俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
囚われのクズ姫 - (橘圭一 視点)
意識の底から浮上する感覚。それは、泥沼からゆっくりと引き上げられるような、重苦しいものだった。頭蓋骨の内側で、ガンガンと鐘が鳴り響いているような鈍痛。
橘圭一は重い瞼をこじ開けた。視界がぼやけている。白い霧がかかったような世界が徐々に焦点を結び始める。そこは薄暗くカビ臭いコンクリートの部屋だった。天井からは裸電球が一つだけぶら下がり頼りない光を投げかけている。
自分の体を確認しようとして橘は気づいた。動けない。手足が太いロープで堅い椅子に縛り付けられている。冷たい感触が手首と足首に食い込んでいる。
拘束。
監禁。
通常であればパニックに陥り悲鳴を上げるべき状況だ。今の橘の脳内は、正常な信号を発していなかった。体内に残留した強力な麻酔薬と現実逃避のために、分泌された脳内麻薬が化学反応を起こし、彼の精神をふわふわとした多幸感で包み込んでいたからだ。
(ここは…敵のアジトか…)
橘は、ぼんやりとした頭で分析した。目の前には二人の男が立っている。一人は、イタリア製の高級スーツを隙なく着こなした彫りの深い男。マルコ・ベラルディ。その顔には、勝ち誇ったような嗜虐的な笑みが張り付いている。
もう一人は、異様な風体の男だ。顔立ちは強面だが、その頭部は物理法則を無視した、巨大な球体状のアフロヘアになっていた。かつて倉庫街で陽菜に敗北し、米俵として出荷されたマフィアのボスだ。彼もまたニタニタと卑屈な笑みを浮かべて、こちらを見下ろしている。
本来なら絶望すべき光景だが、橘のバグった思考回路は、この状況を映画のワンシーンのように処理していた。
選ばれし者。
悲劇のヒーロー。
悪の組織に捕らえられた美しき人質。
(今の俺は最高にクールな状況にいる。この張り詰めた空気。俺に向けられた殺意。すべてが俺という存在の重要性を物語っているではないか?)
橘は麻痺した唇を歪め、ニヒルな笑みを作った。そして、喉の奥から掠れた声を絞り出した。
「ふっ、誘拐されちゃったぜ☆」
語尾に星が飛ぶような、ふざけたトーン。絶体絶命の危機には似つかわしくない、軽薄で余裕綽々な響き。それが目覚めたばかりの橘が発した、第一声だった。
室内の空気が凍りついたのが分かった。マルコとボスが顔を見合わせている。彼らの困惑が手に取るように分かる。「薬が効きすぎたか」「恐怖で頭がおかしくなったか」と疑っているのだろう。フフフ。狼狽えるがいい。俺の底知れぬ胆力に戦慄するがいい。橘は自分がかっこよく決めたつもりで、そのまま意識を飛ばしかけた。
バシャッ!!
冷たい衝撃が顔面を襲った。氷水だ。バケツ一杯の氷水を頭から浴びせられたのだ。その強烈な冷たさと物理的な衝撃が、橘の脳内を駆け巡っていた麻薬成分を一瞬で洗い流した。白い霧が晴れる。多幸感が消え去る。代わりにやってきたのは、鮮明すぎる現実の解像度と激しい頭痛だった。
「…あ…?」
橘は瞬きをし、水滴の滴る前髪越しに世界を見た。コンクリートの壁。縛られた手足。目の前に立つ、殺意に満ちた男たち。そして、何より重要な事実。ここには誰もいない。最強の盾であり矛である、あの三人の姿がどこにもない。
(は…?)
思考が停止する。いない。雪乃がいない。麗奈がいない。陽菜がいない。いつもなら鬱陶しいほどに周囲を固めている、あのストーカーたちが影も形もない。つまり自分一人だ。無防備な肉の塊として、悪意の前に晒されている。
(なんでだ…? なんで俺がこんな目に…?)
恐怖がこみ上げてくるが、それ以上に激しい感情が橘の胸の内に渦巻いた。それは怒りだ。理不尽な状況に対する怒りではない。自分の期待を裏切った部下たちへの、身勝手な逆恨みだ。
(雪乃は何してたんだ! ずっと俺の背中にいただろうが! ハッキングに夢中で俺が連れ去られるのに気づかなかったのか! 役立たず!)
(麗奈と陽菜はどこほっつき歩いてんだ! 「愛の弾丸」だの「鉄拳制裁」だの、かっこいいことを言っておきながら肝心な時に俺を守れないでどうする! 職務怠慢だ! 減給だ! いや懲戒だ!)
俺を守るのがお前らの仕事だろう。そのために日頃のセクハラまがいのスキンシップにも耐え、重すぎる愛にも胃薬で対抗してきたのだ。それなのに! この体たらくは何だ。俺は商品だぞ。お前らが命懸けで守るべき、貴重な姫だろうが。それをみすみす誘拐されるとは何事だ。
恐怖が怒りへ、そして責任転嫁の激怒へと変換される。橘は震える体で身をよじり、虚空に向かって吠えた。
「つっかえねえな! あいつら! 誘拐されねえようにしろよな!!」
それは誘拐犯に対してではなく、ここにいない部下たちへの罵倒だった。あまりに理不尽で情けない叫び。
だが、目の前の敵たちはそれを別の意味で解釈した。マルコが憐れみの目を向けてくる。部下に見捨てられた哀れな指揮官。信頼していた者たちに裏切られた男の絶望。そう受け取ったのだ。
「ククク…嘆かわしいな橘圭一。あれほど優秀だと噂された部下たちも、所詮はメッキが剥がれればこのザマか。お前を見捨てて逃げたのだろう」
マルコが嘲笑う。ボスもニタニタと下卑た笑い声を上げる。
「安心しろ。すぐに彼女たちもここへ来る。お前の死体を見にな。いや、その前にたっぷりと見せてやろう。お前が苦痛に歪む無様な姿をな」
マルコが残酷な計画を語り始めた。橘を人質に取り、おびき寄せた三人娘を罠に嵌める。そして橘の目の前で彼女たちをいたぶり凌辱し、精神を破壊する。最後に絶望した橘を始末する。
完璧で悪趣味な復讐劇。マルコは恍惚とした表情で、その詳細を語って聞かせた。普通なら恐怖で失禁する場面だが、橘の脳内ではその言葉がある一点で引っかかり爆発的な化学反応を起こした。
(待てよ…?)
橘の思考が急停止する。マルコの言葉が脳内で反響する。「彼女たちをおびき寄せる」。つまり今この瞬間、ここには彼女たちはいない。ここは敵のアジトだ。特四の管轄外だ。つまり…?
(監視の目がない)
橘は目を見開いた。そうだ。雪乃のハッキングも、ここでは通じないかもしれない。麗奈のスコープも、この厚い壁の向こうまでは届かない。陽菜の抱擁も、ここには届かない。いつも背中に感じていた視線がない。肌を刺すような重い愛がない。胃をキリキリと締め上げるプレッシャーがない。
(あれ…?)
橘の心臓がドクンと大きく跳ねた。これは恐怖の動悸ではない。解放感だ。かつて感じたことのないほどの、圧倒的な軽やかさが魂を満たしていく。ここは地獄ではない。楽園だ。殺されるかもしれない。拷問されるかもしれない。
だがここには、あのヤンデレどもの狂気じみた愛情表現が存在しない。
誰も俺のスマホを覗き見ない。
誰も俺の残り香を嗅いだりしない。
誰も俺のために自爆しようとしない。
ただ純粋な悪意だけがある。なんとシンプルで清々しい世界だろう。橘の唇がわなないた。震える声で彼は真理に到達した。
「ハッ!? 離ればなれ…最高か?」
その言葉は歓喜の独白だった。拘束された手足の痛みなどどうでもいい。死の恐怖すら霞んで見える。それほどまでに彼は、部下たちの愛に疲弊していたのだ。
自由。真の自由がここにある。たとえ数時間の命だとしても、誰にも干渉されず誰にも愛されない時間。それは橘にとって、何物にも代えがたいバカンスだった。
橘の顔がニヤけ始める。頬が緩み口角が上がる。状況にそぐわない薄気味悪い笑顔が張り付く。その異様な変化に気づいたボスが、不快そうに眉を寄せた。
「ああん? 何ニヤニヤしてやがる。頭がおかしくなったか?」
ボスがドカドカと歩み寄り、粗末なリボルバーを抜いた。冷たい銃口が橘のこめかみに突きつけられる。ゴリッという金属の感触。鉄の匂い。
「遺言ぐらい言ったらどうだ! それとも、恐怖で笑うしかできなくなったか!」
ボスの怒鳴り声。そして突きつけられた死の感触。それが橘を強引に現実へと引き戻した。楽園の幻影が霧散し、死の恐怖が舞い戻ってくる。
(ひッ…!)
橘は息を呑んだ。自由は最高だ。けど、死ぬのは嫌だ。撤回する。前言撤回だ。死にたくない。まだ死にたくない。せっかく手に入れた地位も金も使わずに死ぬなんて、ありえない。
(誰か助けて! 俺の代わりに死んでくれる盾が欲しい!)
橘の生存本能が暴走する。彼は必死で周囲を見回した。どこかに盾はないか。身代わりになれそうなものはないか。あるのはコンクリートの壁と粗末な机、そして自分が座らされている椅子だけだ。
人間の盾になるような便利な部下は、ここにはいない。一人だ。自分は一人で、この銃口と向き合わなければならないのだ。橘の目が泳ぐ。キョロキョロと挙動不審に視線を走らせる。脂汗が額から噴き出し、呼吸が荒くなる。
(漏れる漏れる漏れる! 盾! 盾どこ!? トイレどこ!?)
内心はパニックの極致にあったが、その姿は敵の目には全く別の意味を持って映っていた。
マルコは目を細めた。銃口を突きつけられてもなお笑みを浮かべ(実際は引きつっているだけ)、鋭い視線で周囲を観察している(盾を探しているだけ)。その姿は死を前にしても動じることなく、脱出の機会を窺う歴戦の勇士そのものだった。
(…この状況でまだ生き延びる算段を立てているのか? なんという精神力…)
マルコは戦慄した。ただの腰抜けだと思っていた。女の尻に敷かれた情けない男だと思っていた。だが違う。この男の眼光は死を受け入れていない。最後まで抗おうとする野獣の目だ。これが『英雄』の資格か。数々の修羅場をくぐり抜けてきた男だけが持つ胆力か。
ボスもまた、橘の異様な迫力に気圧され、トリガーを引く指を躊躇わせていた。撃てば殺せる。だが、殺した瞬間に何かが起こるような不吉な予感が、彼の手を止めていた。
室内に奇妙な膠着状態が生まれた。橘の内心の絶叫と敵の勝手な深読みが拮抗し、張り詰めた糸のような緊張感を作り出している。
橘は限界だった。もう無理だ。これ以上カッコつける余裕はない。膀胱が決壊する寸前だ。プライドなどどうでもいい。命乞いをしよう。靴を舐めよう。なんでもするからトイレに行かせてくれと懇願しよう。
「お、お話しよう! 平和的に!」
橘が情けない声を張り上げたその瞬間だった。
ズズズズズ…。
地鳴りのような音が響いた。地震ではない。もっと局所的で指向性を持った振動。部屋の外分厚いコンクリートの壁の向こうから何かが近づいてくる気配。そして微かに聞こえる複数の人間の悲鳴。
「ぎゃあああ!」「化け物だ!」「止まらない! 撃っても止まらないぞ!」
断末魔の叫びが急速に近づいてくる。橘の顔色が蒼白になった。直感が告げている。それは彼がよく知る音だ。世界で最も恐ろしく、最も頼りになる「災害」の足音だ。自由時間の終わりを告げる鐘の音だ。
(あぁ…終わった…)
橘は悟った。短い自由が終わった。せっかくの「離ればなれ」という至福の時間は、終わりを告げたのだ。死神たちが迎えに来た。地獄の底まで追いかけてくる、ストーカーたちが到着したのだ。
壁がミシミシと悲鳴を上げる。亀裂が走り粉塵が舞う。その向こうから、強烈な殺気と愛の波動が押し寄せてくる。マルコとボスが驚愕の表情で入り口を振り返る。
橘だけは、虚ろな目で天井を見上げていた。
(さようなら俺の安息。こんにちは俺の胃痛)
橘は心の中で乾いた笑いを漏らした。助けに来てくれたことへの感謝よりも、日常という名の地獄へ引き戻される絶望の方が大きかった。壁が崩壊する直前橘は静かに目を閉じた。次に目を開けた時、そこには間違いなく惨劇と抱擁と骨折が待っているだろう。
ご愛読ありがとうございます。作者の精神不安定で打ち切り感ある中、果たして当作は完結なるか…「完結させてみせます」と公言した以上、有言実行してみせますが…ジカイモオタノシミニ。