灯と鏡   作:猫とふりかけ

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雪の戯れと母の愛と決意

護衛として鏡花が屋敷に来てから、数日が経った。

時弥は毎日のように鏡花に話しかけてくるが、彼女はほとんど言葉を返さない。必要最低限の返事と動き。それだけで、静かに任をこなしていた。

 

「……お茶、どうぞ」

 

その日も変わらず、鏡花は無表情に茶を差し出した。

小さな膳に、湯呑と急須が上品に整えられている。

 

「ありがとう、鏡花ちゃん」

 

時弥はにこっと笑って湯呑を手に取る。

湯気がふわりと立ちのぼり、冷えた空気に白く溶けていった。

 

「ねえ、鏡花ちゃんって、剣とか使えるの?」

 

突拍子もない問いに、鏡花は一瞬だけ手を止めた。

だがすぐに、何事もなかったかのように静かに答える。

 

「……多少は。護衛ですので」

 

「へえ。かっこいいな。見せてくれる?」

 

「……いえ。あれは、人に見せるものではありません」

 

その声には、わずかな硬さがにじんでいた。

 

あの異能――《夜叉白雪》。

その姿は美しく、冷たく、そして恐ろしい。

何より――血にまみれていた。

 

(あれは……私の、大切な形見)

 

鏡花はそう思いながら、無言で湯呑を膳ごと回収する。

 

「鏡花ちゃん」

 

背後から、時弥の声がした。

 

「僕、強くなりたいんだ。……鏡花ちゃんみたいに」

 

少女の足が止まる。

 

「だって、誰かがこの家を守らないといけない。だから、僕は……」

 

その言葉に、鏡花ははっとする。

“もう誰も守れなかった”自分と、

“これから誰かを守ろうとしている”少年。

 

(……似ていない。けれど)

 

彼女の指が、無意識に仕込み杖の柄に触れる。

どこか遠くで、夜叉白雪が薄く目を覚ました気がした。

 

「……私は……人を殺すことしか……」

 

小さく漏れた独白は、少年には届いていなかった。

 

「鏡花ちゃん、明日は一緒にお庭に行かない?」

 

「……了解しました」

 

鏡花は小さくうなずいた。

まだ心は遠い。けれど、その笑顔だけは――もう少しだけ、見ていたかった。

 

空になった湯呑と急須を台所へ運ぶ途中、廊下の奥から静かに歩いてくる人影があった。

紺色の着物に身を包んだ長身の男。細い目の奥に、感情の見えない光を宿している。

 

鏡花の兄、幻治だった。

 

「鏡花。時弥様の様子はどうだ?」

 

「……はい、幻治兄さま。良好でございます」

 

「そうか。ならば勤めは果たせ。……いいな?」

 

「……はい」

 

幻治はそれ以上何も言わず、足を止めることなく鏡花の横を通り過ぎていった。

残された彼女は、小さくため息をつく。

 

(姉さんとの関係はあんなに暖かいのに……兄さんとは、どうして)

 

兄妹というにはあまりに遠い。

命令と報告だけのやりとり。上司と部下――いや、道具と使い手のような関係。

 

前世――芥川龍之介との関係に、どこか似ていた。

 

彼もまた、鏡花の異能《夜叉白雪》を“殺しの道具”としてしか見ていなかった。

そして、今生の幻治も同じだった。

 

殺戮のための異能。

敵を屠ることにしか意味を見出されない力。

 

「鏡花。お前は“殺せる”から存在している。殺せなくなったら、ただの抜け殻だ」

 

その声が、記憶の奥から這い出すように蘇ってくる。

 

(……もう、誰も、殺したくない)

 

台所に入り、鏡花は静かに湯呑と急須を洗う。

蛇口からこぼれた一滴が、流しに丸く波紋を広げた。

 

その水紋を見つめながら、ふと視線を棚に向ける。

そこに置かれた茶筒。――中身は、番茶。

 

時弥と一緒に飲んだ、あの優しい香り。

 

(幻治兄さまは、前と何も変わっていない……)

 

けれど、時弥と過ごすひとときが、鏡花の中の“何か”を静かに、けれど確かに変え始めていた。

 

殺すためではなく、

誰かを守るために、この力を使いたい。

 

「お前は、殺せるから生きている。殺せなくなったら、用済みだ」

 

(……私は、違う)

 

その時、背後で小さな気配がした。

 

幻治が戻ったのかと振り返ると――そこにいたのは、

ふわふわの、白い毛玉のような生き物だった。

 

「……また、来たの?」

 

昨晩、姿を消したはずのその小さな生き物は、すっかり元気を取り戻していたらしく、ぴょんと跳ねて彼女に近づいた。

 

「ピギィ」

 

くるくると回ってから、鏡花の足元に身体を寄せてくる。

 

「……不思議ね、あなた」

 

鏡花は膝をつき、その小さな頭にそっと手を添えた。

ふわふわとした毛並み。その奥に確かに感じる命の鼓動。

 

(この子には、殺気も欲もない。けれど、強い)

 

異能や力任せではない、ただ“誰かに寄り添う強さ”。

 

「私も……あなたみたいになれたら」

 

ぽつりと呟いたその声は、小さな願い――

けれど、確かな願いだった。

 

ふわふわの生き物は、彼女の手に顔を寄せるようにして、また「ピギィ」と鳴いた。

まるで、「なれるよ」と言っているように。

 

鏡花はそっと目を伏せ、ひとつ息を吐いた。

そしてその小さな生き物を抱き上げ、縁側へと歩き出す。

 

雪はしんしんと降り続けていた。

けれどその白さの中に――微かな、確かなぬくもりがあった。

 

次の日の朝。庭には雪が降り積もっていた。

時弥は、はしゃぎながら庭の中を駆け回る。銀色の絨毯には、いくつもの足跡が残されていた。まるで雪の中を駆ける子犬のようだ、と鏡花は思った。

 

時弥の頬は赤く染まっていた。寒さのせいだけでなく、純粋な興奮と喜びがその顔ににじんでいる。雪を両手で掬っては空に放り投げ、木々の枝からふわりと落ちてくる白に、手を伸ばしてはしゃいでいた。

 

「ほら、鏡花ちゃん!見て、雪だよ!」

 

『鏡花ちゃん、見て、雪だよ』

 

ふと蘇るのは、あの頃の記憶。あの人が雪を見て微笑んだときのこと。

敦はいつも鏡花を気にかけてくれた。初めて一緒に雪を見たあの瞬間、心の奥がじんわりと温かくなったのを、今も覚えている。

 

時弥の笑顔と敦の笑顔。似ているようで、似ていない。

けれど、その笑顔を見るたびに、どうしようもなく思い出してしまう。

 

そのたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

会いたい。けれど、会えない。……もし、再び会えたとしても、闇に染まった今の自分を、あの人はどう見るのだろう。失望されるのではないか。それとも、あのときのように――また、心配してくれるのだろうか。

 

「鏡花ちゃん! うわっ!」

 

「坊ちゃま!」

 

時弥が足を滑らせ、雪の中へ倒れかける。

その瞬間、鏡花の中で何かが反射的に動いた。

 

「夜叉白雪――!」

 

呼応するように、冷たい空気が一瞬、震えた。

白銀のなかからすっと現れた白い影が、ふわりと舞い降り、時弥の身体を優しく受け止めた。

雪の結晶のように儚く、けれど確かに存在する手。

それが、彼の背を守っていた。

 

時弥は驚いたように目を見開いていた。

その腕の中で、小さく息を呑む。

 

鏡花ははっとして、すぐに駆け寄った。

「……しまった」

 

見せるつもりなどなかったのに。

この子にだけは、知られたくなかった。

自分の持つ“闇”を――その片鱗を。

 

「夜叉白雪……戻って……」

 

小さく呟いた声に応え、白い影はすっと空気に溶け込むように消えていった。

何事もなかったかのように、ただ静かに。

 

白い息がふたつ、冷たい空気のなかに浮かんでは消えた。

二人の間に、しんとした沈黙が落ちる。

 

時弥は、しばらく雪の上に座り込んだまま動かなかった。

ただ、自分を抱き止めた“あれ”を思い出すように、掌を見つめていた。

 

「……今の、なに?」

 

その声は、決して怯えたものではなかった。

ただ、純粋な疑問。

知らないものを、知りたいという気持ちだけがこもっていた。

 

鏡花は、返す言葉を一度飲み込んだ。

震えそうになる唇をぎゅっと結び、静かに口を開く。

 

「……あれは、“夜叉白雪”。私の力、です」

 

「力……」

 

時弥は何度かその言葉を繰り返し、小さく首を傾げた。

そして、ふいにぱっと顔を上げると、無邪気に笑った。

 

「なんだか……すごかった!」

 

「……え?」

 

「雪の中から、すっごく綺麗な手が出てきて、僕を守ってくれた!びっくりしたけど、全然怖くなかったよ」

 

鏡花は、思わず息を飲んだ。

その笑顔が、あまりにまぶしくて、眩しくて――怖かった。

 

「……坊ちゃま、それは……」

 

「ねぇ、鏡花ちゃん」

 

時弥は雪の上に立ち上がると、にこにこしながら彼女の手をとった。

「ありがとう。助けてくれて」

 

その手は、小さくて、温かかった。

白い世界の中で、まるで春の陽だまりのように。

 

鏡花の胸の奥に、そっと何かが灯る。

それは、かつて誰かからもらったものと――とてもよく似ていた。

 

「夜叉白雪」

 

「わぁ!すごい!」

 

鏡花の後ろに和装の女の異形が姿を現す。それを見た時弥は純粋に驚いていた。夜叉白雪は静かに時弥を見ている。雪のように白く滑らかな手は彼の頭の上に乗せられた。……撫でているつもりなのだろうか。

 

それから、夜叉白雪と時弥は雪玉を投げあったり、一緒に雪だるまを作ったりして、遊んだ。体の大きい夜叉白雪は雪を器用に山を作るとそこに穴を空けて、かまくらを作りだした。夜叉白雪はゆっくりと鏡花を見る。自信満々に出来たと言わんばかりの様子に鏡花は目を細める。

 

「あら、素敵なかまくらね!」

 

「灯花姉さん」

 

縁側に通りかかったのは灯花と紗代だった。その手には湯気を立つ湯飲みとお盆。湯飲みには温かい甘酒が並んでいる。沙代は初めて見る夜叉白雪の姿に、ぴたりと足を止めた。

 

その異形――人ではない和装の女の姿。

仮面のような顔、白磁の肌、静かに佇む影のような存在。

だが、彼女の纏う気配は不思議なほど穏やかだった。

 

「……この方は……?」

 

沙代が問いかけるように言うと、夜叉白雪はゆっくりと彼女に向き直った。

一歩も動かないまま、ただその存在を差し出すように。

 

「夜叉白雪。……私の異能です」

 

鏡花がそっと言葉を添える。

灯花はその様子を穏やかに見つめ、笑みを浮かべた。

 

「怖がらなくて大丈夫ですよ、沙代お嬢様。見てください、時弥坊ちゃまと仲良く遊んでいたんですって」

 

時弥は照れたように笑いながら、「ね、夜叉白雪すごいんだよ!」と、かまくらを指差した。

 

「ほら、あれ全部つくったんだ! かまくらの形もきれいで、中もちゃんと入れるんだよ!」

 

沙代は少し目を丸くしながら、もう一度夜叉白雪を見つめる。

けれど、その視線に恐れはなかった。

少しの驚きと、そして――尊敬のようなもの。

 

「……すごい。なんだか、とても綺麗で、優しそう」

 

その一言に、夜叉白雪はふわりとまぶたを伏せたように見えた。

感情の見えぬその顔に、微かな変化が差す。

 

「さ、みんなで温まりましょう。甘酒ですよ」

 

灯花はお盆を縁側に置くと、かまくらの中に声をかけた。

 

「夜叉白雪さんも、よろしければどうぞ。」

 

時弥は「一緒に飲もうよ!」と無邪気に声を弾ませる。

 

夜叉白雪は、そっと手を動かし、かまくらの入口を少し広げるように整えた。

まるで、みんなが入りやすいように――そんな配慮すら感じさせる仕草だった。

 

「じゃあ、僕が最初に入るね!」

 

時弥が先にかまくらに飛び込み、次いで沙代も笑いながら中に入る。

「思ったより広い……あ、床に雪座布団がある!」

 

「夜叉白雪さんの手作りですもの。芸が細かいわね」

 

灯花が微笑むなか、最後に鏡花がかまくらへと足を踏み入れる。

外では、夜叉白雪が入り口に背を向け、まるで見張りのようにそっと立っていた。

 

かまくらの中は意外にも暖かく、湯気立つ甘酒の香りが柔らかく包み込んでいた。

 

「……なんだか、こういうの……いいですね」

 

沙代がふっと呟く。

 

「うん。雪の中だけど、なんか、あったかい」

 

時弥の言葉に、誰もが静かに頷いた。

 

そのぬくもりは、甘酒の熱だけではなかった。

互いの声、笑顔、そばにいること――そのすべてが、白い世界の中でやさしく灯っていた。

 

外に立つ夜叉白雪は、かまくらの中から漏れてくる笑い声に、ひとつだけまぶたを伏せた、ような気がした。

 

まるでそれが、彼女なりの微笑みに見えたような気がして――

鏡花は胸の奥が、温かくなるのを感じた。

 

夜叉白雪――それは殺戮の権化と恐れられる異能。だが、鏡花にとって、それは確かに母の愛だった。

 

あの日。すべてが赤く染まった夜。

異能の暴走で両親を殺めてしまった――少女はそう信じて、疑うことなく生きてきた。

 

だが、真実は違っていた。

 

夜叉白雪は、操られていた両親の手から鏡花を守るために顕現し、その刃を振るった。

それは“殺すため”ではなく、“守るため”の力。母が遺した異能だった。

 

異能《夜叉白雪》は、鏡花自身のものではなかった。

 

『夜叉白雪、鏡花を守りなさい』

 

――あれは、母が命と共に託した力だったのだ。

 

転生してもなお、夜叉白雪は少女のそばにあった。

まるで、母の愛が形を変えて今も息づいているかのように。

 

それは、ただの破壊ではない。

“守るため”の本能。それこそが、母の愛の形だった。

 

そして夜叉白雪は、母そのものだった。

 

優しく髪を撫でてくれた手。

寒い夜、そっと布団をかけ直してくれた背中。

黙って見守り続けてくれた、あたたかな眼差し。

 

――《夜叉白雪》は、母の魂が宿る異能だったのだ。

 

斬るための力でありながら、抱きしめるための力でもあった。

 

(転生しても……母さんは、私のそばにいてくれた)

 

刃として。影として。声なき存在として。

何も語らず、けれど確かに――ずっと私を守ってくれていた。

 

それが、夜叉白雪だった。

 

雪が静かに舞い落ちる中、かまくらの外に佇む白い影を見つめながら、鏡花はそっとつぶやいた。

 

「……ありがとう」

 

その声は風に溶け、誰の耳にも届かなかった。

けれど、夜叉白雪の指先が、かすかに動いた気がした。

 

それはまるで、あの頃と同じ――

髪を優しく撫でてくれた、母の仕草だった。

 

(私は、もう……この力を怖れない)

 

それが“殺すため”ではなく、“守るため”のものだと、ようやく理解できた。

その想いを、今はしっかりと手の中に受け止めている気がした。

 

 

時弥、灯花、沙代。 そして、夜叉白雪。

 

今、この雪の中にある温もりが、すべてを教えてくれていた。

 

「……私も誰かを守りたい。お母さんがそうしてくれたように」

 

かまくらの中、雪明かりに照らされた時弥が、穏やかに笑っていた。 その笑顔がどこか、彼に似ているような気がして――

 

鏡花は、そっと目を細めた。

 

夜叉白雪は、雪の中に溶け込むようにその姿を消していった。 けれど鏡花にはわかっていた。

 

たとえ姿が見えなくても、そのぬくもりは、いつだってすぐそばにあると。

 

心の中で、母の名を呼ぶ。

 

(……お母さん、ありがとう)

 

白く閉ざされた世界に、小さな春の芽が、そっと芽吹いたような気がした。

 

「鏡花ちゃん、美味しいね。甘酒。」

 

隣で時弥が笑ってくれている。あの人と変わらない笑顔で。そっと鏡花を包み込むように。

時弥は鏡花にとって、春風のようであり、暖かな日差しでもあった。

 

いつも優しくしてくれたあの人のように、彼もまた温もりを分けてくれる。

こんな世界でも穏やかに笑って、誰かを守っていたい――それは、鏡花がこの世界で初めて抱いた願いだった。

 

何が来ても、大丈夫。鏡花には、夜叉白雪がいる。

そうだ、思い出したのだ。鏡花はもう、元ポートマフィアでもない。

中島敦――あの優しい少年と、探偵社員たちが闇に沈んでいた自分を光の世界へ引き上げてくれた。

 

あの日から、鏡花も彼らの一員となった。

誰かを守るために。正義のために。

だから今、あの頃の自分に戻るわけにはいかない。

彼らに会ったとき、胸を張って「私はここにいる」と言えるように。

 

(私もう、闇の花なんかじゃない)

 

闇にしか憩えない存在じゃないと、彼らに示したい。

殺すためではなく、守るために――この異能を振るう。

そして、彼らの未来を、明るい明日を、守ってみせる。

武装探偵社員として。かつての中島敦が、命がけで自分を守ってくれたように。

 

――皆を守りたい。

 

(私もう、迷わない)

 

振り返らず、ただ未来を見据えて。

道は見えた。あとは、進むだけだ。




長田幻治。

長田家の長男。
灯花や鏡花を都合のいい道具としか見てない。
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