翌日――
「やっぱり、照準を定めるならテニスが一番なんだよねぇ」
朝の柔らかな陽光の中、東堂コハクは北小路ヒスイを連れて西校舎のテニスコートに現れた。
白線の引かれた静かなコート。誰もいない時間帯を狙っての、特別な訓練の始まりだった。
コハクはテニスラケットを手に軽く構える。その動きは流れるように美しく、フォームには一切の無駄がなかった。
パチンッ――!
乾いた音とともに、コハクの打ったボールが、反対側のコートに設置された小さな得点板を的確に打ち抜いていく。
「……こんな特技もあったんですね……」
ヒスイは驚いた表情で、ラケットを握りながら呟いた。
その視線は一瞬、テニスコートの柵の外――少し離れた木陰に立つ、小柄な人影へと向けられる。
(……ちゃんと、あいつも来てるな)
サンゴの姿を目視で確認し、ヒスイはわずかに頷いた。
「同じ同じ!遠くのものは狙って、近くのものは当たりやすいように力抜いて!」
コハクは笑顔でヒスイにラケットを渡す。
「じゃあ、やってみて!」
ヒスイはラケットを構え、コハクが手渡したボールを手の中で軽く弾ませてから、ややぎこちないフォームで打ち返す――
――だが、ボールは高く浮かび、得点板どころかネットすら越えなかった。
「うっ……」
「大丈夫大丈夫、最初はみんなそんなもん!」
コハクが励ますように笑い、次のボールを手渡す。
二球目――今度はネットを越えたが、大きく左に逸れて得点板からは外れた。
三球目――ラケットの中心を外し、スライス気味に跳ね上がって後方へ飛んでいく。
四球目――ようやくネットを越え、コート内に収まるも、得点板の手前でバウンド。
「力、少し抜いて。ラケットを振り切るより、ボールの“軌道”を意識して!」
アドバイスを受けながら、ヒスイは徐々に動きに柔らかさを見せはじめた。
五球目――得点板のすぐ横をかすめる。
「おっ、惜しい!」
六球目――得点板の下縁に、コツンと軽く当たった。
「当たった!」
七球目――打球が真っすぐに飛び、得点板の端に直撃。得点板がキィンと高い音を立てて揺れる。
「なんか……上手くなってきたかも……」
ヒスイが信じられないような顔で呟くと、コハクは大きく頷いた。
「うん、いい感じだね。君、結構才能あるかも!」
満面の笑みで褒めるコハクの声に、ヒスイは照れたように口元をほころばせた。フェンスの外――サンゴはその様子を見つめたまま、無言で立ち続けていた。
ヒスイの打球が次第に得点板に当たり始める頃には、テニスコートに軽快な打球音が一定のリズムを刻んでいた。
「じゃあ次は――」
コハクはそう言って、得点板の高さを変える。床に近い低位置、そして肩の高さよりも少し上――不規則に並べられたターゲット。
「動きながら打ってみよっか。実戦って、立ち止まってる時間のほうが少ないからね!」
「えぇ……動きながら……?」
ヒスイはラケットを握りしめ、小さくため息をついたが、すぐに気持ちを切り替える。コートに置かれたボールを足で転がし、前後にステップしながらボールをすくい上げ――
スパンッ!
得点板の下縁を、ボールが鋭く打ち抜く。
「おっ、いいね!」
コハクの声が、コートに弾む。
「今度は少し走って、左右の得点板を交互に狙ってみて!」
コハクの指示に従い、ヒスイは左右に動きながら球を拾って打つ。
最初はバランスを崩して空振りしたり、ボールが力なくコートの外へ転がっていったりもした。だが、5球、10球と重ねていくうちに、動きに無駄がなくなり、呼吸も整いはじめた。
右の得点板に当てる――戻るステップ――次のボールを拾う――左へ踏み込み――振り抜く――
カン!
左の得点板が揺れた。
「やった!」
「すごいすごい、良い流れになってきてるよ!」
コハクは、ヒスイの動きを観察しながら満足げに頷いている。一方、ヒスイは汗ばんだ額をぬぐいながら、小さな息を吐いた。
「……これ、案外……楽しいかもしれない……」
「でしょ? ちゃんとターゲットに当たると、気持ちいいでしょ?」
「はい。……でも、これでアサルトライフルの訓練になるんですか?」
コハクはにっこり笑って、ヒスイのラケットの柄をとんと指で叩く。
「“狙って、弾道をイメージして、正確に撃つ”って意味じゃ、かなり近いよ。狙撃手みたいな一発勝負じゃなくて、連続で精度出す必要があるなら、むしろ近いかもね」
「なるほど……」
ヒスイが感心して頷いたそのとき――柵の外のサンゴが、ふと目を細めてこちらを見ているのがわかった。
まるで、“鬼”と“兵士”の仮面の隙間から、何かを覗き込んでいるような視線だった。ヒスイはラケットを握り直し、小さく意気込む。
「じゃあ、次はラリーとかやってみる?」
そう言って、反対側のコートへ軽やかに回り込む。ヒスイは「まぁ、ちょっとくらいなら……」と気軽な気持ちでラケットを構えた。
だが――
「いっくよー」
放たれたボールは、まるで弾丸のようなスピードだった。
ビュッ――!
風を切る音すら聞こえるような一撃が、ヒスイの横を通過し、得点板に突き刺さる。
「いや、無理でしょ……」
ヒスイは唖然とした顔で呟いた。それでも、コハクは笑顔のまま言う。
「ちゃんと目で見て、どこにボールが来るか考えて打ち返してみな?」
その言葉と共に、またしても同じ速度のボールが放たれる。
「そんなこと言われたって……!」
ヒスイはコート内を必死で駆け回る。足元を滑らせながらも、目を凝らし、なんとか追いすがる。
打ち返すことはできない――それでも、集中力と運動神経を研ぎ澄ませ、動きの予測を重ねていく。
構える暇もなく、次のボールが跳ねてくる。今度は右前方。ヒスイはスライド気味にステップを刻み、追いつこうとするが――
――ボールは、わずか数センチ外側をかすめてフェンスへ。
ラケットが空を切る。ヒスイは軽く肩で息をしながら、それでも必死に次の球を追いかける。
また左。また右。
角度を変えて、
バウンドを変えて、
コハクの球は容赦なく襲いかかってくる。
「ぐっ……!」
スカートの裾が風で翻り、汗が額ににじむ。ステップの度に靴が砂を蹴り、滑るように走るが――それでも、ボールは捕まえられない。
フェイントのように打たれたロブ。今度は頭上を超えて、背後に落ちる。
ヒスイは振り返りながら駆け戻るが、間に合わない。
「……ちょっと、手加減って言葉、知ってます?」
遠くから返すと、コハクは笑顔のまま次の球を構えていた。
「大丈夫。あと10球も打てば、慣れてくるって♪」
ヒスイはラケットをぎゅっと握り直し――まだ止まない猛攻に、なおも立ち向かう。
ヒスイは息を切らしながら、コート内を何度も駆け回っていた。
スニーカーのソールが砂をかき、身体が何度も左右に振られる。けれど、最初と違って、ほんの少しだけ――ヒスイの動きに“予測”が混ざり始めていた。
(次は……こっちに来る)
肩越しに放たれるボールの軌道が、少しだけ読めるような気がする。
コハクの身体の向き、視線、スイングの初動――それらがなんとなく、ボールの“行く先”を教えてくれている気がした。
「……えいっ!」
ヒスイは左前方へ滑り込むように足を出し、ラケットを突き出した。――しかし、惜しくもボールはラケットの下をすり抜けていった。
「くっ……!」
まだ、届かない。けれど――体が遅れても、目は少しずつ慣れてきている。
耳元を掠めていた球が、わずかに遅れて見えるようになってきた。身体のバネも、数分前より反応が速い。
(次は……右!)
コハクの腕の動きから反応し、ヒスイは一歩目を素早く切った。これまでよりも早く、そして――ボールが、目の前に現れる。
――スパン!
そのとき、ラケットの先端に――かすかに、ボールが当たった。
その音は、小さな手ごたえだった。完璧な返球には程遠い。ボールはそのままラインの外へ転がっていった。
だが、確かに“当たった”。
「っ……」
ヒスイはその場にしゃがみ込み、肩を上下させながら小さく呟く。
「……やっぱり、無理ですよ……」
吐息にまじる苦笑。ラケットを握る手に汗がにじんでいた。
そんなヒスイを見て、反対側のコートにいたコハクは――軽い調子で言った。
「初日で当たっただけ、リツカより優秀だよ」
「リツカなんか、最初はコートの外に逃げたからね」
その言葉に、ヒスイは目を瞬かせ、苦笑いを浮かべた。コハクの笑顔は変わらないままだが――その口調は、ふと真面目な色を帯びた。
「……そろそろ、本当のこと話してくれるかな?」
真っ直ぐに、問いかけるような視線がヒスイに向けられていた。静かに、空気が変わる瞬間だった。
西校舎のテニスコート。
朝の光がまだ柔らかく降り注ぐなか、練習の熱が徐々に冷めていく。その中で、ヒスイは息を整えながら、視線を静かにコハクへと向けた。
(……ここで誤魔化しきれる相手じゃない)
そう、直感的に悟る。
「……落ち着いて話したいので、場所を変えませんか」
そう提案したヒスイに、コハクは一切表情を変えずに答える。
「……あんまり、人の手の内に入るもんじゃないよ。話せることがあるなら、先にここで話して。」
ヒスイは一瞬だけ口を閉ざすも、すぐに決意を固め、声のトーンを落とす。周囲に聞かれないよう、ギリギリの小声で問いかけた。
「……どっちが、本当のコハクさんなんですか?今のコハクさんと、噂で聞く“鬼”の東堂コハクは、全然違う」
コハクの目がわずかに揺れる。しかし、それはほんの一瞬で――すぐに冷静な顔へと戻った。
「……なんで、そんなことを聞くの?」
その言葉には怒りも呆れもなく、ただ――静かな疑念と探る意志が含まれていた。
ヒスイは視線を逸らさずに続ける。
「……本当のあなたが、見えないんです」
「いつも訓練で見ていたあなたは――“鬼”の名の通り、冷徹に裁きを下す“執行者”のような印象でした」
「でも……あの朝、あの啜り泣きや、マカロンの件のあなたからは……そんな印象は受けませんでした」
「なんというか……年相応の、触れやすい雰囲気を持っていた」
真っ直ぐに言葉を重ねるヒスイの声は、抑えられていながらも、確かな熱を帯びていた。
テニスコートには一瞬の静寂が訪れる。コハクはラケットを片手に、その言葉のすべてを飲み込むように、静かに立ち尽くしていた。