夕暮れ、購買部の窓から差し込むオレンジ色の光が、床を長く照らしていた。サンゴは、店内のアイスコーナーの前に立ちながら、思考を巡らせていた。
「……多分、チョコミントアイスを買ってるのは――東校舎の生徒だ」
指先で空になった冷凍ケースをなぞる。
「西校舎の生徒なら、食べきれないほどのアイスを買う必要はない。教室に冷凍庫なんて当然ないし、そんなに買えば、溶けちゃう」
一歩、購買の外に出る。涼しい風が、制服の裾を揺らした。
「仮に寮を使ってる子でも……西の校舎の子なら、もっと近いコンビニを使う。わざわざ購買に何度も来る理由はない」
――では、なぜ購買なのか?
「暗殺なら、夕方や夜の方が向いているはず。」
「スピちゃんが昼に来てたのも、夜だと仕事があるからだ」
「東の兵士でも、恐らくあまり忙しくない人間……それこそ、頻繁に使い走りされるような立場じゃない。自由に動けて、そして――何かを隠せる」
サンゴは目を細め、購買の出入口を見つめた。
「それこそ……切り札のような――」
冷凍庫の前で、大きめのビニール袋をぶら下げている一人の少女。
夕陽の光に照らされた長い髪。制服の裾には訓練の痕がかすかに残っている。その手には――大量の、チョコミントアイス。
――東堂コハク。
コハクは一切の表情を動かさず、冷たい目でサンゴをじっと見つめていた。その視線には、「見たな」と言わんばかりの警告が滲んでいた。
サンゴは、動じることなく、ただ静かに一歩だけ後ろに下がる。
「やっぱり……」
冷凍ケースに残された冷気の中、サンゴとコハクの視線が交錯する。言葉は交わされない。だが、互いに心の内では――明確な何かを“察して”いた。
チョコミントアイスの袋を提げたまま、コハクはサンゴの前に立ち、無言で――
「……え?」
アイスのひとつを差し出した。
サンゴは目を瞬かせた。
次の瞬間。
「なんでもするんで!!今回は見逃していただけませんか!!」
突然、アイスの袋を足元に置き、コハクが地面にひれ伏した。完璧なフォームの土下座だった。
そのあまりの展開に、サンゴは口を半開きにして固まった。
(……は?)
「ちょっと……ど、どういう……」
唖然と見つめるサンゴの視線の中で、コハクはゆっくり顔だけを上げる。その表情は――必死、というより、気まずさに満ちていた。
「……あの、アイス……溶けちゃうんで……帰ってもいいですか……」
「もう……買い占めとかしませんから……」
正座に移行した姿勢のまま、コハクは視線を上げ下げしながら、サンゴの顔をじろじろ見てくる。
その様子は非常に情けなく、必死だった。
「ちょ、ちょっと待って……その……」
サンゴは混乱したまま、思わず一歩後ずさる。言葉が見つからず、思考も追いつかないまま――
夕暮れの光が差す西校舎の裏路地を、サンゴと東堂コハクは並んで歩いていた。少しだけ距離を取るように歩くコハクを、サンゴは横目でちらりと見やった。
こうして見ると……本当に、セツカに似てる。
黙って歩くその背中。肩の線、歩幅の癖、時折ふと視線を下に落とす仕草――どれも、あの深海のような眼を持つ東堂セツカを思い出させる。
しばらくして、コハクがぽつりと口を開いた。
「……あの日。なんで、姉さんと一緒にいたの……?」
問いかけは唐突だったが、どこか気になるようでもあった。サンゴは一度だけ頷いてから、静かに答える。
「……セツカは、祖父の愛弟子だった人だよ。祖父が亡くなってからは、ずっと……彼女に、情報屋のイロハを習ってきた」
その答えに、コハクの足取りがわずかに止まり、またゆっくりと動き出した。
「……じゃあ、多分、君の方がずっと……姉さんを見てきたんだね」
声は震えてはいなかったが、どこか押し殺したようだった。
「……久しぶりに見た姉さんは、私の記憶よりもずっと大きくなってたよ。もう……生きてるうちに会うこともないと思ってたのに」
「……でも、あの夜に見た姉さんは、変わらないままだった」
小さな笑みとも、涙ともつかない表情で、コハクは呟く。
「君の方が、ずっと“姉さんの妹”みたいだよ。こんな……人殺しよりも……」
その声には、言い知れない寂しさと後悔が滲んでいた。サンゴは、一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
その背中はあまりに静かで、あまりに“遠かった”。結局、サンゴは何も言えずに、ただ立ち止まった。
東校舎の柵の前で、コハクは一度だけ振り返ったが――その目には、もう先ほどの寂しささえ見せず、ただ淡々とした顔でうなずくだけだった。
「……じゃあね」
短くそう言って、東堂コハクは柵の中へと消えていった。サンゴはその背中を、しばらく見送ったまま、何も言わずに立ち尽くしていた。
夕陽に照らされた柵の前で、サンゴはただじっと立っていた。その背中を見送ったまま、サンゴは背後に気配を感じた。
「……どっちが、本当の東堂コハクだと思う?」
振り返らずに問いかける。その声は穏やかだったが、どこか確かに揺れていた。
「冷酷なコハクと、あの……年相応の元気だけど、ちょっとズレてるコハク……」
そのまま、背中越しに問いかけた先にいたのは――北小路ヒスイだった。制服の裾を風に揺らしながら、ヒスイは歩みを止め、静かに答えた。
「全部、本当のコハクなんじゃないの」
一拍置いて、ヒスイは言葉を重ねる。
「“任務の時と、全然性格が違って見える”っていうのなら、東の生徒にはよくある話。」
「命令一つで、血も涙もない殺人マシンへと姿を変える。……そういう風に、私達は育てられてる」
その言葉に、サンゴは目を伏せた。ヒスイは続けた。
「セイラがそうなるところ、あんたも見てたでしょ。」
沈黙。
しばらくの間、風の音だけが流れ、そして、サンゴは小さな声で言った。
「……人って、そんなに変われるものなのかな」
「虫も怖がるような優しい人が……あの、命を誰よりも大切に思うセツカの妹が……」
「……チョコミントアイスを買い占めたくらいで謝って土下座する女の子が、地下の駐車場を血みどろの地獄に変えてたんだ」
両手で、鉄の柵を握りしめる。その肩がわずかに震えていた。
「……もう、僕には、よく分からないよ」
ヒスイはその背中を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「――成長したんだよ」
その言葉に、サンゴの肩がビクリと震えた。そして、かすれるような声で、震えるように呟いた。
「……あれを、“成長”だなんて……思いたくない……!」
夕陽が、柵の影を長く引き伸ばす。その背中に、北小路ヒスイの声が、鋭く落ちた。
「……あんた、それ――言ってること、けっこうコハクに失礼だからね?」
サンゴは、驚いたように肩をすくめた。ヒスイは続ける。
「私にも同じこと言ってくれんの?」
その声には、
「……私だって、結構人、殺してるんですけど?」
ほんの少し怒りが混じっていた。
そのままヒスイはサンゴの肩をつかみ、ぐいと振り向かせる。その顔を見て、
「何、しょげたこと言ってんだよ……」
「素直に、“東堂コハクの本音が知りたい”って言えよ!」
「“身内の妹だから”ってだけで態度コロっと変えるなら、それこそ“天下無双”の名前が傷つくだろ!!」
「……継いだ名前を守ることが、課された使命なんじゃなかったのかよ。」
ヒスイは真正面から言葉をぶつける。サンゴは何も言わずに、ただヒスイの目を見返した。
ふたりの視線が、しばし交錯する。やがて、ヒスイはふっと息を吐き、小さく力なく呟いた。
「……わかった。じゃあ――ちょっと、カッコいいとこ見せてやるよ」
そう言うと、ヒスイはサンゴに背を向けて、東校舎の柵をくぐり抜け――迷いのない足取りで、その奥へと駆けていく。少女のその目には、まるで自分の子供を面倒くさがる中年の人間のような歪んだ背中が映っていた。
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翌日――東校舎・教官室前の廊下に設けられた小さな記入台。そこに、北小路ヒスイが腰をかがめて、真剣な表情でペンを走らせていた。
「……ふぅ……」
書いていたのは、面会希望届。宛先の名前には勿論――
そのとき、不意に背後から聞こえた声が、ヒスイの集中を破った。
「うお……ヒスイがこんなとこにいるとか……珍し」
物珍しそうな声。振り返るまでもなく、クオンのものであるとすぐに分かる。ヒスイは視線も動かさず、短くあしらった。
「ちょっと、放っておいてください」
しかしクオンは、それで退く性格ではない。にやにやとしながらヒスイの肩越しに手元を覗き込む。
「なになに~? 面会希望届? え、誰かに喧嘩でも売るの?」
そして――
「……と、東堂コハクぅ!?!?!?」
廊下に響き渡る大声。
ヒスイは眉をひそめるが、クオンは慌てて声を潜めて早口に続けた。
「ちょ、ちょっと!やめときなさいよ!鬼のこと呼びつけるなんて!シャレにならないって!!命が惜しいならやめとけ!!」
ヒスイは冷静に釈明しようとした。
「……別に、喧嘩を売るわけでは――」
だがクオンは一切聞く耳を持たず、ヒスイの書き終わった用紙をサッと取り上げ、丸めてポイとゴミ箱に放り込んだ。
「そんなことしてる暇あったら、走り込みでもしてきなさい!」
「……っ」
言い返す間もなく、クオンは軽やかな足取りで去っていった。ヒスイはしばし呆然とし、丸められた書類をチラリと見やった。
「……やっぱり、正攻法だと厳しいか……」
小さくつぶやき、ヒスイは教官室を後にした。
場所も変わって東校舎の寮。北小路ヒスイは、自室のベッドの上に仰向けになって寝転んでいた。
天井をぼんやりと見上げながら、思考は終わらぬまま巡っていた。
(……やっぱり、朝にチャイム押すしかないのかな)
(でも、さすがにもう対策されてるよな……)
昨日のコハクとのやり取りを思い出しながら、唇をかすかに噛む。今さらもう一度、あのテンションの彼女に会いに行くのは――かなり、勇気がいる。
視線を天井から外し、横を向いたとき、ふと思い出す。
(……鬼にも、“姉”がいるんだよな)
東堂セツカ。サンゴが語っていた“天下無双の愛弟子”。妹を育てるにふさわしい、穏やかで、誇り高い人物。
(……コハクも、あのお姉さんと、両親と……暖かい家庭を囲んでたのかな)
(そういう“普通の家庭”から来たのに――あそこまで冷酷になれるんだとしたら……)
思考がふと、自分の中へと潜っていく。
目を閉じると、浮かんでくるのは――遠い昔の記憶。
大きな駅。人の波。騒がしさ。その中で、小さな自分が、泣きながら一人で歩いていた。
誰も立ち止まらない。誰も気にかけない。ただ、手を引いてくれる人もいないまま、歩き続けていた。
(……あのあと、どうしたんだっけ)
遠く霞んだ記憶。助けてくれた誰かがいたのか、それとも一人で帰ったのか――思い出せない。
(……てか、パパとママ……どんな人だったんだっけ)
寝そべり、ヒスイは目元に腕を当てる。ベッドの上で寝転びながら、視線を天井に向けたまま。
(……鬼は、セツカの妹か)
サンゴの言葉が、耳に焼きついていた。
「地下の駐車場を血みどろにした“鬼”が、東堂セツカの妹だった」
(……初めて、シューターが仕事をした跡を見たサンゴは……そりゃ、ショックだったろうな)
(それが、親友の妹だったなら――尚更だ)
サンゴがいつも冷静な中で、あそこまで取り乱した理由が、少しわかった気がした。ふと、ヒスイの脳裏に浮かんだのは、あの朝の出来事。
パジャマ姿で、啜り泣きながら「退職代行使って飛ぶわ……」とつぶやいていたコハク。
やっぱり、あの時――“鬼”は、セツカとサンゴに出会ったんだろう。そのとき、心が揺れたんだ
それなら、鬼にもちゃんと“心”がある。命令には忠実で、冷酷で、感情を押し殺していても――本質的には“姉思い”で、好きなものを買い占めるようなガキっぽさも持ち合わせてるんだ。
でも問題は、その“本音”を本当の意味で理解してくれるかどうかってところだろう。
上辺だけの同情じゃなくて、ちゃんと中身を見てもらえるか。
それだけじゃない。思い浮かぶのは、かつて耳にした噂――
――友人を撃ち殺した。
――恋人を撃ち殺した。
その二つの事実に、冷たい重みが胸にのしかかる。
啜り泣きも、アイスの一件も……全部、“他の生徒を油断させるための演技”だったとしたら?
魂ごと、“冷酷な鬼”に染まりきってるとしたら?
その可能性を――完全に捨てきることは、できなかった。
推論だけではどうにもならない。この手で、確かめなければ。
静かな部屋の中で、ヒスイは無言のまま目を覚ます。己が感情も、ゆっくりと夕闇に溶けていく。
その夜、町外れの工場地帯に静かな足音が響いていた。
通用口の小さな扉がわずかに軋む。薄暗い工場の内部に、一歩足を踏み入れたのは東堂コハク。
その手には、蒼く鈍く光る旧式のリボルバー。
「……」
無言のまま、コハクはゆっくりと歩を進める。そして、目に映った最初の人間を、何の躊躇もなく撃ち抜いた。
背後にいたもう一人の男も。
右手に隠れていた一人も。
迷いも、戸惑いもない。淡々と、次々と命を奪っていく。
銃声が工場に反響し、血が鉄板の床に跳ねた。弾が切れると、流れるような動きで再装填。指の動きに一切の無駄がない。コハクは外へ出て、通用階段を駆け上がった。その動きはまるで機械のように正確だった。
上の階――身を潜めていた見張りの男が、至近距離から懐に飛び込んでくる。
だが、男が刃を抜くよりも早く、コハクのナイフがその喉元を切り裂いていた。
一瞬で沈黙が訪れる。階段を再び下り、工場内に戻ると、さらに二人の敵が襲いかかってきた。足を鋭く蹴り上げ、片方の男の膝を折ると、バランスを崩した隙に二人まとめて頭部を撃ち抜く。
血しぶきがコハクの頬をかすめるが、表情ひとつ動かない。その後も、工場内の暗闇を隠れながら進み、やがて人気の気配の強い一室を見つける。
迷いなく、手榴弾のピンを抜く。無造作に部屋の扉へ投げ込む。
直後、爆音と共に部屋全体が吹き飛ぶ。
壁が崩れ、
火花が散り、
煙と血の臭いが漂う。
コハクは崩れた部屋の中に踏み込む。倒れた数体の死体を見て、ゆっくりと一人の男の髪を掴み、顔を確認する。
「……こいつか」
一言だけ、感情のない声で呟き、髪を乱雑に放してその場を去った。
静まり返った廊下に出ると――
「……あ」
戻ってきたばかりの少年が、立ち尽くしていた。その目には恐怖と混乱、そして一瞬の認識。
コハクは一歩も立ち止まらず――無言で、少年に向けて引き金を引いた。
銃声が響く。
幼い少年の体が崩れ落ち、再び工場に沈黙が戻った。
夜の静けさが戻った作戦現場――鉄の香りを纏ってワゴン車の後部扉を開けたコハクの目に飛び込んできたのは、
「……お疲れ様です。」
車内でちょこんと座っていた、北小路ヒスイの姿だった。微妙に照れたような表情で、ヒスイが声をかけてきた。
「えっ……あれ? うちのスナイパーと斥候は?」
気の抜けた調子で問いかけるコハクに、ヒスイは少し視線を逸らしながら答える。
「……ガンケースだけ置いて、電車とバスで帰ってもらいました……。仕事から帰ってきた後、私と入れ替わりです……」
その答えに、コハクは目を見開きつつも、振り返って運転席を覗き込む。
「ちょっとリツカ! これ、どうなってるの!?」
運転席にいたのは、長髪の生徒――同じ部隊の支援兵であるリツカ。申し訳なさそうに肩をすくめて答える。
「彼女が……コハク様に、是非差し入れをしたいと……。他の兵種の生徒もいるからと止めたのですが……そしたら、他の生徒の分もあるから、と……」
そのやり取りの横で、ヒスイは紙袋を取り出し、差し出した。
「……これ」
中には、少し減って隙間の空いたマカロンの詰め合わせ。
コハクは無言で袋を受け取ると、中のひとつを手に取って――丁寧に、半分に割った。そして、その半分をヒスイに向けて差し出す。
「……食べて」
やや呆れたように眉を下げながらも、言われたとおりに口を開けてマカロンを受け取った。
コハクはしばらくじっとその様子を見て――何事もなかったことを確認すると、自分の手に残ったもう半分を口に運ぶ。
ワゴン車は、工場跡を離れ、夜の街道を静かに走り出す。車内の灯りは落とされ、わずかな街灯がフロントガラス越しに流れていく。
「……この間のお礼、とかなら……もういいんだけど」
コハクが、ふと呟く。ヒスイは、その声に少しだけ身体を起こしながら言葉を返した。
「……ちょっと、お願いしたいことがありまして……」
その声はどこか曖昧で、躊躇いがあった。
「私……その……アサルトライフルの免許が取りたくて……」
「それで……実戦経験も凄いコハクさんに、是非……ご鞭撻をいただきたいなあって……」
言いながら視線を逸らす。表情には、微かな照れと
(……本当は、サンゴのわがままと、私の興味本位。今の“鬼”がどんな人間なのか、近くで見極めたいってだけなんだけど……)
――隠しきれない計算。そう思いつつも、表には出さず、静かに息を呑んでコハクの返事を待つ。コハクはしばらく黙っていたが、やがて真面目な表情で答えた。
「……確かに免許は持ってるけど……もっと、良い指導役いるでしょ?」
的を射た意見だったが――
「……実戦経験であれば、コハクさんに勝る人間はいないと思います」
「それに……以前お会いした時も、こう……話しやすい印象を受けたので」
ヒスイは落ち着いた声で返す。
「……なんか、正直に言われてる気しないなぁ……」
探るようにヒスイの顔を見るが――そこには飾り気のない、妙に誠実そうな顔。
コハクは肩をすくめて、小さく笑った。
「……仕方ないなぁ」