泉鏡花は前世の記憶を持っている。彼女はかつて横浜に存在するポートマフィアの一員だった。
孤児だった鏡花はその強力な異能を見込まれて、ポートマフィアに拾われたのだ。
泉鏡花の異能は(夜叉白雪)。
異能生命体の召喚。夜叉白雪は仕込み杖を使った異形。その異能の恐ろしいところは殺戮に特化しているところだ。目に止まらぬ速さで敵の首を跳ねる。その異能にて彼女は三十五人もの命を奪っていた。
しかし、鏡花の異能にはとある欠点を持っていた。それは夜叉白雪は携帯の声でしか従わない。故に鏡花は自分の意思で夜叉白雪を操れないのだ。自分の意思すら関係なく人を殺める毎日。
「もう、誰一人殺したくない」
鏡花は日々、苦しんでいた。とある少年に出会うまでは……。
広い和室にて、着物姿の少女が幼い少年に頭を垂れていた。
少年はなぜ少女がそんなことをしているのか分からず、不思議そうに見つめていた。
やがて、少女は柳の枝のように下げていた頭をゆっくりと上げ、機械のような無感情な声で告げる。
「初めまして、坊ちゃま。
私は長田鏡花。あなたの世話役および護衛として仕えることになりました。どうぞ、お好きにお使いください」
そう言うと、再び畳に額をつけて深々と頭を下げた。
二人の間に、しばし沈黙が流れる。
少年は自分より少し年上に見える鏡花をじっと見つめてから、ふわりと笑顔を浮かべ、口を開いた。
「頭を上げて」
鏡花は、その言葉に素直に従い、ゆっくりと顔を上げた。
少年は彼女の目線に合わせるようにしゃがみ込み、にこにこと微笑む。
その優しげな顔とは対照的に、鏡花の表情は終始無表情のままだ。じっと、射抜くような視線で少年を見つめている。
普通の子どもならば、きっとその視線に怯えたかもしれない。
しかし少年は、怖がることもなく、変わらぬ笑顔で言った。
「僕、時弥。よろしくね、鏡花ちゃん」
その瞬間、鏡花の胸の奥に、懐かしい記憶がよぎる。
――自分を暗い闇から救ってくれた、あの少年。
中島敦と呼ばれた優しい人。
髪の色も、顔立ちも、瞳の色も違う。
けれど、その笑顔だけはまるで同じだった。
まるで寄り添うような、そっと包み込むような笑顔。
今もなお、闇の中にいる鏡花にとって――
時弥の笑顔は、焼けるほど眩しく、温かかった。
その様子を二人の少女達は見守っていた。十代前半にもなる少女の一人が口を開いた。
「ほら、大丈夫じゃないですか。沙代お嬢様」
「本当に大丈夫かしら?灯花。鏡花ちゃん、無理してないといいのだけど……」
沙代お嬢様と呼ばれた少女は、頬に手を当てて「はあ……」とため息をついた。
その様子を見ていた灯花は、鏡花と時弥の様子を見ながら、柔らかく言い聞かせるように沙代に語りかける。
「大丈夫ですよ、お嬢様。鏡花も時弥様も、きっと上手くやっていけます」
しかし、それでも沙代の胸に残るのは、不安だった。
無邪気な甥が、鏡花を困らせてしまわないか――それが気がかりだったのだ。
一方で、鏡花の姉である灯花はどこまでも楽観的だった。
「鏡花は手先も器用だし、時弥くんも優しいし。むしろ、あの二人って、けっこうお似合いだと思うのよね」
などと、口には出さずとも内心で頷いていた。
優しさと静けさを持つ二人なら、きっと気も合うだろう。
困ったことなど起こるはずもない――そんなふうに、灯花は信じていた。
心配性な時弥の叔母・沙代。
能天気でおおらかな鏡花の姉・灯花。
二人の年上の少女たちは、これからも静かに、けれど確かに、鏡花と時弥の行く末を見守っていた。
「では、おやすみなさいませ、時弥坊ちゃま」
「うん、おやすみ。鏡花ちゃん」
鏡花は静かに頭を下げると、障子をすべて閉じた。
きぃ……と鳴る木戸の音。
障子の向こうから、時弥の優しい寝息が聞こえるまで、しばらくじっと耳を澄ませていた。
その音を確かめるように受け止めてから、少女は廊下をゆっくりと歩き始める。
足音はほとんど響かない。
暗く冷えた廊下に、少女の影だけが淡く浮かんでいる。
(……あの笑顔、また見てしまった)
彼の笑顔に、過去の誰かを重ねてしまう自分に、鏡花は気づいていた。
でも――今は、それで良い気がしていた。
ほんの少しだけ、あたたかさを知ってもいいのかもしれない。
ほんの少しだけ、誰かのために生きてもいいのかもしれない。
そう思えるほどに、今日の時弥は、優しかった。
(でも――)
ふと、風もないはずの廊下の奥から、ひたり、と何かが滴る音がした。
鏡花は足を止めた。
廊下の先、障子のすき間から、冷たい空気が忍び込んでくる。
「……夜叉白雪?」
彼女は無意識に、懐に仕込んだ杖に指を添えていた。
しかし、何も答えは返ってこない。
冷たい空気だけが、ふっと頬を撫でていった。
「……気のせい、か」
静かに息を吐いて歩を進めると、風のように、彼女の影が廊下の闇に溶けていった。
けれど、その直後――
遠くの方で、障子がひとりでに、カタンと音を立てた。
誰もいないはずの客間で。
ガラガラ――と玄関の戸を開けると、そこには姉の灯花が立っていた。
夜の冷たい空気の中で、彼女はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
「おかえりなさい、鏡花」
「ただいま、灯花姉さん」
ふたりの声は静かに交わり、柔らかい空気が玄関に満ちる。
そのあと、灯花は熱いお茶を鏡花に淹れた。
湯呑に淡い緑色の液体が注がれる。
鏡花はそれを両手で包み、一口、口に含む。まろやかな味が舌に広がり、ようやく肩の力が抜けた。
その様子を見て、灯花は妹の頭を優しく撫でる。
「今日は疲れたでしょう。もう、休みなさい」
「はい、姉さん」
「……大丈夫?無理してない?」
「大丈夫です、姉さん」
鏡花は、姉の目を見つめながらはっきりとそう返した。
その姿に、灯花はふっと目を細め、懐かしそうに呟いた。
「こうやって、面と向かって話すの、いつぶりだろうね」
「前世の頃からお世話になって……数年ぶり、だと思います」
「だろうねぇ……まあ、あの頃の関係だと思って、気楽にしていいからね」
「はい、姉さん」
鏡花はうなずき、もう一口、緑茶をすする。
あたたかな液体が、喉を通って胸の奥に染み込んでいくようだった。
長田灯花と長田鏡花。
ふたりは、今世では姉妹として生きているが――
その縁は、前世にまでさかのぼる。かつては、ポートマフィアに身を置く者同士。
灯花は幹部、鏡花はその部下という立場だった。
そして、ふたりには共通点があった。
それは、“異能”の持ち主であること。
どちらも、異能生命体の召喚者だった。
その異能は、例外なく“殺戮”に特化していた。
鏡花の異能・夜叉白雪は、和装の女――
仕込み杖を手に、静かに首を刈る殺戮者。
対して、灯花の異能は、西洋の甲冑をまとった騎士のような異形。
巨大な剣と盾を携え、戦場を駆ける破壊の権化。
――過去に、ふたりが命じ、斬った首の数は数知れない。
けれど、今。
こうして茶を飲み交わし、姉妹として静かに言葉を交わせること。
それは、ほんの少しの贖罪と、ほんの少しの救いだった。
静かな時間が流れていた。
湯呑の中のお茶は半分ほど残っていたが、その湯気はもう、すっかり消えていた。
「じゃあ、私はこれで。あまり夜更かししちゃダメよ、鏡花」
「はい、姉さん。おやすみなさいませ」
灯花は微笑を残して部屋を出ていく。
障子が静かに閉まり、再び、部屋には鏡花ひとりだけが残された。
(優しいな……姉さん)
前世の頃――いつも自分を気にかけてくれた。
ポートマフィアで生き延びるために、あらゆる術を教えてくれたあの人。
今も変わらぬその笑顔は、鏡花にとって安らぎであり、居場所でもあった。
「……夜叉白雪?」
ふと、呼びかけると、異能生命体である夜叉白雪は静かに現れ、鏡花の頭にそっと手を置いた。
まるで、彼女の身を案じているかのようだった。
「ありがとう、夜叉白雪」
そのとき――ガタッ、と障子が揺れた。
誰もいないはずの廊下からの音に、鏡花の背筋がわずかに緊張する。敵襲か?
彼女はそっと立ち上がり、揺れた障子の方へ歩を進める。
一歩、また一歩――慎重に、音を立てぬよう。
そして、静かに障子を開ける。
……誰もいない。
だが、確かに“気配”はあった。
今までに感じたことのない、殺意のない、どこか柔らかな気配――。
(後をつけられてる……?)
夜叉白雪を展開し、周囲を見渡す。
身構えながら、背後に気を配り、踵を返したその瞬間――
「ピギィ!」
「え……?」
鏡花は思わず足を引いた。
柔らかく、弾力があり、温かな何かを踏んだ感触が足元に伝わる。
そっと視線を落とすと、そこにいたのは――
白く、丸く、ふわふわとした毛に包まれた、小さな生き物。
手足はなく、黒くつぶらな瞳とまあるい口が、こちらをじっと見上げている。
ふるふる……と、小刻みに震えながら。
「……何、これ」
夜叉白雪を維持したまま、鏡花はひざをついた。
だが異能反応はない。むしろ、異能とはまったく違う、もっと古く、次元の異なる存在のような気配。
(生物?妖怪? ……文献でも見たことがない)
「ピピ……」
生き物は、ふわふわとした体で鏡花の足元に身を擦り寄せてきた。
まるで懐いているかのように。
「……な、なつかれてる?」
困惑しつつも、鏡花は警戒を緩めない。
けれど、殺気も敵意もまったく感じられなかった。
(……でも、放っておくわけにもいかない)
彼女は静かに夜叉白雪を消す。
よく見ると、白い毛の一部に血がにじんでいた。
「怪我している……?」
立ち上がり、棚の上にある救急箱を取り、手早く治療を始める。
ガーゼを当て、消毒液を滲ませると――
「ピギィー!」
「ご、ごめんね……。あと少しの辛抱だから……」
傷薬を塗り、丁寧に包帯を巻いていく。
「……これで、よし」
包帯を巻き終えたその小さな身体は、かすかに震えていたが、安心したように丸くなった。
「ピ……ギィ」
小さな声とともに、ふわふわの生き物は鏡花の手の甲に、自分の頬のような部分をすり寄せてきた。
その温もりに、鏡花はほんの少しだけ、目を細める。
(あったかい……)
彼女はその小さな生き物をそっと抱きかかえ、布団の中へと潜り込んだ。
そしてそのまま、眠りについた。
――翌朝。
朝陽が部屋を満たしたときには、あの白い影は、すでにどこにもいなかった。
長田鏡花
(泉鏡花)
前世は元ポートマフィアの一員であり、武装探偵社員でもあった。
今世では長田家の次女。
異能・夜叉白雪の使い手。
龍賀時弥の世話および護衛を務めている。
長田灯花
(蝶番灯火)
前世はポートマフィアの幹部。
今世では長田家の長女。
異能・殺戮のアーサーの使い手。
龍賀沙代の世話および護衛を務めている。
龍賀時弥
龍賀沙代の甥。
龍賀家当主の龍賀時貞の孫。
鏡花のことをよく思っているし、懐いている。
灯花とも仲良し。
龍賀沙代。
龍賀家当主の龍賀時貞の孫。
灯花との関係は良好。
鏡花をよく心配している。