静かな東校舎の地下通路。ひんやりとした空気が、薄暗い照明の下で響く足音を飲み込んでいく。
誰もいないこの空間に、ヒスイとコハクのふたりだけの対話が響いていた。ヒスイは目の前のコハクをまっすぐに見据えて、言葉を選ぶことなく口にした。
「……あなたが何を思って、人を殺めてきたのか――私には、分からないんです」
「友人だって、愛人だって……きっとその年相応の顔で、あなたと笑い合っていたはずなのに」
「それでもあなたは、任務の名のもとに、たくさんの人を殺め続けてきた……」
「そのとき、あなたは……何を思っていたんですか?」
ヒスイの声は真摯だった。好奇心でも憐れみでもない。探るようでいて、触れるような真心。
だが――コハクはそれをすぐに受け取らなかった。
「……あなたの言いたいことは分かったよ。でも、私が言いたいのは――そういうことじゃない」
少しだけ冷ややかな声音で、コハクはそう返した。
「君はそのことに、そこまで興味はないよね」
「確かに、『知れれば良いや』くらいには思ってるかもしれない。でも……人の部隊に乗り込んだり、何日か私を貸し切る口実を作るほどの必死さは、感じられなかった」
「第一……お互い、東校舎の生徒なわけでしょ? 事情くらいは、弁えてるはず」
その目は、まっすぐヒスイを射抜いていた。飾らない言葉で、真意を問い詰めるように。
「もう一度聞くよ。……なんでそんなこと、聞くの?」
「君にそこまで“使命感”を抱かせてる正体は――何?」
その問いには、逃げ場も、余白もなかった。ヒスイの核心を、まるで見透かすような、鋭くも静かな声がそこにある。
「……仰る通りです」
地下通路の冷たい照明の下――ヒスイはコハクの問いに対して、逃げることなく答えた。
その短い言葉に、真剣な静けさが宿る。
コハクは、表情を変えずに少しだけ視線を落とす。
「なら……私が君に何を語っても意味はないんじゃないかな」
「その“使命感の正体”を――持ってきてもらわないと」
静かだが、明確な線引きを感じさせる口調。だが、ヒスイはその言葉にも動じず、少し口角を上げた。
「……連れてきます。と言いたいところですが――」
「もう、来てるので。持ってくる必要はないかと」
その直後、コツ、コツ、と小さな足音が地下の通路に響いた。
コハクとヒスイが振り返ると、廊下の向こうから、周央サンゴがゆっくりと歩いてくる。
制服の上着を少し崩し、眼鏡の奥の瞳は、普段以上に冷静に見えた。ヒスイはため息交じりに、口元を覆って小声で呟く。
「……当たり前のように東校舎に入ってくるな」
だが、サンゴはその言葉をスルーして、コハクに視線を向けた。
「ちょっと後にしてよ。今は真面目な話がしたいから……」
その声は、いつもの彼女の軽口とは異なる、真剣そのものの音色だった。静かな地下通路で、三人の空気が一気に引き締まっていく。
「……やっぱり、チョコミント買い占めたこと、怒ってる?」
軽く笑いながら投げかけた言葉には、わずかな逃げ道のようなユーモアが含まれていた。だが、サンゴは一言も返さず、ただじっとコハクの目を見つめていた。
その視線に、コハクは表情をすっと変える。
「……いや、違うよね」
「姉さんと、全然違うでしょ。私」
そして――
「……あんまり、人殺しのこと嗅ぎ回らない方がいいと思うよ?」
そう言って笑ったその顔は、まるで悪魔の仮面のようだった。冷たい笑みが浮かぶその表情に、ヒスイも思わず息を呑む。
(……確かに)
コハクに向き合うサンゴを横目で見ながら、ヒスイもまた、自分とサンゴの関係性を思い返す。血なまぐさい仕事をしている自分たちに、この桃髪はあまりにも深入りしすぎている。
このままでは、いずれ彼女の肉体も冷たくなりかねない。そんなことで頭が痛くなるヒスイであったが、そんな心配をよそに、サンゴは一歩も退かない。
少しだけ間を置いて、静かに口を開いた。
「……そうだね」
「僕には……セツカの妹であるあなたが、どうして地下室を死体の山にできたのかが、分からない」
その声は穏やかだが、確かな覚悟を孕んでいた。
「まるで、赤い塗料をこぼしたみたいだった」
「……いつも、あんな仕事の仕方をしてるの?」
目を細め、口元だけでかすかに笑う。
「そうだよ。それで?」
何一つ感情の色を滲ませずに――そう答えた。サンゴは、拳を握りしめるようにして言葉を続ける。
「辛くなかったの……? それとも、もう“辛い”って感情すら忘れてしまったの……?」
「正直……祖父の遺したリボルバーを、あんな風に使われるのは――あまりにも心苦しい」
「きっと、祖父が何を思ってリボルバーを遺したかを知ってるセツカは、僕以上に――」
そこまで言いかけた瞬間――
コハクの顔から、“仮面”が剥がれる。
目を見開き、わずかに息を呑んだような――何かを悟った顔。その表情には、明確な動揺が宿っている。
まるでどこか遠い昔の過ちに気づいたような、毒の抜けたような表情である。わずかに響く蛍光灯の軋み音の中で、サンゴの声だけが、静かに響いた。
「……ただ、憎めなかった」
「年相応に無邪気な様子を見せる、あんなあなたを見て――憎みきれなくなった」
「まるで、命の尊さを重んじ、凛とした態度で人と接していた東堂セツカが……殺人マシンに洗脳されてしまったような、そんな感覚になったんだ」
その言葉に、コハクは少しだけ視線を逸らし、面倒くさそうに眉をひそめる。
「……ふうん」
つぶやくその声は淡々としていたが、どこか目を逸らすようでもあった。
サンゴはそれでも一歩も引かず、真っ直ぐコハクの瞳を見つめる。
「どうなの、コハクは――コハちゃんは」
「セツカは、『ずっと怖がりな子だった』って言ってたけど……本当に、血も涙もない“殺人兵器”と化してしまったの?」
その沈黙に被せるように、次の言葉を重ねる。
「……理不尽なことばかりだ」
「こんな、くだらない仕事をしているせいで――みんな、狂っていくんだ」
「僕だって……好きで、こんな風に振る舞っているわけじゃないのに……!」
声が震え、頬を一筋、涙が伝う。
感情を必死に抑え込もうとしながらも、サンゴは目の前の少女――東堂コハクに、すがるような目で言葉を訴える。
地下通路の冷たい空気の中、しばらくの沈黙の後――コハクは、深くため息をついた。
「……本当の自分がどうかなんて、私にも分からないよ」
その言葉には、投げやりにも、逃避にも似た響きがあった。
「まあ……率直に言うとさ、それを変に推理されるのは……ちょっと気持ち悪いかな」
苦笑交じりに、コハクはそう付け加えた。
そして――彼女の声色は、どこか遠くを見つめるようなものへと変わる。
「ニシキのことも殺した。リンのことも殺した……好きで殺したわけじゃない」
「……本当は、ずっと一緒にいたかったよ」
目を伏せ、静かに言葉を紡ぐ。
「ニシキにも……お姉ちゃんがいた。そのお姉ちゃんが好きだったからって、肩身のぬいぐるみを、よく見せてくれたんだ」
「リンも……子供が好きで、よく他校の初等部の子どもたちと遊んでた。誰よりも、優しい目をしてた」
懐かしむような、哀しみを堪えるような、寂しげな声だった。その思い出の温度を受け取るように、ヒスイが口を開く。
「……ただ、リンは――優しすぎた。」
「彼女は……やってはいけないことをした。」
「錦山も……結局は、同じような吹き回しなのでしょう」
そして、ヒスイは真っ直ぐコハクを見て、穏やかに、しかし力を込めて言った。
「……あなたは正しいことをしたんです。東の人間は皆、それを理解しています。」
コハクはしばらくヒスイを見つめたあと、小さく呟いた。
「……鬼だなんて言う人もいるけどさ」
「15年生きてきた今でも、怖いことばっかりだよ。いまだに……暗い道は怖いし。好きなアイスでも食べなきゃ、やってられない」
その言葉は、純粋な一人の少女の嘆きだった。
殺し屋でも、執行者でもない――ただの、冷たい闇を耐え忍ぶ、孤独な“子ども”の本音であった。
「……でもさ」
一息ついて、目を伏せたまま言葉を続ける。
「昔、あの銃が姉さんから送られてきたとき――それが、私の“使命”なんだって思った」
「どれだけ悲しいことがあっても、それで……西の生徒達や、街の人達が、楽しく生きていけるなら」
「それが、私達の“正義”になるんだって……思ったんだ」
その声は、静かで、震えていた。コハクは唇を少し噛んで、目線を壁の向こうへと遠ざける。
「大好きな人を、この手で殺した」
「それは、とっても悲しいことだけど――でも、それで……日々すれ違う誰かの笑顔を守れるなら、それでもいいって、思った」
「……姉さんは、きっと、違うことを考えてるんだろうけどね……」
どこか諦めたように、切ない笑みを浮かべるコハク。
地下通路の奥から、声にならない気配が漏れてくる。
「……コハク様……」
東校舎の生徒たちが何人か、柱の陰から顔を出し、憧れの眼差しで覗き見していた。
コハクはその様子に気づき、面倒くさそうに肩を落とす。
「……こういうこと言ってると、こういう奴らに引っ付かれちゃうし……」
そのまま、生徒たちに顔を向けて叫ぶ。
「違うから!そんなんじゃないから!やめな君たちも!!」
顔を赤らめて逃げようとする生徒たちに釈明しながら、再びサンゴとヒスイの方へ向き直る。
「ただの人殺しだよ、私も、ヒスイも、あいつらも!」
「それだけは、いくら言い繕っても――変わらない!!」
言い放ったその声には、激情とも、清算ともつかない、剥き出しの感情が込められていた。そしてコハクは、もうそれ以上言葉を残さず――
「今日は練習上がっていいから!また明日ね!」
ヒスイに軽く手を振ると、そのまま駆け足で地下通路の奥へと走り去った。残されたのは、二人の少女の余韻だけだった。
夕暮れの光が東校舎の柵を朱に染め、静かに影を落とす。サンゴはその柵にもたれかかりながら、ぽつりと語り出した。
「……祖父の遺品は、二つしかないんだ。一つはこの眼鏡で、もう一つは――コハちゃんが持ってるリボルバー」
その眼鏡を指で軽く押し上げながら、少し寂しげに目を伏せる。
「でも、そのリボルバーは――弾丸が込められないように、シリンダーに細工がされてたんだ」
「セツカは……ショックだったと思う。一発も撃たせまいと、先代が封印したリボルバーが……何人もの命を奪っていた」
「それを――自分の、愛していた妹が行っていたんだから」
言葉は冷静だったが、その奥底に宿る悲しみは、隠しきれなかった。
「……僕も、怖かった。こんな仕事を強制されて、そこまで人が変わっていくのを――むざむざと見せつけられた気がして」
「僕やセツカが……“本来の自分”を失ってしまうほど、仕事のために自分を捨ててきたのと、同じように……」
ヒスイはその言葉を静かに受け止め、しばらく黙っていたが――ふと、真っ直ぐに言葉を返した。
「……成長したのよ」
前とは違って、今度のサンゴは否定しなかった。
「……そうだね」
「芋虫が、周りに合わせて姿を偽るように――みんな、それぞれの場所で、自分を奮い立たせて、必死に生きてるんだ」
「それを……“悲劇”みたいに言ったら、いけないんだよね」
サンゴは隣に立つヒスイを見上げて、ふっと微笑む。
「……今度、スピちゃんにも何があったのか、教えてほしいな」
その声音は軽やかで、けれどどこか本気を含んでいた。だが、ヒスイはそっけなく短く返す。
「ダメ」
「えぇ!?」と驚いて目を丸くするサンゴ。
そんなリアクションに、ヒスイは少し照れたように視線を逸らしながら、ぽつりと続ける。
「……今はね」
少し間を置いて、肩をすくめるように話し出す。
「でもさ、ンゴとかコハクさんみたいな、面白い話とか泣ける恋バナとかないよ?」
「……あーあ、私も敵のスパイと禁断の恋とかしてみたいなあ……」
そう言って、体を起こしながらぼやくように吐き捨てると――サンゴはくすっと笑いながら言った。
「スピちゃんは、自分がスパイだからね……」
その一言に、ヒスイはわずかに笑みを浮かべながら、空を見上げた。静かな夜風が、二人の肩をそっと撫でていく。
ヒスイも、その笑みに応えるように一息ついて――ふと、目を丸くする。
「えっ、ちょっと待って……セツカって、あの“東堂セツカ”!?あいつも……あれが素の性格じゃないの!?」
思わず声を上げると、サンゴは少し笑って答えた。
「うん……本当は、もっと男みたいな人だよ。セツカは」
その声には、懐かしさと、温かさが混ざっていた。