最初に目に飛び込んできたのは、ピンクを基調としたカーテンとカーペット。可愛らしいパステルカラーのタンスや、整理整頓された勉強机の上にはキャラクターのペン立てがちょこんと置かれている。
壁際にはテレビと、その前に並ぶゲーム機。そしてテレビの横には、まるで「しゃべり出しそう」な顔をしたテレビ型マスコットのぬいぐるみが鎮座していた。
チグサは目を丸くして、嬉しそうに声をあげる。
「へぇ、結構オシャレな部屋なんだね!」
一方でヒスイは腕を組んだまま、怪訝そうに周囲を見回す。
「……なんか可愛すぎない……? 本当にこいつの部屋……?」
その疑いの視線を受けて、サンゴは眼鏡を外しながらくるっと振り返った。途端に、いつもの冷静で大人びた雰囲気がどこかに飛んでいき、表情が無邪気に崩れる。
「さすがにここでは仕事しないよ! ここはンゴが動画見たり寝そべったりする部屋だからね!」
そう言って、どさっとカーペットの上に座り込むと、手元のリモコンでテレビをつける。チャンネルを切り替えながら、サンゴは楽しげに話を続ける。
「なんか観る? ンゴが最近ハマってるの、残念な動物の紹介とかなんだけどさ……」
ヒスイとチグサが何か言う間もなく、サンゴはサクサクと動画投稿サイトを開いて、お気に入りの再生リストを呼び出す。履歴には「すぐ終わる生き物たちの恋愛」とか「鳴き声が詐欺な動物10選」など謎タイトルが並んでいた。
チグサは「え、面白そう!」と笑いかけるが、ヒスイは目を細めて限界を迎えたように声を投げつけた。
「……演劇同好会の練習するんじゃなかったの?」
サンゴはリモコンを持ったまま、テレビ画面を見つめていた指を止める。
「あ……そういえばそうだったね。」
一瞬の間を置き、ぱっと切り替えるように立ち上がると、テレビを消して「よし」と小さく気合を入れる。
「じゃあ、ンゴの書斎が奥にあるから、そっちでやろっか。」
そのまま扉を開け、後ろを振り向いて「こっちこっち!」と二人を手招きするサンゴ。チグサは目を輝かせて「おお、書斎!」と後を追い、ヒスイはため息をつきつつも渋々ついていった。
その背中に、ぬいぐるみのテレビ型マスコットがぽてんと転がって見送っていた。
サンゴが扉の前で立ち止まり、後ろを振り返って二人にニヤリと笑う。
「ここがンゴの書庫ね。」
その扉は普通の部屋の木製のドアとはまるで雰囲気が違った。新しい家の内装には似つかない、重そうな金属製のドア。小さなスライド式の覗き窓まで付いていて、まるで研究室か倉庫のようだった。
チグサは目を丸くして「え、何ここ……」と呟き、ヒスイも珍しく眉を上げる。すると下の階から母親の声が届く。
「おやつ持ってく? 西園さんにもらったお土産もあるけど~」
サンゴはその声に、鍵を回しながらも大声で返事をした。
「書庫にみんなでいるから、階段に置いといて~!」
カチリと鍵を外し、ガコンと重い音を立てて扉を開ける。
中に足を踏み入れると、途端にひんやりとした空気が肌を撫でた。クーラーが効いていて、外の蒸し暑さをすっかり忘れるほどだった。
窓はなく、壁一面を埋め尽くすのは参考書、専門書、そして分厚い論文ファイル。綺麗にラベルが貼られ、背表紙の文字は堅苦しいものばかり。
そして奥の壁際には、デュアルディスプレイを構えた大きなパソコンデスク。足元には光る冷却ファンを内蔵したタワー型PCが鎮座し、無数のケーブルが床を這っている。
ベッドは先ほどの部屋とは打って変わって、白いシーツをかけただけの簡素なもの。部屋と違ってぬいぐるみや飾りは一切なく、どこか無機質な印象すらあった。
チグサは「わ、なんかすご……」と興味津々で机の近くに寄り、手を伸ばしかけた瞬間。
「それ100万するやつだから触らないで。」
しれっとした様子で言い放つと、チグサは「ひぇっ!」と手を引っ込めて一歩下がる。サンゴは自分のパソコンチェアを勢いよく回しながら二人を見て、眼鏡を軽く持ち上げるようにして言った。
「ここなら防音してあるから、結構大きな声出しても大丈夫だよ!」
部屋の壁を指さして得意気に説明する。チグサは周囲を見回しながら、「でも、なんでこんなにクーラー効かせてるの?」と首をかしげた。
サンゴはその質問に、口をへの字にしながら遠い目をする。
「……そうしないと、焼き鳥になっちゃうくらい熱いんだよ……」
密閉されたこの小部屋で、放熱するタワー型PCや精密機械たちの熱を思い出して軽く背筋を震わせる。
「じゃあ、ちょっと準備してくるね!」
今度は一転、満面の笑みでそう言うと、眼鏡を押し直してウキウキとした足取りで部屋を出て行った。ガチャリ、と重いドアの音がして、室内は途端に二人きりになる。
クーラーの静かな送風音だけが耳をくすぐるように響く。
チグサは改めてヒスイと真正面から向き合う形になり、急に意識してしまう。
(え…ちょっと待って……二人きりじゃん……何話そう……)
頬がかすかに赤くなり、口を開こうとして閉じるを繰り返す。
ヒスイはそんなチグサを横目で見ながらも、ふいに視線を外し、窓のない壁を見つめてポツリと言った。
「……もし、サンゴと私が、二人しか知らない世玲音女学院の秘密を知ってたらどうする?」
チグサが「え?」と目を丸くする。ヒスイは視線を戻さず、低い声で続けた。
「それで、その秘密は……吐き気がするほどドス黒くて……醜いものだとしたら。」
その横顔はいつもより少し大人びて、苦味を帯びていた。
チグサは黙り込む。頭の中に浮かぶのは、西校舎で聞いた部活動の経費削減の話。大人たちの会議で、子供の活動が切り捨てられていく様子。「どうしようもない」とか「仕方ない」で済ませようとする大人たち。
しばらくして、チグサは唇を噛み、そっぽを向いて言った。
「……何か裏で大人たちのくだらないことで、子供たちが振り回されてるのは、なんとなく分かってるよ。」
「現実って、かなり非情でさ……結局先生だって、自分のことが大事で仕方ないんだよ。」
その声はかすかに怒りと、諦めが混じっていた。
ヒスイはそれを聞いて、少し目を細めた。そういう意味で、言ったんじゃなかったんだけど。内心で軽く肩を落としながらも、小さく息を吐く。
「……まあ、良いか。」
その言葉だけは聞こえるように口にして、ヒスイはようやくチグサの方に視線を戻し、ほんの少しだけ口元を緩める。
書庫の冷たい空気が二人を包み込む。クーラーの静かな唸り以外、まるで音のない密閉空間。
チグサはあたりを見回しながら、小さく息を吐いた。
「この部屋の方が……なんか、私が今まで想像してたンゴの部屋っぽいや。」
壁を埋め尽くす参考書や論文ファイル。
光を抑えた電灯と、仄暗い棚の影。
その隅で無機質に静まるタワー型PC。
チグサは目を伏せ、机の上に整然と並んだメモの山を見つめる。
ンゴは……この部屋で何を感じてたんだろう。頭の中に、いつもの冷静沈着でクールなサンゴが浮かぶ。でも今日は、家の前で「ワァァァ!!」と絶叫していた明るいサンゴも見た。
本当は……もっとたくさん遊びたかっただろうに。ぽつりとため息を落とす。
そして、壁に掛けられた整理されたホワイトボードを見ながら、声を潜めて呟く。
「きっと、この部屋でたくさん……大人達の黒いところを見てきたんだ。」
防音仕様の壁に、チグサの小さな声が吸い込まれて消える。
取引、裏切り。目を細めて、自分の考えをさらに口にする。
「……大人はさ、子供と違って、自分で生きていかなきゃならない。」
「子供なら、親が作ってくれるものを……大人は、自分で守らなきゃならないから。」
「だから平気で汚くなれるし、必死になって……過去の積み重ねてきたものを、守ろうとするんだ。」
机に手をつき、力なく笑う。その笑みはすぐに消えて、瞳が揺れる。
不意に立ち上がり、近くにいたヒスイの制服の裾を掴むと、そのままぎゅっと抱き寄せた。驚いて身を固くするヒスイの肩に顔を埋めるようにして、かすれた呻き声をあげる。
「ヒスピ……私、大人になんかなりたくない……」
声が震えていた。しばらく二人の間に言葉は落ちず、室内にはクーラーの風の音とPCのファンの静かな回転音だけが響く。
チグサが小さな体で必死にしがみついてくる感触が、ヒスイの制服越しに伝わる。
その腕の力は、意地っ張りな言葉よりもずっと素直で、震えを含んでいた。
ヒスイはただ黙って、肩越しに無機質な書庫の壁を見つめた。視線は鋭く冷たく、表情は微動だにしない。
大人だって、なりたくて大人になったわけじゃない。目の前で泣きつくチグサを見下ろしながら、心の中で淡々と考える。
たぶん、本当の意味での「大人」とか「子供」なんて、年齢で線が引けるものじゃないんだろう。事情があって、もう子供でいられなくなった人間が、大人になっていくんだ。
自分の記憶が勝手に蘇る。
かつて見た情景。血と煙、火薬の臭い。
子供をかばって、泣きながら、声を枯らして、死んでいった母親を見たことがある。その子供も結局は守れず、命の灯は吹き消されていった。
失禁しながら、命だけはと泣き祈り続けた男を獄中で銃殺する瞬間を見たこともある。鉄格子にすがりつき、声を張り上げる様は、みっともないほどに幼く見えた。
私からすれば、あれと「子供」って、特に見分けはつかなかったけどね。ヒスイの視線は書庫の暗がりに沈み、黒く冷たい光を帯びる。
外の音を完璧に遮断した防音のこの空間には、チグサの押し殺したすすり泣きだけが微かに響いていた。
ヒスイはそんなチグサの頭にそっと手を置き、何も言わずにただ支えていた。
書庫の中は、クーラーの低い風音だけが流れていた。チグサがヒスイに抱きついていた空気が、まだ少し重たく残っている。
「おまたせ!」
その静寂を破るように、ガチャン、と重い金属音が鳴った。金属性の扉が開き、パキンと小さな解錠音を残す。
明るい声が響いた瞬間、チグサもヒスイも同時にそちらを見た。そして二人とも、数秒だけ目を丸くして固まった。
サンゴが、お菓子の皿を両手で持ちつつ、満面の笑顔で立っていた。けれどその姿は、白黒のボーダーの囚人服。まるでコントの一幕みたいな格好をして、部屋の重苦しさを一気に吹き飛ばしてしまうような派手さだった。
「今日は取り調べ室がテーマだよ!」
サンゴは皿を机に置くと、くるっと回って自分の衣装を自慢げに見せびらかす。
「適任なスピちゃんもいるし、結構練習になると思って!」
その言葉に、チグサは一瞬呆けた後、ぱっと笑顔を弾けさせた。そしてサンゴの手を両手で握る。
「確かにヒスピ、なんだか警察みたいな雰囲気あるから似合いそうだよね!」
サンゴは嬉しそうに「だよねだよね!」と笑い返す。
しかし、ヒスイは二人の盛り上がりを無言で見ていた。その警察「取り調べ」だの「囚人」だのというコンセプトに、ふっと真顔になる。
……こいつ、自虐のつもりか?
心の奥で重たいものがチクリと刺さったが、顔には出さずにいた。サンゴはそんなヒスイを横目に見ながら、「良かったらこれも着てね!」とお菓子皿の横から別の袋を取り出す。
中にはパリッとした警察っぽい制服のコスプレ衣装が二着。
ヒスイに一着、チグサに一着を手渡す。
「じゃあ私、着替えてくるね!」
チグサは受け取った制服を胸に抱きしめ、ウキウキした声で振り返る。
「ンゴの部屋借りるね!」
そして囚人服のサンゴに向かって軽く手を振り、そのまま金属扉を閉めて外に出ていった。
サンゴはその背中を見送ると、ひらひらと手を振り、やがて椅子をキュッと引いて真ん中の机のそばに座った。ボーダーの服を整えながら、机の上にお菓子を並べ始める。
ヒスイはそんなサンゴを無言でじっと見つめ、警察服を手に持ったまま、小さく息を吐いた。
書庫の金属製のドアがギィ…と小さく軋む音を立てて開いた。
ひょっこりと顔を出したチグサは、緊張と期待が入り混じったような笑顔を浮かべていた。
身にまとっているのは、襟元まできちっと留めた警察風の濃紺のコスプレ制服。肩章もそれっぽくついていて、袖のワッペンも凝っている。普段の私服とは違う、その「役」になりきった姿にサンゴが目を輝かせた。
「あ!結構雰囲気出てるね!」
囚人服姿のサンゴがぱちぱちと軽く拍手を送る。チグサは少し恥ずかしそうに頬を赤くしながらも、制服の生地を指先で撫で回す。
「ね、結構素材も本格的じゃない? このベルトのとことか、すごくない?」
裾をひっぱったり、ポケットを探ったり、興味津々で確かめてみせる。サンゴはその様子をにこにこと見守りながら、満足そうに頷いた。
一段落つくと、チグサは制服の裾を直し、今度はそっとヒスイの方に目線を送る。
「最後はヒスピだね!」
そう期待を込めて言われて、ヒスイは無表情を装ったまま、手に持っていた警察服をチラリと見下ろす。着替える気配は全くない。
するとサンゴは、ぱっと思い出したように「ああでも…」と声を上げた。囚人服の袖をくいっとつまみ、目を伏せて少し考え込むように口を閉じる。
「スピちゃんはこのままでいいかな。」
小さな声だけど、はっきりとそう告げた。その視線にはちょっとした優しさと、どこか含むような意味が滲んでいた。
「じゃあ、ここ座ってやってみてね!」
サンゴはすぐにパッと表情を切り替え、楽しそうに真ん中の机を指さした。自分は囚人役として既に机の向こう側に座っている。囚人服を着て、両手を机の上に揃えながら、期待を込めてチグサを見つめる。
チグサは「お、おっけー!」とちょっと緊張しながらも、制服のスカートを気にしつつ椅子を引いた。そして指定された向かい側の席に、背筋を伸ばして「えへへ」と座る。
書庫の中、机をはさんで向かい合う二人。防音の壁に声が吸い込まれ、周囲は冷たいクーラー音だけが響く。
チグサは緊張で肩をすくめつつも、制服の胸元を軽く直しながら口を開いた。
「ええっと……何言えばいいんだろ……」
サンゴは囚人服の襟をきちんと揃え、手を膝の上に乗せて小さく俯きながら、じっとチグサを見上げて待っている。
チグサはごくりと唾を飲んで、思い切ったように声を張った。
「周央、お前に殺人の容疑がかかってるんだ。」
「指紋も出ている。今白状すれば、罪も軽くなるだろう。」
思いのほか堂々とした声で、それっぽい言い回しをしたチグサに、ヒスイも「お」と少しだけ感心したような目を向ける。
しかし、サンゴはその瞬間、目を大きく潤ませ、肩を震わせた。声は細く、震えが混じる。
「……私のこと、殺すんですか?」
その瞳は恐怖と絶望に濡れた弱々しい囚人の少女。涙をため、視線を下げる様子は本物の取り調べ室というより、抑圧された収容所を彷彿とさせた。
チグサは一瞬で罪悪感に襲われ、目を泳がせた。
「そ……そんなこと……」
声が詰まり、口をぱくぱくさせる。サンゴは俯いたまま、ぽろぽろと涙を流し続けた。
「お母さんに会いたい……お母さんのご飯が食べたい……」
「こんなところに、いつまでいれば良いんですか……?」
小声で、震える吐息混じりにそう呟くその声が、防音の部屋で異様に鮮明に響いた。
チグサは目を潤ませ、唇を噛み、とうとう涙がこぼれ落ちた。
「ちょ……違う! だって……悪いことするのがいけないんじゃん!」
必死に言い訳を吐き出すように声を上げるが、サンゴは顔を上げず、涙を落とし続ける。
「……お母さん……」
その声を聞いた途端、チグサの顔がぐしゃっと歪んだ。
「もういいよ! 家に帰っていいから!」
椅子をきしませて立ち上がり、机越しにサンゴを思い切り抱きしめた。サンゴは一瞬目を見開いて驚いた顔になる。
「……本当ですか?」
弱々しく問い返す声に、チグサは泣きながら必死で首を縦に振った。
「うん……帰っていいよ……!」