俺以外の奴が死ぬのはどうでもいいが、俺が死ぬのは絶対に嫌だ 作:最高司祭アドミニストレータ
なんであんなバカなことしたんだ、私。
アジトの最深部。冷たいコンクリートに囲まれた監禁部屋は、絶対的な静寂に包まれていたはずだった。その静寂は轟音と共に、物理的に粉砕された。
ドォォォォン!!
鼓膜をつんざくような爆発音が響き渡り、部屋全体が激しく振動する。それは爆弾によるものではない。もっと原始的で暴力的な衝撃だ。部屋を封鎖していた分厚い鋼鉄製の扉が、まるでアルミホイルのように内側へとひしゃげた。蝶番が悲鳴を上げて弾け飛び、巨大な鉄の塊が紙切れのように宙を舞う。
もうもうと立ち込める粉塵。
舞い上がるコンクリート片。
その光景を見た瞬間、アフロヘアーのボスの顔色が土気色に変わった。彼の脳裏に、忌まわしい記憶がフラッシュバックする。あの日の湾岸倉庫。壁を素手で引き裂き、笑顔で迫ってきたあの悪夢。
人間重機。
破壊神。
米俵職人。
(き…来やがった! あいつだ! あの女だ!)
ボスは腰を抜かしそうになるのを、必死で堪えた。膝が笑っている。アフロヘアーが恐怖で微かに震えている。終わりだ。この扉は戦車の砲撃にも耐えうる、特注品だったはずだ。それを素手で。一撃で。やはり、あいつらは人間ではない。人間の皮を被った災害だ。
その隣で、マルコ・ベラルディは銃を構えた。その額には、脂汗が滲んでいる。彼はイタリア製の高級スーツが汚れるのを厭わず、瓦礫の散乱する床を踏みしめた。彼のプライドが逃亡を許さない。何より、彼には切り札がある。
(ふん。ついに来たか。化け物どもめ。だが遅い。遅すぎる)
マルコは人質である橘圭一の背後に回り込み、銃口をその頭に向けた。これが最強の盾だ。あの女たちがいくら強くても、主君であるこの男の命を危険に晒すような真似は、できないはずだ。交渉の余地はある。主導権はこちらにある。
粉塵が晴れていく。その向こうから、ゆらりと三つの影が姿を現した。それは死神の行進だった。三者三様の殺意が渦を巻き、一つの巨大な嵐となって部屋の中に吹き荒れる。彼女たちの目は、既に人間を見ていない。「障害物」か「ゴミ」か「肉塊」としてしか、認識していない目だ。
(ひぃッ! 目が合った! 俺のこと覚えてやがる! 「また米俵にしてやる」って顔だ!)
ボスは悲鳴を上げそうになった、その時だった。予想だにしない事態が起きた。本来なら「助かった」「ありがとう」と、安堵の声を上げるはずの人質。椅子に縛り付けられた橘圭一が、ガタガタと震え出したのだ。それは、マルコの銃口に対する恐怖ではない。入り口に立つ三人の部下に対する、純粋な恐怖に見えた。
橘は必死の形相で首を捻り、背後のマルコとボスの方を振り返った。その目は涙で潤み、顔面は蒼白だ。そして、彼は裂けんばかりの大声で絶叫した。
「やってしまえてめーら!! 異常者どもを殲滅しろ!! 撃て!! 殺せ!! 俺を守れぇぇぇ!!」
(……は?)
時が止まった。マルコは引き金にかけていた指を止めた。ボスは口を半開きにして固まった。今この男は何と言った。
殲滅しろ?
誰を?
誰に向かって言った?
我々に言っているのか?
誘拐犯である我々に向かって「部下を殺してくれ」と懇願したのか?
思考が追いつかない。あまりにも斜め上すぎる展開に、悪党二人の脳内処理がエラーを起こす。沈黙の後、ボスが我に返り、激しいツッコミを入れた。
「おい待てコラ! テメェの部下だろうが! なんで俺たちに応援要請してんだよ! 敵味方の区別もつかなくなったか! 俺たちは誘拐犯で、テメェは人質だぞ! 配役間違えてんじゃねえぞ!」
正論だ。あまりにも正論すぎるボスの叫び。だが、橘は聞く耳を持たない。彼はパニックに陥った小動物のように、喚き散らしている。
「うるさい! どっちでもいいからあいつらを止めろ!」
(…錯乱したか?)
マルコは眉をひそめた。極限の恐怖で精神が崩壊したのか。いや違う。この男の目は本気だ。本気で目の前の救助者たちを恐れている。
どういうことだ。この男は部下を完璧に統率する、『猛獣使い』ではなかったのか。数々の修羅場をくぐり抜けてきた、伝説の指揮官ではなかったのか。なぜ自分の手足を、これほどまでに拒絶する。
侵入者たちは止まらない。彼女たちは橘の暴言など聞こえていないかのように、一歩一歩近づいてくる。その足取りは重く、確実で死の宣告そのものだ。彼女たちの視界には、橘以外の人間は映っていない。マルコもボスもただの背景であり、排除すべき障害物でしかない。
迫り来る部下たちの圧。それに耐えきれなくなった橘は、瞬時に態度を翻した。彼はビシッと指を伸ばし、マルコたちを指差すと、被害者面で叫び始めたのだ。
「ち、違うんだ! これは…そう! 脅されて仕方なく! こいつらが『言え』って、銃を突きつけてきたんだ! 俺は言いたくなかったのに! 無理やり言わされたんだ!」
(……)
マルコとボスの心の中で、何かが切れた。プツンという音が、聞こえた気がした。それは理性ではなく、我慢の限界を超える音だった。
「嘘つけェェェ!!」
ボスが吼えた。額の血管が切れそうだ。
「誰も何も言ってねえよ! 一言も脅してねえよ! テメェが勝手に叫んだんだろうが! この保身クソ野郎が! 自分の発言の責任くらい、自分で取りやがれ! 仁義もねえのか!」
誘拐犯に仁義を説かれる人質。前代未聞の構図だ。ボスの怒りはもっともだった。自分たちは悪党だが、悪党にもプライドがある。やったことはやったと言うし、やっていないことはやっていないと言う。卑劣なこともしるが嘘で責任を逃れようとするような真似はしない。
この男には美学がない。矜持がない。ただ生き残るためだけに息をするように嘘をつき、平然と部下を売り渡す。マルコは橘を見下ろした。その瞳に宿っていたのは、殺意ではない。底知れぬ侮蔑だった。深い深い幻滅だった。
(…私は…こんな男に敗れたのか?)
マルコの手が震えた。黒澤麗奈という極上の女を従え、警察組織を操る天才指揮官。そう思っていた。だからこそライバルとして認め、全力で潰そうとしたのだ。
しかし、蓋を開けてみればどうだ。中身は空っぽだ。いや、空っぽの方がまだマシだ。ここにあるのは、腐敗した生ゴミのような精神性だ。こんな息をするように嘘をつき保身のためなら、敵にすら媚びる卑劣な小悪党に。自分は出し抜かれ、煮え湯を飲まされ、屈辱を味わわされたというのか。
(許せん…)
マルコの怒りの質が変わった。それは、自分自身のプライドを守るための怒り。自分の美学を汚されたことへの怒りだ。こんな男に価値などない。人質としての価値も、交渉材料としての価値もない。ただそこに存在するだけで、周囲の空気を汚染する害悪だ。
「黙れ下衆が!」
マルコは叫んだ。優雅な仮面が剥がれ落ち、素の感情が露わになる。
「貴様には人質としての価値すらない! その汚い口を閉ざしてやる!」
マルコは橘に手を伸ばした。殺すためではない。あまりにも情けないその口を、物理的に塞ぐためだ。近くにあったガムテープを鷲掴みにし、橘の顔面に貼り付けようとする。橘が「ひぃぃ!」と情けない声を上げる。
その瞬間だった。部屋の空気が変わった。それまでの重苦しい殺気が鋭利な刃物のような、切断力を持った殺意へと変貌したのだ。侵入者たちのターゲットが明確に切り替わった。それまでは「橘を拘束している物体(椅子やロープ)」に向けられていた敵意が、「橘に触れようとした不敬者(マルコたち)」へとロックオンされたのだ。
「ひぃッ! マズイ!」
ボスの野生の勘が警報を鳴らした。アフロヘアーが総毛立つ。
「あの女たちのスイッチが入った! 今度は『殺す』目だ! ガチのやつだ!」
陽菜の拳が握りしめられる音がした。麗奈の銃口が、マルコの眉間に吸い付くように固定されるのが見えた。雪乃がスマホを操作する指を止めた。
交渉の時間は終わった。いや、最初からそんなものはなかったのだ。人質がクズすぎて、交渉の余地がないことを悟った時、悪党たちに残された道は一つしかなかった。
(ええい、ままよ!)
マルコは橘への怒りを飲み込み、目の前の化物たちに向き直った。もうどうにでもなれ。このクズ男ごと貴様らを地獄に送ってやる。プライドも美学も関係ない。この不愉快な現実を全て吹き飛ばしたいという衝動だけが、彼を突き動かしていた。
「やれ! 撃て! 全員殺せ!」
マルコの号令が響く。ボスも破れかぶれで銃を構える。だが、彼らは知っていた。自分たちがこれから挑む戦いが、勝算のない自殺行為であることを。そしてその原因を作ったのが、背後でガタガタ震えている一人の男であることを。
悪党たちの最期の抵抗。そして、一方的な虐殺の幕が今切って落とされた。橘圭一の「やってしまえー!!!」という応援は、誰の耳にも届くことなく銃声と怒号の中にかき消されていった。
速報! 本作は今月中に完結します!