ギャンブル中毒者が挑む現代ダンジョン配信物   作:パラレル・ゲーマー

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第374話

 その日、中国、湖南省の奥深く。張家界の、天を突くかのような石柱が雲海に浮かぶ、水墨画の世界。その、人の踏み入ることのない秘境の、さらに奥。俗世から完全に隔絶された場所に、その道場はあった。

 名を、「龍心門」という。

 ダンジョンが出現し、世界が魔素とレベルという新たな理に染まってから10年。その激動の時代にあって、この場所だけが、まるで時間の流れから取り残されたかのように、古の静寂を保ち続けていた。

 門下生は、わずか三十名。彼らは、現代の探索者たちが鼻で笑うような、あまりにも古風で、そしてどこまでも非効率的な教えを、今もなお頑なに守り続けていた。

「真の強さとは、己の肉体と魂を鍛え上げることでしか得られない」

 スキルや、アイテムといった外的な力に頼ることを、彼らは「邪道」として、固く禁じていた。彼らの信じる道は、ただ一つ。千の突き、万の蹴り。その、果てしない反復の先にある、肉体の極致。それこそが、天地の理と合一するための、唯一の道だと。

 

 その、あまりにも時代錯誤な、しかしどこまでも純粋な求道者たちの集団。

 その中に、彼女はいた。

 龍 小鈴(ロン・シャオリン)。14歳。

 龍心門の宗家の娘として、この世に生を受けた少女。

 彼女の日常は、祈りと、鍛錬だけで構成されていた。

 夜明け前の、まだ冷たい霧が立ち込める中庭で、一人、呼吸法(ナーフ)の訓練を行う。太陽が昇れば、滝に打たれ、その身を清める。そして、日が暮れるまで、兄弟子たちと共に、汗と土にまみれながら、拳法の型を、ただひたすらに、繰り返す。

 彼女は、外の世界を知らなかった。

 ダンジョンも、探索者も、そしてJOKERという名の伝説も。

 彼女にとっての世界とは、この霧深い山々と、そして師であり父である老師の、厳しくも優しい眼差しだけだった。

 

 その、あまりにも静かで、そしてどこまでも完成された彼女の世界。

 それが、一つの、あまりにも唐突な「奇跡」によって、その最初の亀裂を見せることになる。

 彼女が13歳の誕生日を迎えた、夏の日のことだった。

 その日、道場では、年に一度の昇段試験が行われていた。

 小鈴の、最後の相手。

 それは、門下生の中でも最強と謳われる、師範代の張(チャン)だった。

 その、熊のような巨躯から繰り出される拳は、岩をも砕くと言われていた。

 

「――始め!」

 

 老師の、その厳かな号令と共に。

 二人の影が、激しくぶつかり合った。

 小鈴は、まるで舞を舞うかのように、しなやかに、そして美しく、その圧倒的なまでの暴力の嵐を、いなし続ける。

 だが、その実力差は、誰の目にも明らかだった。

 数分後。

 ついに、張の、その渾身の一撃が、彼女の、そのがら空きになった胸の中心を、捉えた。

 それは、岩をも砕く、必殺の一撃。

 誰もが、その小さな少女の、あまりにもあっけない敗北を、確信した。

 老師ですら、思わずその目を、固く閉じた。

 だが。

 

 ゴッッッッ!!!!!!!

 

 凄まじい、破壊音。

 だが、それは少女の骨が砕ける音ではなかった。

 師範代、張の、その鋼鉄のようだったはずの拳が、ありえない方向に折れ曲がり、そしてその巨体が、まるで紙切れのように、後方へと吹き飛ばされていたのだ。

 後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその中心で、何が起こったのか分からず、ただきょとんと、その大きな瞳をぱちくりさせている、一人の少女の姿だけだった。

 彼女の、その華奢な体の、その表面が、一瞬だけ、淡い、しかし絶対的な黄金の光を放っていたのを。

 その場にいた、誰もが見ていた。

 

 その日、龍 小鈴の、本当の人生が始まった。

 彼女の魂に宿っていた、S級のユニークスキル。

金鐘罩(きんしょうとう)鉄布衫(てっぷさん)】。

 その、あまりにも規格外な才能が、覚醒した瞬間だった。

 

 その噂は、どれほど深く山中に隠れようとも、風のように、そして霧のように、瞬く間に中国全土を駆け巡った。

 そして、その報は、北京の、あの龍の巣へと、届けられた。

 ギルド【青龍】。

 その、あまりにも巨大な情報網が、この国の、まだ誰も知らない、最高の「宝」の存在を、嗅ぎつけたのだ。

 

 

 数日後。

 龍心門の、その静寂な山門の前に、一台の、あまりにも場違いな黒塗りの高級車が、音もなくその姿を現した。

 中から現れたのは、一人の、中年の男だった。

 その身を包んでいるのは、道着ではない。寸分の隙もなく着こなされた、最高級のシルクのスーツ。その顔は、穏やかな笑みを浮かべている。だが、その瞳の奥には、戦場の全てをチェス盤のように俯瞰し、数手先までを読み切る、老練な軍師の魂が宿っていた。

 彼こそが、ギルド【青龍】の、最高戦略顧問にして、この国のダンジョン戦略そのものをデザインしている男、李(リー)将軍だった。

 

「――お初に、お目にかかります。龍心門、老師殿」

 李将軍は、道場の、その古びた、しかしどこまでも清められた板の間で、小鈴の父である老師と、静かに対峙していた。

「単刀直入に、申し上げよう。お嬢さんを、我々に預けてはいただけないだろうか」

 その、あまりにも直接的な、そしてどこまでも不遜な申し出。

 それに、老師は、その深い皺の刻まれた顔を、静かに歪ませた。

 

「…お引き取り願おう、将軍殿」

 老師の声は、静かだった。だが、その奥には、揺るぎない拒絶の意志が宿っていた。

「我らは、武の道を歩む者。スキルや、アイテムといった、外法に頼る、お主らのような『邪道』とは、相容れぬ」

「それに、あの子の力は、まだあまりにも未熟。外の世界の、その濁流に飲まれるには、まだ早すぎる」

 その、あまりにも頑なな、そしてどこまでも親心に満ちた、拒絶の言葉。

 だが、李将軍は動じない。

 彼は、その言葉を、予期していた。

 そして彼は、この老いた龍を、その巣から引きずり出すための、唯一の「言葉」を、その懐に忍ばせていた。

 

「――老師。お孫様の、その力。それを、ただの個人の武術の粋として、この小さな道場で眠らせておくこと。それこそが、天の意思に背くことになるとは、お考えになりませんか?」

 李将軍の、その静かな声が、道場の空気を震わせた。

「その力は、彼女自身のものではない。この国を、いや、この世界を守るために、天が、彼女に与えた**『天命』**なのです」

「その天命を、この小さな山の中で、ただ錆びつかせてしまうこと。それこそが、最大の『邪道』では、ございませんか?」

 

 その、あまりにも的確な、そしてどこまでも核心を突いた、問いかけ。

 それに、老師は、ぐっと言葉に詰まった。

 その、彼の心の揺らぎ。

 それを見逃すほど、李将軍は甘くはなかった。

 彼は、その最後の、そして究極の切り札を、そのテーブルへと叩きつけた。

 彼は、その手元のAR端末を操作し、一枚の、あまりにも衝撃的な映像を、その場の空間へと投影した。

 それは、JOKERの、あの伝説の配信。

 スマイト徒手空拳ビルドで、デルヴ鉱山を蹂躙する、あの狂乱の記録だった。

 

「…なんだ、これは…」

 老師の、その驚愕の声。

「素手…?いや、違う。あれは、我々の知る、どの拳法とも違う…。あれは、もはや…」

「ええ」

 李将軍は、頷いた。

「あれこそが、この新しい時代の、『武』の形です」

「そして、老師。この映像の中に、あなたのお孫様の、本当の『天命』が、隠されているのです」

 

 その、あまりにも意味深な、そしてどこまでも甘美な、誘いの言葉。

 それに、老師は、そしてその襖の影で、息を殺してその全てを聞いていた小鈴自身もまた、その心を、大きく、そして確かに、揺さぶられていた。

 数日後。

 龍 小鈴は、その父と、師と、そして生まれ故郷の、その静かな山々に、深々と頭を下げた。

 そして彼女は、その小さな、しかしこの国の未来そのものを背負った背中に、一つの巨大な覚悟を宿して、その山門を、くぐった。

 彼女の、本当の物語が、今、始まった。

 

 

 ギルド【青龍】、その北京本部の、最高機密施設。

 通称、「育成院」。

 そこに、龍 小鈴はいた。

 彼女は、その生まれて初めて見る、あまりにも巨大で、そしてどこまでも無機質な、世界の光景に、ただ圧倒されていた。

 ホログラムのモニター、宙を飛び交うドローン、そして、自分と同じくらいの歳の、しかしその瞳に確かな野心を宿した、無数のエリート候補生たち。

 彼女は、そこで、この世界の、本当の「広さ」と、そして自らの「無知」を、痛感した。

 彼女は、貪欲に、学んだ。

 ダンジョンの、基礎知識。

 世界の、トップランカーたちの、戦闘ログ。

 そして、ビルド構築という、あまりにも複雑で、そしてどこまでも美しい、新たな「武」の形を。

 

 そして、その日。

 彼女は、育成院の、最も奥深く。

 李将軍と、そして【青龍】の、全ての頭脳が集う、最高戦略会議室へと、呼び出された。

 円卓の中央には、JOKERの、あのスマイト徒手空拳ビルドの、完璧なシミュレーションデータが、立体的なホログラムとして、映し出されていた。

 

「――見ての通りだ」

 李将軍が、その静かな声で、言った。

「このビルドは、理論上、最強の矛となりうる。だが、同時に、あまりにも脆い、ガラスの剣でもある。その防御力は、皆無に等しい。A級以上のテーブルでは、一撃のミスが、即、死に繋がるだろう」

 彼は、そこで一度言葉を切ると、その鋭い視線を、小鈴ただ一人へと、注いだ。

「だが、もし」

 彼の声に、熱がこもる。

「もし、この絶対的な矛に、お前の、あの絶対的な盾を、組み合わせることができたなら…?」

 

 それは、理論上、この世界に**「最強の探索者」**を誕生させることを意味していた。

 攻防一体。

 弱点のない、完璧な生命体。

 

「そのための、最後のピースが、これだ」

 李将軍が、その手元の、厳重に封印されたアタッシュケースを開ける。

 中から現れたのは、一つの、小さな、しかしこの世界のメタゲームそのものを、根底から覆す可能性を秘めた、スモールクラスタージュエル。

 先日、**彼らが200億円という莫大な資金を投じて落札した、**あの【持たざる者】だった。

 

「我々は、信じている」

 李将軍は、そのジュエルを、小鈴の、その小さな掌の上へと、そっと置いた。

「お前の、その絶対的な防御能力こそが、このあまりにもピーキーな攻撃的ジュエルを使いこなすための、唯一の鍵であると。それこそが、天がお前に与えた、天命なのだと」

 

 その、あまりにも重い、そしてどこまでも壮大な、運命の宣告。

 それに、龍 小鈴は、ただ静かに、その掌の上の、小さな宝石を、見つめていた。

 彼女は、感じていた。

 この、小さな宝石の、その奥底から響いてくる、もう一つの、巨大な魂の、その鼓動を。

 それは、彼女と同じ「素手」でありながら、全く違う道を歩む、遠い国の、一人の道化師の、魂の響きだったのかもしれない。

 彼女は、ゆっくりと、その顔を上げた。

 その瞳には、もはや戸惑いの色はない。

 ただ、自らの運命を、そしてこの世界の未来を、その小さな両肩で背負うという、絶対的な覚悟の光だけが宿っていた。

 

「――お受け、いたします」

 

 その、あまりにも静かな、しかしどこまでも力強い、一言。

 それが、この世界の、新たな伝説の始まりを告げる、産声となった。

 JOKER、アリスに続く、第三の「持たざる者」。

 その誕生は、世界の勢力図を、再び、そして決定的に塗り替える、静かな、しかし確実な号砲となるのでした。

 彼女の、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。

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