天下無双
東校舎の地下にある射撃場には、重く冷たいコンクリートの空気が漂っていた。整然と並んだターゲット、電子制御の照準システム、無機質な照明。そこは“学校”というより、無慈悲な訓練場だった。
そんな空間の中央、制服のまま真剣な面持ちで立つ一人の少女――北小路ヒスイの姿があった。
制服は、蒼いラインが入った純白のブレザーと黒に近い緑のスカート。サイドポーチには予備マガジンと小型ツール。一見すると普通の学園生に見えなくもないが、その佇まいは明らかに“任務経験者”のそれだった。
彼女はハンドガン――グロック系の訓練用モデル――を両手で構え、一直線にターゲットを見据える。その目は真剣で、普段の彼女からは想像もできないほどの集中を湛えている。
「――ターゲット、セット完了。開始します」
小さく呟いてから、ヒスイは呼吸を整えた。
一発。
二発。
三発。
乾いた銃声が静かに地下の空気を切り裂いていく。射撃のたび、ターゲットの中心には寸分の狂いなく弾痕が刻まれていった。フォームに一切の無駄がなく、指の動きから呼吸のタイミングに至るまで洗練されている。
しかし――
(うわぁ……やりすぎじゃないかな……? こ、これで、友達に「え? ヒスイちゃん、空気違くない?」とか思われたら……いや、いやでも、手ぇ抜くのもアレだし……!)
射撃を続けながらも、ヒスイの内心は混乱していた。冷静さを装ってはいるが、実のところ頭の中は“高校生らしく在りたい”という焦りに満ちている。
(あああああ~ッ、これが西の生徒とかだったら、絶対「すごーい!」とか「かっこいい!」とか言われるだけで終わるのに~~! でもここ、東だし! もう皆プロだし!)
ターゲットの自動巻き戻し装置が作動し、撃ち終えた標的が手元に戻ってくる。中央に一直線の穴が並んでおり、完璧なグルーピングだった。
「……ヒスイ、今日もスゴ……」
背後で見ていた同級生が思わずつぶやく。ヒスイは思わず肩をビクッと震わせて、くるっと振り返る。
「え、え? あっ、あのっ、ちょっと今日、調子いいだけで! やばい!これ普通じゃないからっ、ほんとに!ふ、普通ってなに!?うわああぁ……」
顔を真っ赤にしてわたわたとするその姿は、射撃時の凛々しさとはまるで別人だった。しかし、そのギャップこそが、彼女が――そして“北小路ヒスイ”という存在が、他の訓練生からも一目置かれ、同時にどこか放っておけない理由でもあるのだった。
射撃場を後にする前、ヒスイは手にしていたグロックを丁寧に分解し、安全確認を終えてから地下の武器庫へと向かった。冷気のような静けさの中、金属製のカウンターの奥では、黒縁メガネをかけた武器管理担当の女子生徒が帳簿をめくりながら、慣れた手つきで銃の返却を受け取った。
「北小路ヒスイ、中等部、返却完了っと……」
武器庫の生徒はちらりとヒスイの顔を見て、ふっと口角を上げた。
「今日、全発命中したの、ヒスイだけだよ。さすがって感じ」
その言葉にヒスイは一瞬だけ顔をこわばらせる。
「……え? あ、うん……」
(な、なにそれ……もしかして嫌味? 他の生徒に聞こえるように言って、空気悪くしようとしてるのかな……それともマジで褒めてる……? わかんないよ……)
顔には出さずに、軽く会釈をしてその場を離れるが、内心では胃がきゅうっと縮むような感覚がしていた。
ああ、こんなんじゃ「やる気満々のガチ勢」とか思われてんだろうな。
射撃場の自動ドアが無音で開き、外に出た瞬間だった。
東校舎の静かな通路、その奥から歩いてきた黒髪の少女が、ヒスイの前にぬっと立った。
黒く艶のある長髪を腰まで垂らし、無表情で整った顔立ちの高等部の生徒――クオン。感情をあまり表に出さない、学内でも一種の“異質”として知られる存在だった。
「おまえさ」
不意に声をかけられ、ヒスイはびくりと肩を震わせた。
「……っな、なに、クオン先輩」
クオンは無表情のまま、ヒスイの顔をじっと見つめた。
「そのひねくれ根性、なんとかならないのか。中等部のくせに、そんな暗い顔して歩くなよ」
ヒスイは目を細め、皮肉っぽく口を歪める。
「……こんな殺し屋学園で笑って過ごしてる奴のが異常なんですけど。元気ハツラツのJC見たいなら、西の方でも行けば?」
「なるほどな」とクオンは短く相槌を打ち、制服のポケットから一枚のクリアファイルを取り出した。無言でヒスイに差し出す。
「それと、これ。資料。指令所から降りてきた分」
ヒスイは目をしばたたきながら受け取る。ファイルには簡潔なコードと赤枠で囲まれたエンブレムがあり、表紙の裏には小さく「東第六作戦区域:行動命令予備案」と記されていた。
中身をぱらりとめくると、そこには関係者の移動経路、現地の地図、監視ポイントなどが詳細に記されている。
「……なるほどね」
ヒスイの声が、さっきまでの気弱さとは別物だった。瞳には鋭い光が宿り、その表情は、まるで舞台に立つ直前の斥候そのものだった。
クオンはそれを確認するように一度うなずき、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、お前には“こっち側”の目がある。西にはないものだ」
ヒスイは少しだけ頬を赤らめて、そっぽを向いた。
「そういうの、からかってるだけならやめてくださいよ……」
だが、その背筋はもう、射撃直後の迷いを引きずってはいなかった。彼女は静かに、東の任務が詰まったファイルを抱えながら、次の任務への足音を響かせて通路の奥へと歩いていった。
夜の繁華街――ネオンが騒がしく瞬き、酒と煙草と欲望の入り混じった空気が路地裏まで満ちていた。ヒスイはその中心にある違法営業のキャバクラに、"新入りのキャスト"として潜入していた。
店内ではまだ接客の表には立たされておらず、裏方としての雑用――床掃除や備品整理、そして今まさに、ゴミ出しを任されていた。
「はぁ~~~、ゴミ袋ってなんでこんなに重いんだよ……訓練の筋トレよりしんどく感じるの、なんで……?」
ブツブツと独り言を漏らしながら、ヒスイは背後の勝手口から路地に出て、ゴミ集積所へ袋を投げ込んだ。ネオンが届かないその一角には、独特の静けさがあった。
そしてそのとき――
「…………」
背後からの視線に気づき、振り返る。
そこには、眼鏡をかけた少女が一人、じっとヒスイを見ていた。
長めの前髪に覆われた目元、私服は地味だが、全体的に整っており、どこか冷ややかで観察するような気配を纏っている。だが、その奥には微かに“好奇心”の光が見え隠れしていた。
(……誰、この子。キャバの客にしては若すぎるし、通行人?でも目つきがただの一般人じゃない……)
場を荒らすわけにもいかず、ヒスイは一歩前に出て、笑みを作った。
「……この辺危ないから、帰った方がいいよ?」
優しく、できるだけ“街の人”らしく。だが少女は黙ったまま、じっとヒスイを見つめる。
(やば、通じてない?子供っぽくしてみた方がいい?)
「えーっと……あの……大丈夫だよ?お姉さん、怖くないからね?」
ヒスイは必死に、普段の"エージェント顔"を捨てて優しさをにじませるが――その時、少女の口が動いた。
「……スパイって、こんなんで通るのか……」
「っ――!?」
反射的に、ヒスイの目が鋭く光った。次の瞬間、彼女は少女の口を押さえ、躊躇なく腕を引いた。
「ごめん、ちょっと来て!」
ごみ袋を蹴るように脇へ放り、少女の身体を抱きかかえるようにして、路地を飛ぶように走る。
「――んんっ!? むぐっ!」
息もつかせぬまま、ふたりは裏通りを駆け抜け、数ブロック先にある廃ビルの影へと滑り込んでいった。
廃ビルの二階、かつてオフィスだった場所の一室。
窓ガラスは割れ、風の抜ける音が静かに響く中、剥き出しのコンクリートの壁に少女が背を押しつけられていた。後ろ手に縛られた少女は、床に座らされ、ヒスイの前でじっとこちらを見上げていた。
ヒスイは警戒心を全身に漲らせながら、片手で拳銃を構え、その銃口を少女の額の少し上に向けた。表情は読み取れないほどに冷ややか。けれどその裏には、強い葛藤が揺れていた。
「……子供殺すなんて、気進まないけどなぁ……」
小さく、しかし確かな声。だが、脅しのつもりだったその言葉に、少女はまるで動じなかった。頬にかかった髪を風が撫でても、眼鏡の奥の瞳は変わらず冷静なままだった。
「別に、君の素性がバレることはないんじゃないかな」
ヒスイが目を細める。
「……は?」
「僕はちょっと、人とは違うから解るけど――そのキャバクラの人間の観察眼なんて大したことないよ。雰囲気で押し切れるレベル」
言葉は淡々としていたが、どこか優しささえ滲んでいた。
「ただ、気をつけた方がいい」
少女は少し体を起こし、背後の拘束に軽く身を揺らしながら続ける。
「君の場合――例えば、背格好。安心した時の表情。寝てる時の顔。そういう“隙”が出やすい。訓練されてるし、君の技術は素人じゃない。でも……」
ヒスイは銃をほんの少しだけ傾け、視線を鋭くした。
「……でも?」
「同じようにスパイを送り込む組織なら、そこを見抜ける。“普通の人間”なら絶対気付かない範囲でも、君の正体は見破られる可能性がある」
その分析の正確さに、ヒスイの指が一瞬だけトリガーから浮いた。
「……なんでそんなに詳しいの?」
「今ここで話したら…解放してくれるかい…?」
ヒスイは眉を寄せて、小さく舌打ちした。
「もう、殺していい?」
銃口が再び少女の額へ――指がトリガーに戻る。
そのとき、少女は初めてほんの少しだけ表情を動かした。困ったように、けれどやはり焦りはなく。
「流石にそれは困るな。僕もまだ――クライアントの仕事が残ってるし」
ヒスイの指が止まる。
「……クライアント?」
「とはいえ、僕をこのまま野放しにしておくのは、君にとっても問題だろう」
少女は、眼鏡の奥の瞳を細めて、静かに言った。
「だから――せめてこのまま“逮捕”してくれないか? 身柄を確保して連れ帰るって意味で。君は“そっち側”の人間なんだろう?」
“そっち側”――その言葉の選び方が、ヒスイの中で警鐘を鳴らす。
(この子……ただの観察眼が鋭いだけじゃない……)
少女の言葉に乗るか、切り捨てるか――ヒスイの思考は静かに回転を始めていた。だがその場にただ一つ確かなことがあるとすれば、この少女は、ヒスイの常識が通じない“別種”の存在であるということだった。
月の光が廃墟に差し込む夜、かつて工場だった鉄骨むき出しの建物は、今や暴力団の臨時集会所となっていた。だがその影では、ヒスイが静かに動いていた。
突入作戦前、建物の監視係を排除し、主力となるシューター部隊の進入経路を確保する――それが、彼女の任務だった。
廃墟内は常に薄暗く、所々には懐中電灯を持つ男たちが警戒を巡らせている。だがその視界に、ヒスイの姿が映ることはなかった。
彼女は天井の鉄骨の上、通気ダクトの陰、あるいは積まれた資材の隙間から、まるで霧のように移動し、獲物の背後に忍び寄っては――
「……ッ!」
短剣で喉を裂く。防音フィルターの入った布で口を塞ぎながら、ナイフで心臓を一突き。一言も叫ばせず、ただ静かに、一人、また一人と地に落としていく。
ヒスイの表情に、感情はない。それは訓練の成果であり、同時に――強い葛藤の上に築かれた“任務遂行の顔”だった。
やがて、建物の西側監視ルートが完全に無力化され、ヒスイはその場から慎重に撤退を開始する。裏手の草むらを抜け、小さな崖を登ると、そこには少し離れた場所に停まっていた白のワゴン型の車――クオンが運転してきたものが、静かに待っていた。
ヒスイはほっと息をつく。だが同時に、ふと脳裏に浮かんだのは、数週間前に捕らえた私服姿の少女のこと。
(……あいつ、どうなったかな。やっぱり世怜音で“処分”されたのかな……)
そう考えながら車に向かおうとした――その瞬間。
「……凄いね」
背後から、聞き覚えのある声がした。
「歩く時も、動く時も、まったく気配を残さない。これ系の仕事させたら、大人の兵士でも全然通用するだろうね」
反射的に、ヒスイの手が腰のホルスターへと伸びる。
振り返った彼女の眼は、完全にエージェントの眼だった。暗がりに立っていたのは、あの私服の少女――眼鏡をかけ、冷静な目つきでこちらを見ていた。
「まさか、抜け出してきたの?
―ヒスイは迷わず拳銃を抜き、少女に向ける。
あんた、重罪よ」
視線は冷たく、容赦のないものだった。だが少女は少しも怯えず、静かに両手を上げて否定した。
「まさか!世怜女の拘束から逃れられるわけがないじゃないか」
その淡々とした言い草に、ヒスイの眉が微かに動く。
「……じゃあ……」
銃を向けたまま問おうとしたが――ふと、胸の奥がざわつく。
(でも……“先生”が解放した人間を、自分が追うのって、なんか違う気がする……)
少女の目には嘘の色はなかった――そして、その余裕も、“見逃される自信”も、既に計算に入っているようだった。
ヒスイは小さく舌打ちしながら、銃を下ろす。
「……まあ、いいや」
くるりと背を向け、少女から離れつつ言葉を投げる。
「気をつけて帰りなさいよ。次は見逃さないかもだから」
その背を、少女はただ静かに見送る。
「……了解。優秀なスパイさん」
ヒスイはその言葉に振り返らず、白いワゴンのドアを開けて乗り込む。運転席には、いつものように腕を組んで目を閉じていたクオンの姿。
「……完了。突入ルート、全部片付けた」
「そうか。……誰かと話していたように見えたが?」
「……風と話してた。ちょっとね。」
「……………」
クオンは薄く目を開けたが、それ以上は何も聞かなかった。ワゴンのエンジンが静かに始動し、街灯もまばらな闇の中へと溶けていく。
一方で――廃墟の影に佇む少女は、月の光を反射する眼鏡の奥で、静かに微笑んでいた。その笑みの意味を、ヒスイはまだ知らない。
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教官室――分厚い書類と訓練記録のファイルが積まれた机の上、室内には淡く黄ばんだ蛍光灯の光が漂っていた。壁際では監視カメラのモニターが無音で映像を流しており、東校舎内の様子を淡々と映し続けている。
その中央、椅子に背を預けて腕を組んでいたのは、東校舎の訓練生たちを指導する教官の一人――井ノ原だった。無精髭交じりの顎をなでながら、窓の外に視線を投げていた。
机の前には、別の教官が立っており、資料を見せながら問いかける。
「……井ノ原先生、この子ですけど――“周央サンゴ”。最近、うちの訓練生とちょくちょく接触しているようです。西校舎所属と書いてありますが……正体は?」
井ノ原は書類に視線を向け、ふっと鼻で笑った。
「……ああ、“噂の情報屋”だよ」
「……情報屋?」
「“天下無双”。そっち界隈じゃ知らない者はいない名だろ?」
その言葉に、教官の表情が強張る。
「――死んだはずでは? 数年前の爆破事件で、死亡確認まで……」
井ノ原は少しだけ目を伏せ、資料を指で叩きながら言った。
「“本人”はな。……だが、あの子は孫だそうだ」
静まり返る教官室。数秒の沈黙の後、井ノ原は続ける。
「“天下無双”が死んだあと、その“孫娘”が後を継いで今は情報屋として動いてる。名義も、連絡網も、暗号体系も、継承済みだ。……中身が変わっただけで、看板は生きてるってわけだな」
「……それが、世怜音に……?」
「ああ、西校舎の“正式な生徒”としてな。戸籍も履歴も書類上は完璧。だが、こちらの訓練生と絡むのは想定外だった」
教官は唇をかんで、井ノ原の顔をうかがう。
「……それで、どうするんですか?」
井ノ原は答えず、椅子にもたれたまま、視線を天井に移し、重い声でぽつりと呟いた。
「……どうしたもんかね。利用すべきか、排除すべきか……」
その声には、ただの生徒として扱うにはあまりに不穏な――けれど、確かに一目置くべき“才覚”を持った者への困惑が滲んでいた。
東校舎からすれば、「厄介な一般人」。しかし、どうにも厄介な人間は厄介な人間同士で惹かれ合うようである。
まるで汚物に蠅がたかるように、磁石同士がくっつきあうように。それから数日、困ったことに、「少女」はそれからたびたびヒスイに絡むようになっていった。