灯花は闇の中にいた。いや、闇よりもさらに深い場所にいるのかもしれない。
白いベッドには、赤く染まった死人のような人間が括りつけられている。誰かが苦しげに呻く声が、薄暗い空間に響いた。灯花は無表情のまま、その光景を見つめている。
骸骨じみたその姿は、もはや人間とは呼べない。不気味で、そして哀れな存在だった。
手術衣を着た村人たちは、そんな彼らの世話をしている。ここは、光すら届かぬ深海の底――。
龍賀家が誇る妙薬・Мの製造のために存在する、いわばその心臓部である。
――妙薬・М。
それは、服用すれば昼夜問わず飲まず食わずで活動できる秘薬。その原液は、この地下室で製造されていた。作り方自体は単純だ。だが、その前に、ある存在について語らなければならない。
――幽霊族。
人類よりもはるか昔から存在していた生命体。
驚異的な治癒力、怪力、特殊な能力を備え、人ならざる者として知られている。だが、人類の台頭と共に彼らは排除され、狩られるようになり、その数を徐々に減らしていった。
そして、その衰退の一因には――長田家の存在もあった。
彼らは幽霊族を狩り、捕らえた者を地下室へと運び込み、血を抜き、飼い殺しにしていた。その血液を、人間に投与することで妙薬・Мの原液が作られていたのだ。
つまり、あの「死人」とは、幽霊族の血を投与された人間の成れの果て。
悍ましく、そして外道という言葉ですら生ぬるい行為。しかしそれは、灯花や兄・幻治が生まれるよりも前から、龍賀家で当たり前のように行われていた。
父の代から続く悪習。
彼とその部下たちは外の世界から人間をさらい、この地下室に運び込む。幽霊族の血を投与し、村人たちに世話をさせる。それが龍賀家における“仕事”だった。
原液は東京へ送られ、加工された後に商品として流通する。
主に特別な顧客へと届けられ、莫大な富と権力を龍賀家にもたらしてきた。そう、妙薬・Мはまさに金の卵を産む鶏だった。
灯花の役目は、死人たちの監視と、逃げ出した個体の始末。
今日も一人、彼女は自身の異能を使って排除してきた。頬には、死人の血が冷たくこびりついている。
ここは、深い深い深海。光すら差し込まず、氷のように冷たい場所――。
今日も、村人たちはせっせと死人たちの世話を続けている。
灯花はひとり、ため息をついた。
正直、もうこの作業には慣れてきた。だが、気持ちは晴れない。
誰が好き好んでこんな外道を繰り返すものか。
嫌悪と倦怠が入り混じる日々。灯花はこの役目に、心底うんざりしていた。
吐き気すら催す日常。今となっては、便所掃除の方がまだマシかもしれない。もし今「やれ」と言われたら、よろこんで受け入れただろう。
そのとき――。
灯花の視線の先、エレベーターが音を立てて動き出す。
重々しい扉が開くと、現れたのは龍賀家の当主・龍賀時貞と、兄の幻治だった。
時貞は灯花を見るなり、粘つくような笑みを浮かべた。そしていやらしい笑顔のまま、無遠慮に灯花の尻を鷲掴みにする。
灯花はその手を見下ろしながら、無表情のまま、内心では軽い殺意を覚えていた。
「相変わらず、いい尻じゃのう……灯花」
「…………」
「じゃが、お前は人形の相手をしておるようで、つまらん。沙代の方がまだ、遊び甲斐があるというものじゃ」
“沙代”という名を聞いた途端、灯花の内側で何かが煮えたぎった。
一方、兄・幻治は、妹が卑猥な扱いを受けているにもかかわらず、まったく関心を示さない。時貞は死人たちを見回し、露骨に顔をしかめる。
「……相変わらず、醜い奴らじゃのう。人間、こうはなりたくないもんじゃ。引き続き、頼んだぞ――のう、灯花」
そう言い残し、時貞はああ、嫌じゃ嫌じゃと、舌を出し、吐きそうな顔をしながらエレベーターに戻っていった。
残されたのは、灯花と村人たちだけだった。
しばらくして、村人たちは作業を終えると、足早にその場を後にした。地下室には、苦悶の声だけが残された。
灯花はひとり、その呻きの中へと歩を進める。そして、苦しむ死人の一人の赤く染まった手に、そっと触れた。
彼女の顔が、わずかに悲しみに歪む。
「……ごめんなさい」
小さく呟いたその言葉は、誰にも届くことなく、空気に溶けていった。
役目を終えた灯花は踵を返し、苦しむ死人たちに背を向ける。そして、迷いなくエレベーターへと乗り込んだ。
誰もいなくなった地下室には、呻き声だけがいつまでも響いていた。
洗面所で汚れた顔を洗った灯花は、沙代の世話へと向かう途中、時弥と鏡花に出会った。
無邪気な笑顔を浮かべた時弥と、無表情で佇む鏡花。灯花は、先ほどまでの憂いを払うように、ふわりと微笑んだ。
「灯花さん!」
「まあ、時弥様。鏡花も一緒なのですね。これから、どちらへ?」
「うん! これから鏡花ちゃんと、お外をお散歩するの!」
「そうですか。日が暮れる前に帰るのですよ」
「はーい!」
元気よく返事をした時弥は、そのまま駆け出していった。
鏡花は灯花に一礼してから、「坊ちゃま、走ると危ないですよ」と冷静に声をかけ、小走りでその後を追っていく。
その背を見送った灯花は、ふたたび足を沙代の元へ向けた。
台所でお茶の支度を整え、沙代の部屋の前へとやってくる。
障子の前で一息ついた灯花は、そっと自分に言い聞かせた。
――大丈夫。私はまだ、笑える。
静かに障子を開ける。
「失礼します、沙代お嬢様。お茶をお持ちしました」
「灯花、いつもありがとう」
沙代の穏やかな笑顔を見て、灯花はやっと息をすることができた。まるで、深い海の底から這い上がってきたかのようだった。
酸素を取り込むように、灯花は小さく息を吐いた。
お洒落な座卓には、空のティーカップと紅茶の入ったポットが置かれる。灯花はポットを手に取り、湯気の立ち上る紅茶をカップに注いだ。
カップに並々と注がれた紅茶を、沙代は優雅に手に取り、香りを確かめるように目を細める。そして、静かに口に含んだ。
「……美味しい」
「今回は、ダージリンにしてみました」
「いい茶葉ね」
沙代は微笑みながら、ふたたび香りを楽しみ、もう一口だけ含んだ。
やがて沙代は、実の父・克典から聞いた東京の話を語り始めた。
クリームソーダの話。数年後には大きな塔ができるという話。そして、東京から届いたというワンピースを、嬉しそうに披露してくれた。
灯花は、そんな沙代の姿を見つめながら、何度も頷いた。やさしく、微笑みながら。
「それでね、お父様は東京ではみんな背広っていうのを着てるって言ってたの。……変よね、全員が同じ制服みたいなの着てるなんて」
沙代はそう言ってくすくすと笑う。
灯花もつられるように笑みを浮かべた。
「東京では、きっとそれが“格式”なのですね。お互いを尊重するための衣服……でしょうか」
「ふうん……でも、私は着物のほうが好き。布の触り心地も、柄も。……それに、灯花が選んでくれる帯、すごく似合うってお父様にも言われたのよ」
「まあ。それは……光栄です」
思わず灯花は目を細めた。誇らしさよりも、どこか胸の奥に、痛みのような感覚が残る。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
そう思うたび、心のどこかが冷たくなる。
沙代はそんな灯花の様子には気づかないまま、再びカップに紅茶を注ぎ、静かに言葉を重ねた。
「……灯花。ときどき、何かを隠してるような顔をするのね」
灯花の手が一瞬だけ止まった。
「私に、言えないことがあるの?」
「……いえ」
そっと微笑んで、茶器を整える手を動かす。
「……ただの、思い出です」
「思い出?」
「ええ。過ぎてしまった出来事は、もう戻らないでしょう? だから、言葉にする必要はないんです。……今が幸せなら、それで」
「……そっか。なら、いいの」
沙代はそれ以上、何も言わなかった。
カップに残った紅茶が、わずかに揺れる。陽が傾きかけた窓辺から差し込む光が、その揺らめきをきらきらと照らした。
それは、まるで誰かの記憶が波紋のように広がっていくようで――
灯花は一瞬、地下で見た死人の手の冷たさを思い出す。
……ごめんなさい、と言った自分。
そして、今ここで「ありがとう」と言ってくれる沙代。
両者の間で引き裂かれるような胸の痛みが、灯花の微笑みの裏に静かに沈んでいた。
それからまたしばらく話をして、灯花は茶器を片付けるため、沙代の自室を後にした。
お盆を手に、台所へと向かい、ひとり静かに茶器を洗い始める。
誰もいない台所で、灯花はふぅっと小さくため息を吐いた。
本当は、この生活が楽しい。
沙代や時弥、鏡花と過ごす日々は、灯花にとってかけがえのないものだった。
けれど、どうしても――あの地下室での“役目”だけは、好きになれなかった。
死人たちを排除するその仕事に、灯花の心は、静かに、だが確実に蝕まれていった。
死人が脱走すれば、殺さなければならない。
また一人、手にかけなければならない。
前世の頃は、殺しに慣れていた。
数多の敵を異能で切り裂き、ときに容赦なく首を跳ねた。
感情を捨て、機械のように命を奪っていた。
――なのに。
今世で初めて死人の首を刎ねたあの時、確かに感じてしまったのだ。
罪悪感を。
心が、悲鳴を上げていた。
「もう誰一人、殺したくない」と――叫んでいた。
こんなの、自分じゃない。
前世では、心を殺して生きていたのに。
どうして今になって、こんなにも苦しいのだろう。
……この家に生まれてしまったことが、ただただ、嫌だった。
もし鏡花がいなければ、自分はとっくに壊れていたかもしれない。
最悪の場合、自害もあり得た――そう思うことさえある。
そのときだった。
灯花の頭上に、騎士の姿をした異能が静かに現れた。
まるで心配しているかのように、甲冑に包まれた手が、灯花の頭へそっと触れる。
夜叉白雪とは違って、その顔は見えない。けれど――
確かに、優しく撫でてくれているのがわかった。
「……アーサー?」
ぽつりと呼びかけると、異能は雪のように静かに、ふわりとその姿を消した。きっと彼なりの慰めなのだろう。灯花は一瞬、だけ泣きそうになるとすぐに笑った。
「アーサー、私はもう子供ではないのよ」
その夜はとても静かだった。
沙代は布団の中で眠っており、その顔には行燈の光が淡く差している。沙代は顔だけを灯花の方へ向けて、微笑んだ。
「今日も楽しかったわ、灯花」
「そうですか。それは何よりです。それでは、おやすみなさいませ、お嬢様」
「ええ、おやすみ、灯花」
灯花は障子を静かに閉めた。
冷たい廊下を歩いていると、幻治が立っていた。鋭く細い目でじっとこちらを見据えている。やがて口が開かれた。
「灯花、また死人が脱走したようだ」
「はい」
「お前のミスでもある」
「……はい」
「始末しろ」
「承知しました」
返事を終えると、幻治はそれ以上何も言わず、廊下の奥へと消えていった。
残された灯花は、一歩だけその場に立ち尽くし、微かに目を伏せる。
「……また、か」
小さな呟きが、唇から漏れた。
彼女は振り返って、障子の向こうに視線を送る。沙代の寝息は、まだ静かで穏やかだった。
灯花はそっと行燈の灯を吹き消すと、音も立てずに廊下を歩き出した。
やがて玄関にたどり着くと、兄の部下たちがすでに待機していた。
身なりのごつい、身長の高い部下に灯花は声をかける。
「死人は?」
「まだ遠くへは行っておりません」
「……そう。分かったわ」
「へへっ。お供しますぜ」
と、背の低い、禿げ頭の部下が気楽そうに言った。
「……好きにしなさい」
灯花は冷たく言い放つと、部下たちとともに駆け出した。
だが、灯花の方が明らかに速く、すぐに先頭に出て彼らを置き去りにする。
そして、道を先回りした先に、赤い死人が歩いているのが見えた。
灯花はすっと歩み寄りながら、静かに口を開く。
「こんばんは。今日はいい月ね」
死人はゼェゼェと荒い息を吐きながら、驚いたように後ろを振り返った。そして、逃げようとした。
「ああ、本当に……気分が悪いわ。恨むなら、私を恨んでちょうだい」
灯花はその言葉とともに、異能――“アーサー”を召喚した。
次の瞬間、目にも止まらぬ速さで、死人の首が刈り取られる。
噴水のように血が噴き出し、首のない死人はフラフラと数歩歩いたのち、パタリと地面に倒れた。
数分後、ようやく追いついた部下たちが現場を見て言った。
「……もう、終わりましたか?」
「ええ。後始末をお願い」
「ヘヘッ、かしこまりました」
灯花がその場を去ると、部下たちは死体を麻袋に詰め、水を撒きながら血痕を洗い流し始めた。
そのとき、ひとりの部下がポツリと呟いた。
「それにしても……恐ろしいぜ」
「ああ、まったくだ。でも、美人でいい女だな、灯花様は」
「美人は美人だがよ。人形みてぇに無表情で、不気味だよ、あれは」
好き勝手なことを言う部下たちの声が、灯花の耳に届いていた。
だが彼女は聞こえないふりをして、そのまま無言で場を離れた。
――まるで、暗い深海にいるようだ。
ここは深海。
光が届かない、静かで、冷たい世界。
自分はその底へと、ゆっくりと沈んでいく。
ああ、今日も――寒くて、冷たい。
屋敷へ戻る道すがら、灯花は誰の足音も聞こえない夜道をひとり歩いていた。
月はまだ空に高く、冷たい光を地面に落としている。
人を殺した直後なのに、月はこんなにも美しい。
――その事実が、胸の奥を鈍く痛ませた。
何度目だろう。何人目だろう。
もう数えたくもないし、覚えていたくもない。
ただ、手に残る温もりだけが、いつまでも離れない。
灯花は自分の手を見下ろした。
誰かの血を拭ったばかりの手。
冷たく、そして、重い。
「……帰ろう。鏡花のいる家に」
誰に言うでもなく、そう呟く。
せめて、あの子の前では笑っていたい。
何も知らないまま、穏やかに過ごしてほしい。
その願いだけが、まだ自分を人間の形に留めている。
ふと、肩に何かが触れた気がした。
振り返っても、誰もいない。
けれど、風のような気配がそっと後ろから背を撫でていた。
「アーサー……また、見ていたの?」
返事はない。
けれど、心の奥に、何か温かいものが灯った気がした。
もしかしたら、それは錯覚だったのかもしれない。
それでも、灯花は足を止めずに歩いた。
やがて屋敷が見えてきたころ、東の空がごく僅かに白んできていた。
――夜が明ける。
誰かにとっては新しい朝かもしれない。
だが、灯花にとっては、また一日が始まるというだけだった。
玄関に入ると、鏡花が待っていた。
眠そうな目をこすりながら、彼女はぽつりと言った。
「……おかえりなさいませ、灯花姉さん」
灯花は一瞬だけ、驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んで応えた。
「ただいま、鏡花。……起こしてしまったかしら?」
「いえ。……なんとなく、目が覚めたんです。寒くて」
「そうね……今日は、とても寒い夜だったわ」
ぽたり、と氷のような涙が灯花の頬をつたう。
でも、それは鏡花には見せなかった。
灯花はゆっくりと彼女の頭に手を置き、優しく撫でた。
「……もう少しだけ、あなたと一緒にいたいわ。いい?」
「はい……」
二人はそのまま、静かな廊下を歩いた。
朝が来るまで、あと少し。
けれど灯花の心は、まだ深い深い夜の底にいた。
龍賀時貞
龍賀家の当主。
龍賀製薬の創立者。
灯花や鏡花にセクハラをよくするセクハラジジイ。