そこは、観光地として整備されかけた面影を残したまま、今では訪れる人もまばらな寂れた場所だった。木製の屋根がついた待合所には、どこかノスタルジックな装飾が残り、普段なら出店も出るスペースには、空っぽのテントやコンセントの延長コードが風に揺れている。
平日の夕方ということもあり、人影はなく、ひっそりとした空気が漂っていた。やがて、遠くからディーゼルエンジンの音が聞こえ、車庫から出てきたバスがゆっくりと停車した。
二人は何も言わずに乗り込み、後方の二人がけの席に腰を下ろす。バスが走り出してしばらくしたときだった。
「…まさか、そんなわけないでしょ。」
そう言いながら、サンゴはチグサのリュックの脇にそっと手を伸ばし、小さな金属片――小型ドローンを摘み出して見せた。
「えっ……なにこれ?」
チグサが驚いて声をあげると、サンゴはいつもの調子で淡々と答える。
「必要な写真、撮った。全部で1000枚。あとは取捨選択すれば依頼は終わり。」
サンゴは、半分ほど中身の残った瓶のコーラをチグサに渡しながら、少しだけ口元を緩めて言った。
「ありがとう。助かったよ。チグちゃん、怪しい動きとかしないからね。」
チグサはコーラを受け取りながら、ぽかんとした表情でしばらく固まり、「なんか…よく分からない…」と、肩を落として呟いた。
バスは、ゆっくりと坂を上り、再び町の灯りが広がる方へと向かっていった。
バスが街の外れの坂をゆっくりと登っていく車内、ガタゴトという揺れと共に、サンゴは小さな声で呟いた。
「西校舎の教頭は、確か……今川教頭……だっけ……」
その名を口にすると、自然と頭の中にその姿が浮かぶ。眼鏡をかけた中年の穏やかそうな女性。スーツのシルエットはきっちりしているが、堅苦しすぎるわけでもない。
どこかにでも居そうな“優等生の保護者”という印象を受ける佇まいだ。あまり直接話したことはないものの、特段話しかけにくいわけでもなさそうな、そんな空気をまとっている。
すると、隣の席でチグサが頷きながら口を開いた。
「そうだよ。ああ見えても西校舎の卒業生で、かなり家柄も良いんだって!」
そして少しだけ困ったような顔で続ける。
「教頭先生、結構他の部活にも顔出してるって聞くし、なんとかしてくれないかな…」
サンゴはコーラの瓶を少し揺らしながら、ぼんやりと車窓を眺める。チグサはさらに話を続ける。
「でも、東校舎の教頭先生ってどんな人なんだろ…凄い怖い人だったりして…」
そう尋ねられて、サンゴの表情がわずかに引きつった。
「う、うん……」
と気のない返事をしながらも、心の中では既に答えを知っていた。
(東校舎の教頭は確か……)
“環崎”。いつもの冷たい視線と、皮肉交じりの言葉が脳裏に浮かぶ。
……あれかあ。その存在を思い出すだけで、自然と眉間に皺が寄ってしまう。
バスの中、座席のクッションに身を沈めながら、サンゴはぼそっと呟いた。
「そもそも、文武両道を重視する世怜音女学院の部活が多いことなんて、今に始まったことじゃないのに……」
その言葉の裏には、素直な疑問と諦念が混じっていた。
世怜音女学院。今でこそ国に仕えるエージェントを育成する訓練校としての裏の顔があることをしってるが、世間的には国の文化である学業以外の活動を積極的に支援する学校として有名だ。
無論、生徒たちもこの学校には「文化に寛容な校風」を求めて入学してくる。それを滅ぼすとなれば、その脳内を疑う生徒たちで溢れかえるのは必然だろう。
とはいえ、権力者が赤と言えば赤。それはいつの時代も変わらない。
制度と伝統が交差する私立の名門校で、学生の立場で何かを変えることの難しさを、サンゴは痛いほど知っている。
一学生がどれだけ声を上げようと、学校関係者の一言であっさり覆されてしまう現実。それを“アニメのような奇跡”で打破できるとは、とても思えなかった。
普通、東校舎のように生徒は学校に隷属するものではない。
あくまで学校もまたサービスの一つであり、所詮、生徒はそのサービスを受ける「お客さん」でしかないのである。
それが嫌なら、転校するしかない。客は声を上げて反逆するのではなく、出ていくことで反逆するのが近道なのだ。
そんなサンゴの気持ちを読み取るように、隣のチグサは今にも涙が出そうな表情で訴える。サンゴは一度ため息をつき、言葉を選びながら口を開いた。
「……もし良かったら…ちょっと小さいんだけど、知り合いに劇団やってる人達がいてさ。まだ発展途上だけど、若干収益も出てるところで……僕から上手く話しておくから、そこで演劇の練習やってもらったら…」
その言葉に、チグサはすぐに首を横に振って、強く声を上げる。
「それじゃダメだよ!」
バスの中の空気が一瞬止まったような錯覚に包まれた。
「一緒に演劇同好会を守ろうよ!」
チグサは続ける。彼女の目は真剣だった。無茶でも、無理でも、その想いだけは真実だった。
サンゴは目を伏せ、力なく笑う。
「……まあ、やれることだけはやってみるよ……」
現実の厳しさと、目の前の少女の無垢な情熱の板挟みの中で、できる限りの誠意を絞り出した言葉だった。
-------------------------------------------------
翌朝、台所は柔らかな朝日に包まれ、パンの香りが空気を満たしていた。周央サンゴは食卓につき、皿に並んだトーストを手に取り、一口かじった。
カリッとした表面から、ほんのりとバターが染み出して――口に広がる香ばしさと、ほんのり甘い余韻に、自然と表情が和らぐ。
隣では、母親がふと止まり、ため息まじりに告げる。
「最近、お米の値段も高いからね。ちょっと、ご飯はしばらく朝ごはんに出せないかな…」
母親の声には、家計への気遣いと申し訳なさが含まれていた。サンゴはトーストを口から離し、素顔に戻って静かに笑った。
「パンも美味しいよ」
パンを軽く手でつまみながら、そう言う。その声は柔らかく、家族への思いやりがにじんでいた。
「贅沢は言わないから、ンゴはお母さんのご飯が食べたいな」
母親は少しだけ目を細めた。そして――
「よければ、ンゴの財布からもちょっとくらい出そうか?お母さん、大変でしょ?」
言葉は遠慮がちだったが、その眼差しは真剣だった。普段は強気でしっかり者のサンゴが、家計を案じる一面を見せた。
母親はサッと手を止めて、首を振りながら声を上げた。
「何言ってるの!この間、高い食洗機買ってもらったばかりでしょ!?」
「それに――あんまりもらってばっかりだと、お母さん申し訳ないから!」
そう言いながらも、母親の頬には温かい笑みが浮かんでいた。かすかに胸をなでおろすような笑顔は、サンゴの気持ちを受け止めている証だった。
サンゴはパン皿をそっと置き、麦茶のコップを手に取る。少し雑にかき混ぜ、優しい香りを吸い込んで――
「そっか。わかったよ。ありがとう、お母さん」
厨房のシンク越しに見える母親は、にっこりと頷いた。その瞬間、朝ごはんのパンと家族の会話は、サンゴの心に温かく広がった。
朝食後、サンゴは食器をキッチンのシンクへと運び、泡立てたスポンジでトースト皿を丁寧に洗い始めた。バターが染みたパンの香りがまだ漂うなか、湯気交じりの茶碗やコップを順に流し、最後に水切りカゴに並べる。
その後、洗面所へ向かい、歯ブラシに軽く歯磨き粉を乗せる。水で濡らした歯ブラシを口に入れ、ゆっくりと円を描くように磨きながら、鏡の中の自分と目を合わせる。
口元に残る泡を吐き出し、口をゆすいで歯磨きを終えると、顔をタオルで押し拭き、サラリと髪を整えた。
リビングへ戻り、指定のスクールバッグに教科書とノートを詰め込む。その隙間にスマホと、小さめのペットボトルを入れ、鍵と定期をポケットに仕舞って準備完了――。
玄関へ向かい、靴箱からいつものローファーを取り出す。ひもを緩め、足を滑り込ませて軽く靴を鳴らす。
廊下の扉を開け、ガチャリ。
玄関がパッと光に包まれる。サンゴが顔を上げると、母親が少し恥ずかしそうな表情で言葉をかけた。
「たまには、友達の家ばっかりじゃなくて、家にも呼べばいいのに…お母さんも、サンゴの友達に会いたいわ」
サンゴは、しばらく視線を天井に泳がせ、内側から家族への感謝とちょっぴりの照れ隠しを浮かべながら答えた。
「いやぁ…やめといたほうがいいと思うよ?」
そう言いながら、思い浮かべるのは――元気いっぱいでちょっと振り回されそうなチグサの笑顔と、どこかずれたところで迷いつつも、サンゴと同じように人生の悪路を歩いていくヒスイの顔。
「ま、いつかね」
言葉を添えて、サンゴは深呼吸しながら玄関ドアを閉めた。静かに鍵をひねると、気持ちを落ち着けるようにリュックを肩にかけ、軽やかに階段を降りて、朝の光の中へ――学校へと向かった。
東校舎の地下演習場前。鉄のように冷たい空気の中で、サンゴはスマホを手にし、周囲を気にしながらメールを打っていた。細かく指を動かしながら、慎重に文章を整えていると、不意に背後からヒスイがぬっと顔を出す。
「何してんの?」
驚いてサンゴはスマホを胸元に隠し、露骨に動揺する。ヒスイは笑いながら、覗き込むようにして言った。
「あれだけのことされて、まだここ使ってるの?」
サンゴは少しバツが悪そうに、「流石にWi-Fiはもう使ってないよ…」と苦笑いしながら答える。
「場所だけは涼しいから、ここを使ってる。最近、チグサも撒かなきゃいけないから、こっちのが良いんだよね。」
そう言いながらも、指は止まらずヒソヒソと依頼人にメールを送り続けていた。ヒスイは首を傾げつつ、その様子を見ていたが、サンゴがふと尋ねる。
「ねえ、スピちゃんは東校舎と西校舎の教頭が、校長と西校舎のことで話し合いをしているのは知ってる?」
その言葉にヒスイは眉を寄せて、
「環崎教頭が西校舎の教頭と?知らない。西校舎では解らないけど、東校舎の生徒にとって教官は『ご主人様』だから。」
と、まるで興味がないかのように淡々と返す。続けて「それがどうかしたの?」と聞くと、サンゴは少し息をつき、チグサと交わした約束――演劇同好会を守ることについて語り始めた。
だが、その時――
「何の話してるの?」と、まるで会話を嗅ぎつけたようにセイラが通りかかり、唐突に加わってくる。サンゴは眉をひそめて、思わず小声で、「嫌な人が来た…」と露骨に顔をしかめる。
地下演習場の金属的な音が響く中、ちょうど来たセイラにその話をすると、セイラはにこにこしながら、「だったら、ヒスイも演劇同好会に入ればいいんじゃない?」と軽く言い出した。
「ほら、ちょっとでも部員数も多くなれば、ちゃんと設備とかも残してくれるようになるかもしれないじゃん?」
その一言に、ヒスイは眉をひそめて露骨に嫌な顔を見せる。
「ただでさえ仕事多いのに、また面倒事増やすってこと?それに、部活動やってます、なんて奴…他の訓練校でも見たことないんだけど。訓練放っぽりだして遊んでるとか、世玲女の恥も良いとこでしょ」と首を振る。
だがセイラはそんな理屈など歯牙にもかけず、「良いじゃん良いじゃん!青春してきなよ〜!」と軽快にヒスイの肩を揺すってくる。
「…あんたまでそんなこと言って…」
ヒスイはため息をつきつつも反論を止めた。そこへ、サンゴが一歩前に出て、ふっと意地悪く笑いながら言う。
「あの時、僕がスピちゃんの変装を見抜けた理由、知りたくない?」
その一言で、ヒスイの瞳が微かに動いた。彼女の中の探求心が確かに刺激されたようだ。セイラも目を輝かせてヒスイの返答を見守る。演習場の発砲音や足音が遠くで鳴る中、ヒスイは
「………」
しばし考え込み、
「…?」
セイラもそれに首をかしげ、
「……えーっと…」
サンゴはサンゴで段々間が悪くなってきて、
「…なんかごめん」
もうなんだか謝らないといけないような雰囲気に感じてきた辺りで、
「……ふひひっ」
やがて何かを思いついたように笑い、顔を上げた。
「じゃあまず、私とチグサでンゴの家に行くから、そこで練習しようよ。とりあえず、私は体験ってことで。それが条件」
「僕の家に…?」
サンゴは一瞬驚いた。
分からない。仕事最優先のヒスイが、自分の家に?
長い時間学校から離れてたら、急に任務が来るかもしれないのに?「あまり自由の身じゃない」って、自分で言っていたはずなのに?
しかし、先日母が言っていた「たまには、家にも友達を呼べばいいのに…」という言葉を思い出す。
確かに、理由が無ければ断る意味もない。少し迷った後、サンゴは静かに頷いた。
「…わかったよ」
地下の空気はまだひんやりとしたまま。だが、そこに小さな灯りがともったような、不思議な違和感のある気配が漂っていた。