東校舎の寮棟、北小路ヒスイの個室は、唯一の明かりとしてデスクランプの小さな灯りだけが静かに揺れていた。手元のファイルを閉じた彼女は、静かに深く息を吐きながら、天井を仰ぐ。
「……なんで、『鬼』とまで呼ばれてるエースが、あんなリボルバー使ってんのよ……」
呟きは、宙へと溶けていく。
リボルバー――東堂コハクが愛用する、旧式の六連発。今時、東校舎でも見かけることは稀だ。電子制御式や自動装填の銃が主流の中、あえてそれを使い続ける理由は――
「もっと使いやすいのにすれば、あいつ、絶対もっと強いのにさ……」
言いながら、ヒスイはわずかに眉をしかめた。
(――サンゴの言葉じゃないけど)
サンゴ。彼女の名を思い浮かべた瞬間、ヒスイの表情はどこか複雑に揺れる。
「どこまでも……子供らしくないんだよ、あいつは」
あの、どこか大人びた眼差しと、しなやかに物事をかわす知性。それでいて、ときおり見せる傷つきやすさ。
その姿に、ヒスイの胸には、言いようのない痛みが宿る。
(あの子をここまで追い込んだものって、なんなんだろう)
“天下無双”――周央サンゴの名に連なる、その先代。
ヒスイは、実のところ、先代について詳しく知らない。ただ、その“影響力”の片鱗だけは、サンゴの言動や扱いの中から、ぼんやりと感じていた。
(セツカっていう、どっかの令嬢みたいな子が“愛弟子”だったって話もあるし……)
いったいどんな人物だったのか。サンゴのように冷静で、優しくて、それでいて――人望があったのだろうか。ヒスイは小さく頷いた。
「本物だったんだろうな。“人を導ける”ってのは、そういうことだ」
静まり返る部屋の中、ヒスイはもう一度、天井を見つめながら、微かに眉を寄せた。
でも、その背中を追って、あの子が……壊れなきゃいいけど。
ヒスイは、ぼんやりとした思考の中で、ふと、先日駅で出会った“あの令嬢”――セツカの顔を思い出していた。
あの時、彼女の眼は、まるで深海のように静かで、底知れぬ思いを湛えいるようであった。あまりに無機質で、何かを拒絶するような、あるいは全てを見透かしているような――そんな印象。
(あの瞳……どこかで……)
ヒスイは目を閉じ、東の演習場での模擬戦を思い返す。
最後の最後――背後を取られ、ヒスイは撃たれた。油断したわけでも、手を抜いたわけでもない。ただ、“狩る側”だったはずが、“狩られる側”になった。それほどまでに、相手の動きは洗練されていた。
その時、ヒスイが見たのも――
(あの、青黒い眼……)
そう、まさにセツカと同じ目をしていた。そして、思い出す。東堂コハクの眼も――あの眼だった。無表情の奥に、冷たい覚悟と、一握りの思いを宿すような、あの眼。
(……まさか)
ヒスイはデスクの引き出しから、手元の名簿資料を取り出し、ページをめくる。
「東堂セツカ……東堂コハク……」
その姓を、声に出した瞬間、
(……親族? 姉妹? それとも――)
二人の間に何かしらの血縁がある。そう考えると、あの異質な静けさ、眼差しの鋭さ――すべてが繋がってくる気がした。
(だったら、コハクがリボルバーを使ってる理由も……)
何かしらの“誓い”や“継承”があるのかもしれない。ただの好みではない、もっと個人的で、もっと根の深い理由が。
ヒスイは、手を額に当てた。
翌朝――
朝の空気がまだ薄暗く、東の空にかすかに陽が差しはじめたころ。ヒスイは、寮の廊下を一人歩いていた。
制服にはまだ袖を通しておらず、部屋着のまま――まるで、決意を固める前の最後の静けさのようだった。
彼女は、静かに足を止める。
目の前には、東堂コハクの部屋。
昨夜からずっと考えていた――“逃げてはならない”と。
東堂セツカの瞳に見覚えがあった理由。そして、コハクとセツカの奇妙な共通点。すべてを無視してはいけない、と。
(……いつまでも逃げてばかりじゃいられない)
ヒスイは、そっとインターホンに手を伸ばす。だが――その直前。
「……ひっく……うぅ……もうマジで無理……死にそう……退職代行使って飛ぶわ……」
中から聞こえてきたのは、啜り泣きのような声。耳を疑うようなトーンで、まるで疲れ果てたOLのような弱音が続く。
「……あ、でも私、帰るとこないしな……」
その“間の抜けた”声に、ヒスイは一瞬、耳をそばだて、目を丸くする。
(え……なにこれ……コハク……?)
驚きのあまり、インターホンに触れていた手を引っ込めかけたそのとき――ガチャリ、と唐突に扉が開く。
パジャマ姿。髪はぼさぼさ。顔はむくみ気味で、目元は赤く腫れている。
「……ねぇ、君もそう思わない……?」
そう言いながら、ドアの向こうから現れたのは――まさしく、東堂コハクだった。
「君、こないだもいたよね……?」
眠たげで焦点の定まらない視線のまま、ヒスイの顔をぼんやりと覗き込む。
ヒスイは、言葉を失った。
(……これが、“鬼”って呼ばれてる東堂コハク……?)
あまりのギャップに思考が追いつかず、ヒスイはつい視線を逸らしながら、ぎこちなく呟いた。
「い、いや……なんでも……ありません」
すると、コハクはぽそっと「あっそ……」とつぶやきながら、ゆるくドアを閉めようとする。
が――
「あ……その……」
ヒスイの口から、不意に言葉がこぼれた。
「この前は、ありがとうございました。私たちが……川上のとこで、ターゲットを逃してしまった時……助けていただいて」
その一言に、コハクの手が止まる。数秒の沈黙のあと、コハクはドアの隙間から、片目を覗かせるようにして答えた。
「あー……まあ、仕事だからねー……」
力の抜けた、けれどどこか“本音”のような声。そして、今度こそ、扉は静かに閉じられた。
ヒスイは、静かにその前に立ち尽くす。
目の前の“鬼”は、想像していたよりも――ずっと人間くさかった。そして、その扉の向こうに隠されているものの深さを、ほんの少しだけ垣間見た気がした。
世怜音女学院・東校舎――
地下の教官室。その静寂はまるで“尋問”の前触れのように、冷たく張り詰めていた。
サンゴは、正面のデスク越しに座る環崎を見据えていた。眼鏡の奥、鋭く研ぎ澄まされた視線。その中には、わずかな怒りと、冷静な分析が共存していた。
「……いつから、マルウェアを仕込んでいたんですか」
第一声は、端的かつ明確。
情報屋としての疑念を、遠慮なく突きつけた。しかし、環崎は表情を一切崩さず、静かに指を組んで返した。
「私は何もしていない。北小路ヒスイに紹介された場所を使っていたのは――君のほうだろう?」
その声は穏やかだが、どこか“見下ろすような”余裕を帯びていた。サンゴは一瞬、視線を彷徨わせる。そして、ふと呟く。
「……あのWi-Fiか……」
思い出すのは、先日使った東校舎地下の一角。「快適な作業環境の誘惑には逆らえないからね」と喜んで借りたあのWi-Fi。それが感染源だったと考えれば、腑に落ちる。
「……肝心なところが抜けているようだな。ヒスイの言う通りだ」
環崎の言葉は、まるで鋭利なナイフのように、サンゴの胸を突く。
「我々の元に来れば――もう少し、マシになるかもしれないが……どうだ?」
サンゴは無言でその言葉を受け止める。環崎はさらに言葉を重ねた。
「君が“協力者”として仕事を手伝ってくれているのは歓迎しよう。だが――それはあくまで管轄内の話だ」
「管轄外での行動は、我々では保証できない。……最悪の場合、ヒスイと君が――殺し合うことになるかもしれない」
重く響くその言葉に、サンゴはようやく口を開く。
「僕は兵隊ではないので、そうはなりませんよ」
その口調は静かで、だが芯のある拒絶を含んでいた。
「……分は弁えています。ただ、こちらもクライアントとの守秘義務があります。それを守れないようでは――情報屋としての仕事ができません」
環崎の表情に、わずかに微笑が浮かぶ。
「……ふむ」
サンゴは一礼をし、身を翻して教官室を出ていく。
東校舎、静かな午後の廊下。教官室から出て数歩も歩かないうちに、角を曲がって現れたのはヒスイだった。
訓練帰りなのか、制服の上着を片手に持ち、いつものように鋭い眼差しでこちらを見る。だが、その目には何か少し、言いようのない重さがあった。
「……環崎教頭も井ノ原教官も、あんたに隠してることは山ほどある」
言葉は挨拶もなく、冷たく放たれた。
「私も……自由の身じゃない」
サンゴが目を見開きかけた瞬間、ヒスイは無表情のまま言葉を重ねた。
「命令なら、あんたのことは平気で騙すし、利用する」
「それは私だけじゃない。アスカも、セイラも、クオンも……コハクも、そう」
言いながら、ヒスイはふいに指で銃の形を作り――その人差し指を、サンゴの額に軽く当てた。
「――あんたを殺せと命じられれば、当然……」
沈黙。
だが、サンゴはそのまま微動だにせず、指の感触を額に受け止めたまま、静かに息をついた。
そして、
「……僕は、東のみんなの敵にはなりたくないな」
ふと、眼鏡の奥の瞳がわずかに揺れる。
「……マルウェアに感染してた原因が、世怜音女学院にあったって気づいたとき、怖かったんだ」
「死ぬことよりも……スピちゃんやセイラさんに、憎まれるかもしれないって……それが怖くてさ」
苦笑交じりに肩をすくめる。
「バカみたいでしょ?」
そう言って、サンゴはそっと手を差し出した。
「……僕は、僕を守り続けるよ。決して、みんなの敵にならないために」
「僕に期待してくれる誰かのために――“ベルリンの本懐”で、うずくまるために」
その言葉に、ヒスイは少し目を見開いた。
「それで命を失うなら、それでも構わない」
「だから……これからも僕に力を貸して」「たくさん、僕を騙して、利用してよ」
ヒスイはその手をしばらく見つめ――そして、呆れたようにため息をついた。
「……またチグサに怒られるぞ、あんた」
そう言って、ヒスイはサンゴの差し出された手を軽く叩く。
その音は、小さく、だが確かにふたりの間にあった“壁”のひとつを、静かに崩していった。
東校舎の廊下。放課後の静けさが残る中、サンゴとヒスイは並んで歩いていた。足音は、響くほどでもないが、二人きりの空間に柔らかく残る。
しばらくの沈黙のあと、ふとヒスイが歩きながら、じっと隣のサンゴを横目で見る。
(……こいつ、さっき「スピちゃん」って言ったよな?)
思い出せば、たしかに環崎の話の流れで「スピちゃんやセイラさんに憎まれるのが怖い」って――
「スピちゃんってさ、たまに西校舎の購買使ってたりするじゃん…?」
何気なく呟いたサンゴの一言。明らかに内心混乱しつつも、表情は取り繕いながら、ヒスイは小さく問い返す。
「……その呼び方、何?」
サンゴは肩をすくめるように笑って返す。
「この方が可愛いと思って」
ヒスイの頬がほんのり引きつる。
「ダメなら別の呼び方にするけど……じゃあそうだな、メンヘラのお姉――」
「スピちゃんで良いから!!」
ヒスイは顔を赤くしながら、全力で遮った。その勢いにサンゴは目を丸くしつつも、ふふっと小さく笑った。
「了解、スピちゃん」
どこか楽しげにそう返すと、ヒスイは再びため息をつきながらも――その横顔には、微かに笑みの影があった。東校舎の廊下を歩きながら、サンゴはふと足を緩め、少し興味深そうな顔で口を開いた。
「スピちゃんって、西校舎の購買たまに使ってるじゃん?」
ヒスイは一瞬だけ身構える。
「気になってさ。もしかして――チョコミントとか、好きだったりする?」
その問いに、ヒスイは目を逸らし、わずかに頬を赤らめながら答えた。
「いや、別に……購買では、飴とか……買ってるだけだし。東校舎だと、品揃え少ないからね……」
ごまかすように呟くヒスイを見て、サンゴは少しだけ口元を緩めた。
「……うちの購買、アイス売ってるじゃん?」
「ん?」
「でね、たまに夕方くらいに行くと――チョコミントだけが、無くなってることがあるんだよ」
ヒスイの眉が少し動く。
「……バニラとかストロベリーは人気あるから分かるけど、チョコミントってさ、好き嫌い分かれるじゃん? だから、普通は結構残ってるのに」
「でもさ、ある日だけは、チョコミントだけが一個も残ってないの」
ヒスイはそっけなく返す。
「……他の味が無くて、妥協してる奴らがいるんじゃない?」
だが、サンゴは小さく首を振る。
「違うんだよ。1つ2つは残ってるんだよ、バニラもストロベリーも。でも、その日だけ――チョコミントだけ“完売”。他は微妙に残ってる」
そして、サンゴの声は少しだけ真剣味を帯びる。
「しかも、放課後から何時間か過ぎた“夕方”の時間帯。部活動の子に差し入れって言っても、購買でそんな風に大量に買っていくかな?注文もなしで?」
ヒスイは、思わず足を止め、横目でサンゴを見る。
何かを読み取ったようなサンゴの目に、ヒスイはただ、口を閉ざしたまま歩みを再開した。そして――その背中は、わずかに硬くなっていた。
夕暮れが近づく東校舎の廊下。サンゴと別れたあと、北小路ヒスイはひとり、寮の自室へと歩いていた。
「追いかけたくなるもの、か……」
サンゴが言った言葉が、心の中に残響のように残っていた。そのとき、ふと脳裏をよぎったのは――今朝のコハクの姿。
泣きながら「退職代行使って飛ぶわ……」と呟いていた、あの間の抜けたような姿。
むくんだ顔、ぼさぼさの髪、気の抜けた声。だが、ヒスイは知っている。訓練中の東堂コハクは――まるで別人だ。
(……あれが、あの冷酷な“琥珀色の少女兵”?)
心の中で問いかけるように、自室の椅子へ腰掛ける。デスクの上には、訓練記録のファイルと、部屋割りの一覧表が開かれている。
「……そういえば、コハクの部屋も“同居人がいない”んだったっけ」
それは、東校舎では珍しいことではない。だが、コハクに限っては――
「最初に殺したのは、同居人だった」
ヒスイの胸に、冷たい記録の断片がよみがえる。
「親友だった子は“裏切り者”になって――処分対象になった」
「愛人だった男のエージェントも“スパイ”だった。任務の遂行上、排除せざるを得なかった」
「腕がいいだけじゃない。命令があれば、誰であろうと躊躇なく引き金を引く」
その冷徹さゆえに、彼女は“鬼”と呼ばれるようになった。ヒスイはゆっくりと目を閉じる。
(でも……今朝の彼女は――そうは、見えなかったな)
ぽつりと、呟くように。
静かな部屋の中、ヒスイは無言で天井を見つめた。そして、ただひとつの言葉が、心の奥に残った。
――追いかけたくなる。その瞳の奥に、何があるのかを。
夜が深まり、東校舎の寮も少しずつ静けさに包まれ始めていた。
自室の椅子に腰かけたまま、北小路ヒスイはじっと手元のファイルを見つめていたが、視線はそこにはなかった。思考はただ一人――東堂コハクに向けられていた。
(……昨日の朝、あんなに塞ぎ込んでたのは)
(多分、あの仕事のせいだろう)
「多分、そこで――何かがあったんだ。鬼を泣かせるほどの、何かが」
恋人も、親友も――真顔で殺した彼女が、である。情け無用、命令第一の“鬼”が、あそこまで無防備に弱音を吐いていた。
(……あれほどの人間が、そんな風に折れる仕事って、何だよ……?)
だが、ふとヒスイの思考が転がる。
(……いや。もしかして――)
(“そっち”が、本当の東堂コハクなんじゃないか?)
いつも見せている冷酷な顔こそが、仮面。誰にも触れられないために、彼女が必死にまとってきた“鬼の皮”なのではないか――。
その仮説が頭を離れず、ヒスイは立ち上がった。
「……セツカ」
あの深海のような蒼い眼差し――コハクと似たあの眼を持つ少女。あの子なら、何かを知っているはずだ。そして、それに一番近いのが――周央サンゴだった。
(あいつ……確か、今日の放課後、購買で“調査”してるって言ってたな)
思い出した瞬間、ヒスイは寮を出て、静まり返った東校舎を抜ける。目指すのは、西校舎の購買部――サンゴが何かを追っているという場所。
(スピちゃんって呼ぶやつのとこに、仕方なく行くんだからね)
自分にそう言い聞かせるように、小さく舌打ちをしながらも――ヒスイの歩みは、どこか迷いのないものだった。