ベルリンの本懐 【完結】   作:えいどら

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疑雲猜霧

 地下射撃場の空気は乾いていて、少しだけ火薬の匂いが漂っていた。ヒスイは遮音ヘッドセットを耳に当て、武器庫から借りたベレッタ ARX160を丁寧に構える。

 

 サンゴは少し距離を取った位置で銃を見ながら、「アサルトライフルと拳銃は似てるようで、全然違う」と口を開いた。

 

 「基本は連射で使うことになる。暗殺用のピストルというより、ほとんど兵器としての銃になるから、あまり隠密で撃つことは考えないようにした方がいい」と、冷静にヒスイへと語りかける。

 

 ヒスイは黙って聞きながらも、ライフルの重みやグリップの感触を確かめるように腕に力を入れる。サンゴは続けて、「それでも、ARX160は他のアサルトライフルと比べるとポリマーが素材だから、かなり軽い方だよ。その上頑丈だから、軍隊で使うにも重宝される」と銃の特性を解説する。

 

 ヒスイはそれに対して短く、「まあ、とりあえず撃ってみるわ」とだけ言うと、軽く息を整え、トリガーに指をかける。

 

 遮音ヘッドセットの内側に自分の鼓動が響き、目の前のターゲットに集中する。

 

 「…行くよ」と誰に言うでもなく呟いて、再びトリガーを絞る。

 

 バン、バン、バンバンバン!

 

 銃口から閃光が走り、銃声が射撃場のコンクリートの壁に鈍く反響する。薬莢が勢いよく横に弾き出され、床に転がって高い音を立てる。弾道はわずかに右に流れ、ヒスイはすぐに照準を微調整した。

 

 「…上方向に軽く跳ねるな」

 

 ヒスイは表情を変えず呟くと、次は3点バーストに切り替えて撃つ。

 

 バン、バン、バン。……バン、バン、バン。

 

 一定のリズムで銃声が鳴り、紙のターゲットには明確に弾痕が並び始める。胸元から腹部にかけて、中心を外さないそのグルーピングに、少しだけ口角が上がった。

 

 「……重さは問題ないけど、連射になるとやっぱり狙いがズレる。握力で押さえ込まないと」

 

 それでもヒスイは止まらず、今度は姿勢を変えて片膝をついた状態からの射撃を試す。呼吸を浅く整えて、再び引き金を絞る。

 

 バババババッ!今度は狙いをやや下に。数発は紙の外に逸れたが、残りは腹部に集中していた。

 

 マガジンが空になり、ヒスイは無言で銃を確認すると、訓練通りの手順でマガジンを外し、新しい弾倉を装填。ボルトを引いて再装填完了。

 

 最後にもう一度、立ったままの姿勢で5発を撃ち込んだ後、ヒスイはようやく銃を下ろし、呼吸を整えながら、少しだけ顎を引いた。

 

 サンゴが近づいて、「どうだった?」と尋ねると、ヒスイは銃をスリングに収めながら小さく肩を竦めて答えた。

 

 「やっぱり、慣れるまで時間かかりそうね」

 

 そして、そのまま無言で射撃場の出入り口へと歩き出した。射撃場の床には薬莢が散らばり、銃声の余韻だけがしばらく残っていた。

 

 射撃場のドアが重く閉まり、コンクリートの廊下に出ると、ヒスイのブーツの音が無機質に響いた。

 

 冷たい照明が二人の影を長く落とし、ひんやりとした空気が肌を撫でる。銃を持ったままのヒスイに対し、サンゴはいつもの少し弾んだ足取りで隣に並んだ。

 

 「ねぇ、スピちゃん。家に来るって言ってたけどさ、その日は泊まってく?お風呂は一応毎日掃除してるし、僕はベッドで寝るけど、布団もあるよ。あ、何か好きなお菓子とかある?」

 

 楽しげに声をかけるサンゴの眼鏡越しの目がきらきらと輝いている。ヒスイは照れ隠しなのか、少し顔をそむけたまま、視線を合わせずにぼそりと答えた。

 

 「……じゃあ、飴とか買っといて。桜味のやつ」

 

 サンゴは目を丸くし、次の瞬間にはくすりと笑って、「ああ、スピちゃんがいつも西校舎で買ってるやつね」と言った。二人の間に、ほのかな春の香りがよぎった気がした。

 

 「うん、それ。あれ好きなんだよね。あんまり売ってるとこないけど」

 

 ヒスイはいつになく柔らかな声でそう付け加えた。サンゴはヒスイの隣を歩きながら、ふと目を細めて記憶を辿るように呟いた。

 

 「……思うんだけど、あれ美味しいの…?」

 

 その言葉に、ヒスイは少し首を傾げて、「私は好きだけど」とあっさり返すと、さらりと続けた。

 

 「味の好みの問題じゃない? 確かにセイラにもあげたら、あんまり好きじゃないって言ってたけど……でも、アスカは好きだって言ってたよ」

 

 それを聞いたサンゴは一瞬考え込み、そして目線を下げながら、「じゃあ…アスカさんは無理して合わせてくれてたんじゃない?」とぽつりと口にする。少し酸味のあるような、でも後から妙に甘ったるさが残るあの独特な桜味を思い出しながら、口の中に再びあの記憶の後味が蘇るようだった。

 

 「あれ…僕、一個食べて…残りは同じクラスの子にあげたんだよね……」

 

 サンゴは気まずそうに笑い、ヒスイは「まあ、あれはちょっと人を選ぶかもね」と肩をすくめた。そのやり取りはどこか他愛なく、けれど確実に、二人の距離が少しずつ近づいていることを感じさせるような、穏やかな会話だった。

 

 地下演習場の冷たい空気が漂う廊下に、二人の足音が響く。ヒスイは自分の腕時計をちらりと見てから、少し眉を寄せて口を開いた。

 

 「……そろそろ行かないと」

 

 それを聞いたサンゴは、立ち止まってヒスイをじっと見上げる。眼鏡の奥の瞳が少し寂しげに揺れた。

 

 「どっか行くの?……たまにはさ、このままだべってても良いんじゃない?」

 

 少し笑って、どこか甘えるように言ってみせるサンゴ。だがヒスイは、その言葉に苦笑を浮かべつつも首を振った。

 

 「私らは、本当は外に出てンゴの家に行くなら外出許可も取らないといけないんだよ」

 

 その声には、ちょっと呆れたような、でも優しい色が混じっていた。

 

 「この前、出さずにチグサと出て行った時は大変だったんだからね」

 

 サンゴが口を尖らせるのを見て、ヒスイはわざとらしくため息をつき、「あんたもいい加減、授業受けに行きなさい」と指先で西校舎の方向を指し示す。

 

 サンゴは小さく手を振りながら、渋々踵を返す。その背中が角を曲がって見えなくなるまで、ヒスイはじっと見送った。

 

 やがて、ヒスイは一人きりになった地下の廊下を歩き出す。重たいコンクリートの壁、無機質な蛍光灯の光が延々と続く――どこまで行っても同じ景色が続く、まるで兵士のためだけに作られた閉鎖空間。

 

 遠くで響いていた銃声も、歩くにつれて次第に聞こえなくなっていく。冷たい空気が、静寂を支配していた。

 

 ヒスイは無言のまま歩き続け、やがてエレベーターの前で立ち止まる。呼び出しボタンを押すと、無骨な機械音が地下に低く響く。

 

 到着を示す鈍いベル音の後、扉がゆっくりと開いた。ヒスイは小さく息を吐き、再び表情を引き締める。

 

 エレベーターの中に足を踏み入れると、ドアが閉まり、階数を示すランプがゆっくりと上へと進んでいく。

 

 エレベーターが金属的な音を立てて開くと、ヒスイは無言のまま廊下に踏み出した。

ここは地下とは打って変わって、多少は清潔感のある白い壁と明るい蛍光灯が並ぶ、教室のあるフロア。生徒たちの気配も微かに感じるが、時間帯のせいかまだまばらだ。

 

 ヒスイは無意識に制服の袖を整えながら歩き出す。だが、その視線は真っ直ぐ前ではなく、どこか宙を見つめるように考え込んでいた。

 

 環崎教頭はああ見えて、意味がないことはあまりしないからな。

 

 口の中で小さく呟く。気分屋で、それでいて抜け目のない。だが人の為に言葉なんて選ばない彼女の生きざまを、ヒスイは嫌というほど知っていた。

 

 だからこそ、無駄なことをする人物ではないとも理解している。

 

 慈善で人に進言なんてしない。それでも、わざわざ西校舎の部活削減なんて話を持ち出した理由。

 

 ヒスイはゆっくりと歩調を落とし、足音を小さくする。

 

 考える。

 

 無意味に西校舎を煽って、亀裂を深めるような真似はしないはずだ。むしろ、相手に何かを呑ませるための、交渉材料。

 

 ……圧力か、あるいは何かを要求するための下準備

 

 教頭の無表情な顔が脳裏を過ぎり、その横に別の顔が浮かんだ。

 

 ――サンゴ。

 

 ヒスイの目が鋭くなる。サンゴを引き渡させるために、部の資金を譲歩する代わりに手放させる――それくらいの手は平気で使うだろう。

 

 その鏡に映す姿すらも変える、水のように掴めない姿かたち。東校舎にとっては喉から手が出るほど欲しい人材だ。

 

 射撃場でのサンゴの飄々とした笑顔が頭に浮かび、ヒスイは小さく舌打ちをする。足音を再び強くして、教室棟の廊下を進んでいく。

 

 井ノ原の準備室の前で、ヒスイは深く息を吸い、拳を軽く握り込んでから扉をコンコンとノックした。冷たい木の感触が指先に伝わる。

 

 「失礼します。外出許可をいただきに来たのですが…」

 

 扉越しにそう声をかけたが、中からはすぐに返答がなかった。それでもヒスイは姿勢を崩さず、きっちりと背筋を伸ばしたまま待つ。

 

 数秒、無言の時間が流れる。やがて、部屋の奥からくぐもった声が響いた。

 

 「……入れ。」

 

 「失礼します。」

 

 ヒスイはドアを開け、滑るように部屋に入った。

 

 井ノ原の準備室は、環崎の整然としたそれとは対照的である。机の上や書棚には書類が無秩序に積まれ、ファイルは開きっぱなし。中には、専門誌だけでなく、週刊のゴシップ雑誌まで混じっている。

 

 ごちゃごちゃとした紙の山に囲まれるように、井ノ原は部屋の隅のデスクに座り、パソコンに向かってタイピングしていた。

 

 その視線は画面からほとんど動かない。

 

 「……今は忙しい時期だって分かってるだろう。今度にしてくれないか。」

 

 だがヒスイはまったく動じなかった。両足を肩幅に開き、背筋を伸ばし、軍人のようにきちんとした姿勢で井ノ原を見据える。

 

 「理解しています。ですが、どうしても外せない用事があるので。」

 

 その口調も表情も一切崩さない。視線は真っ直ぐに、井ノ原の方に向けられていた。

 

 カタカタとパソコンを打つ音が一瞬止まり、部屋の空気がピリッと張り詰めた。井ノ原のタイピングする手が止まる。

 

 雑多な書類に囲まれた準備室の空気は、埃っぽく重い。井ノ原の鋭い視線を受けながらも、ヒスイは全く臆することなく、まっすぐに口を開いた。

 

 「西校舎の部活動が大幅に削られる、という噂はご存知ですか。」

 

 井ノ原はパソコンの画面から目を離さないまま、長い沈黙を作った。やがて、小さく鼻で息を吐くようにして言う。

 

 「……それで?」

 

 ヒスイは小さく頷くと、一歩前に出て声を落ち着けた。

 

 「その活動費の削減に、環崎教頭の進言が関わっているという話を耳にしました。あの方が無駄なことをなさるとは思えないのですが…」

 

 井ノ原はパソコンを閉じ、椅子を少し回してヒスイを正面から見据えた。視線は鋭いが、どこか探るようでもあった。

 

 「……私は、また違うことを聞いたがな。」

 

 その含みのある言い方に、ヒスイの眉がわずかに動いた。一瞬の静寂を挟み、井ノ原はさらに問いかける。

 

 「――で、お前はどう思う。結局、その一連の話は何に繋がっている?」

 

 ヒスイは目を伏せ、ほんの一瞬考える素振りを見せたが、すぐに視線を戻し、はっきりとした声で答えた。

 

 「……周央サンゴ。」

 

 部屋に張り詰めた空気が、一層重くなる。

 

 井ノ原は短く息を吐き、肘掛けに肘を置いたまま深く座り込む。目を細めて、ヒスイをじっと見据えた。

 

 「……そういうことなら仕方ない。」

 

 パソコンを脇に押しやり、引き出しから一枚の紙を取り出すと、ペンで簡潔にサインを走らせる。それをヒスイに差し出した。

 

 「――頼んだぞ。」

 

 ヒスイは敬礼するように背筋を伸ばし、静かに「失礼します」と一言。そのまま書類を受け取り、無駄のない動作で踵を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜風が抜ける公共施設の屋上は、利用時間を過ぎたせいか人影もなく、どこか物悲しいほど静かだった。背後の館内の灯りは薄暗く、非常灯がところどころにぼんやりと灯るばかり。

 

 その中で東堂セツカは、腰掛けるように縁に肘をつき、街を見下ろしていた。眼下には、まるで宝石を撒き散らしたように、街灯やビルの灯りが煌々と光り輝いている。

 

 そんな静寂を破るように、背後でコツコツと革靴の足音が近づいた。

 

 「やあ、お嬢様。」

 

 低く、どこか芝居がかった声。白いスーツに身を包み、赤いシャツと黒いネクタイを合わせた背の高い男が、肩を揺らすように近づいてくる。白い手袋をした手には、自販機で買ったばかりらしいホットコーヒーが二つ。

 

 「こんな所でお嬢様が一人でいたら、身体も冷えますよ」

 

 芝居がかった口調ながらも、声色にはどこか本物の気遣いが滲んでいた。しかしセツカは振り返りもせず、受け取ったコーヒーを睨むように見て、

 

 「……うるせえな……」

 

 男のような低い声でぶっきらぼうに返す。見た目こそお淑やかな服であるが、先日見せた、礼儀正しく楚々とした令嬢の面影はどこにもない。

 

 それでも男性は肩をすくめて、街の灯りを見下ろすように横に並ぶ。

 

 「こうしていれば、いつか先生が帰ってくると本当に思っているのですか?」

 

 「もう随分と前に亡くなられたと言うのに……」

 

 演技めいた響きの中に、僅かな諫めと心配が滲む声。セツカはその言葉に目を細め、受け取った缶コーヒーを見つめた。

 

 「んなこと思ってねえよ……」

 

 かすれた声で吐き捨てるように言い、それでも手は缶をぎゅっと握りしめた。

 

 「……昔、ここにいたら師匠が心配して家まで迎えに来てくれたんだよな」

 

 「施設のおじさんとは顔見知りだから、ここにいたら絶対分かる…とか言ってな」

 

 夜風に消えそうな声で、ぼそりと吐き出す思い出。それを聞いて、ピエロのように笑った口元も、わずかに苦く歪む。

 

 「……あの日、私が先生のリボルバーを欲しいと言ったら、どうしましたか」

 

 視線を落とし、声を低くして問う男性。缶コーヒーの銀色の反射が彼の目を照らす。

 

 セツカはその顔を見て、ふっと鼻で笑った。そして、挑発するように、目を細めて言い放つ。

 

 「知るかよ。その時に戻って、その時の俺に聞いてみな」

 

 冷たい夜風が二人の間を吹き抜け、缶コーヒーの中身をかき回すように揺らした。下の街の灯りは変わらず眩しく、それでも二人の影だけはどこか孤独である。屋上の手すりに肘をつき、冷たい缶コーヒーを片手にしたセツカは、街の光を睨むように見下ろしながら口を開いた。

 

 「……この間、先生の孫娘に会ってきた。」

 

 夜風が髪を揺らす。男性が、白いスーツのポケットから手袋を外し、じっとその横顔を見つめる。

 

 「かなりガラが悪い奴らの仕事を受けちまったらしい。俺も孫娘も、国の特務機関がそいつらを暗殺するところに出くわしちまったんだ。」

 

 缶を軽く傾ける手が小さく震えた。男性は目を見開き、いつもの芝居がかった声を潜めて震わせた。

 

 「まさか……Σですか?宗教の過激派テロリストの壊滅のために国連が秘密裏に組織したと言われている、あの……もう50年も前に解散されたはずでは?」

 

 セツカは鼻で短く笑ったが、その笑いはすぐに消えた。缶コーヒーを手すりに押し付け、肩を落とすようにうつむく。

 

 「……解らん。」

 

 声は低く、かすれていた。

 

 「日本がまだあんな野蛮な組織の一味を指揮してると思うと……腑が煮えくり返る思いになるが……」

 

 言葉を飲み込むように口を閉じ、缶を軽く振る。中で氷が微かに鳴る音が二人の沈黙を満たした。夜風だけが、背後の非常灯をかすかに揺らす。セツカは目を閉じ、息を吐くように小さな声で呟いた。

 

 「……子供を使うのはなしだろ。」

 

 声は、思い詰めたように、どこか擦り切れたように聞こえた。

 

 その言葉に、男性は一瞬何も言えず、薄暗い屋上で目を伏せた。しばらくの沈黙のあと、口の端をわずかに歪めて、独り言のように漏らす。

 

 「……なるほど。そうなるとあの一件は……」

 

 手袋を片手でくしゃりと握る。

 

 「いや、待てよ……もしそうなったらこれとも繋がる……」

 

 深く考え込み、眉を寄せる。その影は街灯の光を受けて長く伸びた。やがて、男性は小さくため息をつき、諦めたように、だが穏やかに言った。

 

 「まあ、こればかりは……どうしようもありませんね。」

 

 夜の街は、相変わらず眩しく、無関心に二人を照らし続けていた。

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