと悟り、卑怯な手段に出たか。悪党らしくて結構。そうでなくては、張り合いがないというものだ)

 

 

 男たちが橘を、黒いカプセルのようなものに押し込もうとしている。

 

 

(脱出ポッドか。なるほど地下水路を使って逃走する気だな。用意周到だ。褒めてやろう)

 

 

 遠くで、誰かの叫び声が聞こえた気がした。

 

 

(雪乃か。泣いているのか。泣くなよ。俺はちょっと出かけてくるだけだ。悪の親玉直々のご招待だ。断るなんて野暮なことはしないさ。俺は選ばれたのだ。この物語のヒロインとして。囚われの姫君として)

(安心しろ…すぐに戻る…)

 

 

 思考がとろけていく。意識の輪郭が曖昧になっていく。最後に、一言だけ言っておかなければならない気がした。去り際は美しく。それが英雄の条件だ。これから連れ去られる自分にかけるべき最高にクールな捨て台詞。映画のラストシーンのように。橘は麻痺した唇を必死に動かした。喉の奥から空気を絞り出す。

 

 

「ふっ」

 

 

 掠れた声が漏れる。

 

 

「誘拐されちゃったぜ☆」

 

 

 語尾に星が飛ぶような、ふざけたトーン。絶望的な状況には似つかわしくない軽薄で、そしてどこか楽しげな響き。それが橘圭一の意識が途切れる寸前に、残した最後の言葉だった。ポッドのハッチが閉まる。視界が暗闇に閉ざされる。プシューという密閉音と共に、外界の音が遮断された。揺れる感覚。水流に乗って運ばれていく浮遊感。

 

 橘は深い眠りの底へと落ちていった。彼を乗せたポッドは東京の地下を流れる暗い水脈を漂い悪党たちが待つ真の地獄へと流れていく。だが、今の彼は幸せだった。彼の中で彼は世界一かっこいい人質として、華麗に退場したつもりなのだから。

 

 目覚めた時に待っているのが、地獄の尋問と猛獣たちの追撃であることなど知る由もなく、彼は安らかな寝息を立て始めた。




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